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2005年10月15日 (土)

1181年 ( 養和元年)8月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年)
養和元年8月

8月1日 天気陰、
伝聞、前幕下(宗盛)其の勢逐日減少し、諸国武士等敢えて参洛(上洛)せず。近日貴賤の領を奪い武勇の輩に賜ひ、先々に於いて万倍す。然れども其の郎従等忿怨に随い、或いは違方の者有り。凡そ其の心を得ず、恐らく運報傾くかと。
「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」
又聞く、去る日(源)頼朝密々に院に奏し云う、全く謀反の心無し。ひとえに君の御敵を伐つ為なり、
「頼朝源平両氏共に用うべき旨を申す」
もし猶平家滅亡されるべからずば、古昔の如く、源氏・平氏相並び召し仕うべし、関東源氏之の進止(進退)となし、海西平氏の任意になし、共に国宰(大臣、国司)においては、上より補されるべし。只東西の乱を鎮める為、両氏に仰せ付けられて、暫く御試み有るべきなり。且つ両氏孰(いず)れか王化を守り、誰か君命を恐るるや、尤も両氏の翔(ふるま)ひをご覧すべきなりと。此の状を以て、内々前幕下に仰せられる。
「平宗盛頼朝の密奏を退けるという」
幕下申し云う、此の儀尤も然るべし。但し故禅門(清盛)閉眼の刻、遺言して云う、我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸(がい、しかばね)を頼朝の前に曝すべしと、然れば亡父の誡め、用いざるべからず、よって此の条に於いては、勅命を為すと雖も、請け申し難きものなりと。此の事最も秘事なり、人以て知らずと、すでに以上の事等、兵部(兵部省、軍政・武官を担当)少輔、藤原尹(いん)明、密に語る所なり。件の男、前幕下(宗盛)の辺に伺候する人なり。平定能、鎮西(九州)下向必定、人以て奇を為すと。大略逃げ儲け(用意)の料(おしはかる)といえり。、

8月2日  天晴 
 伝聞、駿河の国より上洛の下人(大膳大夫平信兼の郎従、即ち件の人、知行の庄沙汰者と)の説に云く、頼朝朝臣の儲け(設け)と称し、仮屋数宇を造作す。凡そ路次の国、粮米経営の外、他事無しと。

8月6日 早旦甚雨、終日陰 午後微雨
未の刻(14時)頭弁(経房)来たり、院の仰せを伝えて云わく、
「関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず」
関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず。余勢強大の故なり。京都の官兵を以て、輙(ちょう、すなわち)く攻め落とし難きか。
「秀衡の処遇」
仍って陸奥の住人秀平を以て、彼の国の史判に任ぜらるべきの由、前の大将申し行う所なり。件の国、素より大略虜掠す。然れば、拝任何事か有らんや。如何、
「平助職の処遇」
また越後の国の住人平助職、宣旨に依って信濃の国に向かう。勢少なきに依って軍敗れしは、全く過怠に非ず、志の及ぶ所、すでに身命を惜しまず、忠節の至り、頗る恩賞有るべきか、且つは傍輩を励ましめんためなり、しかし其の法如何、忽ち越州を賜はば、其の節を遂ぐる時如何、又只今の如くば、大略敵軍の為追い帰されたり、其の賞熟(いず)れの国を預くる、頗る其の謂われ無し、もし然るべく京官に任せらるべしか、進退の間、叡慮決し難し、宜しく計らひ奏せしむべしと、
 余申し云う、追討の間の事、ひとえに大将軍の最なり、しかるに前大将申し計らるる趣、異議に及ぶべからず、然れば秀衡奥州に任ずる、何事かこれ有らんや、助職の事或るいは位を授け、(先例有り)或いは京官に任ず、各定めて其の望み無きか、越州を賜ふ条、秀衡に准ぜば同じ事たりと雖も、両国空しく失せたりの条、実に思慮有るべし、これらの外恩賞の趣、愚案及び難し、凡そこれらの事、すべて以て道理の推す所に非ず、事すでに治し難し、よって後害を顧みず、謗(ぼう、そしり)難を知らず、当時の事を成さん為、行われるべき儀なり、然れば百千の事を行われると雖も、彼の雅意に叶わざれば、其の詮無かるべし、よって重ねて前幕下に仰せ合わせ、計らひ申さしむる趣に任せ、何事と雖も定め行われるべきなり、議定及ぶべからず、もし猶京官任ずべくば、靱負尉如何、(略)
余云う、秀衡宰吏に任じ、助職は郡司に補す、
(注釈)
靱負尉(ゆぎへのじょう)・・・・御所を警護する衛門府の役人、三等官相当。
京官(きょうかん)・・・京都に在住・勤務する官吏。
宰吏(さいり)=国司

8月8日 天晴 
「能登国反く」
伝聞、能登の国、法に反くの如したり。国司の郎従、頸を斧られたり。

8月12日 天晴 
「足利の俊綱頼朝に背く」
伝聞、足利の俊綱頼朝に背くの聞こえ有り。また秀平官軍に与力の心有りと。茲(ここ)に因って、京中の武士、昨今の間、聊(いささ)か雄を称すの気有ると。頼朝、秀平の聟たるの條謬説と。また聞く。頼朝甲斐の保田三郎義貞を伐ちたり。異心の聞こえ有るが故と。

8月13日 「吾妻鏡」
 藤原秀衡、武衛を追討せしむべきなり。平資永、木曽義仲を追討すべきの由宣下す。これ平氏の申し行うに依ってなり。

8月15日 朝雨、午後晴れ、
「除目有り、陸奥の守藤原秀衡、越後の守平助職」
去る夜、除目有り。隆職これを注進す。
    陸奥の守藤原秀衡
    越前の守平親房
    越後の守平助職
この事、先日議定有る事なり。天下の恥、何事かこれに如かずや。悲しむべし悲しむべし。大略、大将等、計略を尽きるか。この中、親房の事心得ず。通盛国司として下向す。忽ち他人を任ぜらる。如何々々。尋ねるべし、
8月15日 [吉記]
 朝間、前の大将より示し送らるる事有り。秀衡・助職等の事なり。相次いで院宣到来す。子細同前。
   太政官謹奏、
    陸奥国   守従五位下藤原朝臣秀衡
    越前国      守従五位下平朝臣親房
    越後国   守従五位下平朝臣助職
       養和元年八月十五日
親房は、基親息、前の近江の守なり。秀衡・助職の事人以て嗟歎(さたん、なげく)す。今朝、北陸道追討使但馬の守(平)経正朝臣進発す。郎従五百騎ばかりを率すと。
8月15日 「吾妻鏡」
 鶴岡若宮遷宮。武衛参り給うと。今日平氏但馬の守経正朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、北陸道に進発すと。

8月16日 [吉記]
「通盛北陸道追討使」
今朝中宮の亮(すけ、次官)(平)通盛朝臣北陸道の追討使として進発す。駒牽(けん、ひく)無し。信乃の国逆徒の為掠領せらるが故なり。
8月16日 「吾妻鏡」
 中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、また北陸道に赴く。伊勢の守清綱・上総の介忠清・館の太郎貞保、東国に発向す。武衛を襲わんが為なり。

8月20日天気はれ、
「法皇双六」
参院、御前に召されるを欲すと雖も、御双六始めの間、暫し伺候の由仰せ有りに依り、数刻伺候、猶御双六終わらず、よつて定能卿の相計りに依り退出したり。

8月23日 天晴 [吉記]
「伊豫の国通清誅伐」
伝聞、伊豫(愛媛県)の国の在廰川名大夫(越智・河野)通清誅伐せらると。

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