2005年11月23日 (水)

お知らせ

お知らせ

 長い間、お読み頂きありがとうございました。
木曽義仲の悪評に疑問を抱き、各種資料に目を通すうちに
各種資料の捏造の疑惑を感じ、平家物語という「物語」の信憑性、
玉葉などの「個人の日記」の信頼性に疑問を持ちながら、
義仲の弁護を続けてきました。
原本は漢文が多く、そのままでは読む人も少なく、現代文にすると
読者は多いかもしれないが、信頼性に欠ける恐れがあるので、
中間の訓読文調にしました。
 今後、しばらくは誤字、脱字、難解部分の修正等を行います。
時々見て下さい。

 そのうちに、現代文調を出します。

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2005年11月22日 (火)

1185年 (元暦2年、文治元年)11月簡略版

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

 

(11月簡略版)
詳細はリンクのココログ
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11月1日 
「九郎等下向延引」

11月3日 
「行家・義経西海に赴きたり」

11月4日 天晴 
「武士等義経を追行すと」

11月5日 
「九郎等室に於いて乗船」

11月8日 
「義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿す」

11月10日 
「頼朝追討の宣旨を下さるる」

11月11日 
「三位中将の名良経、九郎の名義経なり義経須く改名すべきなり」

11月12日 
「義経・行家等召し奉るべきの由、院宣を下さると」

11月13日 天晴 
「関東の武士、多く以て入洛すと」

11月14日 天晴 
「頼朝一定京上すべきの由風聞す」

11月15日 「吾妻鏡」
「日本国第一の大天狗」

11月16日 天晴 
「頼朝決定上洛すべしと」

11月18日 
「頼朝卿決定国を出て、当時駿河の国に就く」

11月19日 「吾妻鏡」
「土肥の次郎實平一族等を相具し、関東より上洛」

11月20日 「吾妻鏡」
「義経・行家等悪風に遭い漂没す、両人未だ死せざる」

11月21日 天晴 
「頼朝の上洛決定留まりたり。」

11月22日 「吾妻鏡」
「豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潛かに多武峰に向かう。」

11月23日 天晴 
「北條四郎時政今日入洛す。その勢千騎と」

11月25日 「吾妻鏡」
「北條殿入洛すと」

11月26日 「吾妻鏡」
「義経に追討の宣旨」

[玉葉]
「頼朝追討の宣旨奉行の人々、損亡すべし」

11月28日 「吾妻鏡」
「兵粮米(段別五升)を課す」
 諸国平均に守護(しゅご)地頭(じとう)を補任(ほにん)し、権門(けんもん)勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿籐中納言経房卿に謁し申すと。

[玉葉]
「兵粮(段別五舛)を宛て催すべし」
 伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻(ただ)に兵粮の催し(もよおし)に非ず。惣て以て田地を知行(ちぎょう)すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
(注釈)
兵粮米(ひょうろうまい)・・・戦時における将兵の食糧。
段別五升(たんべつごしょう)・・・田一反あたり5升。
守護(しゅご)・・・大番(おおばん)の催促、謀反人・殺害人の検断などを担当。
大番(おおばん)・・・宮廷の警護をつとめた役。
地頭(じとう)・・・行家・義経を捕らえる名目で、各地の荘園・公領に置いた。
補任(ほにん)・・・職に補し官に任ずること。ふにん。
権門(けんもん)・・・官位高く権勢のある家柄。
北條丸・・・丸・・・「麻呂」の転。人名の下に付ける語。北条時政。
五畿(ごき)・・・畿内。大和、山城、河内、和泉、摂津の五カ国。
山陰(さんいん)・・・山陰道。現在の中国地方・近畿地方の日本海側。
山陽(さんよう)・・・山陽道。播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門。
南海(なんかい)・・・南海道。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐。
西海(さいかい)・・・西海道。今の九州地方。
催し(もよおし)・・・うながし集めること。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。

11月29日 「吾妻鏡」
「諸国守護・地頭・兵粮米の事、御沙汰有るべき」

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2005年11月21日 (月)

1221年(承久3年)5月19日承久の乱

1221年(承久3年)5月19日

承久の乱(じょうきゅうのらん)

義仲が平家を追放し、この時、天皇になったのが後鳥羽天皇で、上皇となり、鎌倉幕府政権成立後、約40年、1221年(承久3年)、公家政権の復活を期待して、兵を集める。この時の執権(幕府の最高権力者)北条義時は直ちに反撃し、朝廷側を完璧に叩く。この事件の首謀者は後鳥羽上皇であるが、一部の武士などの陰謀であるかのように処理しようとするも、義時は後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐にそれぞれ流された。島流しである。清盛や義仲がクーデターを起し、後白河法皇を幽閉したなどと非難されるがその比ではない。この結果さらに武家政権は強化され公家勢力は衰退した。

北条政子の言葉「秀康・胤義等を討ち取れ」

 「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は

1221年(承久3年)5月19日
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝(ほうしゃ)の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(ざん)に依って、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡(いせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。」
(藤原秀康・三浦胤義(義村の弟)は首謀者とされる)
(注釈)
報謝(ほうしゃ)・・・恩に報い徳を感謝すること。
溟(めい)・・・くらいうみ。
渤(ぼつ)・・・ほつ。わきたつ。なみうつ。
讒(ざん)・・・そしり。
非義(ひぎ)・・・道理にそむくこと。
綸旨(りんじ)・・・蔵人(くろうど)が勅命を受けて書いた文書。天皇の命令書。
遺跡(いせき)・・・故人ののこした職業や領地。

義仲が言った「皷判官め打破て捨よ」

 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山(となみやま)・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人(こうにん)にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者(かんじゃ)原共が片辺(かたほとり)に付いて、時々入り取りせんは何かあながち僻事(ひが事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官(つづみほうがん)が凶害(きょうがい)とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍(いくさ)にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。
に類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆か。偶然か。
(注釈)
砥浪山(となみやま)・・・富山県西端にある山。倶利伽藍峠がある。
降人(こうにん)・・・降参した人。
ま草(まぐさ)・・・馬・牛などの飼料とする草。
冠者(かんじゃ)・・・わかもの。従者。
片辺(かたほとり)・・・かたすみ。片田舎。
入り取り・・・人家に入り物品を奪い取ること。
僻事(ひが事)・・・道理や事実とちがった事柄。
皷判官(つづみほうがん)・・・平知康。法皇の近臣。
凶害(きょうがい)・・・人を害すること。
軍(いくさ)・・・戦い。

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2005年11月20日 (日)

1185年 (元暦2年、文治元年)5月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

5月1日 「吾妻鏡」癸未
「義仲朝臣の妹公(字菊)京都より参上」
 故伊豫の守「義仲」朝臣の妹公(字菊)京都より参上す。これ武衛(頼朝)招引(招待)せしめ給うが故なり。御台所(政子)殊に愍み給う。先日所々押領(おうりょう)の由の事、奸曲(かんきょく)の族名を仮り面に立つの條、全く子細を知らざるの旨陳謝すと。豫州は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる雑怠無きの女性、盍(なん)ぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う所なり。
(中略)

(注釈)
押領(おうりょう)・・・むりやり奪うこと。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
美濃の国遠山庄・・・美濃国(岐阜県)恵那郡遠山荘馬籠村らしい。木曽に近い。

5月3日 「吾妻鏡」乙酉
「木曽の妹公の事、御扶持を加えらるる」
 木曽の妹公の事、御扶持(ふち)を加えらるる所なり。憐み奉るべきの趣、小諸の太郎光兼以下信濃の国の御家人等に仰せ付けらると。これ信州は、木曽分国を号す如く、住人皆彼の恩顧を蒙るが故なりと。
(注釈)
扶持(ふち)・・・俸禄を給して、家臣としておくこと。

5月4日 「吾妻鏡」丙戌
「義経の下知に従うべからず」

5月5日 「吾妻鏡」丁亥
「宝劔を尋ね奉るべき範頼に下知」

5月7日 「吾妻鏡」己丑
「義経の使者異心を存ぜざるの起請文を」

[玉葉]大夫の尉義経等東国に下向す。前の内大臣父子、並びに郎従十
  余人相具すと。
[吉記]
  早旦、大夫判官義経前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、
  及び生虜の輩を相具し関東に下向す。左馬の頭能保朝臣同じく下向すと。

5月10日 「吾妻鏡」壬辰
 志摩の国麻生浦に於いて、加藤太光員の郎従等、平氏の家人上総の介忠清法師を搦め取る。京都に伝うと。

5月11日 「吾妻鏡」癸巳
「頼朝去る月二十七日従二位」
[吉記]「沙汰を致す武士妨げの庄園等の注文、管国等狼藉有る」

5月14日 天晴 [吉記]
「忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首」

5月15日 「吾妻鏡」丁酉
「義経の使者参着す」

5月16日 「吾妻鏡」戊戌
「前の内府鎌倉に入る」

5月19日 「吾妻鏡」辛丑
「京畿の群盗等蜂起す」
 京畿の群盗等蜂起す。敢えて禁じ難きの間、相鎮(しず)むべきの子細、今日沙汰を経らる。先ず平氏の家人等の中、戦場を遁れ出るの族、本の在所に閑散(かんさん)せしめ、猶田園を知行す。剰(あまつさ)え都鄙(とかく)に横行し、盗犯(とうはん)を事と為すと。次いで近日、遠江の国(静岡県西部)居住の御家人等、武威を以て恣(ほしいまま)に内奏(ないそう)せしめ、或いは院宣を申し下し、或いは国司・領家等の下文を掠め取り、地利を貪り公平を缺くと。次いで伊豆の守仲綱が男、伊豆の冠者有綱と号する者、廷尉の聟として、多く近国の庄公を掠領(りゃくりょう)すと。この[條々の事、その聞こえ有るに依って、殊に奏聞を経て、悉く以て糺(きゅう)断せしむべきの由定めらると。]
(注釈)
閑散(かんさん)・・・しずかでひっそりしていること。
盗犯(とうはん)・・・窃盗または強盗の犯罪。
内奏(ないそう)・・・内密に奏聞すること。
掠領(りゃくりょう)略奪し領有すること。
国司(こくし)・・・諸国に赴任した地方官。
領家(りょうけ)・・・荘園の実際の所有者、管理者。

5月23日 「吾妻鏡」丁巳
「参河の守(範頼)対馬」

5月24日 「吾妻鏡」戊午
 源廷尉(義経)、思いの如く朝敵を平らげたり。剰(あまつさ)え前の内府(宗盛)を相具し
参上す。その賞兼ねて疑わざるの処、日来不義の聞こえ有るに依って、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中に入れられず。腰越の駅に於いて徒(いたずら)に日を渉(わた)るの間、愁(しゅう)欝(うつ)の余り、因幡(いなば)の前司(大江)廣元に付き一通の款状(かんじょう)を奉る。廣元これを被覧(ひらん)すと雖も、敢えて分明(ぶんめい)の仰せ無し。追って左右(そう)有るべきの由と。彼の書に云く、
「義経の腰越状」
 左衛門の少尉源義経恐れながら申し上げ候。意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅宣(ちょくせん)の御使として、朝敵を傾け累代(るいだい)の弓箭(きゅうせん)の芸を顕わし、会稽(かいけい)の恥辱を雪(すす)ぐ。抽賞(ちゅうしょう)せらるべきの処、思いの外虎口(ここう)の讒言(ざんげん)に依って、莫大の勲功を黙止せらる。義経無犯にて咎(とが)を蒙る。功有りて誤り無きと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩々(つらつら)事の意を案ずるに、以て良薬口に苦く、忠言耳に逆らう、先言なり。茲に因って、讒者の実否を糺(きゅう)されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意(そい)を述べるに能わず。徒に数日を送る。この時に当たり、永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まる処か。将又先世の業因を感ぜんか。悲しきかな。この條、故亡父の尊霊再誕し給わずんば、誰人愚意の悲歎を申し披かん。何れの輩哀憐(あいれん)を垂れんや。新申状を事とし、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚(はっぷ)を父母に受け、幾時節を経ず、故頭殿御他界の間、孤児となり、母の懐中に抱かれ、大和の国宇多郡龍門の牧に赴くより以来、一日片時も安堵の思いに住せず。甲斐無きの命ばかりを存ずると雖も、京都の経廻(けいがい)難治の間、諸国に流行せしむ。身を在々所々に隠し、辺土遠国に栖(す)まんと為し、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、平家の一族追討の為、上洛せしむの手合いに、木曽「義仲」を誅戮(ちゅうりく)するの後、平氏を責め傾けんが為、或時は峨々(がが)たる巖石に駿馬(しゅんめ)を策(むちう)ち、敵の為亡命するを顧みず。或時は漫々(まんまん)たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈むを痛まず、骸(むくろ)を鯨鯢(げいげい)の鰓(えら)に懸く。しかのみならず、甲冑(かつちゅう)を枕と為し、弓箭を業と為す。本意併しながら亡魂(ぼうこん)の憤りを休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剰(あまつさ)え義経五位の尉(じょう)に補任するの條、当家の面目・希代の重職、何事かこれに如かずや。然りと雖も今愁い深く歎き切なり。自ずと仏神の御助に非ざるの外は、爭(いかで)か愁訴(しゅうそ)を達せん。茲に因って、諸神諸社の午王宝印(ごおうほういん)の裏を以て、全く野心を挿まざるの旨、日本国中大小の神祇(じんぎ)冥道(みょうどう)に請驚し奉り、数通の起請文(きしょうもん)を書き進すと雖も、猶以て御宥免(ゆうめん)無し。その我が国は神国なり。神非礼を稟(さず)くべからず。憑(たの)む所他に非ず、偏に貴殿広大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺い高聞に達せしめ、秘計を廻らされ、誤り無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善(せきぜん)の余慶(よけい)を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝えん。仍って年来の愁眉(しゅうび)を開き、一期の安寧(あんねい)を得ん。愚詞に書き尽せず、併しながら省略せしめ候いたり。賢察(けんさつ)を垂れられんと欲す。義経恐惶謹言。
     元暦二年五月日          左衛門の少尉源義経
   進上 因幡前司殿

(注釈)
因幡(いなば)・・・鳥取県東部。
款状(かんじょう)・・・嘆願書。
被覧(ひらん)・・・ひらきみること。
分明(ぶんめい)・・・あきらかなこと。
左右(そう)・・・さしず。
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(皇居の警備担当)
尉(じょう)・・・次官の下の地位。
勅宣(ちょくせん)・・・勅命。みことのり。天皇の命令。
累代(るいだい)・・・代々。
弓箭(きゅうせん)・・・弓と矢。武器・武芸。武士。
会稽(かいけい)・・・会稽の恥。仇討ち。復讐。
抽賞(ちゅうしょう)・・・多くのものからひきぬいて賞すること。
虎口(ここう)・・・きわめて危険なところ。
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわってその人を悪く言うこと。
咎(とが)・・・とがめ。非難。
倩々(つらつら)・・・つくづく。よくよく。
素意(そい)・・・かねてからの思い。
哀憐(あいれん)・・・いつくしみむあわれむこと。なさけ。
身体髪膚(はっぷ)・・・身体と髪と皮膚、すなわち身体全部。
経廻(けいがい)・・・めぐり歩くこと。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪をただして殺すこと。
峨々(がが)・・・山や巌などのけわしくそびえ立つさま。
駿馬(しゅんめ)・・・すぐれてよく走る馬。すぐれてよい馬。
漫々(まんまん)・・・遠くひろびろとしたさま。
骸(むくろ)・・・骨組みだけ残った死人のからだ。
鯨鯢(げいげい)・・・鯨の雄と雌。
甲冑(かつちゅう)・・・鎧(よろい)とかぶと。
亡魂(ぼうこん)・・・臣だ人の魂。
爭(いかで)か・・・どうして。
愁訴(しゅうそ)・・・苦しみや悲しみを嘆き訴えること。
午王宝印(ごおうほういん)・・・神社・寺などが出す厄除けの護符。その裏面は起請文を記す用紙とされた。
神祇(じんぎ)・・・天神と地祇。かみがみ。
冥道(みょうどう)・・・冥界にあるもろもろの仏。
請驚
起請文(きしょうもん)・・・誓詞。
宥免(ゆうめん)・・・罪をゆるすこと。
積善(せきぜん)・・・善行をつみかさねること。
余慶(よけい)・・・先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福。
愁眉(しゅうび)・・・うれえでひそめた眉。
安寧(あんねい)・・・安泰。
賢察(けんさつ)・・・お察し。相手の推察の尊敬語。

5月25日 「吾妻鏡」丁未
「畿内の雑訴成敗」

5月27日 「吾妻鏡」己酉
「盗人禁裏に推参」

5月29日 辛亥 雨降る [吉記]
「頼盛卿出家す」

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2005年11月19日 (土)

1185年 (元暦2年、文治元年)4月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)


4月4日 「吾妻鏡」丁巳
「平家悉く以て討滅」

4月4日 [玉葉]
「平氏等を誅伐」

4月5日 「吾妻鏡」戊午
「征伐すでに武威を顕わす」

4月11日 「吾妻鏡」甲子
「西海の飛脚参り、平氏討滅」

4月12日 「吾妻鏡」乙丑
「平氏滅亡の後、」

4月14日 「吾妻鏡」丁卯
「大蔵卿泰経朝臣の使者関東に参着」

4月15日 「吾妻鏡」戊辰
「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」
 関東の御家人、内挙(ないきょ)を蒙らず、功無くして多く以て衛府(えふ)・所司(しょし)等
の官を拝任す。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可を注し加えらると。
   下す 東国侍の内任官の輩中
    本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事副え下す 交名注文一通
 右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、徒に庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り、成功に募らず自由に拝任す。官途(かんと)の陵遅(りょうち)すでにこれに在り。偏に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。先官当職を云わず、任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列(ちょうれつ)に廁(まじ)う。何ぞ籠居(ろうきょ)せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。
     元暦二年四月十五日
   東国住人任官の輩の事
 兵衛の尉(ひょうえのじょう)義廉 鎌倉殿は悪主なり。木曽は吉主なりと申して、父を始め親昵(しんじつ)等を相具し、木曽殿に参らしむなんどと申て、鎌倉殿に祇候(しこう)せば、終には落人となり給うと。処せられなんとて候しは、何に忘却せしむか。希有(けう)の悪兵衛の尉かな。
 兵衛の尉忠信 秀衡の郎等、衛府を拝任せしむ事、往昔(おうせき)より未だ有らず。涯分(がいぶん)を計り、おられよかし。その気にてやらん。これは猫にをつる。
 兵衛の尉重経 御勘当(かんどう)は、ほぼ免されにき。然れば本領に帰府(きふ)せしむべきの処、今は本領に付け申されざれかし。
 渋谷馬の允(じょう)  父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。
 小河馬の允  少々御勘当免じて、御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、色様(いろさま)吉からず。何料の任官やらん。
 兵衛の尉基清 目は鼠(ねずみ)眼にて、ただ候すべきの処、任官希有なり。
 馬の允有経  少々奴、木曽殿御勘当有るの処、少々免ぜしめ給いたらば、ただ候すべきに、五位の馬の允、未曾有の事なり。
 刑部(ぎょうぶ)の丞友景 音様しわがれて、後鬢さまで刑部からなし。
 同男兵衛の尉景貞 合戦の時、心甲にて有る由聞こし食す。仍って御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、任官希有なり。
 兵衛の尉景高 悪気色して、本より白者と御覧ぜしに、任官誠に見苦し。
 馬の允時経  大虚言計りを能として、えしらぬ官好みして、甲斐庄と云うを知らず。あわれ水駅の人かな。悪馬細工して有れかし。
 兵衛の尉季綱 御勘当すこし免して有るべき処、由無き任官かな。
 馬の允能忠  同じ。
 豊田兵衛の尉 色は白らかにして、顔は不覚気なるものの、ただ候すべきに、任官希有なり。また下総に於いて、度々召し有るに不参して、東国平らげられて後参る。不覚か。
 兵衛の尉政綱
 兵衛の尉忠綱 本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼(あはあ)の人かな。
  [馬の允有長]
 右衛門の尉季重 [顔はふわふわとして、希有の任官かな。]
 左衛門の尉景季 久日源三郎
 縫殿(ぬいどの)の助   顔はふわふわとして、希有の任官かな。
 宮内の丞舒国 大井の渡りに於いて、声様誠に臆病気にて、任官見苦しき事かな。
 刑部の丞経俊 官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな。
     この外の輩、その数多く拝任せしむと雖も、文武官の間、何官何職、分明知ろ
     し食し及ばざるの故、委しく注文に載せられず。この外と雖も、永く城外の思
     いを停止せしむべきか。
 右衛門の尉友家
 兵衛の尉朝政
     件の両人、鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘(たい)馬の道草を喰らうが如し。同じく以て下向すべからざるの状件の如し。
(注釈)
内挙(ないきょ)・・・内々で推挙すること。
衛府(えふ)・・・近衛府・衛門府など、禁裏の警備の役所。
所司(しょし)・・・官庁の役人。
国衙(こくが)・・・国司の役所。国の土地。
官途(かんと)・・・官吏の職務。
陵遅(りょうち)・・・物事が次第に衰えてゆくこと。
朝列(ちょうれつ)・・・朝廷に列すること。朝臣の列に加わること。
籠居(ろうきょ)・・・謹慎などして家の中に閉じ籠もっていること。
兵衛(ひょうえ)・・・兵衛府に属し、内裏の門の守衛など。
尉(じょう)・・・衛門府・兵衛府・検非違使などの次官(すけ)の下。
親昵(しんじつ)・・・親しみなじむこと。親しいひと。
祇候(しこう)・・・おそばに奉仕すること。
希有(けう)・・・めったにないこと。奇異なこと。
往昔(おうせき)・・・過ぎ去ったむかし。いにしえ。
涯分(がいぶん)・・・身分に相応したこと。自分の身の程。
勘当(かんどう)・・・罪をかんがえて法に当てはめて処罰すること。
帰府(きふ)・・・役所に帰ること。都に帰ること。
允(じょう)・・・寮のじょう、尉(じょう)と同等。
色様(いろさま)・・・美しい人の敬称。
刑部(ぎょうぶ)・・・裁判・行刑を担当する役所。
縫殿(ぬいどの)・・・縫殿寮で裁縫を担当する所。
助(すけ)・・・寮の次官。
駘(たい)・・・のろい馬。

??? これが本当に公文書か。

4月20日 [玉葉]
「神鏡等すでに渡辺に着御す」

4月21日 「吾妻鏡」甲戌
「梶原平三景時、義経不義の事を訴う」

[玉葉]
  泰経卿を以て密々尋ね問わるる事等
「建禮門院の御事如何」
「前の内府の事如何
「頼朝の賞の事」

4月24日 「吾妻鏡」丁丑
「賢所・神璽今津の辺に着」

4月26日 「吾妻鏡」己卯
「實平が知行の濫妨を停止せしむべき」
「景時が知行の濫妨を停止せしむべき」

[玉葉]
「前の内府、並びに時忠卿以下入洛すと」

[4月28日 「吾妻鏡」辛巳
「建禮門院吉田の辺に渡御す」

[玉葉]
「神鏡、神璽温明殿に」

4月29日 「吾妻鏡」壬午
「義経に随うべからざる由」

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2005年11月18日 (金)

1185年 (元暦2年、文治元年)3月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

3月3日 「吾妻鏡」丙戌
「義仲朝臣の妹公有り」
 左馬の頭(さまのかみ)義仲朝臣(あそみ)の妹公有り。これ先日武衛(頼朝)御台所(政子)御猶子(ゆうし)の契り有り。而るに美濃(岐阜県南部)(一村御志有るの間在国)より上洛し、御息女の威に募り、在京するの間、奸曲(かんきょく)の輩多く以てこれに属(つ)く。往日(おうじつ、むかし)棄損(きそん)の古文書(こもんじょ)を捧げ、不知行(ふちぎょう)の所々を件の姫公に寄附するの後、またその使節と称し、権門(けんもん)庄公等を押妨(おうほう)す。この事、当時人庶の愁う所なり。既に関東の御遠聞に達するの間、これを物狂い女房と号す。且つは彼の濫吹(乱暴)を停止し、且つは相順う族を搦め進すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許に仰せ遣わさる。但し御一族の中に於いて、奸濫人相交るの條、世の謗(そし)りを恥給うに依って、御書の面に於いては物狂いの由を載せらるると雖も、潛かに憐愍(れんみん)の御志有り。関東に参向すべきの趣、内々諫(いさ)め仰せらると。
(注釈)
左馬の頭(さまのかみ)・・・左馬寮の長官。
左馬寮(さまりょう)・・・馬寮(めりょう)。官馬の役所。左右がある。
朝臣(あそみ)・・・三位以上のひとの姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
猶子(ゆうし)・・・養子。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
不知行(ふちぎょう)・・・知行・領地を持たないこと。
古文書(こもんじょ)・・・
権門(けんもん)・・・官位高く権威のある家柄。
押妨(おうほう)・・・おうぼう。押し入って乱暴したり、不当な課税をしたりすること。
憐愍(れんみん)・・・れんびん。

3月4日 「吾妻鏡」丁亥
「在洛の武士狼藉」
 畿内近国の狼唳(ろうれい)を鎮めんが為、典膳大夫久経・近藤七国平を以て、御使としてすでに差し遣わされたり。而るに猶在洛の武士狼藉を現すの由聞き及ばしめ給うに依って、叡疑の恐れを散ぜんが為、その子細を言上せらると。武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんが為に候なり。朝敵候せざれば、武士[また上洛せしむべからず。武士]また上洛せしめざれば、狼藉を致すべからず候か。而るに敵人海を隔つの間、今に追討を遂げず。経廻の武士、国々庄々四度計無き事、その聞こえ多く候。仍って追討せらる以後、直に沙汰せしむべきの由、存じ思い給い候と雖も、近国に於いては、且つは糺(きゅう)定せしめんが為、使者二人上洛せしめ候所なり。その以前不覚者候わば、ただ院宣を守り、御使に相副え、計を廻らし行わんが為に候。然るべからざる進退せしめ候わば、定めて自由の沙汰に似候うか。頼朝が威に募り、武士濫妨(らんぼう)の事、停止せしめ候の計なり。子細の勒状、使者に給い候いたり。この旨を以て申し沙汰せしめ給うべく候。
恐々謹言。
     三月四日           頼朝
   謹上 籐中納言殿
(注釈)
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
狼藉(ろうぜき)・・・乱暴。
糺(きゅう)・・・ただすこと。
謹言(きんげん)・・・手紙の末尾に用いて、敬意を表す語。

3月4日 [玉葉]
「義経が凶党を追討」
 隆職追討の間の事を注し送る。義経が許より上状を申すと。去る月十六日纜を解く。十七日阿波の国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追い落としたり。然れども、未だ平家を伐ち取らずと。

3月8日 「吾妻鏡」辛卯
「屋島の合戦すでに終わり」
 源廷尉(義経)の飛脚西国より参着す。申して云く、去る月十七日、僅かに百五十騎を卒い、暴風を凌ぎ、渡部より纜を解く。翌日卯の刻(6時)阿波の国(徳島県)に着き、則ち合戦を遂ぐ。平家の従兵、或いは誅せられ或いは逃亡す。仍って十九日、廷尉屋島に向かわれたり。この使その左右(そう)を待たず馳参す。而るに播磨の国(兵庫県南西部)に於いて後を顧るの処、屋島の方黒煙天に聳ゆ。合戦すでに終わりたり。内裏以下焼亡その疑い無しと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
左右(そう)・・・決着。

3月9日 「吾妻鏡」壬辰
「兵粮その術無きに」
 参河の守(範頼)西海より状を献られて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の国(大分県)に着くの処、民庶(みんしょ)悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎兄弟・大多和の次郎・工藤一臈以下侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉(ま)げてこれを抑留し、相伴い渡海したり。猶御旨を加えらるべきか。次いで熊野の別当湛増、廷尉(義経)の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国(香川県)に渡る。今また九国に入るべきの由その聞こえ有り。四国の事は義経これを奉る。九州の事は範頼奉るの処、更にまた然る如きの輩に抽んぜらる。啻(ただ)に身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似たり。人の思う所尤も恥と為すと。
(注釈)
民庶(みんしょ)・・・一般の人民。庶民。

3月12日 「吾妻鏡」乙未
「兵粮米を納めらる」
 平氏を征罰せんが為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥並びに妻良の津に浮かべ、兵粮米を納めらる。仍って早く纜を解くべきの由仰せ下さる。俊兼これを奉行す。

3月16日 己亥 天晴 [玉葉]
「平家安藝厳島に」
 伝聞、平家讃岐の国(香川県)シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず引退し、安藝(広島県西部)厳島に着きたりと。その時僅かに百艘ばかりと。神鏡・劔璽帰り来たる事、公家殊なる祈祷無し。微臣壹この事を欲す。仍って近日殊に随分の祈り等を修す。また中心この事を察す。仏天定めて照覧有らんか。

3月17日 庚子 [玉葉]
「平家或いは備前小島に在り。」
 伝聞、平家或いは備前(岡山県南東部)小島に在り。或いは伊豫(愛媛県)五々島に在りと。鎮西の勢三百艘相加わると。但し実否知り難し。

3月21日 「吾妻鏡」甲辰 甚雨
「周防の国の舟船奉行、数十艘を献ず」
 廷尉(義経)平氏を攻めんが為、壇浦に発向せんと欲するの処、雨に依って延引す。爰に周防の国(山口県東部)在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経朝臣書を正利に與う。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。

3月22日 「吾妻鏡」乙巳
「義経数十艘の兵船を促し、壇浦へ」
 廷尉(義経)数十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと。昨日より乗船を聚(あつ)め計を廻らすと。三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会す。廷尉曰く、汝すでに門司関を見る者なり。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしといえり。義澄命を受け、壇浦奥津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に棹さし彦島を出る。赤間関(下関)を過ぎ田の浦に在りと。

3月24日 「吾妻鏡」丁未
「壇浦の海上に於いて、源平相逢う」
 長門の国(山口県西部北部)赤間関(下関)壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻(12時)に及び平氏終に敗傾す。二品(二位)禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(安徳天皇、春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。若宮(今上兄)は御存命と。前の中納言(教盛、門脇と号す)入水す。前の参議(経盛)戦場を出て、
陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没す。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛が為生虜らる。その後軍士等御船に乱入す。或いは賢所(神鏡)を開き奉らんと欲す。時に両眼忽ち暗んで神心惘然たり。平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去したり。これ尊神の別躰、朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鋳改め奉らると。朱雀院の御宇長暦年中、内裏焼亡の時、圓規(えんき)すでに虧(か)けると雖も、平治逆乱の時は、師仲卿の袖に移らしめ給う。その後新造の櫃(ひつ)に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭としてこれを沙汰す。
[澆季の今、猶神変を顕わす。仰ぐべし恃むべし。]

3月27日 [玉葉]
「平氏長門の国に於いて伐たれたり」
 伝聞、平氏長門の国(山口県西部北部)に於いて伐たれたり。九郎の功と。実否未だ聞かず。

3月28日 辛亥 [玉葉]
「平氏伐たれたり」
 右少弁定長来たり。定長云く、平氏伐たれたりの由、この間風を聞く。これ佐々木の三郎ト申す武士の説と。然れども義経未だ飛脚を進せず。不審猶残ると。

3月29日 「吾妻鏡」壬子
「平氏追討の御下文(くだしぶみ)、二月二日」
 平氏追討の事、武衛(頼朝)申さるるに依って、軍旅の功を励ましめんが為、庁の御下文を豊後の国(大分県)の住人等の中に下さる。これ先日の事たりと雖も、彼の案文(あんぶん)、今日関東に到来する所なり。
   院庁下す 豊後の国住人某等
    いよいよ征伐を専らにし、勲功を遂げ勧賞(けんじょう)を期すべき事
 右、平家謀叛の党類、四国辺の島を往反し、朝憲(ちょうけん)を蔑爾(べつじ)するの間、
鎮西辺の民多く烏合(うごう)の群に入り、狼唳(ろうれい)の企てを致せしむ。而るに当国の軍兵等、堅く王法(おうほう)を守り、凶醜(きょうしゅう)に与せず。遂に数船を艤(ぎ)し、
官軍を迎え取り、九国の輩を服従せしむべき由その聞こえ有り。殊に以て叡感(えいかん)あり。いよいよ鋭兵を増し、彼の凶徒を討滅せしむべきなり。各々その勲功に随い、請いに依って賞賜(しょうし)有るべきなり。当国の大名等、宜しく承知すべし。違越せしむ勿れといえり。仰せの所件の如し。故に下す。
     元暦二年二月二日

下文(くだしぶみ)・・・上位者から管轄下の役所や人民などに下した公文書。
案文(あんぶん)・・・文書の写し。
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
朝憲(ちょうけん)・・・朝廷で立てた法規。
烏合(うごう)・・・鳥の集まるように規律もなく統一もなく集まること。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
王法(おうほう)・・・国王の法令。
艤(ぎ)・・・きちんと船を整備する。
叡感(えいかん)・・・天子が感歎なさること。天子のおほめ。
賞賜(しょうし)・・・賞して物を賜うこと。

3月29日 [玉葉]
 定能卿来たり、平氏の間の事を語る。昨日定長の語る如し。

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2005年11月17日 (木)

1185年 (元暦2年、文治元年)2月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

2月5日 「吾妻鏡」己未
「散在の武士狼藉を致す」
 典膳(てんぜん)大夫(たいふ)中原久経・近藤七国平使節として上洛す(先々使節たりと雖も、他人相替わる。今度治定(ちてい)すと)。これ平氏を追討するの間、事を兵粮(ひょうろう)に寄せ、散在の武士、畿内(きない)近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴(しゅうそ)有り。仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。
(中略)

(注釈)
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
治定(ちてい)・・・世の中をおさめること。
兵粮(ひょうろう)・・・戦時における将兵の食糧。
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
愁訴(しゅうそ)・・・苦しみや悲しみを嘆き訴えること。

2月13日 「吾妻鏡」丁卯
「飢饉にて粮無き乗船無き」
 今日、伊澤の五郎の書状、鎮西(九州)より武衛(頼朝)の御旅館に到着す。その詞(し)に云く、平家追討の計を廻らさんが為、長門の国(山口県西部・北部)に入ると雖も、彼の国飢饉(ききん)にて粮(りょう)無きに依って、猶安藝の国(広島県西部)に引退せんと欲す。また九州を攻めんと欲するの処、乗船無きの間、進み戦わざるの由と。即ち御返事に云く、粮無きに依って長門を退くの條、只今敵に相向かわずんば、何事か有らんや。
(中略)

(注釈)
詞(し)・・・文章。
飢饉(ききん)・・・農作物がみのらず、食物が欠乏して、飢え苦しむこと。
粮(りょう)・・・行軍に携行する食糧。食品。

2月14日 「吾妻鏡」戊辰
「船無くして粮尽きる」
 参州(範頼)日来周防の国(山口県東部)に在るの時、武衛(頼朝)仰せ遣わされて云く、土肥の二郎・梶原平三に談らしめ、九国の勢を召すべし。これに就いて善く帰伏(きふく)の形勢を見らば、九州に入るべし。然らずんば、鎮西(九州)と合戦を好むべからず。直に四国に渡り平家を攻むべしといえり。而るに今参州(範頼)九国に赴かんと欲し、船無くして進まず。適々長門の国(山口県西部・北部)に渡ると雖も、粮尽きるの間、また周防の国に引退したり。軍士等漸く変意有って、一揆(いっき)せざるの由これを歎き申さる。その飛脚今日伊豆の国に参着す。仍って今度合戦を遂げず帰洛せしめば、何の眉目(面目)有らんや。粮を遣わすの程堪忍(かんにん)せしめ、これを相待つべし。
(中略)

(注釈)
帰伏(きふく)・・・心をよせてつき従うこと。帰順。降参。
一揆(いっき)・・・心を同じくしてまとまること。
堪忍(かんにん)・・・たえしのぶこと。

2月16日 「吾妻鏡」庚午
「義経先陣を欲す」
 関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国(香川県)に赴く。廷尉(ていじょう)義経先陣として、今日酉の刻(18時)纜(ともづな)を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧(こうしょう)を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。而るに卿諫(いさ)めて云く、泰経兵法(へいほう)を知らずと雖も、推量の覃(およ)ぶ所、大将軍たる者、未だ必ず一陣(いちじん)を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやといえり。廷尉云く、殊に存念(ぞんねん)有り。一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は陣を両所に結ぶ。前の内府(宗盛)讃岐の国(香川県)屋嶋を以て城郭と為す。新中納言知盛九国の官兵を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。
行粧(こうしょう)・・・よそおうこと。
兵法(へいほう)・・・いくさのしかた。用兵と戦闘の方法。兵学。軍法。
一陣(いちじん)・・・第一の陣。先陣。
存念(ぞんねん)・・・いつも心に思っていること。

2月16日 [玉葉]
「義経の発向を制止」
 伝聞、大蔵卿泰経卿御使として渡辺に向かう。これ義経が発向を制止せんが為と。これ京中武士無きに依って御用心の為なりと。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに公卿たり。此の如き小事に依って、輙(たやす)く義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。

2月18日 「吾妻鏡」壬申
「義経屋嶋に発向」
 廷尉(義経)昨日渡部より渡海せんと欲するの処、暴風俄に起こり、舟船多く破損す。士卒の船等一艘として纜を解かず。爰に廷尉云く、朝敵の追討使暫時逗留す。その恐れ有るべし。風波の難を顧(かえりみ)るべからずと。仍って丑の刻(2時)先ず舟五艘を出す。卯の刻(6時)阿波の国椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと。

2月19日 「吾妻鏡」癸酉
「義経屋島の内裏の向浦に到り民屋を焼き払う」 
 また廷尉(義経)、昨日終夜阿波の国(徳島県)と讃岐との境の中山を越え、今日辰の刻(8時)屋島の内裏(だいり)の向浦に到り、牟礼高松の民屋を焼き払う。これに依って先帝(安徳天皇)内裏を出でしめ御う。前の内府(宗盛)また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能盛等を相具し、汀(みぎわ、なぎさ)に馳せ向かう。平家また船に棹(さお)さし、互いに矢石(しせき)を発つ。この間佐藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失す。黒煙天に聳え、白日光を蔽う。
(注釈)
内裏(だいり)・・・天皇の居所としての御殿。
矢石(しせき)・・・矢と弩(いしゆみ)の弾石。やだま。

2月21日 「吾妻鏡」乙亥
「義経阿波の国に渡る」
 平家讃岐の国(香川県)志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏(降参)す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国(徳島県)に渡る。熊野(くまの)の別当(べっとう)湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。
(注釈)
熊野(くまの)・・・和歌山県と三重県にかけての山地。
別当(べっとう)・・・神宮寺の僧職。

2月22日 「吾妻鏡」丙子
「東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着く」
 梶原平三景時以下の東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着くと。

2月27日 [玉葉]
 伝聞、九郎去る十六日纜を解き、無為に阿波の国に着きたりと。

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2005年11月16日 (水)

1185年 (元暦2年、文治元年)1月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

1月6日 「吾妻鏡」
「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」
「乗馬を所望、馬は送らぬ」
 平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付けらるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆(いっき)せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊(いささ)か御不審を散ずと雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。但し定遠・信方は在京す。京都より相具すべきの旨、宗光に仰せ含めらる。宗光委細の御書を帯す。これ鎮西に於いて沙汰有るべきの條々なり。その状に云く、十一月十四日の御文、正月六日到来す。今日これより脚力を立てんとし候つる程に、この脚力到来し、仰せ遣はしたるむね委しく承り候たり。筑紫の事、などか従はざらんとこそおもふ事にて候へ。物騒がしからずして、よくよく国に沙汰し給べし。構えて構えて国の者共ににくまれずしておはすべし。馬の事、実にさるべき事にてはあれども、平家は常に京城をうかがふ事にてあれば、もしおのづから道にて押しとられなどしたらん事は、聞く耳も見苦しき事にてあらんずれば、つかはさぬ也。又内藤六が周防のせいを以て志をさまたげ候なる、以ての外の事也。
(中略)
一揆(いっき)・・・心を同じくしてまとまること。

「九国の御家人への御下文」
  また御下文一通、九国の御家人の中に遣わさる。その状に云く、
下す 
鎮西九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本所を安堵し、且つは参河の守の下知に随い、同心合力し朝敵平家を追討すべき事
 右彼の国々の輩に仰せ、朝敵を追討すべきの由、院宣先にたり。仍って鎌倉殿の御代官両人上洛するの処、参河の守は九国に向かい、九郎判官を以て四国に遣わさる所なり。爰に平家、縦え四国に在りと雖も、九国に着くと雖も、各々且つは院宣の旨を守り、且つは参河の守の下知に随い、同心合力せしめ、件の賊徒を追討すべきなりといえり。九国の官兵、宜しく承知し、不日に勲功の賞を全うすべし。
以て下す。
     元暦二年正月日        前の右兵衛の佐源朝臣

1月8日 壬辰 陰晴不定 [吉記]
「義経四国に向かうべき」
 大府卿院に於いて示して云く、廷尉義経四国に向かうべきの由申す所なり。而るに自身は洛中に候すべきか、ただ郎従を差し遣わすべきかの由、申さるる人有り。且つはこれ忠清法師在京中の由風聞す。定めて凶心を挿むかと。二三月に及ばば兵粮尽きたり。範頼もし引き帰さば、管国の武士等猶平家に属き、いよいよ大事に及ぶかの由、義経申す所なり。予申して云く、義経が申し状、尤もその謂われ有り。大将軍下向せず、郎従等を差し遣わすの間、諸国の費え有りと雖も、追討の実無きか。範頼下向の後この沙汰に及ぶか。然れば今春義経発向し尤も雌雄を決すべきか。忠清法師の事に於いては、沙汰に及ばざるか。但しその身を搦め進すべきの由、尤も宣下せらるべきか。義経下向すと雖も、猶然るべきの輩は、差し分け京都に祇候せしむべきの由、尤も仰せ合わさるべきなり。御祈祷微々、不便極まり無き事なり。その用途無きと雖も、尤も諸社・諸寺に仰せらるべきなり。三種の宝物の事、能々(よくよく)籌(はかりごと)を運(めぐ)らさるるべきの由これを申す。

1月9日 壬辰 陰晴不定 [玉葉]
「光輔宅に群盗乱入す」
今日隆職来る。前に召し雑事を仰す。去夜、大内記光輔の家、群盗乱入す。父長光入道同居、同じくこの災いに遭う。所望により綿衣一領、小袖一領これを遣る。

1月10日 甲午 [吉記]
「義経西国に発向す」
 大夫判官義経西国に発向すと。

1月12日 「吾妻鏡」丙申
「粮絶え船無く」
 参州(範頼)周防(山口県東部)より赤間関(下関)に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況やその外の族に於いてをや。
(中略)

1月26日 「吾妻鏡」庚戌
「豊後の国の住人八十二艘の兵船を献ず。」
「周防の国の住人兵粮米を献ず。」
 豊後の国(大分県)の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄等、参州(範頼)の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防(山口県東部)の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜(ともづな)を解き、豊後の国に渡ると。
(中略)

(注釈)
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。

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2005年11月15日 (火)

1184年 (壽永3年、元暦元年)10、11、12月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

10月13日 
「平氏淡路に着すという」
 伝聞、教盛卿等の為、長門の国(山口県西部・北部)に在るの源氏、葦敷追い落とされたりと。また平氏五六百艘淡路に着くと。

10月14日 
「窃盗等禁中(皇居)に乱入」
 伝聞、さる比窃盗等禁中(皇居)に乱入し、朝餉(朝食)に候ふ女房等衣裳悉く剥ぎ取りたりと。未曾有(みぞう)々々々。
(注釈)
未曾有(みぞう)・・・いまだ曾(かっ)て起こったことがないこと。

11月2日 晴れ
「頼朝に讒言あり」
今日源中納言雅頼卿来たり、世上の事を談ず。その次に云う、ある小僧(東国に通達する者と)語りて云う、摂政の辺りの人、余の事を頼朝に讒言(ざんげん)す。これにより先日奏聞の大事、黙止したりと。余かくの如きを聞く、悲しむべし、悲しむべし。推挙専ら好む所にあらず。讒言何ぞ痛むべきや。只家の前途、国の重事、悲しみて余りあるものか。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪くいうこと。


11月27日 
「頼朝、兼実に甘心」
 實厳阿闍梨来たり、密に語りて云く、少納言入道(相者、俗名宗綱、三條宮近臣)去る夜坂東より上洛す。言語の次いでに申して云く、頼朝云く、右府(兼実)殿の御事を京下りの輩に問う処、人別にその美を称し、未だその悪を聞かず。爰に社稷(しゃしょく)の臣たるを知ると。その気色を見るに、深く甘心(かんしん)の色有り。且つはこれ殊に音信を通せざるの故と。
(注釈)
阿闍梨(あじゃり)・・・僧位の一つ。
社稷(しゃしょく)・・・国家。朝廷。
社稷(しゃしょく)の臣・・・国家の重臣。
甘心(かんしん)・・・満足すること。快く思うこと。

12月7日 晴れ
「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」
 近日群盗の恐れ連日絶えず、去る日院御所に放火の事(即ち打ち消したり)有り。又近辺12町の中、強盗入り数人を害す。しかるに敢えて其の沙汰なしと。よつて泰経卿に付け上疏(じょうそ)を捧げる。疎遠の身諫(かん、いさめる)諍(しょう、あらそう)を献ずる能わずと雖も、納めずの条、全く恥じに非ず。よって微忠の至り、款(かん)状を献ずる許りなり。其の書状此の如し。

「兼実款状(かんじょう)」
「放火群盗等を禁遏(きんあつ)されるべき事」
 右天下騒乱以後、海内静かならざるの間、五畿七道の海陸の路塞がり、調庸祖税の貢ぎすでに空し。適住反の境、災難猶免れず、或いは炎旱(えんかん、ひでり)の愁いに依り、悉く亡損の地と為す。或るいは武士の妨げを恐れ、敢えて子のごとく来たる民無し、之に加え山門の厳穴(がんけつ)未だ安全の栖(せい、すむ)を聞かず。社内寺辺併しながら合戦の場と為す。此の如しの間、貴賤忽ち安堵の計を失う、緇素(しそ)各危困の嘆きを懐く。国土の凋弊(ちょうへい)、年を逐うて増すと雖も、朝家の大営(たいえい)茲に因りて減ずること無し。富者は倉廩(りん、くら)を空しくし、以て僅かに身命を存す。貧者は衣食無く以て飢え寒さ忍び難し。何に況んや近曾(ごろ)以来、放火間々起こり、盗賊頗りに聞ゆ。月卿(げっけい)雲客(うんかく)の居所を嫌わず、洛内城外の舎屋を論せず、連夜の災い日を追って絶えること無し。啻(ただ)資材を奪ふのみに非ず、殆ど又死傷に及ぶ。万人の歎き只此の事に在るのみ。逆党の征伐に於いて、旁々籌策(ちゅうさく)を運(めぐら)すと雖も、盗賊の厳制に至りては、速やかに刑法行うべし。鎮(ちん)乱の政、邇(ちか)きより遠きに及ぶ故なり。早く有司(役人)並びに武士等に仰せ、慥(たしか)に禁遏(きんあつ)されるべきか。其の間の子細宜しく有司の輩を訪ね、無為の謀を廻らされるべきなり。此の沙汰もし遅引せば、人家忽ち滅亡し、衆庶(しゅうしょ)いよいよ度を失うものか。それ君は臣の元首なり。人民の愁歎(しゅうたん)、叡襟(きん、えり)豈傷まざらんや。顧問(こもん)を待たず。進みて上奏の条、恐懼(きょうく)多端(たたん)、戦慄(せんりつ)謝し難し。然れども愚忠を存ずるにより、聖徳(せいとく)を驚かしむる許りなり。披露(ひろう)を計らるべき状くだんの如し。
        十二月七日        在判
    大蔵卿殿
夜に入り泰経の返礼到来す。速く奏すべしと。

(注釈)
上疏(じょうそ)・・・事情を記して上にたてまつること。
款状(かんじょう)・・・訴訟などの嘆願書。
禁遏(きんあつ)・・・おしとどめてやめさせること。
五畿(ごき)・・・五畿内。畿内。大和・山城・河内・和泉・摂津。
七道(しちどう)・・・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道。
調庸祖税・・・現物税。祖は粟、庸は絹、調は絹または麻など。
貢ぎ・・・君主に奉る財物。
厳穴(がんけつ)・・・岩のほらあな。
炎旱(えんかん)・・・ひでり。
緇素(しそ)・・・僧と俗人。
凋弊(ちょうへい)・・・おとろえつかれること。
大営(たいえい)・・・大事業。
月卿(げっけい)・・・公卿。
雲客(うんかく)・・・殿上人。
籌策(ちゅうさく)・・・はかりごと。
鎮(ちん)・・・しずめること。
衆庶(しゅうしょ)・・・庶民。
愁歎(しゅうたん)・・・嘆きかなしむこと。
顧問(こもん)・・・相談すること。
恐懼(きょうく)・・・恐れかしこまること。
多端(たたん)・・・複雑で多岐にわたつていること。
戦慄(せんりつ)・・・恐ろしくて、おののきふるえること。
聖徳(せいとく)・・・天子の徳。
披露(ひろう)・・・文書などをひらきあらわして見せること。

12月25日 「吾妻鏡」庚辰
「鹿島社に寄進」
 鹿島社神主中臣の親廣・親盛等、召しに依って参上す。今日営中(えいちゅう)に参り、金銀の禄物(ろくもつ)を賜う。剩(あまつさ)え当社御寄進の地、永く地頭(じとう)の非法を停止し、一向(いっこう)に神主管領(かんりょう)せしむべきの旨仰せ含めらる。これ日来御願書を捧げ、丹祈(たんき)を抽(ぬき)んじ給うの処、去る春の比、厳重の神変(しんぺん)を現わし給うの後、義仲朝臣伏誅(ちゅう)し、平内府(宗盛)また一谷の城郭を出て、敗北し四国に赴きたり。いよいよ御信心を催すに依って、今この儀に及ぶと。
(注釈)
鹿島社・・・鹿島神宮。
営中(えいちゅう)・・・将軍の居所。
禄物(ろくもつ)・・・禄として賜う金銭など。
地頭(じとう)・・・荘園の領主が土地管理のために現地に置いた荘官。
一向(いっこう)・・・すべて。
管領(かんりょう)・・・支配。
丹祈(たんき)・・・丹誠をこめて祈ること。
神変(しんぺん)・・・人知でははかり知ることのできない不思議な変化。
誅(ちゅう)・・・罪をせめて殺すこと。


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2005年11月14日 (月)

1184年 (壽永3年、元暦元年)7、8、9月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

7月3日 「吾妻鏡」己丑
 武衛(頼朝)前の内府(宗盛)已下平氏等を追討せんが為、源九郎(義経)主を以て西海に遣わすべき事、仙洞(せんとう)に申さると。
(注釈)
仙洞(せんとう)・・・上皇の御所。この場合、後白河法皇のことか。

7月8日 晴 
「伊賀・伊勢の平家党類謀叛」
 伝聞、伊賀(三重県西部)・伊勢(三重県)の国人(こくじん)等謀叛したり。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行(ちぎょう)すと。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻(8時)、家継法師(平家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りたり。
「鈴鹿山を切り塞ぎ」
 また伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛したりと。この事に因って院中物騒す。喩(たと)えを取るに物無し。
(注釈)
国人(こくじん)・・・在地の武士。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。治めること。

7月20日 晴
「官軍近江の国で謀反輩を敗る」
 伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国(滋賀県)に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退散す。宗(そう)たる者を伐ち取りたりと。
(注釈)
宗(そう)・・・最もすぐれた人。

7月21日 
「平田入道梟首」
 伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首(きょうしゅ)せられたり。その外両三人大将軍たる者伐たれたりと。忠清法師・家資等山に籠もりたりと。
「官軍佐々木秀義討たれる」
また官軍の内、大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれたり。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。
(注釈)
梟首(きょうしゅ)・・・斬罪に処せられた人の首を木にかけてさらす事。さらし首。

7月28日 晴 
「太政官庁にて即位行わる」
 この日即位の事有り。治暦四年の例に依って、太政官(だいじょうかん)の正庁に於いて、これを行わる。抑(そもそ)も劔璽(けんじ)の帰り来たるを相待ち、即位を遂行せらるべきや否や、予め人々に問わる。摂政(基通)及び左大臣(経宗)等に依り、剣璽を備えず、天子の位を践(ふ)む。異域例ありと雖も、わが朝かって跡無しと申す。然れども叡慮(えいりょ)並びに識者等の議奏(ぎそう)、天意を知らず、神慮(しんりょ)を測らざるに依って、行わるる所、只目を以てするのみ。
(注釈)
即位(そくい)・・・天皇践粗(せんそ)の後、即位の大礼を行うこと。
太政官(だいじょうかん)・・・国政を総括する最高機関。
劔璽(けんじ)・・・三種の神器のうち、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。宝剣と神璽。
叡慮(えいりょ)・・・天子のお考え。天皇・上皇などの御心。
議奏(ぎそう)・・・政事を議定して奏上すること。
神慮(しんりょ)・・・神のみこころ。

8月1日 晴 
「鎮西多く平氏に与す」
 或る人云く、鎮西(九州)多く平氏に與(よ)したり。安藝の国(広島県西部)に於いては、官軍(早川と)と六ヶ度合戦す。毎度平氏理を得ると。
(注釈)
與(よ)・・・仲間になること。

8月6日 晴
「義経明日任官すべし」
 午の刻、源中納言来たり、数刻言談す。語りて云く、去る比頼朝納言に還るべきの由、推挙を泰経に付け申し上ぐと。定めて不快の事有るか。恐れを為す。また云く、明日除書有るべし。九郎任官すべしといえり。

8月8日 「吾妻鏡」甲子 晴
「範頼、平家追討使として西海に赴く」
 参河(みかわ)の守範頼、平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。旗差(旗これを巻く)一人、弓袋一人、相並び前行す。次いで参州(紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)を着し、小具足(こぐそく)を加え、栗毛(くりげ)の馬に駕(が)す)、次いで扈従(こしょう)の輩一千余騎龍蹄(りゅうてい)を並ぶ。所謂、
    北條の小四郎  足利蔵人義兼   武田兵衛の尉有義  千葉の介常胤
    境の平次常秀  三浦の介義澄   男平太義村     八田四郎武者朝家
    同男太郎朝重  葛西の三郎清重  長沼の五郎宗政   結城の七郎朝光
    籐内所の朝宗  比企の籐四郎能員 阿曽沼の四郎廣綱  和田の太郎義盛
    同三郎宗實   同四郎義胤    大多和の次郎義成  安西の三郎景益
    同太郎明景   大河戸の太郎廣行 同三郎       中條の籐次家長
    工藤一臈祐経  同三郎祐茂    天野籐内遠景    小野寺の太郎道綱
    一品房昌寛   土左房昌俊
  以下なり。武衛(頼朝)御桟敷(さじき)を稲瀬河の辺に構え、これを見物せしめ給うと。
(注釈)
参河(みかわ)・・・参州。愛知県東部。
紺村濃(こんむらご)・・・紺色のむらご。全着すせられる濃い紺色にしたもの。
直垂(ひたたれ)・・・垂領(たりくび)式の上衣で、袴と合わせて用いた。
小具足(こぐそく)・・・武装の際の付属具。
栗毛(くりげ)・・・馬の毛色の名。たてがみと尾は赤褐色で、地色の赤黒色のもの。
駕(が)・・・あやつる。
扈従(こしょう)・・・つき従うこと。
龍蹄(りゅうてい)・・・すぐれた馬。

8月17日 晴
「頼朝上洛の風聞あり」
 伝聞、頼朝鎌倉を出て、すでに上洛するの間、伊豆の国に逗留す。秋の中入京すべからずと。この事甚だ甘心せず。天下勿(たちま)ちに滅亡か。
8月17日 「吾妻鏡」
「九郎左衛門少尉検非違使」
 源九郎主の使者参着す。申して云く、去る六日左衛門(さえもん)少尉(じょう)に任じ、使の宣旨を蒙る。これ所望の限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然の朝恩たるの由仰せ下さるるの間、固辞すること能わずと。この事頗る武衛の御気色に違う。範頼・義信等の朝臣受領の事は、御意より起こり挙し申さるるなり。この主の事に於いては、内々の儀有り。左右無く聴されざるの処、遮って所望せしむかの由御疑い有り。凡そ御意に背かるる事、今度に限らざるか。これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有りと。
(注釈)
左衛門(さえもん)・・・左の皇居諸門の護衛。
尉(じょう)・・・次官(すけ)の下。衛門府、兵衛府、検非違使など。
使(し)・・・検非違使(けびいし)。京中の警察兼裁判官。
宣旨(せんじ)・・・天皇の命を伝える公文書。
御気色・・・御意向。
受領(ずりょう)・・・諸国の長官。(範頼は参河の守、義信は武蔵の守。)

8月18日 晴
「義朝免罪せらるべき事」
 大外記頼業来る。また云く、義朝が首、今に囹圄(れいぎょ)に在り。而るに罪を免さるべし。その間の事勘じ申すべき由、泰経の奉行となり仰せ下されたり。(中略)或る人云く、文覺上人上洛し、在獄の義朝の首を取り、鎌倉に向かうべしと。
(注釈)
囹圄(れいぎょ)・・・ろうや。

8月21日 晴 
「頼朝木瀬川に着す」
 伝聞、頼朝鎌倉城を出て木瀬川(伊豆と駿河の間と)の辺に来着し暫く逗留す。飛脚を進し申して云く、すでに上洛仕る所なり。但しひきはりても上洛候はざるなり。先ず参河の守範頼(蒲の冠者これなり)、数多の勢を相具せしめ参洛せしむ所なり。一日と雖も、京都に逗留すべからず。直に四国に向かうべき由仰せ含める所なりと。また聞く。荒聖人文覺を以て申して云く、当時摂政(基通)平妻を棄て置き洛に留む。敢えて過怠無きの上、君また此の如く思し食す。異議有るべからず。兼ねてまた入道関白(基房)尤も顧問に備うべき人なり。荘園少し。然るべきの国一つ宛て賜うべしと。或る説に云く、文覺頗る不けざるの気有りと。然れども、在獄中の義朝が首を取り、来るべきの由仰せ付くと。

8月23日 晴 
「院頼朝を基通の婿とせんとすという」
 伝聞、摂政(基通)頼朝が聟たるべしと。これ法皇仰すと。仍って五條亭を修理し移住せらる。頼朝上洛の時新妻を迎えんが為と。

9月3日 晴 
「源範頼藤原範季に養育さる」
 早旦範季朝臣来たり、不思議の事を示す。参河の国司範頼(件の男幼稚の時、範季子として養育す。仍って相親しいと)、上洛の間、件の事聞かず知らずの由を答う。頗る疑貽有り。然れども事の跡顕然たり。猶信ぜざるべからざるか。

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