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2005年10月31日 (月)

1183年 (壽永二年)8月「愚管抄」

1183年 (壽永二年 癸卯)

8月「愚管抄」

かくてひしめきてありける程に、「いかさまにも国王(安徳天皇)は神璽(しんじ)・宝剣(は
うけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらん」と云(いふ)沙汰にてありけり。父法皇(後白河)をはしませば、西国王(にしのこくわう、安徳天皇)安否之後(のち)歟(か)」などやう/\に沙汰ありけり。この間(あひだ)の事は左右(さいう)大臣(経宗と兼実)、松殿入道(まつどのにふだう、基房)など云人に仰合(おほせあはせ)けれど、右大臣(九条兼実)の申さるゝむねことにつまびらか(詳しい)也とて、それをぞ用ひられける。さていかにも/\践祚(せんそ)はあるべしとて、高倉院(高倉上皇)の王子三人をはします。一人(高倉院)は六はらの二位(にゐ)養いて船に具しまいらせてありけり(安徳天皇)。いま二人は京にをはします。その御中(おんなか)に三宮(さんのみや)・四宮(しのみや、後鳥羽院)なるを法皇よびまいらせて見まいらせられけるに、四宮御をもぎらいもなくよびをはしましけり。又御うらにもよくをはしましければ、四宮を寿永二年八月廿日御受禅(ごじゆぜん)をこなはれにけり。よろづ新儀どもなれど、仰合(おほせあはせ)つゝ、右大臣(兼実)ことに申(まうし)をこなひて、国王こゝに出きさせをはしまして、世(よ)はさればいかに落居(おちゐ)なんずるぞと、日本国(にほんこく)のなれる様(やう)今はかうにこそとて、摂禄臣(せつろくのしん、近衛殿基通)こそ如此は沙汰することを、山(比叡山)よりくだらせ給ふまゝに、近衛殿(このゑどの)摂禄もとのごとしと被仰にけり。一定(いちぢやう)平氏にぐして落(おつ)べき人のとまりたればにや。又いかなるやうかありけん。されど近衛殿はかやうの事申(まうし)沙汰すべき人にもあらず。すこしもをぼつかなき事は右大臣に問(とひ)つゝこそをはしければ、たゞ名(な)ばかりの事にて、庄園文書、まゝ母の我よりも弟なりしが手よりゑたる由にて、清盛(きよもり)にかくしなされたる人にてあるが、猶かくてあら(は)るゝ。いかにも/\人は心ゑぬことにてありしをば皆心ゑられたり。かう程にみだれん世は何事もいはれたる事はあるまじき時節(じせつ)なるべし。大方(おほかた)摂禄臣はじまりて後(のち)これ程に不中用(ふちゆうよう)なる器量(きりやう)の人はいまだなし。かくてこの世はうせぬる也。贈(ぞう)左大臣範季(のりすゑ)の申しけるは、「すでに源氏は近江国にみちて六はらさはぎ候之時、院(ゐん)は今熊野(いまくまの)にこもらせ給て候(さふらひ)しに、近習(きんじふ)にめしつけられて候しかば、ひまの候しに、「いかにも/\今は叶(かなひ)候まじ。東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさはりて候へば、此平家(へいけ)かなひ候はじ。ちがはせをはします御沙汰や候べからん」と申て候しかば、笑(え)ませをはしまして、「いまその期(ご)にこそは」と仰の候し」と語りけり。もとより(の)御案なりけり。この範季は後鳥羽院(ごとばゐん)を養いたてまいらせて、践祚の時もひとへに沙汰しまいらせし人也。さて加階(かかい)は二位までしたりしかども、当今(たうぎん、順徳天皇)の母后(ぼごう)の父なり。さて贈位(ぞうゐ)もたまはれり。範季がめい刑部卿(ぎやうぶきやう)の三位(さんみ)と云しは能円(のうゑん)法師が妻也。能円は土御門院(つちみかどゐん)の母后承明門院(しようめいもんゐん)の父なり。この僧の妻にて刑部卿三位はありし、その腹(はら)也。その上御めのとにて候(さふらひ)しかども、能円は六はらの二位が子にしたる者にて、御めのとにもなしたりき。落(おち)し時あいぐして平氏の方(かた)にありしかば、其後(そののち)は刑部卿の三位もひとへに範季をぢにかゝりてありしなり。それを通親
(みちちか)内大臣又思(おもひ)て、子をいくらともなくむませて有(あり)き。故卿(きやう)の二位は刑部卿三位が弟にて、ひしと君(後鳥羽院)につきまいらせて、かゝる果報(くわはう)の人になりたるなり。
(注釈)
ひしめきてありける程に・・・押しあってごたごたしている内に。
国王・・・安徳天皇。
神璽・宝剣・内侍所・・・勾玉と剣と神鏡。いわゆる三種の神器。
六はらの二位・・・清盛の妻。二位の尼時子。
三宮・・・惟明親王。
四宮・・・尊成親王。後の後鳥羽天皇。
をもぎらいもなく・・・顔みしりもなく。
受禅(じゆぜん)・・・前帝の譲位を受けて即位すること。
すこしもをぼつかなき事・・・少しもはっきりしないこと。
沙汰(さた)・・・処置する。
よろづ新儀どもなれど
不中用(ふちゆうよう)・・・役に立たないこと。
器量(きりやう)・・・才能。
夫(〈ふ〉)までも・・・人夫までも。
ちがはせをはします・・・ゆきちがいなさる。
加階(かかい)・・・位階を加えること。
範季をぢにかゝりて・・・叔父の範季をたよって。
故卿(きやう)の二位・・・兼子。
果報(くわはう)の人・・・幸運の人。

ミニ解説
ここの複雑そうな人間関係は「愚管抄全註解」が詳しい。
義仲軍の乱暴狼藉の記述が無い。ひしめきてありける程にのみである。

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2005年10月30日 (日)

1183年 (壽永二年)8月後半

1183年 (壽永二年 癸卯)

8月16日
「受領除目・解官行わる」
(左少弁藤原)長光入道来たり、古事等を談ず。今夕受領の除目有り。院の殿上に於いてこれを行う。上卿民部卿(藤原成範)、参議右大弁(平)親宗これを書く(清書の儀無しと)。外記を召しこれを下す。又解官等有りと。任人の体、殆ど物狂い(乱心)と謂うべし。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
受領(じゅりょう)・・・ずりょう、諸国の長官。守(かみ)、権守(ごんのかみ)、介(すけ)など。
除目(じもく)・・・(任官の人名を記した目録の意)任官の儀式。
解官(げかん)・・・官職を免ずること。免官。

8月17日
申の刻(16時)、頭弁(藤原)兼光札(ふだ)を送り云う、明日院に参るべし。神鏡・剣爾等、諸道の勘文の間の事、並びに雑事等、豫議せらるべきなりといえり。疾と称し参らず。今日法印(慈円)来られる。ある人云う、入道関白(基房)が院に申せられて云う、東宮傳(とうぐうふ)を経し人、摂録(せつろく、摂政)に任ぜずと。この事信受せられざる処、両人の説を以てこれを聞く。奇(あや)しむべし、奇しむべし。
(注釈)
東宮傳(とうぐうふ)・・・東宮(皇太子の宮殿)の輔導をつかさどった官。

8月18日 終日雨降り、
「院にて議定あり」
今日議定の趣、追ってこれを尋ね記すべし。定めて異議無きか。近代の作法のみ。
「立王の事」
静賢法印が人を以て伝え云う、立王の事、義仲猶欝(うつ)し申すと。この事、先ず始め高倉院の両宮を以て占われるの処、官・寮共に兄宮を以て吉と為すの由これを占い申す。
「法皇女房丹波の夢想により高倉院の四宮を立てられんとす」
その後、女房丹波(御愛物遊君、今は六条殿と号す)の夢想に云う、弟宮(尊成親王、四宮、信隆卿の外孫なり)、行幸有り。松の枝を持ち給わるの由見る。法皇に奏す。依って卜(ぼく、うらない)筮(ぜい)に乖(そむ)き、四宮を立て奉るべき様思し食す(思し召す)と。然る間、義仲は北陸宮を推挙す。依って入道関白(藤原基房)、摂政(藤原基通)、左大臣(藤原経宗)、余と四人、召しに応じ、三人参入し、余疾に依り参らず。かの三人各申されて云はく、北陸宮一切然るべからず、但し、武士の申す所、恐れざるべからず。よって御占い行われ、かの趣に従われるべし。
「再度占いを行われる」
松殿(藤原基房)は一向に占いに及ばず。御子細を義仲に仰せられるべしと。余はただ勅定を奉る由申したり。依って折中し御占い行わるるところ、今度は第一は四宮(夢想の事に依る也)、第二は三宮(後高倉)、第三は北陸宮。官・寮とも第一が最吉の由を申す。第二は半吉、第三は終始快からず。占形を以て義仲に遣わすの処、申し云う、先ず北陸宮以て第一に立てられるべきのところ、第三に立てられる。謂われ無し。凡そ今度の大功、かの北陸宮の御力なり。争でか黙止せんや。猶郎従等に申し合せ、左右を申すべきの由申すと。凡そ勿論の事か。左右する能わず。凡そ初度の占い、この度の占いと、一二の条を替え立てられる。甚だ秘事有るか。占いは再三せず。しかるにこの立王の沙汰の間、数度お占い有り。神定めて、霊告無きか。小人のまつりごと、万事一決せず。悲しむべしの世なり。
「摂政基通法皇に鐘愛せられる事の子細」
又聞く、摂政(藤原基通)は法皇に鐘愛(しょうあい)せられる事、昨今の事ならず。御逃去以前、先づ56日密に参り、女房冷泉局を以て媒と為すと。去る7月御八講の比より、御艶気(つやけ)有り。7月20日比、御本意を遂げられ、去る14日参入の次、又艶言御戯れ等有りと。事の態、御志浅からずと。君臣合体の儀、これを以て至極と為すべきか。古来、かくの如き蹤跡(しょうせき、あと)無し。末代の事、皆以て珍事なり。勝事(しょうじ)なり。密告の思いを報ぜらる。其の実ただ、愛念より起こると。
「良通夢想」
今且、大将札(ふだ)を送りて云う、去る夜の夢想、春日大明神告げ仰せ云う、不審に申す事(余の運の事、日来の間、中心これを疑ひ、その告げを乞うと)、更に疑い有るべからず。即ち夢中にこれを思い、信状極まり無しと。幼少の心底この事を思う。尤も憐れむべし、憐れむべし。此の夢又信ずべし、信ずべし。
(注釈)
札(ふだ)・・・必要事項を書き記す紙片、木片など。
欝(うつ)・・・気のふさぐこと。
鐘愛(しょうあい)・・・非常にかわいがること。
艶気(つやけ)・・・色気のあるさま。
勝事(しょうじ)・・・奇怪な事件。

8月19日 陰晴れ不定、
「昨日議定の子細を兼光朝臣に問う」
朝早く、昨日定めの子細を兼光朝臣の許に問う。注送の旨かくの如し。
参入の公卿8人、
左大臣(経宗)、実房、忠親、成範、雅頼、長方、通親、親宗、
「神鏡の事」
神鏡の事
 左大臣、皇后宮大夫(実房)、前源(雅頼)中納言、
    (略)
 堀河大納言(忠親)、八条中納言(長方)、源宰相中将(通親)、
    (略)
 民部卿(成範)、親宗朝臣、
    (略)
「剣爾の事」
 源(雅頼)中納言、
 源宰相中将
「固関の事」
「宣命の事」
「時簡の事」
「御譲位日時の定めの事」
「先主尊号の事」
「践祚の夜内侍の事」
「御即位の事」
「二代同輿の事」
「新帝内裏に渡御の御装束の事」
「大刀契行列の事」
「頭弁兼光院宣を以て新主御名字の可否を問う」
「兼実請文」

8月20日 天気晴れ、
「後鳥羽天皇践祚せらる」
此の日立皇の事有り(高倉院第四の宮、御年4歳、母故正三位修理太夫信隆卿女)。兼日、頗りに其の沙汰有り。先ず高倉院の両宮(三四宮)以て、占いにより(三宮第一に立つ)の処、官・寮共に一吉の由を申す。その後、女房夢想の事有り(子細は先日の日記を見る。四宮立ち給ふべきの由なり)。又義仲加賀国にまします宮を引級す(子細は先日記を見る)。此の如き間、更に又御占い有り(今度四宮を一と立て、加賀の宮を第三に立つと)。又一吉の由を占い申す。第二半吉、第三快からずと。占いの形を以て義仲に遣わすの処、おおいにふん怨申し云う、先ず次第の立て様、甚だ以て不当なり。御年の次第に依れば、加賀宮を以て第一に立つべきなり。しからずば、又始めの如く、兄宮を先とせられるべし。事の態、矯飾(きょうしょく、いつわり)に似たり。故三条の宮の至孝を思し食さざるの条、大いに以て遺恨と。しかれども一昨日重ねて御使いを遣わし(僧正俊尭、木曽の定使なり)、数遍往還し、ついに御定めに有るべき由を申す。依ってその後一決すと。
(以下略)
「良通参院」
「伝国宣命を相聞す」
「人々閑院に参る」
「若宮御着袴の後閑院に都御せらる」
「主上出御」
「左大臣経宗作進の践祚次第」
「践祚の間の不審条々を兼光に問う。」
「兼光返事」
「蔵人頭」
「五位蔵人」
「六位蔵人」
「殿上人」

8月21日 
「兼実寸白発す」
今夜より重病を受く。万死一生、寸白(すばく、すんぱく、サナダムシ)の所為なり。今日大原の本成房来たり。数刻法文を談ず。
(注釈)

8月22日 時々雨下る
「藤原季行忌日」
所悩同前。女房忌日に依り密々東山の小堂に向かう。母の尼公相具し、布施取少々これを催し送る。

8月23日
所悩同前。晩に及び汗少し出て、辛苦少し減ず。

8月24日

8月25日 
「除目」
この日、除目と。
「兼実の知行国安芸に替えられる」
伯耆(鳥取県の西部)の守基輔、推して安芸(広島県西部、芸州)の守に任ぜらる。勿論々々。兼光院宣を以て先ず触れ仰せられ、左右(決定)御定めにあるべしと申す。但し芸州に於いては、望みにあらざる由申したり。然れども猶推して以てこれに替えられる。過怠(過失)尤も不審々々。叉ある人告げて云う、入道関白の息八歳、中納言師家(生年十二歳)直に左大将に加ふべしと。依って内々訴訟の由を院に申したり。今度この事無し。もし訴状を容れらるるか。将に叉本よりその沙汰の事無きか。追って聞く、此の事沙汰ありと雖も、忽然として止めたりと。

8月26日
「除目聞書を見る」
聞書を見る。権大納言師家、権中納言兼房、此の外の事記さず。
「良経従四位上に加階せらる」
また良経(兼実の次男、従四位)従上に叙す。太だ冷然々々。定能卿来たり、世間の事を談ず。

8月27日
「大臣を良通に譲るべく仮名書状を八条院に献ず」
今日、仮名書きを八条院に献(たてまつ)る。大臣を以て大将(良通)に譲るべき由院に申さしめ給うべき趣なり。今日、仏厳聖人来たり、法文の事を談ず。

8月28日 天晴れ
「公卿勅使発遣の事につき法皇より諮問せらる」
申の刻(16時)、院の別当式部権少輔範季御使いとなり来る。院より公卿の勅使を発遣せらるる間、条々御不審の事、計らい奏すべしと。
(中略)
「法体の上皇伊勢公卿勅使を立てられる例なし」
「公家より立てられるべきか」
「滝口名簿を催さる」
「頭中将隆房痴者なり」
「武士十余人の頸を切る」
伝聞、今日七条河原に於いて、武士十余人の頸(首)を切ると。

8月29日 天晴れ。午後雨下る。
大外記頼業来たり。世上の事を談ず。嘆息の外他事無し。実に悲しむべき世なり。

8月30日 天晴れ
晩に及び大夫吏隆職来たり、世間の事を談ず。今夜家の所苑なり。常の如し。
「法皇公卿勅使御精進屋に入らる」
今夜より法皇公卿勅使を御精進屋(しょうじんや)に入らしめ給う。明後日発遣、明日前斎たるの故なり。
(注釈)
精進屋(しょうじんや)・・・宮座の祭祀で、頭屋(とうや)が精進潔斎(けっさい)のためこもる所。

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2005年10月29日 (土)

1183年 (壽永二年)8月前半

1183年 (壽永二年 癸卯)

8月1日 天気晴れ。
今日は八条院(法皇の妹、鳥羽天皇皇女)を以てに内々申し入るる事有り。御報(返事)分明(あきらかになったこと)。

8月2日 天気晴れ。
伝聞、摂政(基通)2ケ条の由緒有り、動揺すべからずと。一は、去る月20日比、前内府(宗盛)及び重衡等密議に云う、法皇を具し奉り、西海に赴くべし。もし又、法皇宮に参住すべしと。此の如し評定を聞き、女房を以て(故藤原邦綱卿愛物、白川殿の女房(平盛子)冷泉院局)、法皇に密告し、此の功に報いらるべしと。
「法皇摂政基通を艶す」
一は、法皇摂政を艶し、其の愛念により抽賞すべしと。秘事、希異の珍事たりといえども、子孫に知らしめんため記し置く所なり。
「藤原基房師家の摂政就任を泣いて所望す」
また聞く、入道関白(藤原基房)、病ひを帯ながら(瘧病、マラリア)、院の御所の北対に参宿し、前中納言(藤原)師家(生年12歳)を以て、摂録(せつろく、摂政の異称)たるべき由所望を注す。天気(天皇の機嫌)これを許さずと。
「源雅頼と世上の事を談ず」
今日前源(雅頼)中納言来たり、世上の事を談ず。この次語り云う、去る6月1日、主上(安徳)南殿南階より溜下(たまりした)に落ちしめ給ふ。以っての外の怪異なり。蔵人平親資抱き奉り、陣(衛士)辺に上げる。上官一両(1と2)之を見る。深く以て、秘蔵すと。
(注釈)
抽賞・・・多くの者から引き抜いて賞する。

8月3日 天気陰。
伝聞、(蔵人藤原長正の説)、去る比内裏(御所)の板敷きの上に牛が昇り横たわる。数刻に及ぶ。長正之を見て追い下したりと。又昼の御座の上に狐が糞をまり置くと。
「解官の事如何様に行われるべきか」
今日午の刻(12時)頭弁兼光、お使いとなり来たり云う、解官の事、法皇の勅(天子の命令)か、又は内々仰せらるべきか、大外記両人に問うの処、
「両大外記申状」
頼業申し云う、只宣(せん)奉勅(ほうちょく)に載すべし。法皇の字有るべからず。師尚申し云う、ただ内々外記に仰せられ、追って宣旨成さるべしと。申し云う、師尚の申し状穏便か。猶、宣旨有るべくば、法皇の勅に載せるべきなり。只、勅を奉るの条甘心(満足)せず。この次に、京中畿外の狼藉止められるべき子細を申し、条々の理を立て申さしめたり。是和説なり。更に用いらるべき由存ぜず、ただ忠を存ずる為なり。
(注釈)
解官(げかん)・・・官職を免ずること。免官。
宣(せん)・・・みことのり。
奉勅(ほうちょく)・・・天皇のことば(みことのり)を承ること。
畿内(きない)・・・大和・山城・河内・和泉・摂津の五畿。
畿外(きがい)・・・五畿以外。

8月4日
今日大原野社(大原野南春日町)に内々、幣はくを奉る。又今日より7ケ日を限り仁王講(仁王経の会)を修す。今日神斎祓(ふつ、はらう)を修す。
(注釈)
仁王経(にんのうぎょう)・・・護国安穏を祈る。
修祓(しゅうふつ)・・・みそぎを行うこと。

8月5日 天気晴れ、
弥勒講(みろくこう)に依り御堂に参る。
「玄上出来す」
経家朝臣云う、玄上(びわの名器の名)出で来たり。検非違使の平知康の許の女これを持ち来ると。
(注釈)
弥勒講(みろくこう)・・・弥勒菩薩に祈る。

8月6日
「京中の物取り追捕逐日倍増」、
 京中の物取り追捕、逐日に倍増し、天下すでに滅亡したり。山掘(さんくつ)厳穴(がんけつ)、閑(静かな)かなるべきの所無し。三界(さんがい)無安の金言(きんげん)、誠なるかなこの言。
「立王の事につき法皇より諮らる」
この日院に参り、定能卿を以て申し入る。頭弁兼光を以て、仰せ下せられて云う、立王の事、思しめす煩ふ所なり。先ず、主上の還御を待ち奉るべきや。まさに又且つ剣爾(宝剣と神爾)無しと雖も、新主を立て奉るべきやの由、御占い行われしの処、官・寮共に主上(天皇)を待ち奉らるべき由を申す。しかも猶、この事思しめすの所に依り、重ねて官・寮に問はる。各数人(官2人、寮8人)の申し状、彼是同じからず。但し吉凶半分なり。此の上の事、何様沙汰有るべきや、計ひ申すべしといえり。申し云う、先ず次第の沙汰、頗る以て違に依りか。先ず議定有り。人の意一決せず。ひとえに占ぼくに訪ねるべき由、議奏の時、御占い有るべし。しかるに遮って以て御占い行わる。今又、かの趣に背かれるの条、太だ以てその謂われ無し。占いは再三せずと。しかるに度々に及ぶの条、また以てしかるべからず。しかして今に於いては、ひとえに占い用いられるべし。先ず重ねて良将吉神等の趣に随ひ、斟酌(しんしゃく)有るべきか。但し、愚案の及ぶ所、立王今に懈怠(けたい、なまけ)、愚心傾き思ふ所なり。その故は、先ず、京華の狼藉、今に止まず。是、人主(君主)御座せざるがしからしむなり(是一つ)、次に須べからく急ぎ征討せられるべき処、平氏等主上(天皇)及び三神(三種の神器)を具し奉り、すでに西海に赴く。主を立てず、征伐有り。議に於いて妨げ有り(是二つ)。
「継躰天皇剣爾なく践祚の例あり」
次に我が朝(朝廷)の習い、剣爾を得ざる践祚、かって例無し。しかるに継躰(けいたい)天皇臣下たり。迎えられし時、国史の文の如き、これを践祚(即位)と書く。甲申(こうしん)、天皇が樟葉宮に移る。辛卯(しんう)、爾符(じふ)鏡剣を得て即位すと。往古、譲位・即位の分別無しと雖も、今の文の如くば、即位以前すでに天皇と称し、又践祚と謂う。即ち、皇居を移され、その後剣爾を得て即位すと。しかれば即ち、準拠尤も合うべき由存する所なり(是三つ)。
「天子の位一日も空しくすべからず」
凡そ天子の位、一日も空しくすべからず。政務悉く乱れると。今に遅々の条、万事違乱の源なり。早速沙汰有るべし。異議有るべからずといえり。左大臣同じく参候すと。一所に非ず。兼光参上し、小時(しばらく)ありて帰り来たりて云う、申す所しかるべし。就中、征伐の為、人主立て奉るべき条、事の肝心なり。よって早く立王の事有るべしといえり。愚案の、次第の沙汰、悉く以て違乱散々。凡そ左右する能わず、左右する能わず。未曾有の事なり。天下の滅亡、ただ此の時なり。悲しむべし、悲しむべし。
(注釈)
山掘(さんくつ)・・・山中のいわや。
厳穴(がんけつ)・・・岩のほらあな。
三界(さんがい)・・・衆生が活動する全世界。
金言(きんげん、こんげん)・・・古人の残した模範となる言葉。
斟酌(しんしゃく)・・・あれこれ照らし合わせて取捨すること。
爾符(じふ)・・・天子の御璽(印)。

8月7日
「春日社の奉幣細剣を献ず」
今日春日社の奉幣(ほうへい)、又同社に細い剣を一腰を献ず(紫檀(したん)地銀、二筋樋剣なり)。祓(はらう)ひを修し遙拝す。又自から心経千巻を読み、御社に法楽(ほうらく)す。又今日鏡箱二つを大神宮(内外社の料)に進らす。来たる11日参着すべきなり。
(注釈)
奉幣(ほうへい)・・・神に幣帛(へいはく)をささげること。
幣帛(へいはく)・・・神に奉納する物の総称。
法楽(ほうらく)・・・神仏の手向けにするわざ。

8月8日
今日より祈り始む。

8月9日
今日、百度の祓ひ(ひゃくどのはらい)を修す、
「先日二百余人解官せらる」
伝聞、去る6日解官(げかん)、200余人有りと。
「平時忠その中に入らず」
時忠郷その中に入らず。是還御有るべき由申さるるの故なりと。朝務のおう弱、是を以て察すべし。憐れむべし憐れむべし。
(注釈)
百度の祓ひ(ひゃくどのはらい)・・・神前で中臣(なかとみ)の祓詞(はらえことば)を百度読むこと。
のおう弱(おうじゃく)・・・かよわいこと。

8月10日 天気晴れ、
「院評定に参る」
昨日の召しに依り、申の刻(16時)直衣(のうし)を着け院に参る。是より先、左大臣(藤原経宗)・内大臣(実定)は西対代南庇(ひ、ひさし)の座に在り。余同じく其の座に加わる。昨日催しの時、所労に依り参入不定の由申す。よって余の参入以前に、大略議定したりと。両府(左内)其の趣の粗く語る。各云う、兼光評定の趣を奏聞のため御所に参りたり。未だ帰り来たらずの間なりと。この間三人、語を交わす。兼光猶来たらず。よって左大臣(経宗)蔵人を召して、余参入の由兼光に触れる。暫しありて、兼光来たり、左府に仰せて曰く、条々聞し食したり。
「親王宣旨のあるべきかの事」
但し、親王宣旨の事、重ねて計らひ申すべしといえり。左大臣余に目くはせらる。余曰く、親王宣旨下さるべき間の儀か。将にかの宣旨有るべきや否やの議か。兼光曰く、両条共に定め申しむべしといえり。余云う、光仁天皇の例に任せ、親王宣旨無しと雖も、何事かこれ有らんや。且つ宣下の間、便宣無き上、宝亀の例最吉たりといえり。左内両府(左大臣・内大臣)之に同ず。この事、余参入以前に両府、親王の宣旨有るべき由を申されると。しかるに今ここに其の儀変じ、余の議に同じくされる也。此の後兼光条々の事を余に問う。両府以前に申したる事等なり。
「皇居の事」
1.皇居の事
申し云う、大内(おおうち、皇居)いかん。閑院(かんいん、藤原冬嗣の邸宅)又宜しきか。両府云う、閑院宜しかるべき由申す。且つ吉所たる故也と。余云う、善し。但し内心思う所、強く吉を謂うべからざるか。
1.大刀契(たいとけい)・鈴印等大内に在り。閑院に渡し奉るの間、縁事の諸司供奉(ぐぶ)すべきかの事、申し云う、供奉すべし。
「漏刻の事」
1.漏刻(ろうこく、水時計)、陰陽寮(おんようりょう)供奉すべきかの事、申し状前に同じ。
「御倚子の事」
1.御倚子、多く蘭林坊にあり、是大嘗会(だいじょうえ、大嘗祭)の時の御物なり。大略螺鈿(らでん)なり。彼を用いられるべきか。将に新造せらるべきかの事、申し云う、累代(るいだい、代々)の物、出で来たるの間、旧物を借用されるべし。専ら新造に及ぶべからず。
「時簡の事」
1.時の簡の事
申し云う、新造に異議無し。抑(そもそも)日時を勘へらるる間、議有るべきか。寛和2年の例、(一条院受禅)、新主の宮に於いて御椅子の時の簡を渡さるべき日時を勘へらる。かの例に准ずれば、新造の日時又同じかるべきか(この事、兼ねて人々申されざるか。余申さしむる時、人々しかるべき気色有り。兼光又甘心す)。
「伝国爾宣命宣下せらる場所の事」
1.伝国爾(こくじ)の宣命、何所に於いて宣下せらるべきやの事、
申し云う、院の殿上か。仗座か。時議に在るべし。左大臣曰く、院の殿上異議無し。内府曰く、当日の事たり。猶仗座に於いて宣下せられるべきか。余この事思ひ得ず。よって左右を示さず。退いてこれを案ずるに、内府の議しかるべし。
1.蔵人・滝口所の衆等、例に任せ渡されるべきかの事。申し云う、しかるべし。
「御装束を渡さるべきかの事」
1.御装束を渡さるべきかの事、申し云う、多く是渡さるる所なり。但し、今度しかるべからず。内府曰く、御笏(こつ、しゃく)許り渡さるべし。余云う、しかるべし。
「剣爾の事」
1.剣爾の事、諸道の勘文を召さるべきや否やの事、
申し云う、しかるべし。但し、当時の議の如くは、立王、剣爾・賢所等を待たるべき議なり。然れば、逐に紛失の時、かくの如きの沙汰に及ぶべきか。両条勅定に在るべし。両府云う、猶諸道の勘文を召さるべし。余言わず。
1.勘文の事、内々御教書を以て下知すべきか。将に上卿に仰せすべきか(この事始め所の仰せなり)。左大臣云う、御教書宜しかるべし。他人言わず。余追ってこれを案ずるに、猶上卿に仰すべきか。
「若宮の渡御の議の事」
1.若宮の渡御りの議の事(この事始めて問う所なり)、内府云う、法皇高松殿に渡御の例、外に求めるべからず。余及び左府云う、善し。
「除目の事」
この後左大臣退出す、兼光云う、除目の事、猶院の殿上に於いて、仗座を移し、行はるべき由、左大臣が次第を作り、内々兼光に給ふ。奏聞を経る処、其の定め行はるべき由御定め有り。余云う、異議無し。内府云う、猶殿上に於いて、朝覲(まみえる)の行幸の賞の如く行はるべきなり。余云う、行幸の賞は、此の議に似るべからず、只殿上の定めの如
く行はるべき也。内府之に同ず(頗る意趣無きに似たり)。内府又云う、猶左府の議を申し破るべき也。両人一同の由、早く奏すべし。仗座を移すの儀、専ら見苦しかるべき故なり。余云う、この事しかるべからず。愚意の及ぶ所、奏聞を経て、用捨に於いては勅定にあるべし。余に於いては全く執し申すべからず。もし未だ天聴に達せずば、尤も奏聞すべし。兼光云う、具さに奏聞したり。余云う、いよいよ以って沙汰に及ぶべからずと。内府又諾す。その後、暫し以て言談す。余先づ退出したり。
「源氏等の悪行止まらず」
今日、参院前、大外記頼業来たり、世上の事を談す。上のご沙汰違乱の上、源氏等の悪行止まらず。天下忽ち滅亡を欲す。悲しむべし悲しむべし。紅涙(こうるい)を拭い、丹心(たんしん)を摧(くだ)く。賢なるかな賢なるかな。
「除目延引され勧賞行わる」
小時(しばらく)ありて退出したり。今日除目俄に延引す。只勧賞許り行われると。経房が之を書く。実房が外記に下す(但し、除目の儀に非ずと)。
(注釈)
大嘗会(だいじょうえ、大嘗祭)・・・天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。
勘文(かもん)・・・ 朝廷の要請で、陰陽道の学者などが、諸事の先例を調べ、日時・方位などの吉凶を占って上申する文書。
陰陽寮(おんようりょう)・・・天文、気象、暦、時刻、占いなどを司る役所。
螺鈿(らでん)・・・貝の真珠光を放つ部分をはめ込み装飾するもの。
滝口所(たきぐちどころ)・・・滝口の陣、清涼殿の北、警衛の武士の勤番する所。
紅涙(こうるい)・・・血の涙。
丹心(たんしん)・・・まごころ。

8月11日 雨下る、
先日進らす所の大神宮の剣箱等、今日参着の日也、よって神斎、祓を修し遙拝す(衣冠)。
「昨日の勧賞の聞書を見る」
去る夜の聞書を見る。義仲、(従五位下、左馬頭、越後守)、行家、(従五位下、備後守と)。

8月12日 雨降る、
「行家勧賞の懸隔に忿怨す」
伝聞、行家厚賞に非ずと称し忿怨(ふんおん)、且つ是義仲へ与える賞と懸隔の故なり。門を閉じ辞退すと。
「平時忠の返礼が到来す」
一昨日夜、時忠卿の許に遣わさるる御教書、返礼が到来す。其の条に云う、京中落居の後、剣爾以下の宝物等還幸有るべき事、前内府(宗盛)に仰せ下さるべきかと。事の態頗る嘲哢(あざけりさえずる)の気あるに似たり。又貞能の請文に云う、能(よき)様に計ひ沙汰すべしと。
「平家備前の国小島にあり」
当時備前国小島に在り。船百余艘と。或る説に云う、鎮西の諸国に宰吏(国司)を補すと。
「天下の体三国史の如し」
大略、天下の体、三国史の如きか。西に平氏、東に頼朝、中国すでに剣爾無し。政道偏に暴虐とおう弱と也。甚だ、其の憑(たの)み無きに似たるか。征伐遅引、院中の諸人、心を欠国及び荘園等に懸け、君又此の欲に貧着す。上下逢(まま)境、歓喜他無し。天下の亡弊を知らず、国家の傾危(けいき)を顧みず、嬰児の如く、禽獣(きんじゅう、鳥とけだもの)の如し。悲しむべし、悲しむべし。今夜、方違えの為大将(良通)の宅に向かう。
(注釈)
禽獣(きんじゅう)・・・鳥とけだもの。

8月13日

8月14日
夜に入り、大蔵卿(高階)泰経お使いとなり来る(是より先、召し有り、疾に依りその由を申す、依って来る所なり)。余簾(すだれ)を隔ててこれに謁す。
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
泰経云う、践祚の事、高倉院の宮2人、(一人は平義範の女の腹5歳、(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の女腹4歳(守貞親王))之間、思し食し煩ふ処、以っての外の大事が出で来たり。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲今日申し云う、故三条の宮ご子息の宮北陸に在り。義兵の勲功かの宮のお力に在り。依って立王の事に於いて、異議有るべからざる由所存なりと。依って重ねて俊尭(ぎょう)僧正を以て(義仲と親昵(しんじつ)のたる故)、子細を仰せられて云はく、我が朝の習い、継躰守文(しゅぶん)を以て先と為す。高倉院の宮両人おはしまし、其の王胤(王者の子孫)を置きながら、強ちに孫王を求めらるる条、神慮測り難し。この条猶しかるべからざるかと。義仲重ねて申し云う、此の如き大事においては、源氏等執し申すに及ばずと雖も、粗事の理を案ずるに、法皇御隠居の刻、高倉院権臣(けんしん)を恐れて、成敗(せいばい)無きが如し。三条宮至孝に依り其身を亡す。争でか其の孝を思し食し忘れざらんや。猶この事其の欝を散じ難し。但し此の上の事は勅定に在りといえり。此の事いかん計らひ奏すべしといえり。申し云う、他の朝議に於いては、事の許否を顧みず、諮詢(しじゅん、相談)ある毎に愚款(かん、まこと)を述べたり。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者の沙汰に至りては、人臣(けらい)の最に非ず。昔法皇の御字の始め、近衛上皇御事の後、誰を以て主と為すべきやの由、鳥羽院此の法性寺入道相国(藤原忠通、兼実の父)に問い仰せられる。即ち奏するに我が君の御事を以てす。彼の言に従い践祚すでにおわりたり。かの時猶冥鑒(かん)を恐るるに依り、両三度是非を言わず、只勅断を請い、叡問再三に及びし時、道理を以て奏達す。朝の重臣、国の元老、猶重事の軽からざるを恐れ、るる自から専らにする能わず。況や区々の末生、不肖の愚臣、得て言上すべからず。偏に叡慮に任せ、須くお占いを行ふべき由、計り奏せしむべしと雖も、其の条猶恐れ有り。只叡念の欲する所を以て、天運の然らしむ由を存ぜしめおはしますべきかといえり。奏経退出したり。
(注釈)
守文(しゅぶん)・・・文を以て国を治めること。
王胤(おういん)・・・王者の子孫。
権臣(けんしん)・・・権力を持った家来。
成敗(せいばい)・・・政治を行うこと。
諮詢(しじゅん)・・・相談。

8月15日 天気晴れ、
晩頭(左少弁藤原)光長来る、院宣伝え云う、
「法皇成勝寺に神祠を建立し崇徳天皇の霊を蕩しめんとす」
成勝寺の内、神祠(しんし)を立てられるべき由思し食す所也。その故は、今曾(ちかごろ)以来乱逆連綿し、天下静かならず。かの寃霊(崇徳)により此の災難有る由、世の思う所なり。依ってその霊魂を蕩(とう)せしめん為、神祠を立て、影降を待つべき由、叡慮一決する所なり。その間の儀計らひ奏すべしといえり。申し云う、この事暗に計らひ申し難し。例を外記に問われ、勘(かんが)へ申すに随い、其の沙汰有るべきかといえり。光長云う、左内両府問うべしと。この事社(しゃ、やしろ)か廟(びょう)か。八幡宮及び北野宮の例等に准ずれば、廟となすべきかと。
「門司関を閉じる」
 この次語り云う、平家の余勢幾らも非ず、船百余艘、当時、備前国小島に在りと。鎮西もじの関を閉じる。よって鎮西に通ずる能わず。南海・山陽両道を領すべき由、結構すと雖も、定めて叶わざるかと。
「慈円二十五三昧念仏を修す」
夜に入り、御堂に向かう。法印(慈円)は弟子等を率い、二十五三昧念仏を修めせしむ(源信僧都この行を始むと。最上の功徳なり。この法印、年来住房に於いてこれを修す。今月この辺に座せらる。よって御堂に参らしめ修せらる。余結縁(けちえん)のため女房を率い聴聞する所なり)。聴聞の為参る所なり。天曙(夜明け)くる後帰宅す。大将(良通)同じ
く参入す。余扇を少々僧達に施さんと欲す(法印相加へ八口)。しかるに別の願いに依り、この如き事無き由、法印示される。よって翌日かれの房に送るなり。
(注釈)
寃霊(おんりょう)・・・怨みを抱いてたたりをする死霊。
神祠(しんし)・・・神のやしろ。
廟(びょう)・・・祖先の霊を祭るところ。
蕩(とう)・・・はらいのぞくこと。
結縁(けちえん)・・・仏道に入る縁を結ぶこと。

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2005年10月28日 (金)

1183年 (壽永二年)「愚管抄」7月

1183年 (壽永二年 癸卯)

7月

「愚管抄」7月

北国(ほつこく)の方(かた)には、帯刀先生(たちはきせんじやう)義方(よしかた)が子にて、木曾冠者(きそのくわざ)義仲(よしなか)と云者などおこりあひけり。

宮(みや、高倉王)の御子(みこ)など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮うちとりて、弥(いよいよ)心おごりつゝ、かやうにしてありけれど、東国に源氏(げんじ)おこりて国の大事になりにければ、小松内府(重盛)の嫡子三位中将維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨下(くだ)して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人(ひと)見物して有し程に、駿河の浮島原(うきしまばら)にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落ちて敵の方へゆきにければ、帰りのぼりにけるは逃(にげ)まどひたる姿にて京へ入りにけり。其後(そののち)平相国入道(へいしやうごくにふだふ、清盛)は同五年閏二月五日、温病(をんびやう)大事(だいじ)にて程(ほど)なく薨逝(こうせい)しぬ。その後に(後白河)法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣(つぎ)て沙汰しける。高倉院は先立(さきだち)て正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて(塞がって)、このいくさに勝たん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成(なり)にけり。次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、

寿永二年七月までは三年が程(ほど)すぎけるに、先づ北陸道の源氏すゝみて近江国に満ちみちけり。これよりさき越前の方へ家(いへ)の子(こ)どもやりたりけれど、散(さん)々に追(おひ)かへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事火急になりて、六はらへ(安徳天皇が)行幸なして、一家の者どもあつまりて、山科(やましな)がために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あしざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはすて候(さふらひ)ぬる由(よし)、故入道殿(こにふだどの、清盛)に申(まうし)てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候ひき。今は如此事には不可供奉」と云(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。かやうにして今日明日(けふあす)義仲・東国の武田(たけだ)など云う者もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるとて、をのゝきあいける程に、廿四日の夜半(よは)に法王(ほふわう)ひそかに法住寺殿(ほふじゆうじどの)をいでさせ給ひて、鞍馬(くらま)の方(かた)よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、近江(あふみ)の源氏がりこの由仰(おほせ)つかはしけり。たゞ
北面下臈(ほくめんげらふ)にともやす、鼓(つづみ)の兵衛と云(いふ)男(をとこ)御輿(みこし)かきなんどしてぞ候ひける。暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰・巳・午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。

六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京師(けいし)中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。

その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽に追いつきて、「いかに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせ帰りてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落けれど、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ院の覚えして盛りに候ひければ、御気色(みけしき)をうかゞはんと思ひけり。この二人鳥羽より打(うち)かへり法住寺殿に入り居ければ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事の由(よし)を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院(はちでうゐんの)辺(へん)に候へ」と御返事承(うけたまは)りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻は姑(しうとめ)なれば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申しいるゝ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落て相具(あいぐ)してけり。さて廿五日東塔(とうたふ)円融房(ゑんゆうばう)へ御幸なりてありければ、座主(ざす)明雲(めいうん)はひとへに平氏の護持僧(ごぢそう)にて、とまりたるをこそ悪(わろ)しと云ければ、山(やま)へはのぼりながらゑまいらざりけり。さて京の人さながら摂禄(せつろく、摂政)の近衛殿(このゑどの、基通)は一定(いちぢやう)具して落ちぬらんと人は思ひたりけるも、たがいてとゞまりて山へ参りにけり。松殿入道(まつどのにふだう、基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりけり。

その刹那(せつな)京中はたがいに追捕(ついぶく)をして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残りなく平氏は落ちぬ。をそれ候まじ」とて、

廿六日のつとめて(早朝)御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条(ろくでう)堀川なる八条院のはゝき尼が家(いへ)を給(たまは)りて居(ゐ)にけり。

(以下8月)

かくてひしめきてありける程に、「いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣(はうけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらん」と云(いふ)さたにてありけり。父法皇をはしませば、西国王(にしのこくわう)・・・

(注釈)
北国(ほつこく)・・・北陸道の国々。
帯刀先生(たちはきせんじやう)・・・東宮武官の長。
義方(よしかた)・・・義賢。
宮(みや、高倉王)・・・以仁(もちひと)の宮。以仁王。
宮の御子・・・高倉王(以仁王)の子。北陸宮。木曽宮。還俗宮。
心おごりつつ・・・得意になって。
維盛(これもり)・・・平重盛の長男。
合戦にだに及ばで・・・合戦にも及ばないで。
温病大事・・・熱病が重態で。
ふたがりて・・・ふさがって
聞こえ・・・評判。
家の子・・・分家の一族。
となみ山・・・越中国砺波郡
六はらへ行幸・・・安徳天皇が六波羅へ
山科がため・・・山科口を警固に。
治承3年冬・・・治承3年11月の政変の際に頼盛も関白基房に同調した嫌疑を受けたこと。
弓箭の道・・・武道。
遷都(せんと)のころ・・・福原に都遷りのころ。
奏聞・・・天皇に申すこと。
不可供奉・・・お供できません。
せめふせられければ・・・責め伏せられたので、説伏されたので。
なまじいに・・・なまなかに。強いて。
いりなんずるにて・・・(京都に)入りなむとするにて。
鞍馬(くらま)・・・京都の鞍馬山。
横川(よかは)・・・比叡山三塔の一。
源氏がり・・・源氏の許へ。
北面下臈(ほくめんげらふ)・・・北面武士(上皇御所の北面に候して守護する武士)の身分の低いもの。
ともやす鼓(つづみ)の兵衛・・・壱岐判官知康。
あやめ出して・・・怪しみいぶかりはじめて。
辰(たつ)・・・午前8時。
巳(み)・・・午前10時。
午(うま)・・・午前12時。
やうもなく・・・理由もなく。
内をぐしまいらせて・・・天皇(安徳帝)を伴い申して。
さながら・・・そのまま。全部。そっくり。
京師(けいし)中・・・都中。
物とり・・・物を盗みとる者。
ゑせず・・・為し得ず。
心もうせて・・・思慮を失って。失心して。
追様(おひざま)に・・・後を追うて。
心の内はとまらんと思ひけり・・・心中では京に止まろうと思った。
院の覚えして・・・後白河院の寵愛があって。
気色・・・顔色。意向。
山・・・比叡山。当時、後白河法皇が御幸していた。
八条院・・・鳥羽院の女で、後白河院の妹。
をち・・・御乳(乳母)
寛雅(くわんが)・・・村上源氏。雅俊の子。俊寛の父。
さて・・・そのままに。
相具(あいぐ)してけり・・・相伴ったそうだ。
東塔(とうたふ)・・・比叡山三塔の一。
円融房(ゑんゆうばう)・・・円徳院の本房で円仁の弟子承雲が初祖。
座主(ざす)・・・天台座主(比叡山延暦寺のトップ)。
護持僧・・・その人のために常に祈祷する僧。明雲(めいうん)は安徳帝の護持僧だった。
とまりたるを・・・留まったのを
ゑまいらざりけり・・・(後白河院の御前には)参られなかった。
追捕(ついぶく)・・・物を取り上げること。略奪。
下京・・・山から京に下ること。

かくてひしめきてありける程に・・・押しあってごたごたしているうちに。

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2005年10月27日 (木)

1183年 (壽永二年)7月入京後

1183年 (壽永二年 癸卯)

7月28日 天気晴れ、
「義仲・行家入京す」
今日義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京すと。晩頭(夕方)左少弁光長来たりて語る、義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)御所に召し、追討の事仰せ下さる。大理(藤原実家)殿上の縁にてこれを仰す。かの両人地に跪(ひざまず)き承る。御所たるに依りてなり。
「かの両人権を争うの意趣あり」
参入の間、かの両人相並び、敢えて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし。両人退出の間、頭弁兼光、京中の狼藉の停止すべき由仰すと。今朝、定能卿来たる。法印(慈円)昨日京に下る。

7月28日 [吉記]
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方男、錦の直垂(ひたたれ)を着し、黒革威(おどし)の甲(こう)、石打(いしうち)箭(せん)を負い、折烏帽子(おりえぼし)。小舎人童取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)劔(つるぎ)を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子(たてえぼし)。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八輩分別せず)参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び(行家左に立つ、義仲右に立つ)参上す。大夫の尉知康これを扶持す。各々御所東庭に参進し、階隠間に当たり蹲踞(そんきょ)す。別当公卿の座北簀子(すのこ)に下居し、砌下(せいか)に進むべきの由これを仰せらる。然れども両将進まず、西面に蹲踞す。大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討し進すべきなり。両人唯(はい)と称し退き入る。忽ちこの両人の容餝(ようしょく)を見るに、夢か夢に非ざるか、万人の属目(しょくもく)、筆端(ひったん)の及ぶ所に非ず。頭の弁下地し相逢い、仰せ含めの旨有り。
(注釈)
直垂(ひたたれ)・・・正面のえりの左と右がわとを垂らし引き違えて合わせる。
威(おどし)・・・よろいのさね(小板)を糸などでつづること。
甲(こう)・・・鎧。
石打(いしうち)・・・鷲の尾の両端の羽を矢羽として使用する。
箭(せん)・・・矢。
折烏帽子(おりえぼし)・・・頂を折り伏せた烏帽子(黒い袋形のかぶりもの)。
童(わらわ)・・・髪を束ねない。
取染(とりぞめ)・・・所々に細い横筋が出るように染めたもの。
油単(ゆたん)・・・ひとえの布・髪などに油をひいたもの。
宇須部箭
立烏帽子(たてえぼし)・・・中央部の立った烏帽子。
蹲踞(そんきょ)・・・両膝を折り、うずくまり頭を垂れる敬礼。
砌下(せいか)・・・切石のある階下の前。
属目(しょくもく)・・・注目。
筆端(ひったん)・・・筆のはこび。

7月29日 天気晴れ、
申の刻1600時、大将(九条良通、兼実長男)を相伴い、院に参る。(右衛門権佐、藤原)定長を以て申し入る。帰り来たり暫し候すべき由を示す。数刻の後、(参議大納言、藤原)定能卿来たりて言う、御念誦始められたり。早く退出すべしと。よって退出。
「九条亭に帰る」
直ちに九条亭に帰る。これより先に女房等帰りたり。
7月29日 [吉記]
降将等すでに播磨(兵庫県南西部)に至るの由風聞す。上総の介忠清・検非違使貞頼等出家す。忠清は能盛の許に在り。貞頼は兼毫法印の許に在りと。然るべき輩等多く付かざるの由、その聞こえ有り。今夜祇園中路五條坊門以南焼亡す。六波羅密寺同じく以て焼亡す。また一日焼け残る所故正盛朝臣(常光院)焼亡すと。

7月30日 天気晴れ、
朝早く、(大蔵卿、高階)奏経卿書を、(和泉の守、源)季長朝臣の許に送りて曰く、
「院にて大事議定す」
今日院に於いて、大事を議定せらるべし。巳の刻(10時)豫参すべしといえり。午一点(11時30分)に冠直衣を着け、、蓮華王院に参る。これより先に左大臣(藤原経宗)、大納言
(藤)実房、(藤)忠親、中納言(藤)長方等、御堂の南廊東面座(風吹くによりき簾を垂る)に在り。余同じくかの座頭に加わる。弁兼光朝臣仰せを奉り来たり、左大臣(藤原経宗)仰せ言う、条々の事、計らひ申すしべしといえり(その事三箇条、左に載せる)。
「頼朝・義仲・行家への勧賞(けんじょう)如何に行わるべきか」
1.仰せ言う、今度の義兵、造意頼朝に在りと雖も、当時の成功の事、義仲・行家なり。かつ賞を行はんとすれば、頼朝の欝(うつ)測り難し。彼の上洛を待たんとすれば、また両人賞の遅きを愁うか。両箇の間、叡慮(えいりょ、天子のお考え)決し難し。兼ねてまた三人の勧賞等差有るべきか。その間子細、計らひ申すべしといえり。
「頼朝参洛待たず三人同時に行わるべし」
人々申して言う、頼朝参洛の期を待たるべからず。彼の賞を加へ、三人同時に行はるべし。頼朝の賞、もし雅意(ふだんの心)に背かば、申請に随い改易する、何の難有らんや。その等級においては、かつは勲功の優劣により、かつは本官(正式の官職)の高下に随い、計らひ行なはるべきか。
総じてこれを論ずれば、第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家なり。
頼朝 (京官、任国、加級、左大臣言う、京官は参洛の時、任ずべし。余言う、しかるべからず。    同時に任ずべし、長方同ず)、
義仲    (任国、叙爵)
行家    (任国、叙爵、但し国の優劣を以てこれを任ず。尊卑差別すべしと。実房卿言う、義仲従上、行家従下が宜しきか)
「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
1.仰せ云う、京中の狼藉、士卒の巨万の致す処なり。
各その勢を減ずべき由、仰せ下さるる処、不慮の難怖れる処無きに非ず。これを為すいかん。兼ねてまたたとえ人数減ぜらると雖も、兵糧なくば、狼藉絶ゆべからず。その用途又いかん。同じく計らひ奏せしむべしといえり。人々申し云う、今においては与党の怖れ、定めて群を成すに及ばざるか。士卒の人数減ぜらるる、上計(最もよいはかりごと)というべし。兵糧の事、頗る異議有り。(大納言、藤)忠親・(中納言、藤)長方等云う、各1ケ国賜り、その用途に宛てるべし。余難じて曰く、勧賞は任国の外、更に、国を賜ふの条いかん。両人云う、その用終わると他人に任ぜらるる、何の難有らん。余曰く、理しかるべし、ただ、彼ら定めて収公(しゅうこう)の恨み含むか。ただ没官(もっかん)地の中より、然るべき所を撰び、宛て給ふべきか。しからずば、また1ケ国を以て両人に分ち賜ふべきか。但しこの条、頗る喧嘩の基たるか。猶、没官の所賜ふ宜しかるべし。左大臣云う、両方の議各しかるべし。勅定に在るべし、(頗る余の議に同ぜらるるか)
「関東・北陸の神社領等に使いを遣わし沙汰致すきか」
1.仰せ曰く、神社仏寺及び甲乙(たれかれ)の所領、関東・北陸に多く在り。今に於いては、各その使いを遣わし、沙汰を致すべき由、本所(本家)に仰せらるべきか。一同申して云う、異議あるべからず。早く仰せられるべしといえり。兼光人々の申し条を聞き、御所へ参りたり。その後数刻を経たり。
「勧賞行なわれるならば除目の議如何すべきか」
この間、余左府(左大臣、藤原経宗)に問うて曰く、もし勧賞者に行なわれるなら、除目の議いかん。左府曰く、この事難題なり。一昨日議定の時、問われると雖も除目有るべきや否や、その間の議に於いては、未だその沙汰に及ばず。ただし所存は、院の殿上に於いて、下名を行われるべしといえり。春秋の除目の如くば、官の外記の庁に於いて下さるべし。余曰く、庁において下名下さるべくば、ただ陣において除目を行われるべきか。およそ宣旨(天皇の命を伝える公文書)・官符(太政官符)を以て施行せられる事等、皆庁の御下文(くだしぶみ)に改められたり。それ即ち院の御沙汰たり。宣旨を成し、官府を請印する条、しかるべからざる故なり。何ぞ下名に至り其儀破るべきや。惣べて院の殿上の除目、甚だ甘心(満足)せず。左府云う、この事もとより希代(きたい)の権儀なり。然れども他の計無きに依りこの儀を存ず。余云う、勧賞に於いては、ただ内々にその人に仰せ、新主(新天皇)践祚(せんそ)の時、除目に戴せらるべきか。左府云う、諸国多く以って欠有り。併しながら口宣の条穏便ならず。余云う、他の任人に於いては暫く相待たるべきか。長方卿云う、そもそも主上(天皇)の還御(天皇が帰ること)を相待たるる条、もっとも以て不定、立王の事、何時を以て期すべきや。余云う、事の肝心ただ是に在り。左府云う、勅問(天皇の質問)に就き評定すべきなり。この条尋問せられず。進み申す条、便無かるべきか。この如くの議定の間、兼光帰り来たりて云う、勧賞除目その儀いかん。宣しく計らひ申さしむべしといえり。忠親卿云う、準拠の例、外記に問われるべきか。左府善しと称す。即ち兼光を以って之を問う。帰り来たりて申し云う、
「行幸賞の如く其人に仰せて後日除目に載せるが宜しかるべし」
頼業・師尚等申し云う、諸社の行幸・御幸等の賞の如く、先ずその人に仰せられ、後日、除目に戴せられる宣しきか。又嘉承に摂政の詔、先帝崩御(堀河天皇)、新主(鳥羽天皇)末だ御はしまさず、法皇の詔を以て、仗下に於いて下されたり。然れば、新儀を以て殿上に於いて行わるる、また御定めに在るべし。但し、初の議穏便か。且つ、是(源)時中参議を任ずるの例なり。(円融院、太井川逍遙、舞いの賞に依り、参議に任ずる由を仰せられる。後日除目に載せられる。此の事小野宮記に見ゆ。かの記の意、上皇の宣を以て参議を任ぜらるる条、甚だこれを難ず)人々皆此の議を以て是(ぜ)と為す。左府又執を破り之に同ず、兼光帰り参りたり。即ち帰り来たり云う、各議奏の趣、皆以てしかるべし。早くこの定めに行われるべしといえり。今に於いては、各御退出在るべしといえり。余即ち退出したり。
「摂政下京」
摂政(基通)今日京に下ると。数日山上に在り。人以て奇と為すか。
「慈円来る」
今日法印(慈円)来られる。日来の如く西家に居住す。今日より僧一人吉田社に籠もる、七日の間、仁王講を修せしむ。又幣帛を奉る。
(注釈)
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
京官(きょうかん)・・・京都に勤務する官吏。
任国(にんごく)・・・国司として任命された国。
叙爵(じょしゃく)・・・初めて従五位下に叙せられること。
収公(しゅうこう)・・・没収。
没官(もっかん)・・・ぼっかん、重罪を犯した者の土地などを取り上げること。
請印 (しょういん)・・・ 文書発給に際して内印(天皇印)もしくは外印(太政官印)を押捺すること。
践祚(せんそ)・・・天皇の位を受け継ぐこと。

7月30日 [吉記]
 京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司(神職)等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金堂追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。成範卿院宣を奉り、時忠卿の許に仰せ遣わす。また内々貞能の許に仰せ遣わすの旨等有りと。
京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。
   源三位入道子息      大内裏(替川に至る)
   高田四郎重家・泉次郎重忠  一條北より、西朱雀西より、梅宮に至る。
   出羽判官光長       一條北より、東洞院西より、梅宮に至る。
   保田三郎義定       一條北より、東洞院東より、会坂に至る。
   村上太郎信国       五條北より、河原東より、近江境に至る。
   葦数太郎重隆       七條北より、五條南より、河原東より、近江境に至る。
   十郎蔵人行家       七條南より、河原東より、大和境に至る。
   山本兵衛尉義経      四條南より、九條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   甲斐入道成覺       二條南より、四條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   仁科次郎盛家       鳥羽四至内。
   義仲           九重(皇居)内、並びにこの外所々。
    已上義仲支配すと。

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2005年10月26日 (水)

1183年 (壽永二年)7月入京前

1183年 (壽永二年 癸卯)

7月1日 晴れ、
「賊徒今日入洛すべしの由兼日風聞」
賊徒今日入洛すべしの由兼日風聞す、しかるにその事無し、伝聞、(前筑前国司、平)貞能議し申し云う、追討使遣わすべからず、只勢多辺りにおいて相待つべしと。今日所労殊にすべ無し。法皇は今日賀茂社に御参り、お通夜有るべしと。

7月2日 晴れ、
巳の刻(10時)右大弁(平)親宗、院のお使いとなり来たる。物忌みと雖も勅使たるに依り之を呼び入れ、疾ひ厚きに依り簾で隔てて之に謁す。
「賊徒入洛の時院御所に行幸有るべきかにつき法皇より諮問せらる」
仰せ云う、賊徒入洛すべき由風聞す。その事もし実ならば、院の御所に行幸有るべきか。しかるに内侍所(やたの鏡)京外におはします条いかん。兼ねて又仙洞(上皇の御所)定めて物騒しきか。其の故は、平家の武士等守護の為定めて御所辺りに候うか。しかして賊徒打ち入らば、たとひ君に於いて害心無きとも、守護の武士と雌雄を決せんため、狼藉を致さんと云う。すでに戦場と為るべし。此の条いかん。両条計ひ奏すべしといえり。
「兼実申し状」
申し云う、賊徒が花洛(京都)に乱入の程の事、別段の事なり。院・内同居の事、有り様に随わるべきなり。もし行幸有らば、賢所格別の儀、京外に候べからざる条、一切憚り有るべからず。是尋常の時の儀なり。仙洞狼藉の事、期に臨み左右するなり、兼日の案叶うべからず。此の条巳だ大事なり、短慮及び難きかといえり。親宗云う、左大臣(藤原経宗)同じく此の問い有り。他人に及ばず。かの丞相(左右大臣)申し云う、内侍所(やたの鏡)は所司に差し副え、温明殿(うんめいでん)に御座しむべしか。賊は内侍所を取り奉るべからずの故なりと。
「左大臣の申し状に兼実甘心せず」
此の申し状聊(いささか)所存有りか。然るに余甘心せず。行幸有らば、剣爾(草薙の剣と八坂の曲玉)具し奉られるべし。賢所許り君を離れ奉ると雖も詮無かるべき故なり。
今日午後天気陰る。申の刻(16時)中御門大納言(藤原宗家)・前源中納言(雅頼)・左大弁(源経房)等疾ひを訪わん為来たる。各之に謁せず、人を以て謝し遣わす。病ひ重き上、物忌みの為故なり。
「鳥羽天皇国忌」
今日鳥羽院の御国忌に依り、法皇(今旦賀茂より直に鳥羽へ幸するなり)、及び八条院(法皇の妹)鳥羽におはします。
「義仲・行家四方より寄せんとす」
伝聞、源頼朝忽ち出るべからず、只木曽冠者・十郎等、手を四方に分け、寄せるべし由議定すと。
「僧事」
去る夜僧の事有り。法印澄憲、(前権大僧都)、権大僧都覚憲、(山階寺権別当)、法勝寺の御八講の証誠共に為すなりと。

7月3日 晴れ、
昨今物忌なり。
「八条院仁和寺に渡御」
今旦、八条院(鳥羽天皇皇女)は仁和寺の御所に渡御す。
「賊徒入京の時期につき諸説あり」
或は云う、秋節以前に賊徒入京すべし。或は云う、関東の勢を待ち、九十月の日入洛すべしと。閭巷(りょこう)縦横の説、かれこれ知り難し、今日、浮説に依り武士騒動す。

7月4日 天晴れ、
「小除目」
去る夜小除目(人事異動)有りと。内蔵頭平信基、左京権大夫藤光綱、従三位平資盛(重盛の次男、元蔵人頭)、蔵人頭藤兼光(左中弁)。
「僧事」
又僧の事有りと、権律師公胤(巳講)。

7月5日 晴れ、
「皇嘉門院月忌み」
疾に依り女院(皇嘉門院、兼実の姉)御月忌みに参らず。(参議大納言、藤原)定能卿来たり語り云う、推問使を遣わし和親すべしの儀有りと。然るに未だ一定せずと。

7月6日 晴れ、
右衛門権佐(藤原)定長を招き、(中原)師景文書の間の事を示す。定長云う、推問使の事定能の談の如し。

7月7日 晴れ
「節供」
節供、(陪膳季長朝臣、分配範季辞退す、よって年預光長之を勤仕す)
「乞う功奠(てん、さだめる)」
乞う功奠等例の如し、仏厳上人来たり、
「外記大夫師景の文書目録を取る」
今日(外記大夫)師景の堂に使者等を遣わし、文書目録を取る(示す)。
「法勝寺御八講結願」
法勝寺の御(法華)八講の結願なり。

7月8日 晴れ、夜に入り雷鳴、
「最勝光院御(法華)八講に御幸有り」
最勝光院の御(法華)八講、初日、院御幸有りと。
(最勝光院は院御所法住寺殿にあり)

7月9日 晴れ、
「師景の文書目録を取り終える」
今日又使いを(外記大夫)師景の許へ遣わし、重ねて目録を取らしむ、今日功を終へたり。今日大夫吏(小槻)隆職来たり、簾前に召し世間の事を談ず。
7月9日 [吉記]
 金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起す。頼政入道の党その中に在りと。殿下より院に申さる。また丹波すでに興盛と。

7月11日 晴れ、
大外記(清原)頼業来たり、簾前に呼ぶ。
「方違い」
此の夜秋節に違はん為、御堂の宿所に参り宿す。

(方違へ:かたたがへ、陰陽道で、外出の際、天一神(なかがみ)、太白神などのいる方角を避け、行く方角がこれにあたると災いを受けると信じ、前夜別の方角の家(=方違へ所)に泊まり、そこから方角を変えて目的地へ行く)

7月12日 晴れ、巳の刻(10時)帰宅。

7月14日 時々雨下、
「盆具を送る」
三所に盆具を浄光明院(故殿)、光明院(先妣(ひ、はは))(藤原仲光女)西御堂(故女院、皇嘉門院)送る。各礼拝例の如し。

7月16日 晴れ、
「江州への院使いにつき左府・内府に諮られる」
静賢法印来たり、世上の事を談ず。院の御使いを江州へ遣わされるべきの間の事、左府(左大臣、藤原経宗)・内府(内大臣、実定)に問われる。各庁の御下文を遣わされるべき由を申さると。

7月16日 天陰雨降らず [吉記]
 源氏十郎蔵人行家と称する者、すでに伊賀の国に入(去る十四日と)り、家継法師(平田入道と号す、貞能兄)と合戦す。また三河の冠者と号する源氏、大和の国に越え入ると。薩摩の守忠度朝臣丹波の国に発向す。百騎ばかりを引率すと。

7月17日 陰晴れ不定、
「師景文書紛失」
右衛門権佐(藤原)定長来たり、召しに依りなり、師景文書紛失の間の事を申す、節境中間と雖も後の恐れのためなり。定長云う、院御使い江州へ遣わされるの間の事、
「兼実不例により諮問に漏れるという」
下官同じく問われるべき由仰せ有り。しかるに御不例に依り、無骨の由と称し、(大蔵卿、高階)泰経参らずと。この事謂われ無し。亭に来たりて之を問う。所労に依るべからず、但し此の如しの事、偏に顧問す。悦ぶべきなり。

7月18日 雨下、
「泰山府君祭」
恒例の泰山府君の祭なり。
泰山府君・・・中国山東省にある泰山の神。人の寿命・福禄をつかさどる。陰陽家や仏家で祭る。

7月19日 晴れ、
「師景文書の内天文書進上すべしとの勅報あり」
右衛門権佐(藤原)定長来たり、師景文書の間の事を仰す。先日奏聞の勅報、師景の契状に任せ、早く沙汰致すべし。それ文書正を撰び進らすべきなり、自予の書籍、汝の進止なり。そもそも文書紛失の事、早く尋ね沙汰すべし、院より御沙汰然るべからずといえり。

7月20日 晴れ、
(丹波)知康法師を召し、病の間の事を問う。仏厳上人を請い、文書の間の事を示す。

7月21日 晴れ、
「追討使兼実家の傍を経て発向す」
午の刻(12時)追討使発向す。三位中将(平)資盛(重盛の子)が大将軍と為し、肥後守(平)貞能相具し、多原方へ向かう。余の家東小路(富小路)を経たり。家僕等密々に見物す。
「其の勢僅か千騎」
その勢1080騎と、(確かに之を計ると)、日来、世の推しはかる所7、8千騎、万騎に及ぶと。しかるにその勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべしか。
「法皇法住寺殿に臨幸」
今夜、法皇法住寺殿に臨幸す、事火急の時、行幸有るべしの故と。
[吉記]7月21日 
 今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛(重盛の子)、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守(平)貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。資盛は水干小袴を着け、弓箭を帯びると。

7月22日 朝間天陰、辰の刻(8時)以後晴れ、
卯の刻(6時)人告げて曰く、江州の武士等すでに入京、六波羅あたり物騒極まりなしと。また聞く、入京は実説に非ず。
「比叡山の僧綱下京す」
しかるに地の武士等台嶽(比叡山)に登り、講堂前に集会すと。日来登山の僧綱等併せ下京す、但し座主(明雲)一人下京せずと。無動寺法印(慈円)同じく京に下る。
「行家大和国に入り宇多郡に住むという」
また聞く、十郎蔵人行家大和国に入り、宇多郡に住し、吉野の大衆等与力すと。よって資盛、貞能等江州に赴かず、行家の入洛を相待つと。(平)貞能は昨夜宇治に泊まり、今朝多原の地に向かうと欲すの間、この事有り。よって彼の前途を止め、この入洛を相待つと。
「源行綱、平家に謀反、摂津・河内に横行」
また聞く、多田蔵人大夫(源)行綱、日来平家に属す。近日、源氏に同意するの風聞あり。しこうして今朝より忽ちに謀反し、摂津河内両国に横行し、種々悪行を張り行なう、河尻の船等を点じ取ると。両国の衆民皆悉く与力すと。
「丹波追討使大江山まで引き退く」
また聞く、丹波の追討使、(平)忠度、その勢敵対するに非ずの間、大江山まで引き帰したりと。およそ一々のこと直事に非ざるか。今日、上皇の宮に、卿相参集し、議定の事有りと。予同じくその召しに有りといえども、病により参らず。今日、、同宮に行幸有るべしの由、その議有りと雖も、復日の為に依り延引、明後日臨幸すべしと。

7月22日 [吉記]
 源氏等東坂並びに東塔惣持院に上り、城郭を構え居住すと。午の刻ばかり、平中納言(知盛)・三位中将(重衡)等勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の勢二千騎に及ぶと。また夜に入り按察大納言(頼盛)下向す。今夜各々山科の辺に宿すと。

7月23日
六波羅のあたり、嘆息の外他事無しと。
「法皇法住寺御所に渡御」
今旦、法皇は法住寺御所に御渡りと。世間物(?)相により。

7月23日[吉記]
 早朝、山座主明雲下洛、即院に参る、風聞いわく、衆徒等申し云う、凶徒等すでに山上に居住したり。合戦に及ぶといえり、天台仏法破滅しむに異議無しか。和平されるべしの由、仰せ下されるべしの旨、座主を以て院に奏せしむと。

7月24日 晴れ、
「法皇法住寺御所に行幸」
この一両日江州の武士台嶽に登る、今夜夜打ち有るべき風聞す。よって忽ち法住寺の御所に行幸し給う、殆ど暁天に及ぶと。
「兼実等法性寺に避難」
此の辺り恐れ有るにより、余女房相具し法性寺家に渡る。
7月24日 [吉記]
 十郎蔵人行家伊賀を超え、すでに大和の国宮河原に着くの由、別当僧正殿下に申さる。資盛卿貞能を相具し帰参すべきの由、泰経の奉行として仰せ出さると。追討を奉る者、未だこの例を聞かず。而る間猶帰洛せず。本これ宇治一坂辺に宿す。件の所より八幡南を廻り、河尻方に向かう。これ多田の下知と称し、太田の太郎頼助、或いは鎮西の粮米を押し取り、或いは乗船等を打ち破り、或いは河尻の人家を焼き払うと。この事を鎮めんが為、先ず行き向かうと。

7月25日 晴れ、
「法皇御逐電」
寅の刻(4時)人告げて曰く、法皇御逐電と。この事、日来万人の庶幾(しょき、こいねがうこと)する所なり。しかるに今の次第においては、頗る支度無しと言うべきか。子細追って尋ね聞くべし。卯の刻(6時)、重ねて一定の由を聞く。よって女房等少々山奥の小堂の辺りへ遣わし、余・法印(慈円)相共に(他の僧達と同)堂(最勝金剛院)に向かひ、仏前に候ふ。この間(参議大納言、藤原)定能卿来る、法皇の幽閉の所を尋ね出し、密々隠し置きたり。
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
巳の刻(10時)に及び、武士等主上(安徳天皇)を具し奉り、淀地の方に向かいたりといえり。鎮西に籠るに在りと。前内大臣(平宗盛)以下一人残らず。六波羅・西八条等舎屋、一所残らず、併せ灰燼に化したり。一時の間、煙炎天に満ち、昨は、官軍と称し、ほしいままに源氏等の追討せんとす。今、省等に違い、君辺土を指して逃げ去りぬ。盛衰の理、眼に満ち、耳に満つ。悲しきかな、生死有漏の果報、誰人かこの難を免れん。恐れて恐れるべし。慎みて慎みべき者なり。摂政(基通)は自然にそのわざわいをのがれ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去りたりと。
「法皇御登山」
ある人告げて曰く、法皇御登山したり。人々未だ参らず。暫し、秘蔵有りと。
「貞能比叡山に参ず」
平氏等皆落ちたる後、貞能卿、山へ参りたり、くだんの卿に付け参入如何の由申したり。申の刻(16時)落ち武者等また帰京。あえて信用せざるの処、この事一定なり。貞能一矢射つべし由を称すと。
「平家鎮西に赴くにあたり公卿を取り具さんとす」
或るいは又、主上及び剣爾・賢所等具し奉り、鎮西に赴かんと欲するしかるに臣下無かるべからず。よって然るべき公卿を取り具さんためなりと。畏怖限り無しといえども、忽ち計略に及ばず、天を仰ぎ、運に任せ、三宝を念じ奉るの処、
「帰京の武士等、この最勝金剛院をもって城郭を構えんとすの報に接し兼実等日野に向かう」
帰京の武士等、この最勝金剛院をもって城郭を構えるべしの由、下人来て告げる。よって人を遣り見しむ処、既に少々来たり赴くると。同居すべきに非ず、追却すべきに非ず。よってあわてふためき女房少々相伴う(その残りを山奥の小堂に隠す)、日野辺り向かう処、
「木幡山」
源氏すでに木幡山に在りと。よって忽ち稲荷下社辺りに宿す。狼藉勝げて計ふべからず。しかれども社頭に参り法施を奉りたり。自然の参詣、機縁と言うべきか。この辺りなお怖れありと。よって明暁日野に向かわんと欲す。今朝この事の前、法印(慈円)白河房に帰られたり。今の間、使者を送り云う、我が房に来るべし。今夜相具し、登山を欲すといえり、路次の怖れ有りてより、行き向かわず。寄宿の家のていたらく、凡卑の至り、未曾有。身に一過無く、今この如しの難に遇ふ。宿業悲しむべし。

7月26日 晴れ、
「日野への路塞がるにより首途能わず」
払暁(あけがた)、日野に向かうを欲すの間、その道切り塞ぐにより、首途(出立)する能わず。この間昨日帰京武士等、成すこと無く、また逃げ去りたり。帰京の本意、未だその詮(ほうほう)を知らず、武勇のおう弱、所行の尾籠(無礼)、奇異の至り、例え取る物無し。
「法性寺に帰る」
辰の刻(8時)法性寺に帰る、
「貞能より書札ありて比叡山に向かう」
巳の刻(10時)(肥後守、平)貞能卿より書状を送り云う、御参りの事奉聞したり。早く御参り有るべし。入道関白(藤原基房)同じく参入される所なりと。早速出立し、未の刻(14時)登山、(鳥帽直衣(えぼしのうし))、前駆(さきがけ)・共人相並びに8人、各騎馬車の前に在り、(藤原季経、藤原経家と坂下で参会)、侍45人、申の刻終わり(17時)に西坂下に就く(九条より牛3頭なり)。手輿遅引の間、しばし経るほどに、酉の刻(18時)に輿と輿舁(よ、かき)等到来す(無動寺法印慈円の沙汰なり)。即ち輿に乗り、西坂を登る。共人皆悉く歩行す(坂口56町なお騎馬)。前駆等輿の前を歩む。
「源雅頼に出逢う」
路頭において、源(雅頼)の納言に逢う(その子息源の兼忠を相具す)。輿を据えおき、共人退け、謁談す。納言言う、神爾・宝剣・内侍所、賊臣悉く盗み奉り取りたり。左右無く平氏追討すべしの由、仰せ下さるの条、甚だ不便、先ず、剣爾安全の沙汰有るべし。よってこのむねを奏聞し、勅許有り。(右大弁、平)親宗を以て、御教書を多田蔵人大夫行綱の許へを遣わしたり。この事猶、荒沙汰なり。よって内内に女院(建礼門院)もしくは時忠卿(件卿は賊と伴なうと)の許に仰せ遣わさるべきの由、重ねて以て奏聞す。しかるべし由仰せ有りと。即ち過ぎたり。
「慈円の青蓮院の房に着す」
戌の刻(20時)に東塔の南谷青蓮院に到る。是より先、院主法印(慈円)座せられる。無動寺よりただ今渡せらると。件の房、伝嶺の後未だ渡らず。今日吉曜(吉日)の為により、即ち移徒を用いるの由談ずる所なり。
「法皇の御所に参る」
余暫し、休息の後、法皇の御所に参る(円融房、是座主の房なり)。路の間前駆等松明を取り前を行く。その程45町ばかりなり。余鳥帽子、直衣、手輿に乗る、(参議大納言、藤原)定能卿を以て見参に入る。召しに依りて御前に参り、暫し伺候(慎みてそうろう)し粗く思う所を申したり。剣爾と源氏入京の間の事なり。ただ和をそしりの怖れ有りと雖も、なんぞこれ忠在りによる、納否に於いては叡慮に在り。勅定に曰く、西海に引率さるべしを聞くにより、密行する所なりと。
「神爾紛失の事及び以仁王の事を法皇に問う」
余両条の不審を問い奉る。一は神爾紛失の事、(去る治承4年の日、盗み取られの由その聞こえ有り)、一は三条の宮(以仁王)存否の事、仰せに曰く、両事共に真偽を知らず、但し、風聞の旨、共に以て実に非ずか(爾失せず、宮存ぜざる由なり)、小時(しばらく)ありて退出したり。

7月26日[吉記]
 山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将縁辺と称し放火し、或いは追捕物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。余の亭は此のわざわいを免れる。ひとえに仏神の冥助なり。

7月27日 天気晴れ、
風病発動により、今朝御所に参らず、
「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」
(参議大納言、藤原)定能卿来たり、また(右衛門権佐、藤原)定長お使いとなり来たりて曰く、前内大臣(平宗盛)以下追討の事、内々仰せ下されられるといえども、なお証文、給わるべし。しこうして宣旨か庁の御下文か如何、余云う、人主すでに賊に伴う、宣旨の条すでに謀書か、庁の御下文よろしかるべし、定長また云う、もし法皇の詔書となすべしか、余云う、この事大事たりといえども、摂政の詔を下さるるに似ざるかただ庁の御下文よろしかるべし、余問いて云う、剣爾の沙汰、如何に、定長曰く、主上・剣爾共に還御有るべしの由、定長御教書に書きて、主典代大江景宗に相具し、、平大納言のもとに遣わすべし、余曰く、この事甚だおう弱の沙汰か、たとえ御教書遣わすといえども、御使に於いては止められるべし、召し使い両三人の如き、差し遣わすべしか、凡そ此の剣爾のこと、別の奇謀を以てかの縁辺の人を尋ね、誘語せらるべきか、事ひそかに有るといえども、安穏に出来ること、甚だ有り難き故なり、余また言う、今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、その後早く速やかに還御あるべし、しからずば、京都の濫吹あえて止めるべからず、これらの趣早く奏聞すべし、定長帰りたり。
「法皇京都に還御」
未の刻(14時)定能告げて曰く、連々、日次無しに依りて、今日俄に還御あり、(明日は復日、明後日は御衰日、晦日に至るの条、甚だ懈怠の故なり)、
「兼実下山法性寺に宿す」
即ち以て、出御す、余御幸の後同じく山を出で、戌の刻(20時)法性寺に到る、帰忌日に依りて僧房に泊まる、法皇同じく、帰忌日に依り、蓮華王院に還御すと、今度、中堂に参るべしの由、相存ずるの処、日次宣しからざるの上、事率爾(にわか)の間、空しく、以て、下洛す、所願成就の時、この恨み散すべき由、中心より祈願したり。

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2005年10月25日 (火)

1183年 (壽永二年)6月

1183年 (壽永二年 癸卯)

6月4日
「北陸の官軍潰滅す」
伝聞、北陸の官軍悉く以て敗績す、今暁飛脚到来す、官兵の妻子等、泣き悲しむ極まり無しと。この事去る1日と、早速の風聞(うわさ)疑い有りと雖も、六波羅の気色(気持ち、気分)損ずる事と。
(注釈)
六波羅(ろくはら)・・・京都鴨川の東、五条と七条の間の土地、平家一門の居宅六波羅殿があった。
(砺波山、倶利伽藍峠の合戦のようである。)

6月5日
故女院(皇嘉門院)御月忌に依り御堂に参る、
「中原有安北陸の官軍敗亡の子細を語る」
前飛騨(岐阜県北部)の守中原有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びる武士僅か45騎許り、その外過半死傷、其の残り皆悉く物具を棄て、山林に交わり、大略その鋒(ほう)を争う甲兵(こうへい)等、併せ以て切り取られたりと。平盛俊、平景家、藤原忠経等、(以上三人はかの家第一の勇士なり)、各小帷(とばり、たれぎぬ)に前を結びて、本鳥(もとどり)を引きくだして逃げ去る、希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の体直事に非ず也。誠に天の攻めを蒙(こうむ)るか。敵軍は纔(わずか)五千騎に及ばずと、かの三人の郎等・大将軍等、権盛を相争うの間、この敗有りと。
「官軍敗績の事につき院評定あり」
今日院より召し有り、北陸官軍敗績の事定められる為なり、しかるに病と称し参らず。重からずと雖も、稠人(多くの人、衆人)の出仕の故及ばざる故なり。
(注釈)
鋒(ほう)・・・ほひさき、きっさき。
甲兵(こうへい)・・・よろいをつけた兵士。
稠人(ちゅうじん)・・・多くの人、衆人。

6月6日
「官軍敗績後の事計申すべき旨院より仰せられる」
大蔵卿(大蔵省長官)泰経卿、院のお使いとなり来る、疾を扶ち之に謁す、仰せ云う、北陸官軍等空しく以て帰洛す、此の上何様行われるべきやといえり、申し云う、百千万の事叶うべからず、只天下落居の時、徳化を施すべしの由、法皇叡慮より起り、御願い立たれるべし、この外の他の計、一切叶うべからずといえり。

6月6日 己亥 朝雨下る [吉記]
「敗軍等今日多く入洛」
 未の刻(14時)ばかりに建礼門院に参る。北陸の事驚き存ずるの由、前の内府方に示し入る。朝(庭)の大事に依ってなり。延暦寺に於いて、千僧御読経を行わるべし。奉行すべきの由、左大弁これを談る。追討使の間の事、人々に仰せ合わさるべし。左府(左大臣、藤原経宗)去夕参られ、今日書き進すべきの由これを申さる。右府(右大臣)所労を申さる。仍って大蔵卿彼の亭に参向す。内府(内大臣実定)今日参らるべし。堀河大納言所労を申さる。梅小路中納言今日参上すべきなり。広く及ぶべきの由先ず議有りと雖も、止めらると。敗軍等今日多く入洛すと。

6月7日
祇園御輿迎え例の如しと。
(注釈)
祇園会(ぎおんえ、八坂神社祭礼、6月7日から14日)

6月8日
「物気を渡す」
今日より物気を渡す。病厚きに依りてなり。
(注釈)
物気・・・

6月9日
「関東・北陸の乱逆につき兼実の申し状」
大蔵卿奏経卿先日示す申し状、注送すべしの由を示す。よって注し遣わしたり、其の状此の如し。
「関東・北陸乱逆の間事鎮められるべき間の事。
重ねて追討の事。
征討の謀、将帥(将軍)の最(一番すぐれていること)なり、かの議奏の趣について、重ねて評定に及ぶべしか、但し仰せ下さるる如くば、士卒其の力追討に疲れ、忽ちに叶ひ難しと。
「伊勢・近江に辺将を置き中夏を守るべし」
もし然らば、伊勢(三重県)・近江(滋賀県)両国に各辺将を置き、中夏(諸国の中央)を守るべきか。
「仁恵を施さるべし」
神社仏寺及び諸人の領、或いは事を武威に寄せ、無道を以てこれを押領す。或いは力を権勢に仮り、非拠を以てこれを奪取す。ただに仏意神意の恐れのみにあらず。そもそも叉衆庶万民の愁いなり。(略)
「二十二社に奉弊せらるべし」
神事の御祈りの事、(略)
「最勝王経勤行すべきか」
仏事の御祈りの事。(略)
「海内和平の時徳化を施さるべく御願を立てらるべし」
御願いを立てられるべき事。(略)

6月12日 天霽(はれ) [吉記]
「近江の国庄々の兵士を催さる」
 風聞に云く、近江の国(滋賀県)の野・海・山を守護せんが為、当国庄々の兵士を催さる(集める)。蔵人の佐定長これを奉行す。また北面(院の御所の北面で、警備の武士)に祇候(しこう)するの輩、堪否を論ぜず、東海道に下し遣わすべし。一人も漏るるべからざるの由沙汰有りと。 叉前内府(宗盛)家人五位上官嫌わず催さる。また肥後(熊本県)の守貞能数万の兵を率い、すでに都賀辺に着くと。
(注釈)
北面(ほくめん)・・・北面の武士、院の御所の北面で、警備の武士。
祇候(しこう)・・・つつしんでおそばに奉仕すること。

6月13日 陰晴不定 [吉記]
「源氏等すでに江州に打ち入る」
 源氏等すでに江州(近江、滋賀県)に打ち入る。筑後の前司重貞単騎逃げ上ると。

6月18日 天陰雨降らず [吉記]
「肥後の守貞能今日入洛す」
 肥後の守貞能今日入洛す。軍兵纔(わずか)に千余騎と。日来数万に及ぶの由風聞す。洛中の人頗る色を失うと。

6月21日 去夜より雨降り [吉記]
「賊徒の事に依って、山稜使を立てらる」
 関東・北陸賊徒の事に依って、山稜使を立てらる。上卿平大納言(時)、行事右少弁
兼忠。柏原(桓武)、新中納言(頼實)。圓宗寺(後三條院)、源宰相中将(通親)。成菩提院(白川院)・安楽寿院(鳥羽院)、藤三位(雅長)。清閑寺(高倉院)、右中弁(親宗)等なり。先ず日時使等を定められる。
(注釈)
山陵使(さんりょうし)・・・山陵(みささぎ)に告げる使い。

6月29日 日中降雨 [吉記]
「洛中上下騒動」
 世口嗷々(ごうごう)驚かず。洛中上下東走西馳す。馬に負い車に積み雑物を運ぶ。静巖已講(いこう)只今下洛示し送りて云く、日来江州に入る源氏ハ末々の者なり。木曽の冠者すでに入りたり。但し叡山衆徒相議(悪僧に於いては皆源氏に同ず。これ中堂(ちゅうどう)衆等なり。去る頃北陸道より帰山す)し、源平両氏和平有るべきの由、僧綱已講を以て奏聞せんと欲す。この事もし裁許無くんば、一山源氏に同ずべしと。その時もし猶入洛のよし有るかとこの条尤も可なりと。
(注釈)
嗷々(ごうごう)・・・口やかましいさま。
已講(いこう)・・・天台宗などの学階の一。
衆徒(しゅと)・・・僧兵。
悪僧(あくそう)・・・武芸にすぐれた僧。
中堂(ちゅうどう)・・・比叡山の根本中堂、
堂衆(どうしゅう)・・・寺院の諸堂に付属する僧。

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2005年10月24日 (月)

1183年 (壽永二年)5月

1183年 (壽永二年 癸卯)

5月1日
「官軍越前に攻め入る」
伝聞、去る月26日官軍越前国(福井県東部)に攻め入ると。

5月3日
「軒廊御卜」
軒廊の御占いありと。鴨御祖社羽蟻出来たる事と。
(注釈)
軒廊(のきろう)・・・正殿に付属する小部屋。
鴨御祖社(かものみおやしゃ)・・・今の下賀茂神社。
羽蟻・・・はあり。シロアリ。

5月4日
「公卿勅使帰参」
公卿勅使帰り参ると。

5月5日
「皇嘉門院月忌」
月忌に依り御堂に参る。
「円宗寺御八講始まる」
この日円宗(天台宗)寺御八講始めなり。上卿参らず。右少将兼忠参りてこれを行うと。
(注釈)
皇嘉門院・・・崇徳天皇の皇后、藤原忠通の長女。

5月12日
「官軍加賀に攻め入る」
伝聞、去る3日官軍加賀国(石川県南部)攻め入りて合戦し、両方死傷の者多しと。

5月15日
「佐保山陵使を立てらる」
今日佐保(さお)山陵(みささぎ)使を立てられる。東大寺大仏焼け損じ、並びに近日修補の事を謝し申さると。上卿大納言宗家卿、参議親宗卿、使座に参着し、先ず時日を定めらる(今日すでに2点)大内記光輔宣命使を進らす。参議親宗朝臣、前和泉(大阪府南部)守季長朝臣(四位)等参向すと。蔵人(くらんど)二人叙爵(じょしゃく)すと。
「院供花」
院の供花例の如しと。
(注釈)
山陵(みささぎ)・・・天皇・皇后の墓所。山陵、御陵。
蔵人(くらんど)・・・くろうど、蔵人所(宮中の雑事)の職員。
叙爵(じょしゃく)・・・始めて従五位下に叙せられること。

5月16日
「官軍越中にて源義仲等と戦い大敗す」
去る11日官軍前鋒、勝ちに乗り越中国(富山県)に入る。木曽冠者義仲・十郎蔵人行家及び他の源氏等迎え戦かう、官軍敗績し、過半死にたりと。
「月食」
今夜月蝕(皆既)。内裏(だいり)に於いて御読経を行はる。上卿は実家卿と。
(注釈)
内裏(だいり)・・・天皇の住居、御所、皇居。

5月17日
「八幡奉弊使を立てらる」
この日八幡の奉弊使を立てられ、東大寺の大仏焼け損じ、並びに近日修補の事を告げ申さるるなり。上卿権大納言実房卿、先ず日次の定めあり。大内記光輔宣命の草を進らす。行事の弁は右少弁兼忠、使は権中納言実宗卿と。
(注釈)
奉弊使・・・勅命によって奉幣を神社などに奉献する使者。

5月19日
「最勝講初日」
最勝講始日なり。摂政(基通)及び内大臣(実定)巳下参入すと。右大将(良通)参入す。
「賑給定」
この日実房卿仗座(じょうざ)に着き、賑給(しんきゅう)使の事を定め申すと。
「東大寺大仏仏面を鋳造す」
叉今日東大寺の大仏の面を鋳奉ると。
(注釈)
最勝講・・・最勝王経を講説させて国家の安泰を祈る。
賑給(しんきゅう)・・・貧民にほどこして、にぎわすこと。

5月21日
今日、院の御所に於いて、五壇の法、征討の御祈りを始め修せらると。
(注釈)
五壇の法(ごだんのほう)・・・密教の兵乱鎮定などを祈願する修法。

5月22日
早朝、艮(うしとら、北東)方赤雲あり。その体紅旗に似たりと。
「減服御常膳詔」
この日、忠親卿仗座(じょうざ)に着き、減服御常膳の詔(みことのり)の事を行はる。頭中将隆房これを仰す。大内記光輔詔書を進らせ、摂政(基通)御書を加ふと。中務少輔兼親に下し行いたり。
「位記請印」
その後家通卿陣に着き、位記(いき)請印(しょういん)を行う。
(注釈)
減服
御常膳
詔(みことのり)・・・天皇のことば。
頭中将(とうのちゅうじょう)・・・近衛の中将と蔵人所の蔵人頭を兼任。
中務(なかつかさ)・・・中務省(なかつかさしょう)、天皇の側近に侍従する。
輔(すけ)・・・省の次官。
位記(いき)・・・叙位(官位を授ける)の旨を記して天皇が授与する文書。
請印(しょういん)・・・規定の文書に内印(天皇の印)または外印(げいん、太政官の印)を押すこと。

5月23日
「最勝講終わる」
最勝講終わりなり。右大将(良通)参入す。事終わり後参入す。不敵(適?)なり。但し申の刻(16時)以前夕座終わりたり。摂政(基通)今夜方違えあるべきに依り急ぎ行はると。頗る過法か。
(注釈)
夕座・・・夕方設けられる読経などの座。
方違え(かたたがえ)・・・陰陽道の俗信、出かけるとき、良い方角の家に一泊して方角をかえて行くこと。

5月29日
「内侍所三ケ夜臨時御神楽」
今夕より三ケ夜内侍所に於いて神楽行われ、征討の事、並びに治承四年摂州に渡し奉る事を祈請せらると。
(注釈)
内侍所(ないしどころ)・・・紳鏡をまつってある所。
神楽(かぐら)・・・神社で神をまつるために奏する歌舞。
摂州・・・摂津、今の大阪府、兵庫県の一部。
祈請(きせい)・・・神仏に祈り請う事。

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2005年10月23日 (日)

1183年 (壽永二年)4月

1183年 (壽永二年 癸卯)

4月1日
「平座」
平座(ひらざ)、上卿(しょうけい)は権中納言(藤原)家通と。恒例により春日朔弊(さくへい)、午上神斎例の如し。
(注釈)
平座(ひらざ)・・・天皇が出御しないときの略儀。床に着座。
上卿(しょうけい)・・・政務・儀式を指揮する公卿
春日(かすが)・・・春日神社(奈良市春日野町)
朔弊(さくへい)・・・国司が朔日(一日)に奉弊(ほうへい)
奉弊(ほうへい)・・・神に幣帛(へいはく)をささげること。
幣帛(へいはく)・・・神にさしあげる物の総称。
午上(うま、うえ)・・・午(昼12時頃)、2時間の始めの40分
神斎(神祭?)・・・神道の法式によって行う祭り。

4月2日
大将(九条良通、兼実長男)亭に行き向かう。その間(大夫史、小槻)隆職宿祢来ると、来る5日任大臣(の儀式)一定と、響禄を儲けるべからずに依り、兼ねて宣旨有るべからずと、
「平野祭」
この日平野祭り(平野神社、北区にある)、(権中納言藤原)家通宣命を奏す、木工頭(平)棟範を使わしむと、
(注釈)
任大臣(にんだいじん)・・・大臣に任ぜられること。

4月3日 天気晴れ、
中御門大納言(藤原宗家)・宰相(参議)中将(藤原定能)等来る、
「良通催馬楽を習う」
大将(九条良通、兼実の長男)催馬楽(さいばら)(庭生)を、亜相(大納言実定)に習う、(藤原、女房の兄弟)定能卿密に語り云う、今度の中納言、三位中将藤原頼実任ずべしと、二位中将(兼房、兼実の兄)の為実に哀れな事也、左右能わずと、去年の春すでに、任せられるを欲す、時に臨み改易(かいえき)す、今他人を補せられる、運報の至り左右する能わざるか、先日(藤原)定長に付け示す。然れども未だ申し達せざるか。
「二位中将兼房兼実に遺恨あり」
凡そこの人、余に殊に遺恨有り。敢えて会釈無し、然れども、家を憶ふに依り、再三推挙を取る。許容無しの条、又愚兄の過失に非ざるのみ、
「兼実大臣を良通に譲る由世間謳歌す」
定能又語り云う、余(右)大臣を大将(良通)へ譲るべしの由、世間謳歌し、一定の由遍く申さしむと、この事許容有るべくば、尤も大望なり。去年奏聞すと雖も、丞相(左右大臣)辞退の事すでに以て許さず。殆ど逆鱗(げきりん)に触れる、況や譲与の条、更に叶うべからず。よって申し出ずの処、世の推す所、大将の丞相(大臣)すでに仁に当たるか、退いて猶思慮を加え左右すべし。猶年齢幼少なり、今一両年相待つべしか、今年厄が重なるなり、旁(かたはら)謙譲すべしか
「梅宮祭」
今日梅宮祭、上卿中納言(平)頼盛卿。
(注釈)
宰相(さいしょう)・・・参議
亜相(あしょう)・・・大納言
催馬楽(さいばら)・・・平安の歌謡
改易(かいえき)・・・官職をやめさせて他の人に代わらせること。罷免。
逆鱗(げきりん)・・・天子の怒り。
丞相(じょうしょう)・・・大臣の異称
梅宮(うめのみや)・・・京都市右京区楳津

4月4日 雨下る、
弥勒講に依り御堂に参る、今日(今旦陽広)仏厳聖人来る、法文の間の事を示す。
「任大臣大饗なし」
今日任大臣なり、大響(たいきょう)無し、希代の例なり、
「藤原実定を内大臣に任ず」
内大臣藤実定。
大納言実房、(正に転ずるなり)、権大納言平頼盛、
中納言藤成範、朝方、平教盛、(巳上正に転ずるなり)、
権中納言藤頼実、参議藤脩(しゅう、おさ)範、
今日の儀、大外記(太政官の6等級)(清原)頼業注進の状此の如し。
(注釈)
大響(たいきょう)・・・盛大な饗宴

4月5日 朝より雨降る、申の刻(16時)止む、
「大外記頼業注進状」
今日任大臣(にんだいじん)の事有り、先ず左相府(左大臣、経宗)大外記頼業を召し、任大臣の事有るべし。所司を召し仰すべきの由を仰す、未の刻(14時)権大納言実房卿・新権中納言家通卿、参議親宗朝臣、仗座(陣座、じんのざ)に着く、蔵人頭左近中将(藤原)隆房朝臣陣に出て、内弁(首席)の事を仰す。上卿(しょうけい、政務・儀式を指揮する公卿)外座へ移るの後、更に進み宣命の趣を仰す。(内大臣藤原実定、大納言同実房、権大納言平頼盛、中納言藤成範、同朝方、平教盛、権中納言藤頼実、参議同脩範、)即ち大内記業実を召しこれを持ち仰す、上卿(経宗)弓場代に進み、隆房朝臣宣命を奉したり。権大納言忠親卿・権中納言実家卿・家通卿・参議経房卿・親宗朝臣外弁(げべん)の座に着く、(降雨に依り中門外南腋(わき)に座を設く)少納言有家・外記・史以下これに着く、(弁遂に着座せず)仗に近く階下に陣す、(左中将平清経朝臣中門内の南腋に立つ、右少将顕家朝臣西腋廊内に立つ)。
「内弁実房」
内侍(ないし)東檻(かん、おり)に臨み、内弁実房卿殿に昇り舎人(とねり)を召し、少納言有家進みて版(へん)に就く(中門内北腋)。内弁の宣を承りこれを召す。権大納言忠親卿以下は中門内の北腋に列立す(弓場代北第二間)。内弁経房卿を召して宣命を給わる。内弁列に復する後宣制すと云う、内府(実定)大宮白河御所を申請しおはせらる。饗禄無し。又勅使無しと。
(注釈)
仗座(じょうざ)・・・陣座、じんのざ、朝廷の公事の座席。
内弁(ないべん)・・・首席の公卿。
外弁(げべん)・・・第2位の公卿。
内侍(ないし)・・・内侍司(ないしのつかさ)の女官。
舎人(とねり)・・・下級官人。
版(へん)・・・目印の板。
饗禄(きょうろく?)・・・酒食のもてなし、任官するものに下付される給与。
勅使(ちょくし)・・・天皇の意思を伝達するため派遣される特使。

4月6日 天陰
「内府家(藤原実定)に慶賀を遣わす。」
(藤原)基輔朝臣を以て内府(藤原実定)家に遣わす。慶賀の事を示す。出行の間、示し置き云う。直ちに帰りたりと。

4月8日 
「灌仏」
灌仏会(かんぶつえ、釈尊の降誕を祝う)は常の如し。

4月9日 
「祭除目」
この日祭りの除目行われると。上卿家通卿、参議(藤原)泰通朝臣と。
「大将還宣旨」
叉内大臣(実定)が大将の還り宣旨を仰せらる。大外記頼業仰せを奉ると。
「北陸征討の事を祈り申す」
今日北陸征討の事に依り、太神宮以下祈り申されると。伊勢以下十六社。神祇官(じんぎかん)人等各籠もり参る、五日祈り申すと。
(注釈)
神祇官(じんぎかん)・・・神祇をつかさどる。

4月10日 
「除目聞書を披見す」
除目聞書を披見す。耳目を驚かす事、先々に超過す。中務少輔(源)兼親、(この事下官推挙すべしの由再三申しむ、不当に依り執り申さず、しかるに寵臣の女房(成房の妻)につき奏達すと)、少将(藤原)宗長、(刑部卿頼輔の孫、豊後前守頼経の子、近日の寵臣と)三品両人(源顕信・藤原季能)等、未曾有の事なり。凡そ末代の人、官位の望み、敢えて其の詮無しの事か。弾指すべし、弾指すべし。

4月13日
「賀茂祭警護」
武者の郎従等、近畠を刈り取るの間狼藉と。警護の上卿(しょうけい)(中納言藤原)実宗卿と。
(注釈)
狼藉(ろうぜき)・・・乱雑なさま、理不尽に他を犯すこと、乱暴、暴行。
上卿(しょうけい)・・・政務・儀式を指揮する公卿

4月14日 雨下る、
「武士等狼藉」
武士等狼藉昨の如しと、凡そ近日の天下この事に依りて上下騒動す、人馬雑物、眼路に懸かるにより横に奪ひ取る、
「平宗盛に訴えるも止まず」
前内大臣(平宗盛)に訴えると雖も、成敗する能わず、制止有りと雖も、更に以て制法に拘わらずと。他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り、仍って前内大臣の許に示し遣わす。制止すべしの報有りと雖も、更に其の終始無し、実に悲しむべき世なり。
(注釈)
濫吹(らんすい)・・・秩序を乱すこと。乱暴、狼藉。

4月15日
「賀茂祭」
賀茂祭(かもまつり)なり。内蔵助清科重栄、右近少将藤成定、右馬権助朝房、皇后宮大進(だいしん)親雅等供奉すと。
(注釈)
賀茂祭(かもまつり)・・・京都の賀茂神社の祭り。
内蔵助(くらのすけ)・・・内蔵寮(くらりょう)の次官
内蔵寮(くらりょう)・・・天皇の宝物や日常用品の調達などの役所。
右近(うこん)・・・右近衛府(うこんえふ)の略、近衛府(このえふ)の一つ。
近衛府(このえふ)・・・皇居警備などの武官の府。長官は大将、次官は中将・少将。
右馬助(うまのすけ)・・・右馬寮の次官
権(ごん)・・・定員外の権(かり)の地位
右馬寮(うまりょう、めりょう)・・・官馬の役所
大進(だいしん)・・・中宮などの判官のうち上位のもの)
供奉(ぐぶ)・・・ともをすること

4月16日
「解陣」
解陣なり。忠親卿これを行う。頭中将隆房巳下直列すと。
(注釈)
解陣・・・臨時の警護の陣を解くこと。

4月17日
時忠卿着陣、左大弁経房、右少弁兼忠等、申文(もうしぶみ)ありと。
(注釈)
申文(もうしぶみ)・・・下位の者から上位の者へ申し上げる文書。

4月18日
「吉田祭」吉田祭なり。上卿権中納言家通卿。
(注釈)
吉田・・・吉田神社、京都市左京区吉田神楽岡町

4月19日

4月20日
「公卿勅使定」
公卿勅使の定め。上卿宗家卿、五位蔵人親経奉行、右中弁光雅行事の弁たりと。今日大内記光輔を召し宣命の趣を仰す。勅使参議通親卿、殿上に参り仰せを承る。宸筆(しんぴつ)宣命の草、文章博士(もんじょうはかせ)光範これを承ると。
(注釈)
奉行(ぶぎょう)・・・命により行事を執行すること。
弁・・・弁官、太政官の職、左右、大・中・少がある。
内記(ないき)・・・宣命の起草などの記録。大・中・少あり。
宸筆(しんぴつ)・・・天子の直筆の手紙
文章博士(もんじょうはかせ)・・・大学の詩文と歴史の教授

4月21日 晴れ
「石清水臨時祭」
石清水臨時祭なり。左近権中将平清経使いとなる。権大納言宗家宣命を奏す。去る月穢れ気に依り延引の由の辞、別に載せられると。右大将(良通)参入す。
(注釈)
石清水(いわしみず)・・・石清水八幡宮
穢(わい、けがれ)

4月22日
「平頼盛拝賀」
今日、余院に参る。この日権大納言頼盛卿拝賀と。

4月23日
「征討将軍発向」
征討将軍等、或は以前に、或いは以後に、次第に発向、今日皆おわりたりと。

4月24日 
この日堂に向かう。賀茂幸平来る。切り立ちの事あり。大将(良通)の命に依るなり。女房等行向かう。

4月25日 
「神宮穢疑につき御卜行わる」
神宮穢れ疑いあり。公卿の勅使延ぶべきや否や御占いあり。蔵人宮内少輔親経、官寮を中門辺りに召し、これを占い申さしむと。官吉の由を申し、寮快からざる由を申すと。
「平宗盛に頼朝・信義追討を仰す」
又左大臣(経宗)左中弁兼光朝臣に仰せて云う、源頼朝・同(武田)信義等、東国・北陸を慮椋し、前大臣(平宗盛)に仰せ、追討せしむべしといえり。
(注釈)
摂政(せっしょう)・・・君主に代わって政務を行う。

4月26日 晴れ
「伊勢公卿勅使進発す」
今日公卿の勅使進発す。上卿宗家卿、使宰相中将通親卿、摂政(基通)宸筆の宣命を清書す。但し摂政神祇官に参らず。上卿巳下参向発遣す。御願いの意趣、今年御厄(やく)、並びに近日の異変、及び追討等なりと。

4月27日 雨下る。
「摂政内舎人隋身を辞す」
今日、摂政内舎人(うどねり)の隋身を辞する表を上らる(兼光これを作り、親雅これを書く)忠親卿勅使の事を行う。大内記光輔これを作る。表の使い右少将成定、勅答使左中将通資朝臣と。その後吉書あり例の如し。
「内大臣実定拝賀」
内大臣(実定)の拝賀、扈(こ、したがう)従公卿大納言実房、中納言実家、実宗、参議経房等と。
(注釈)
内舎人(うどねり)・・・天皇の雑役や警衛。
表(ひょう)・・・臣下から天子に奉る文書。
勅答(ちょくとう)・・・天皇が臣下に答える。
勅答使・・・勅答を伝達するために遣わされる使者。

4月29日 
「蹴鞠(けまり)」
この日堂に向かう。少将親能(定能卿息、生年15歳)来たり蹴鞠。容貌美麗、また堪能たり。尤も歎美するに足る。

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2005年10月22日 (土)

1182年 (壽永元年)10月11月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

10月9日 「吾妻鏡」
「城の四郎永用と木曽の冠者義仲と合戦」
 越後の住人城の四郎永用、兄資元(当国守)が跡を相継ぎ、源家を射奉らんと欲す。仍って今日、木曽の冠者義仲北陸道の軍士等を引卒し、信濃の国築磨河の辺に於いて合戦を遂ぐ。晩来に及び、永用敗走すと。
(横田河原の合戦のようであるが、玉葉、吉記と比較しても、ミスのようである。)

11月17日 天晴 
「太神宮の禰宜等東国に同意する風聞」
 権右中弁行隆、院の御使として来たり云く、太神宮(伊勢)の禰宜(ねぎ、神主の下の神職)等東国に同意するの由風聞有るの條、尋ね問わる文書此の如し。罪科有るべきや否や。計らい申すべしといえりと。
(余申して云く、縦え祭主と雖も、謀叛に同意するの者、爭でか沙汰無きや。但し此の如き浮説、これ文書の如きは、慥に証拠見えざるか。猶嫌疑の者に尋ねられ、所犯の実に随い、沙汰有るべきか。)

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2005年10月21日 (金)

1182年(壽永元年)7月8月9月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

7月28日 丙申 時々雨降る [吉記]
「宗盛の家来が東国へ逃げる」
 伝聞、前の馬の允(じょう、四等官)行光(三條宮侍専一の者なり)・前の瀧口(実名を知らず。馬大夫式成男、重衡卿侍)・上野の国住人奈越の太郎家澄等(当時前の大将の許に祇候す)、都廬五十人ばかりの者、二十三日出京し坂東に赴く。近江の国高島に於いて成すこと無く搦め留めらる。或いはまた逃げ下ると。

瀧口・・・滝口の陣の宮中の警衛の武士

7月29日 丁酉 天晴 
「宗盛の家来が東国へ逃げる」
 早旦、全玄僧正来たり。大将を訪うなり。語りて云く、前の幕下(宗盛)年来召し仕う所の侍両三人、引率し東国に逃げ去る。三條宮の子宮を具し奉ると。而るに路頭に於いて、皆悉く搦め留められたりと。また或る人云く、讃岐(さぬき、香川県)の前司重季北陸道に向かいたり。事もし実ならば、左右に能わざる事なり。

8月19日 丁巳 天霽 [吉記]
「追討使近江の国叶い難き」
 左中弁藤原光長語る、何ぞ況や追討使下向の者、近江の国の勤めいよいよ叶い難きか。

8月20日 [吉記]
「伯耆の国成盛基保と合戦す」
 風聞に云く、伯耆(鳥取県の西部、伯州)の国住人成盛(海六と称す。先年基保の為滅亡せらる者なり)と基保(小鴨の介と称す)と合戦す。基保追い落とされ、死者幾千を知らず。出雲(いずも、島根県東部、雲州)・石見(いわみ、島根県西部、石州)・備後(広島県の東部)等の国々与力すと。

8月25日 雨下る 
「北陸道の追討使また猶予」
 伝聞、北陸道の追討使また猶予出来す。毎事ただ支度の沙汰無きか。不便々々。

9月15日 「吾妻鏡」
「木曽義仲追討軍京都に帰る」
 木曽の冠者義仲主を追討せんが為北陸道に発向する所の平氏の軍兵等、悉く以て京都に帰る。すでに寒気に属き、在国難治の由披露を成すと雖も、真実の躰、義仲が武略を怖るが故なりと。

9月20日 [吉記]
「北陸の賊徒すでに江州を掠領せんとす」
盛職江州より脚力を上げて云く、北陸の賊徒すでに江州を掠領せんと欲す。若州(わかさ、福井県西部)閑かならずと。

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2005年10月20日 (木)

1182年 (養和2年)4月、5月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

4月15日 朝間、大雨大風 
「法皇御登山の間洛中の武士騒動」
 早旦、天下騒動の事出来す。以ての外謬事の故、この事出で来たる有るか。昨日、法皇御登山の間、山僧等法皇を盗み取り奉るべき由、今旦その告げを得て、洛中の武士騒動す。忽ち数多の騎を率い、坂下に向かう。僻事に依って空しく帰りたり。

4月19日 
「十五日の浮言は全玄僧正か」
 伝聞、十五日の浮言、全玄僧正前の大将(宗盛)に告げるの由風聞す。山僧等大に欝し、件の僧正を払わんと欲すと。大いに由無き事か。

5月11日 雨下る 
「菊池貞能の許に帰降」
 伝聞、菊池が貞能の許に帰降し来たると。西海の安穏。天下の悦びか。

5月27日 丙申
「壽永と改元さる」
 改元、養和二年を改め、壽永元年と為す。この日改元なり。左大将上卿(実定)、公卿七八人ばかり参入す。壽永(俊経卿撰び申すと)を用いらる。改元全く物の用に叶うべからざる事か。

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2005年10月19日 (水)

1182年 (養和2年)2月、 3月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

2月

2月22日 天晴 [吉記]
「人人を食う事実無し」
 伝聞、五條河原の辺、三十歳ばかりの童死人を食うと。人人を食う、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事たるに依って、なまじいにこれを注す。後聞、或る説に、その実事無しと。

2月25日 雨降る [吉記]
「北陸道追討使下向すべし」
 平中納言(頼盛)示す、菊池高直亡び落ちたり。城中大火焼死の由風聞す。後聞、すでにこれ無実なり。蔵人少輔示し送りて云く、新平中納言(知盛)北陸道を下向すべし。追討使たりと。

3月

3月12日 天晴 
「頭の弁親宗院の御使として宗盛第に向かう」
夜に入り人伝えに云く、今日午の刻(12時)ばかりに、頭の弁親宗朝臣、院の御使として前の幕下(平宗盛)の第(やしき)に向かう。(何事か知らず)
「宗盛親宗を責める」
大将人を以て親宗に示して云く、天下の乱、君の御政の不当等、偏に汝の所為なり。故禅門(平清盛)は、遺恨有るの時、直にこれを報答す。宗盛に於いては、尋常を存じ、万事存ぜざるが如く、知らざるが如し。仍って事に於いて面目を損ず。頗る怨み申す所なりと。
「親宗門を閉じる」
親宗迷惑す。逐電し退出の後門戸を閉めたりと。

3月17日 天晴 [吉記]
「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
近日諸国の庄々「兵粮米」重ねて苛責有り。使庁の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。

3月19日 天晴 [吉記]
「道路に死骸充満」
道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。

3月21日 天晴 [吉記]
「北陸鎮西戦況の風聞あり」
風聞に云く、筑後の前吏(源)重貞脚力を上ぐ。謀反の源氏等すでに越前の国赴きたりと。肥後の脚力到来す。菊池未だ落とされず。(平)貞能の管国公私物を点定するの外、他の営み無しが如しと。訴えるに所無きを謂うか。

3月25日 陰晴不定 [吉記]
「強盗・火事連日連夜」
今夜火有り。押小路高倉なり。近日強盗・火事連日連夜の事なり。天下の運すでに尽きるか。死骸道路に充満す。悲しむべし悲しむべし。

3月30日 天晴 [吉記]
「追討使貞能肥後の国国務を押領す」
肥後の国目代久兼が脚力来たり。追討使貞能すでに国務を押し取り、目代を逐い出したりと。当世の法驚くべからざるか。

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2005年10月18日 (火)

1181年 (養和元年) 11月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

養和元年 11月

11月12日 天晴 
「関東の賊、入洛すべからず」
 伝聞、大将軍方を憚るに依って、年内関東の賊、入洛すべからず。節分以降、左右無く入洛すべしと。

11月20日 天霽 [吉記]
「北陸道追討使通盛帰京すと」
 北陸道追討使中宮の亮通盛朝臣以て帰京すと。

11月25日 雨下る 
「中宮職院号定めなり建礼門院」
 この日、中宮職院号定めなり。左大臣・左大将已下公卿十許輩参陣すと。女院の儀、進表に依って、全く別事無し。建礼門院と号し奉ると。

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2005年10月17日 (月)

1181年 (養和元年)10月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

10月4日 天晴 
「平氏諸国追討に赴く」
 伝聞、来十一日、知盛・清経等越前の国に向かうべし。重衡東国(東海道・東山道)に赴くべし。維盛昨日近江の国に下向す。これ猶北陸道を襲うべきの手と。頼盛卿、紀伊の国に下向すべしと。

10月6日 
「東海道・東山道武士等出来す」
 伝聞、海道・山道、共に奥より、武士等出来するの由風聞すと。

10月10日 天晴 
「越前等の武士路を開くは謀によるか」
 或る人云く、越前・加賀等の武士、切り塞ぐ所の路を開く。国内無人と。若くは官兵を引き入るべきの謀か。還って怖れ有るの由、人々云いせしむか。明日官軍の下向延引す。来十三日と。先日定めらる所の手々相違し、知盛卿以下下向せずと。北陸道、知度・清房(以上故禅門子息等なり)。この外、重衡卿・資盛朝臣等、野宇美越に同じく北陸に向かうべしと。維盛・清経等の朝臣、海道・山道を兼ねるべし。頼盛卿息二人、熊野方を襲うべし。前の幕下(宗盛)・教盛・頼盛・経盛等、洛中を護るべし。已上の勢、相並び五六千騎に過ぎず。而るに手々に相分ち、各々行き向かわば、京中の武士僅かに四五百人か。頗る恐る所無きに非ずと。

10月11日 陰晴不定 
「熊野行命法眼伐落とさる」
 伝聞、熊野の行命法眼(南法眼と称す。熊野の輩の中、ただ一人官軍に志有る者なり)、上洛せんと欲するの間、散々伐ち落されたり。僅かに身命を存すと雖も、子息郎従一人残らず伐ち取られたり。その身山中に交わると雖も、安否猶不定と。これ志賀在庁の者の所為と。今に於いては、熊野方一切異途無く一統したりと。また聞く、追討使等、今日の下向延引す。来十三日猶未だ一定せずと。越前の国無人の由聞こえ有り。謬説と。殆どその勢数万に及ぶの由、今日逃げ上る所の下人、談説せしむと。

10月13日 陰晴不定 
「追討使等下向延引」
 今日、追討使等下向すべしと。而るに延引す。来十六日と。伝聞、吉野の法師原、高野(庄論の由を称す)に向かうべきの旨、風聞を成す。その実、南都に打ち入り、平家の郎従等を誅伐し、その後入洛すべきの由謳歌す。この條、実否を知らずと雖も、衆徒蜂起に於いては一定と。

10月16日 天晴 
「藤原秀衡官軍方に候ずるという」
 或る人云く、貞能鎮西を平らぐの輩を召し具し、上洛すべしと。また秀平の許に遣わす所の大宮亮、使者を献じ、秀平官軍方に候すべきの由、領状(承諾する旨を記した書状)を進すと。

10月27日 陰晴不定 
「頼朝上洛すという」
 或る人云く、頼朝必定すでに上洛を企て、去る二十一日尾張保野宿に付くべきの由と。然れども、両三日延引か。いかさまにも入洛は決定、竹園(皇族の雅称)に於いては、相模の国に留め奉る。上総の国住人廣常(介の八郎と称す)を以て守護し奉ると。行家すでに尾張国内に入ると。また聞く、北陸道去る二十四日襲い攻めんと欲す。然れども、無勢に依ってまた延引す。年内合戦に及ぶべからずと。

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2005年10月16日 (日)

1181年 ( 養和元年)9月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
養和元年9月

9月1日 陰晴不定 [吉記]
「北陸道合戦の風聞あり」
或る者云く、(平)通盛朝臣越前(福井県東部)の国府に在り。而るに去る月二十三日、賊徒国中に乱入し、大野・坂北両郷を焼き払う。加賀(石川県南部)の国住人等が所為と。勝負今明在り。猶官軍を加えらるべきの由、脚力を差し申し上げると。近日連々の風聞此の如き事なり。

9月2日 天晴 
「平通盛北陸道賊徒征伐能わず」
伝聞、北陸道の賊徒、熾盛(しじょう)なり。通盛朝臣、征伐すること能わず。加賀以北、越前の国中、猶命に従わざるの族有りと。

9月3日 「吾妻鏡」
「越後の守資永頓滅」
 越後の守資永(城の四郎と号す)勅命に任せ、当国の軍士等を駈り催し(集め)、木曽の冠者義仲を攻めんと擬すの処、今朝頓滅す。これ天譴(てんけん、天罰)を蒙るか。
   従五位下行越後の守平朝臣資永
     城の九郎資国男、母将軍三郎清原の武衡女
     養和元年八月十三日任叙

9月4日 「吾妻鏡」
「木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛」
 木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛す。而るに先陣根井の太郎越前の国水津に至り、通盛朝臣の従軍とすでに合戦を始むと。

9月6日 天晴
「熊野湛増関東赴くという」
伝聞、熊野権別当湛増坂東に赴きたりと、
「菊池と原田同心し平貞能を妨たげんとす」
鎮西の謀反殊に甚だし。菊池と原田と元は怨敵と雖も、すでに和平し、同心し貞能を訪はんと欲す。貞能備中(岡山県西部)の国に逗留し、兵粮米を望み申すと。

9月9日 天晴
伝聞、通盛朝臣、越前・加賀の国人等の為頗る敗られたり。すでに上洛を企つと。但し実説これを尋ねるべし。
「湛増法皇に書札を進すという」
また聞く(この事一昨日聞く所、忘却し今日これを記す)、熊野の別当湛増、使人に付け書札を院に進す。これ関東に向かうと雖も、全く謀叛の儀に非ず。公の為、僻事有るべからずと。此の申し状尤も多く不審かな、

9月9日 [吉記]
「越前合戦に於いて官軍敗れる」
越前の合戦すでにおわり。官軍破られ、中宮の亮(すけ、次官)(平通盛)敦賀に引退するの由、今日脚力到来すと。左右(そう、かれこれと言うこと)及ばずの事か。

9月10日 天晴
「平通盛軍敗退津留賀城」
通盛朝臣の軍兵、加賀の国人等の為追い降さる事一定と。仍って津留賀城に引き籠もり、軍兵を副うべきの由を申す。仍って武士等を遣わさんと欲すと。
9月10日  [吉記]
「越前合戦の実説を聞く」
越前合戦の事は実説と。去る6日兵衛の尉平清家を以て大将軍と為し、官軍を指し遣わし加賀境に於いて、合戦しむの間、当国住人新介実澄、従前従儀師最明(検非違使、藤原友実弟)等、初め官軍と為し発向の処、忽ち逆徒に同意し、後ろより攻め入りの由、通盛朝臣郎従宗者(一族の集団)を為し八十余人打ち出されたり。戦すでに敗れ、時通盛朝臣猶国府に在り、無勢に依り、重ねて攻め寄せる能わず、敦賀(福井県南部)へ引き退きたりと。委細以て実説猶注記すべし。官軍破れの条、天変の符合か。朝の大事何事この如しや。但し以て世間轟々か。

9月11日 天晴
伝聞、(平)教経(敦盛卿の子)・(平)行盛等、副将軍として北陸道に下向すべし。また(平)重衡卿等、東国に赴くべしと。

9月12日 天晴
「経正若狭に在るも国境を越えず」
伝聞、通盛津留賀城を逃れ、山林に交りたりと。但し実説知り難し。経正朝臣猶若狭(福井県西部)に在り。全く国境を越えず。通盛件の朝臣を待ち、寄せんと欲するの間、遅々す。遮って追い落されたり。経正不覚の致す所の由、世以て謳歌すと。

9月13日 雨降り
「北陸道追討使の下向未定」
伝聞、北陸道の追討使、下向未だ定まらずといえり。由緒を知らず。片時と雖も、急ぎ下さるべき事か。

9月16日 天晴れ
大外記頼業来たり語り云う、
「賊勢強大にして官軍力なし天皇・院以下を奉じ西行するか」
此の次ぎ密かに語り云う、四方の賊勢甚だ強大、官軍敵対すべからず、もし然らば至尊(天皇)を具し奉り・射山(法皇)(時忠)きか宗(本家)たる臣下等、定めて西行せしむるか、万人只彼の期を以て限りと為すべきか。悲しむべし悲しむべし

9月19日 晴 
「君臣を引卒し、海西に赴くべきの」
伝聞、君臣を引卒し、海西に赴くべきの由、すでに一定せられたり。然れども、故(ことさら)に他聞に及ばず。卒爾(にわかに)にその儀有るべしと。天下ただこの時に在るか。悲しむべし、悲しむべし

9月20日 晴
「東国・北陸共に以て強大」
伝聞、東国・北陸共に以て強大す。官軍オウ弱と。

9月21日 霽 [吉記]
「宗盛故頼政郎等を捕えんとし郎等自殺す」
後聞、故頼政法師郎等彌太郎(埴生)盛兼嫌疑の事有り(故三條宮、以仁王の間の事と)。前の按察侍家(源資賢)に於いて、前の幕下(平宗盛)武士を遣わし、搦めんと欲するの間、件の盛兼自殺死す(喉笛を掻き切る)。また前の少納言(藤原)宗綱入道前の按察(あんさつ、しらべること)の許より搦め出さると。未曾有の事なり。

9月24日 雨降る
「大和国大福庄源氏の為焼かれたり」
伝聞、大和の国前の大将(宗盛)の庄(大福庄なり)、源氏(二川三郎と称すと)の為焼かれたり。奈良の悪僧少々相交じると。

9月27日 天晴れ
「平行盛進発す」
今夜光り物ありと。行盛朝臣、今日門出す。北陸に赴くべしと。

9月28日 雨降り
「熊野法師謀反鹿背山を切り塞ぐ」
伝聞、熊野の法師原、一同反きたり。鹿背山を切り塞ぐ。これに因って、(平)頼盛卿追討使として下向すべきの由、仰せ下されたり(紀伊の国、彼の卿知行たり)。
「高野山騒動す」
又高野の御山、聊(いささ)か騒動有り、源氏武士少々くだんの山に籠もると。
「東国の輩、上洛近く」
また聞く、東国の輩、上洛近くに在り。すでに参河・尾張等に及ぶ。仍って前の幕下郎従等、且つは伊勢・美濃等方へ遣わすと。

9月29日 陰晴不定 
「平宗盛関東攻め来る時西行すべしという」
源(雅頼)中納言来たり世間の事等談ず。伝聞、前幕下(平宗盛)西行の事忽ち然るべからず、関東攻め来るの時其の儀在るべしと。又前大将(平宗盛)天下の事知るべからずの由、起請せしめたりと。

9月30日 陰晴不定 
「宗盛善政の方策を頼業に尋ねる」
大外記頼業云く、一昨日前の幕下(平宗盛)の許より、使者を送られ謁せしむの処、示されて云く、天下の事、今に於いては、武力叶うべからず。何の計略を廻すべしや。

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2005年10月15日 (土)

1181年 ( 養和元年)8月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年)
養和元年8月

8月1日 天気陰、
伝聞、前幕下(宗盛)其の勢逐日減少し、諸国武士等敢えて参洛(上洛)せず。近日貴賤の領を奪い武勇の輩に賜ひ、先々に於いて万倍す。然れども其の郎従等忿怨に随い、或いは違方の者有り。凡そ其の心を得ず、恐らく運報傾くかと。
「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」
又聞く、去る日(源)頼朝密々に院に奏し云う、全く謀反の心無し。ひとえに君の御敵を伐つ為なり、
「頼朝源平両氏共に用うべき旨を申す」
もし猶平家滅亡されるべからずば、古昔の如く、源氏・平氏相並び召し仕うべし、関東源氏之の進止(進退)となし、海西平氏の任意になし、共に国宰(大臣、国司)においては、上より補されるべし。只東西の乱を鎮める為、両氏に仰せ付けられて、暫く御試み有るべきなり。且つ両氏孰(いず)れか王化を守り、誰か君命を恐るるや、尤も両氏の翔(ふるま)ひをご覧すべきなりと。此の状を以て、内々前幕下に仰せられる。
「平宗盛頼朝の密奏を退けるという」
幕下申し云う、此の儀尤も然るべし。但し故禅門(清盛)閉眼の刻、遺言して云う、我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸(がい、しかばね)を頼朝の前に曝すべしと、然れば亡父の誡め、用いざるべからず、よって此の条に於いては、勅命を為すと雖も、請け申し難きものなりと。此の事最も秘事なり、人以て知らずと、すでに以上の事等、兵部(兵部省、軍政・武官を担当)少輔、藤原尹(いん)明、密に語る所なり。件の男、前幕下(宗盛)の辺に伺候する人なり。平定能、鎮西(九州)下向必定、人以て奇を為すと。大略逃げ儲け(用意)の料(おしはかる)といえり。、

8月2日  天晴 
 伝聞、駿河の国より上洛の下人(大膳大夫平信兼の郎従、即ち件の人、知行の庄沙汰者と)の説に云く、頼朝朝臣の儲け(設け)と称し、仮屋数宇を造作す。凡そ路次の国、粮米経営の外、他事無しと。

8月6日 早旦甚雨、終日陰 午後微雨
未の刻(14時)頭弁(経房)来たり、院の仰せを伝えて云わく、
「関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず」
関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず。余勢強大の故なり。京都の官兵を以て、輙(ちょう、すなわち)く攻め落とし難きか。
「秀衡の処遇」
仍って陸奥の住人秀平を以て、彼の国の史判に任ぜらるべきの由、前の大将申し行う所なり。件の国、素より大略虜掠す。然れば、拝任何事か有らんや。如何、
「平助職の処遇」
また越後の国の住人平助職、宣旨に依って信濃の国に向かう。勢少なきに依って軍敗れしは、全く過怠に非ず、志の及ぶ所、すでに身命を惜しまず、忠節の至り、頗る恩賞有るべきか、且つは傍輩を励ましめんためなり、しかし其の法如何、忽ち越州を賜はば、其の節を遂ぐる時如何、又只今の如くば、大略敵軍の為追い帰されたり、其の賞熟(いず)れの国を預くる、頗る其の謂われ無し、もし然るべく京官に任せらるべしか、進退の間、叡慮決し難し、宜しく計らひ奏せしむべしと、
 余申し云う、追討の間の事、ひとえに大将軍の最なり、しかるに前大将申し計らるる趣、異議に及ぶべからず、然れば秀衡奥州に任ずる、何事かこれ有らんや、助職の事或るいは位を授け、(先例有り)或いは京官に任ず、各定めて其の望み無きか、越州を賜ふ条、秀衡に准ぜば同じ事たりと雖も、両国空しく失せたりの条、実に思慮有るべし、これらの外恩賞の趣、愚案及び難し、凡そこれらの事、すべて以て道理の推す所に非ず、事すでに治し難し、よって後害を顧みず、謗(ぼう、そしり)難を知らず、当時の事を成さん為、行われるべき儀なり、然れば百千の事を行われると雖も、彼の雅意に叶わざれば、其の詮無かるべし、よって重ねて前幕下に仰せ合わせ、計らひ申さしむる趣に任せ、何事と雖も定め行われるべきなり、議定及ぶべからず、もし猶京官任ずべくば、靱負尉如何、(略)
余云う、秀衡宰吏に任じ、助職は郡司に補す、
(注釈)
靱負尉(ゆぎへのじょう)・・・・御所を警護する衛門府の役人、三等官相当。
京官(きょうかん)・・・京都に在住・勤務する官吏。
宰吏(さいり)=国司

8月8日 天晴 
「能登国反く」
伝聞、能登の国、法に反くの如したり。国司の郎従、頸を斧られたり。

8月12日 天晴 
「足利の俊綱頼朝に背く」
伝聞、足利の俊綱頼朝に背くの聞こえ有り。また秀平官軍に与力の心有りと。茲(ここ)に因って、京中の武士、昨今の間、聊(いささ)か雄を称すの気有ると。頼朝、秀平の聟たるの條謬説と。また聞く。頼朝甲斐の保田三郎義貞を伐ちたり。異心の聞こえ有るが故と。

8月13日 「吾妻鏡」
 藤原秀衡、武衛を追討せしむべきなり。平資永、木曽義仲を追討すべきの由宣下す。これ平氏の申し行うに依ってなり。

8月15日 朝雨、午後晴れ、
「除目有り、陸奥の守藤原秀衡、越後の守平助職」
去る夜、除目有り。隆職これを注進す。
    陸奥の守藤原秀衡
    越前の守平親房
    越後の守平助職
この事、先日議定有る事なり。天下の恥、何事かこれに如かずや。悲しむべし悲しむべし。大略、大将等、計略を尽きるか。この中、親房の事心得ず。通盛国司として下向す。忽ち他人を任ぜらる。如何々々。尋ねるべし、
8月15日 [吉記]
 朝間、前の大将より示し送らるる事有り。秀衡・助職等の事なり。相次いで院宣到来す。子細同前。
   太政官謹奏、
    陸奥国   守従五位下藤原朝臣秀衡
    越前国      守従五位下平朝臣親房
    越後国   守従五位下平朝臣助職
       養和元年八月十五日
親房は、基親息、前の近江の守なり。秀衡・助職の事人以て嗟歎(さたん、なげく)す。今朝、北陸道追討使但馬の守(平)経正朝臣進発す。郎従五百騎ばかりを率すと。
8月15日 「吾妻鏡」
 鶴岡若宮遷宮。武衛参り給うと。今日平氏但馬の守経正朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、北陸道に進発すと。

8月16日 [吉記]
「通盛北陸道追討使」
今朝中宮の亮(すけ、次官)(平)通盛朝臣北陸道の追討使として進発す。駒牽(けん、ひく)無し。信乃の国逆徒の為掠領せらるが故なり。
8月16日 「吾妻鏡」
 中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、また北陸道に赴く。伊勢の守清綱・上総の介忠清・館の太郎貞保、東国に発向す。武衛を襲わんが為なり。

8月20日天気はれ、
「法皇双六」
参院、御前に召されるを欲すと雖も、御双六始めの間、暫し伺候の由仰せ有りに依り、数刻伺候、猶御双六終わらず、よつて定能卿の相計りに依り退出したり。

8月23日 天晴 [吉記]
「伊豫の国通清誅伐」
伝聞、伊豫(愛媛県)の国の在廰川名大夫(越智・河野)通清誅伐せらると。

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2005年10月14日 (金)

1181年(養和元年)7月

1181年(養和元年)(治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

7月

7月1日
「城助職信濃の国を攻める」
右中弁兼光朝臣(氏院別当)相語り云う、越後の国勇士(城太郎助永弟助職、国人白川御館と号す)、信濃の国の追討を欲し、(故禅門(平清盛)前幕下(平宗盛)等の命なり)、6月13.4両日、国中に入ると雖も敢えて相防ぐの者無し、殆ど降を請うの輩多し、僅に城等に引き籠もる者に於いて、攻め落とすに煩い無かるべし、
「信濃源氏反撃す」
よって各勝ちに乗るの思いを成し、猶散在の城等を襲ひ攻め欲すの間、信濃源氏等三手に分かれ、(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)、俄に時を作り攻め襲うの間、嶮岨(けんそ)に疲れたる旅軍等、一矢を射るに及ばす、散々に敗れ乱したり、大将軍助職、両三所疵をおい、甲冑を脱ぎ、弓箭を棄て、僅か三百人を相率いて(元の勢万余騎と)、本国に逃げ脱したり、残り九千余人、或いは切り取られ、或いは嶮岨(けんそ)より落ち命を終へ、或いは山林に交わり跡を暗くし、凡そ再び戦うべしの力無しと、然り間本国在庁官人以下、宿意を遂げる為、助元を凌礫(りょうれき)すを欲すの間、
「会津城」
会津の城に引き籠もるを欲すの処、(藤原)秀衡郎従を遣わし、押領せんとす。よって佐渡の国に逃げ去りたり、その時相伴う所、纔(わずか)45十人と、是事、前の治部卿(藤原)「光隆」卿(越後国を知行の人なり)、今日慥(たしか)な説と称す、院に於いて相語る所なりと、 後に聞く、佐渡の国に逃げ脱する、謬説なり、本城に引き籠もると。
(注釈)
国人(こくじん、こくにん、在地の武士)
嶮岨(けんそ、通がけわしい、けわしい所)
凌礫(りょうれき、あなどりさげすむ)
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。
兼実の日記は漢文であるが、時々カタカナ、ひらがな(和歌)が使われる。
「平家物語」「猫間中納言」の項に出てくる猫間中納言光隆卿は何の用件で義仲を訪ねたのだろうか。

7月17日 天気晴れ、
「越中・加賀等国人東国に同意すという」
或る人云う、越中(富山県)・加賀(石川県南部)等の国人等、東国に同意し、暫し越前(福井県東部)に及ぶと。

7月18日 天気晴れ、
「平通盛北陸道に下向すという」
伝聞、(平)通盛朝臣北陸道に下向すべし、他の追討使、只今其の沙汰無しと。

7月21日 雨下る、
「播磨の国司に背く者有り」
伝聞、播磨の国(兵庫県南西部)又国司に背くの者有り、凡そ畿外諸国皆以て此の如しと。

7月22日 雨下る、
「城助職の勢衰えず」
人伝え云う、越後助職未だ死なず、勢又強く減せず、信濃源氏等掠領に似たりと雖も、未だ入部せずと。

7月24日
「能登・加賀東国に与力」
人伝えて云う、能登(石川県北部)・加賀等皆東国に与力したり、能登の目代(国守の代理)逃げ上がると。

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2005年10月13日 (木)

1181年 (治承5年)5月6月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

5月1日 晴 
「頼朝上洛せんとす」
 伝聞、頼朝すでに上洛せんと欲すと。これ武蔵の有勢の輩等、異心有り。凡そ各々一統せざるの間、その勢殊に滅らざるの前、素懐(かねてからの願い)を遂げんが為と。

5月6日 晴 
「吉野の大衆等蜂起」
 伝聞、吉野の大衆等蜂起し、(高倉の)宮の子と称する人ありと。よって院より奈良大衆に件の小宮を訪ね出すべき由を仰せらると。

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

6月14日  
「東国より牒状を山上に送る」
 前源中納言(雅頼)来る。伝聞、東国より牒状(うったえぶみ)を山上(比叡山延暦寺)に送る。その趣、我が方の祈りを勤修すべくば、東国の末庄、所領等の用途併せて山上に沙汰し送るべしと。而るに座主(明雲)件の状を以て前の幕下(宗盛)に見せしむ。また奏聞を経る。大衆これを聞き、大いに怒り云く、先ず衆徒に触るべきなり。しかるに引き籠め相触るる、尤も奇怪とする所なり。仍って座主と不和と。

6月27日 [吉記]
「越後城資職信乃の国に寄せ攻む」
風聞に云く、越後の国住人資職(城の太郎資永弟、資永去る春逝去)、信乃の国に寄せ攻め、すでに落ちたりと。
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。

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2005年10月12日 (水)

1181年 (治承5年)4月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

4月9日 天晴
「坂東武者尾張国に来たる」
或る人云く、坂東の武者、すでに尾張の国に来たると。

4月11日 天陰、時々小雨 
「坂東武者三河国に来たる」
坂東の武者等、すでに三河の国に越え来たると。

4月13日 [吉記]
「肥後国高直追討」
 殿下に参る。信清に付け條々の事を申す。肥後の国の住人高直追討の由、宣下せらるべき事(院よりこれを仰せらる)。

4月14日 陰晴不定 [吉記]
「肥後国菊池高直追討宣旨」
申の刻(16時)左府に詣ず。肥後の国の住人(菊池)高直追討の事宣下これを申す。早く下知すべきの由これを示し給う。
  治承五年四月十四日 宣旨
肥後の国(熊本県)の住人藤原高直、頃年(しきりのとし)以来恣(ほしいまま)に武威を振るい、忽ち皇化に背き、啻(し、ただ)に本住の州縣のみならず、既に傍(かたわら)国の郷土に及ぶ、偏に狼唳(れい)の心に任せ、旁(ぼう、そば、かたわら)々烏合の群を成す。しかのみならず海路に白波(盗賊)の賊徒を設け、陸地に緑林(盗賊)の党類を結ぶ。庄(荘園)公を論ぜず乃貢を奪い取り、蚕害を庶民に致す。蚕食を九国(九州)に企て、都府(みやこ)に及ばんと欲するに依り、府官並びに国々の軍兵等防御せしむの処、度々戦闘するの由、太宰府頻りに以て言上す。仍って追討使を遣わし征伐せらるべし。その間管内の戮力禁遏せらるべきの旨、院庁より使を差し下知せられ先にしたり。而るに奸濫いよいよ増し、寇盗未だ休まずと。叛逆の至り、責めて余り有り。宜しく前の右近衛大将平朝臣に仰せ、管内諸国の軍兵を催し(集め)、彼の高直並びに同意与力の輩を追討せしむべし。
                    蔵人頭左中弁藤原経房(奉る)

狼唳(ろうれい、狼の鳴き声?)
蚕食(蚕が葉を食うように片端から次第に他国の領域を侵略すること)
太宰府(筑前国筑紫軍に置かれた役所)
戮(りく、ころす)
禁遏(きんあつ、おしとどめてやめさせること)
奸(かん、よこしまな)濫(度が過ぎること)
寇盗(首位を盗む?)

4月21日 天晴 
「頼朝秀衡の娘を娶る約諾を成すという」
或る人云く、昨日常陸の国より上洛の下人有り。四十余日、前途を遂げ北陸道を廻り入洛すと。件の者相語りて云く、秀衡すでに没するの由無実なり。頼朝秀衡の娘を娶(めと)るべきの由、相互に約諾を成すと雖も、未だその事を遂げず。
「佐竹の一党の他は頼朝に乖く者無しという」
凡そ関東諸国、一人として頼朝の旨に乖く者無し。佐竹の一党三千余騎、常陸の国に引き籠もる。その名を思うに依って、一矢を射るべきの由存ぜしむと。その外、一切異途無しと。禅門逝く事、第八日風聞したり。また同心の助永、共に以て夭亡す。爰に頼朝且つ雄称(おたけび)して云く、我君に於いて反逆の心無し。君の御敵を伐ち奉るを以て望みと為す。而るに天罰を蒙るを遮りたり。仏神の加被、偏に我が身に在り。士卒の心、いよいよ相励むべきのものなりと。
「清盛死後坂東諸国いよいよ一統すという」
茲に因って禅門薨去の後、坂東諸国、いよいよ以て一統したり。上洛の條に於いては、追討使襲来の時、則ち追い帰し、その次ぎに伐ち入るべきの由、支度を成すといえり。様々の浮説の中、この説頗る指南に備うべきか。よって粗これを記す。

4月22日 
「武蔵の国有力の武士ら多く頼朝に乖くとの風聞あり」
伝聞、坂東の武士等、その意各々別と。武蔵の国の有勢の輩、多く頼朝に乖きたりと。凡そ近日の風聞、朝暮に変有り。遂に其の動静如何。

4月26日 天霽 [吉記]
 今日前の大将参院せらる。禅門の事以後初参なり。また頭重衡朝臣始めて参内す。諒闇(服喪)の間、重服(軍服)の人の参内不審の由、先日女房これを示す。

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2005年10月11日 (火)

1181年 (治承5年)3月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

3月1日 陰、風吹く
「藤原秀衡頼朝を討たんとす」
伝聞、秀平頼朝を追討すべき由、脚力を進らせ、前の大将に申さしむ。院奏を経ず、直に報状を示したり。早々攻め落すべき由なり。但し秀平全く動揺せず。ただ詞を以て、此の如く申せしむ計りなりと。官兵等、未だ尾張河を渡らず、水溢るるに依ってなり。来たる五日合戦すべしと。

3月2日 陰晴不定
「十郎蔵人尾張の国に在り」
伝聞、尾張の武士等、遠江(静岡県西部)に引退するの由、日来風聞す。極めて実無しと。義俊(十郎蔵人)以下数万、皆尾張(愛知県西部)の国に在り。敢えて動揺無し。官兵明日(三日)寄せ攻むべしと。これ実説なり。坂東の賊首、これを以て先と為すと。

3月4日 天晴 
伝聞、三日の合戦延引す。来七日と。

3月6日 天晴れ
「官兵の兵粮尽きたり」
伝聞、東国の勢甚だ以て強大、容易に敗れ散すべからずと。凶党等相議して云く、官兵等、併せて尾張の国に入り立つの後、員を尽くし討伐すべき由と。凡そ官兵の兵粮併しながら尽きたり。更に以て計略無し。事の成敗、近日見るべしと。宮と称する人、決定伊豆の国に在り、真偽の間、知り難きと雖も、号する所此の如しと。これ等の説、皆信じられ難きか。

3月11日 雨降る
「関東の神領等、併せて賊徒の為虜領せられたり」
経房云く、鴨社の遷宮今年に当たる。而るに神領等、所々の領となり、押し取らるる事等、度々訴え申すと雖も、裁許無きの上、関東の神領等、併せて賊徒の為虜領せられたり。社家の力、造宮に堪ゆるべからず。
(中略)

3月12日 天晴れ
「秀衡の籌策」
大外記頼業来たり、また語りて云く、秀衡宣旨の請文を進す。その状に云く、籌策(ちゅうさく、はかりごと)を魚麗の陣に廻らし、賊徒を鳥塞の辺に払うと。然れども、専ら信用し難きものかと。
(注釈)
請文(うけぶみ、上位者の命令に対し、答申した文書)
魚麗の陣(陣形の一、全形群魚の進むように)
鳥塞

3月12日 [吉記]
「官軍勝利」
平(頼盛)中納言送書、また所々より告げて云く、去る十日尾張の賊徒等、彼より洲俣を渡り、官軍に向き逢い合戦す。渡る者三千余騎、及び千余人打ち取ると。事実ならば、一天四海の慶び何事かこれに如かずや。

3月13日 天晴れ
「去る十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」
伝聞、去る十日、官兵等墨俣を渡らんと欲するの間、尾張を遮る賊徒等越え来たる。五千余騎なり。而るに重衡が舎人男(金石丸。高名の者なりと)これを告ぐ。茲に因って相防ぎ、巳の刻(10時)より申の刻(16時)に至り合戦す。賊党等千余人梟首せらる。その後三百余人河水に溺れ亡滅したり。大将軍等、多く以て伐ち取りたり。猶官兵等墨俣河を渡り、残賊等を襲うと。これ去る夜、飛脚到来し、称し申すと。十郎蔵人行家(本名義俊と)疵を被り河に入りたり。定めて夭亡したりか。然れども、梟首の中に入らずと。

3月13日 [吉記]
「美濃合戦の風聞」
美濃合戦の事注文風聞す。実説を知らずと雖もこれを注す。三月十日、墨俣河の合戦に於いて、討ち取りし謀反の輩の首目六。
頭の亮方(平惟盛)二百十三人(内生取八人)、越前の守(平通盛)方六十七人、権の亮方七十四人、薩摩の守(平時忠)方二十一人、参河の守(平知度)方八人(内自分有り)、讃岐の守(平惟時)方七人(同)、
已上三百九十人、内大将軍四人、
和泉の太郎重満(頭の亮方盛久自分)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
この外負手河ニ逃げ入る者三百余人。

3月17日 朝陰 
「秀衡頼朝を攻める為白河の関を出る」
伝聞、秀平頼朝を責めんが為、軍兵二万余騎、白河の関の外に出る。茲に因って、武蔵・相模の武勇の輩、頼朝に背きたり。仍って頼朝安房の国の城に帰住したりと。また越後城の太郎助永病死したりと。但しこれ等の事、信を取り難し。
「此の如くの浮説、先々皆以て虚誕(でたらめ)なり、然れども後日真偽存知せんため、聞き及ぶに随いこれを注す。」

3月26日 天晴 
「去夜重衡入京」
去る夜半、重衡朝臣入京すと。

3月28日 天晴
「官軍兵粮無し」
また聞く、坂東の勇士等、すでに参河の国に超え来たり。実説と。官兵等併しながら帰洛す。また兵粮無し。その隙を得て襲来すべきか。尤も用心有るべき事か。

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2005年10月10日 (月)

1181年 (治承5年)閏2月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

閏2月1日 天晴 
「官軍の兵粮米尽きる」
夜に入り、有安来たりて云く、禅門(清盛)の所労、十の九は、その憑(たの)み無しと。又云く、筑前の国司(平)貞能申し上げて云く、兵粮米すでに尽きたり。今に於いては計略無しと。仍って急ぎ攻めんため、前の幕下(宗盛)俄に下向せんと欲するの間、禅門の病により後れたりと。

閏2月3日 天陰 
「美濃の追討使粮料無く餓死に及ぶべし」
美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、其の勢日を追って万倍すと。大略万事至極の時なり。

閏2月4日 天陰雨降り
「清盛没すと伝聞す」
夜に入り伝聞、禅門薨去(こうきょ、薨逝)すと。但し実否知り難し。尋ね聞くべし、

閏2月5日 天晴 
「清盛死去一定」
禅門(清盛)薨逝(こうせい、皇族または三位以上の人の死去)、一定なりと。
「後白河法皇変異の心あるか」
「清盛後事を宗盛に託す事を後白河法皇に奏す」
昨日朝、禅門(清盛)圓實法眼(国家を乱す濫觴、天下の賊なり)を以て、法皇に奏して云く、愚僧(清盛)早世の後、万事宗盛に仰せ付けたり。毎事仰せ合わせ、計り行わるべしと。勅答詳らかならず。爰(えん、ここに)に禅門怨みを含むの色有り。行隆を召して云く、天下の事、偏に前幕下の最なり。異論有るべからずと。
(注釈)
濫觴(らんしょう、物事の起原)
「ただ東国の寇(こう、あだ)に非ず中夏(京都)の乱なり」
「清盛一族の事」
「過分の栄幸」
「衆庶の怨気に天答え四方の匈奴(きょうど)変を成す」
「天台法相の仏法を魔滅す」
「弓矢の難を免れ病席に死するは宿運の貴なり」

閏2月6日 天晴 
「関東乱逆の事を詮議せらる」
「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」
「関東の事」
先ず関東の事、兵粮すでに尽き、征伐に力無し、
「反逆を宥行せられるべきか、なお追討せられるべきか」
故入道沙汰の如くば、西海・北陸道等の運上物を併せて点定(点検し、定める、徴収)し、かの兵粮米に宛てるべしと。此の条又何様に候すべきか。もし宥(ゆるす、なだめる)行されるべしの儀有れば、計らひ仰せ下さるべきか、又猶追討せらるべくば、其の旨を存ずべし。
「宥行の儀は朝家の恥なり」
「宗盛権を君に返し暫く隠遁の由を表さざれば宥行の条首尾相応せず」

閏2月7日 天陰、雨降り
「昨日群議大略一同す」
「天下飢饉により関東逆乱の祈り合期せず大略征伐を休み宥(ゆう)行の儀あるか」
綸旨に云く、関東逆乱の間、天下飢饉に依って、御祈り合期せず。また兵粮すでに尽きたり。賊首尾張の国に群集す。猶追討せらるべきか。もしまた宥(なだ)め行わるの儀如何。一同申して云く、先ず院宣を下され、その状の跡に随い、沙汰有るべし。御祈りと云い、兵粮米と云い、堪えるに随い沙汰あるべきの趣候ふ。重ねて仰せていわく、庁の御下し文をなさるる。

(中略)
西海謀反の聞こえ有り。また如何。人々申して云く、西海の事、同じく廰の下文を下さるべし。使者の事、両様、或いは主典代、若しくは廰官、或いは四位院司と。
  (略)
「諸国に院宣を下しその状跡に随い沙汰あるべし」

「重衛下向に際し東国勇士等随うべき旨院宣に載すべしと宗盛奏請す」
伝聞、幕下返奏して云く、重衡に於いては、来十日一定下り遣わすべきなり。然れば、当国の勇士等、頼朝に乖き、重衡に随うべきの由、院宣に載すべきなり。

閏2月10日 天晴れ
伝聞、重衡朝臣来る十三日下向すべし、今朝先ず検非違使(藤原)景高、院宣を相具し(召継を以て御使いとなす)、発向すと。

閏2月12日 陰晴不定
「関東勢伐入らんとすとの飛脚頻りに到来」
伝聞、関東すでに伐ち入りを欲し、官軍の陣中物騒す。飛脚頻りに到来す。この状を申し。重衡明旦馳せ向かうべしと。

閏2月15日 天陰
「追討使重衡院廰下文を相具し発向す」
今日、追討使蔵人の頭正四位下平重衡朝臣、院の廰の御下文を相具し、発向する所なり。今日宇治に宿す。来十九日、美乃・尾張の境に着くべしと。兵万三千余騎を随うと。
「重喪中陰の内たりと雖も、宗盛の命により発向す」
重喪中陰の内たりと雖も、前の幕下の命に依って、先父の追慕を顧みずか。重衡武勇の器量に堪ふるの故、殊にこの撰に応ずと。
「重衛南都を滅亡す」

閏2月17日 天晴れ
伝聞、越後城の太郎助永、宣旨に依ってすでに甲斐・信乃の国に襲来するの由風聞す。無実たりと。
「貞能郎従上洛し尾張の情勢を告ぐ」
晩に及び、隆職来たり語りて云く、筑前の前司貞能が郎従、一昨日上洛す。ひそかに相触れる事有り来向す。語りて云く、官兵その勢万余騎、尾張の賊徒僅かに三千騎ばかり。刹那の間、攻め落とすべし。日来船遅々するの間今に戦わず。五百余艘すでに付きたり。今に於いては、賊徒の敗績、程を経るべからずと。

閏2月20日 陰晴不定
「南都の僧等、謀反に与力」
行隆また云く、近日、猶南都の僧等、謀反に与力するの由、ほぼその聞こえ有り。この状如何。余云く、猶この儀有るに於いては、また忽ち何ぞ寛宥の沙汰に及ばんや。勿論の事か。但し真偽を尋ね捜し、事実ならば、法に任せ沙汰有るべきかといえり。

閏2月22日 陰晴定まらず
「熊野の法師尾張に越えたり」
伝聞、熊野の法師原二千余人、尾張に越えたり。与力せんが為なりと。

閏2月24日 朝間雨下、午後天晴れ
「平氏一族集会し内議あり」
伝聞、六波羅辺り一族の輩、昨日より集会、内議せしむる事等有り、郎従等遙かに去り、其の趣人聞かしめずと、世の人怖畏を懐くか。

閏2月29日 天晴 
「熊野に強盗乱入す」
伝聞、熊野那智御山に強盗乱入す。常住の客僧一人のみ跡留めず、既に荒廃の地と成りたりと。近日、滝下の霊像の石(飛滝権現と称す是なり)砕失したりと。是本山魔滅の徴なり。悲しむべし悲しむべし。
「宗盛の病秘蔵さる」
前の右大将宗盛、病気有り。然れども、頗る秘蔵すと。

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2005年10月 9日 (日)

1181年 (治承5年)2月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

2月1日 陰晴不定、時々雪降り
「源行家の勢尾張の国に超え来る」
伝聞、謀叛の賊源義俊(行家、為義子、十郎蔵人と号すと)、数万の軍兵を率い尾張の国に超え来たる。
「官兵疲弊し寄せる事能わず」
官兵両度の合戦に疲れ、暫く近江・美濃の辺に休息す。忽ち寄せ戦うべからずと。

2月2日 天晴 
「常陸国勇士等頼朝に乖くという」
伝聞、常陸の国(茨城県)の勇士等、頼朝に乖きたり。仍って伐たんと欲するの処、還って散々に射散らされたり。この由、飛脚到来す。今朝官兵を遣わさらば、彼より攻むべきの由申し上げると。但し実否知り難きか。

2月3日 天晴 
「源頼朝常陸を平定すという」
伝聞、頼朝常陸の国に寄せ攻むの間、始め一両度、追い帰さると雖も、遂に伐ち平げたりと。これまた実否知り難し。一昨日彼の国より上洛するの者の説と。縦横の説聞くに随い之注及ぶ。(但し事の外の浮説に於いては注す能わず)遂に虚実を見るべきか。

2月8日 天晴 
「京中在家を計注せしむ」
夜に入り大夫吏隆職参来、(略)又云う、昨日京中の在家を計らひ注せらるべき由仰せ下さる。左右京職の官人・官使・検非違使等これを注す。但し国使入らずと。
「官使等を遣わし渡船等を点検す」
又美濃の国へ官使・検非違使を遣わし渡船等を点検す。官軍に渡すべしの由。同じく以て宣下(以上上卿別当卿)す。又宣旨くだされる。注出し持参するなり。其の状此の如し。
「宣旨」
治承五年二月七日 宣旨
頃年(しきりの)以来、諸夏静ならず、災異荐(しき)りに発り、兵革旁々起り、其の表示の帰り指す思い、偏に是魔縁の致す所か。仏力を仮るに非ざるよりは、何を以て人庶を安んぜん。よろしく神社・仏寺・諸司・諸家及び五畿七道諸国に下知す、不動明王の像を顕し、尊勝陀羅尼摺尊を写し、尊躰数遍を図すべし。数只其の力の堪否に任せ、其の数の多少を定むる勿(なか)れ、供養を如説に遂げ、厄難を未兆に攘(はら)へ。

件の宣旨、上卿左大臣(経宗)、職事経房と、事すでに新儀の為、各使を差し触れ廻すべし、兼ねて又宣旨を成す。京中の諸家に分かつべき由、経房の申す所なりと。

2月9日 天晴れ
「源義基頸及び弟二人を渡す」
伝聞、今日源義基の頭、並びにその弟二人等(生きながらこれを捕り得る。仍って頸を刎ねざるの前、渡さると)を渡さる。
「関東の反賊尾張の国に越え来り」
また聞く、関東の反賊等半ばに及び、尾張の国に越え来り、十郎蔵人義俊を以て大将軍と為すと。その勢幾千万を知らず。
「官軍度々の合戦に疲れ弱気有り」
官軍度々の合戦に疲れ、頗る弱気有りと。
「平知盛所悩により帰洛」
また左兵衛の督知盛卿、所悩に依って、俄に帰洛を企て、来十二日入洛すべし。その替わり、頭重衡朝臣行き向かうべしと。
「大将軍の帰洛は不吉の徴なり」
大将軍の帰洛、不吉の徴たるの由、天下謳歌すと。尤も然る事なり。

2月11日 天晴
「肥後国菊池隆直伐つべき宣旨下さる」
行隆、鎮西・伊勢等の事を語る。肥後の国菊池郡の住人、高直、謀叛の聞こえ有り。仍って九国の与力、伐ち奉るべきの由、宣旨を下されたり。
「熊野の悪徒等、伊勢の国に越え来伊装宮の近辺焼失す」
また熊野の悪徒等、伊勢の国に越え来たり、伊装宮の近辺焼失したり。すでに内外宮に及ばんと欲するの間、和泉の守信兼来たり逢ひ、希有に伐ち散らしたり。少々伐ち取り、その外逃げ脱すの輩、多く以て海に入ると。この外、関東の事に於いては、委しく聞かず。
「官軍尾張の国を攻めるため伊勢国船を墨俣渡に廻す」
この間、伊勢の国を廻る船、須万多(すのまた)の渡に着くべし。その後、官軍尾張の国に寄せ攻むべきの由、聞く所なりと。

2月15日 天晴
「鎮西謀叛の輩太宰府を焼く」
伝聞、鎮西謀叛の輩、日を追って興盛す。太宰府を焼き払いたりと。

2月16日 天晴
「重衡鎮西に遣わさるという」 
伝聞、知盛卿帰洛したり。その替わり、重衡朝臣向かうべきの由、その儀有り。然れどもその儀忽ち変り、鎮西に遣わさるべしと。伝聞、今日賊首(十人)を渡さる。使の廰請け取ると。

2月17日 天晴
「熊野法師阿波国を焼き払う」
伝聞、熊野の法師原、阿波の国を焼き払い、在家の雑物・資材・米穀等の類を追捕す。一物遺らず捜し取りたり。また源義俊(為義の子、世十郎蔵人と称す)尾張の国に居住す。その勢三万余騎。美乃の国に在る官兵等、僅かに七八千騎と。
「頼朝未だ足柄関を越えず」
頼朝未だ足柄関を越えず。先ず義利の勢を以て、四手に分け寄せ攻むべしと。
「鎮西謀叛の張本十六人同意す」
また聞く、鎮西謀叛の者張本徒党十六人同意すと。

2月20日 天晴 
「天下飢饉により富を割き貧に与うという」
京中の在家計らるる事、大略、公家富有の者を知し食し、兵粮米を宛て召さるべき故と。但し、兵粮米に限るべからず、院宮・諸家併せ宛て奉られるべし、是天下飢饉の間、富を割き、貧に与えるの義なりと。
「頼朝に乖くの者有り」
伝聞、関東の事、宮(以仁王)おはしまさざる由を聞き、多く頼朝に乖くの者有り。甚だ物騒。またその勢数万騎と云うと雖も、全く物の要に叶うべからず。尤も嗚呼(ああ、残念)なりと。是また実説を知らず、

2月21日 天晴
「坂東軍陣甚だ物騒」
伝聞、坂東の軍陣、太だ以て物騒。泉の冠者(名を知らず)(源重満)、十郎蔵人義俊を召し具し、降を請い、官軍方に来たるの由風聞す。但し義俊捕わるの條、果たして以て僻事か。信受せられず。

2月26日 天晴
「重衡の鎮西下向停止」
伝聞、関東の徒党、その勢数万に及ぶ。官兵オウ弱。仍って俄に前の将軍宗盛已下、一族の武士、大略下向すべし。来月六七日の比と。重衡の鎮西の下向停止したりと。

2月29日 天晴れ
「頼輔豊後国に下向せんとす」
刑部卿頼輔朝臣来たりて云く、豊後の国に下向すべし。
「豊後国住人謀叛を企つ」
これ彼の国の住人等、謀叛を企て、目代を追い出したり。凡そ鎮西謀叛に依って、追討使を遣わさるべしと。(但し其の儀停止したりと)もし然れば、当国滅亡すべし。これ身に取り、任国の外、他の計略無し。賊徒と云い、追討使と云い、旁々以て国中損亡の基なり。仍って国司下向し、住人の梟悪を鎮むべし。追討使を境内に入れらるべからざるの由、禅門に申せしめ、すでに可許有り。仍って思い立つ所なりと。但し事すでに者狂いに類す、万人甘心せず、其の実又怖れ無しに非ずの故
(中略)
「尾張の賊徒美濃国に越来る」
伝聞、尾張の賊徒等、少々美乃の国に越え来たり。阿波民部重良(田口成良)の徒党を射散らす。相互に疵を被るの者数有り。官兵軍方、池田の太郎と云う者有り。件の者を捕らへ、生きながら持ち去りたりと。この事実事なり。然るに彼の辺り秘蔵すと。

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2005年10月 8日 (土)

1181年 (治承5年)1月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

1月1日 晴、時々雪降り
「南京諸寺焼失」
そもそも南京諸寺焼失の事。悲嘆の至り、喩え取る物無し。御寺すでに灰燼と化す。氏人在るも益無し。俗塵を棄てるべきは此の時なり。猶世事を纏い未だ山林に交わらず。東大寺は我が朝第一の伽藍(仏道修行の場所)、異域に無類の精舎(寺院)なり。今乱逆の世に当り、忽ち魔滅の期顕れるか。天然の理、人力何ぞ然りとせん、しかれども当時の哀悼、黙止すべからず、愚意の覃(およ)ぶ所、すべからず廃朝の儀有るか。朝廷の人、敢えて此の儀在らずか。将に又時勢を恐れ、専ら讜(とう、ただ・しい)言能わざるか。縡(こと)すでに希代。哭(こく)泣の礼。又常篇(通常)超過すべきか。遂に其の儀無し。
(注釈)
哀悼(あいとう、人の死を悲しみいたむこと)
哭(こく、大声をあげてなく)

1月7日 晴
「平知康・大江公友捕えられる」
伝聞、左衛門の尉(平)知康(法皇、近日第一の近習者なり)並びに兵衛の尉(大江)公友等、禅門(平清盛)の許より捕取せられたり。知康に於いては、重ねて禁固せらると。
「大和の国荘園停廃される」
今日、武士(今度は大将軍を遣わさず、ただひそかに郎従宣下を持ち行き向かう所と)を遣わし、大和の国の庄を停廃す。並びに無罪の僧綱已下を安堵せしめ、有罪の凶徒党類を征伐すべしと。
(注釈)
衛門(えもん、右衛門府、皇居諸門の護衛など、職員に督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)など)
兵衛(ひょうえ、兵衛府、兵衛の管理など、唐名、武衛)

1月11日 雪降り
「熊野辺武勇の者伊勢官兵を射取る」
伝聞、熊野の辺、武勇の者等、五十艘ばかり、伊勢の国に打ち入り、官兵三百余人を射取る。猶国内に居住す。(別島有り、かの島に住むと)この事、去る四日の事と。仍って明日、宣旨を伊勢の国に給い、国内の勢を起こし、彼の悪徒を追い払うべき由と。
「筑紫謀叛の者いよいよ悪逆を事とす」
また筑紫謀叛の者、いよいよ悪逆を事とす。仍って九国の与力、伐ち奉るべきの由、同じく宣旨を下さる。
「官兵御油運上の比良野庄民を殺害す」
また延暦の衆徒蜂起す。比良野庄より御油運上の間、近江の国官兵、散々に打ち散らされ、庄民を殺害す。
「延暦の衆徒南都塩滅される事等により蜂起するも熾盛に及ばず。」
此の上南都を煙滅される、即ち是仏法を破滅する条、全く他の寺の事に非ず、円頓の遺教、滅尽遠からざる由、殊に以て欝を結び、件の両条の由緒により蜂起すと雖も、只今熾盛(しせい)に及ばずと。
(注釈)
熾盛(しせい、しじょう、火が燃えあがるように盛んなこと)

1月12日 晴れ
「菊池隆直の余勢数万に及ぶ」
伝聞、筑紫謀反の者(菊池)隆直余勢数万に及ぶ、よって九国仁(ひと)伐つべしの由宣旨下さる。其の状頗る傾く輩有りと。尋ね聞くべし。

1月14日 晴
「高倉上皇崩御」
寅の刻(4時)人告げて云く、新院すでに崩御。実否を知らざるに依って相尋ねるの処、卯の刻(6時)使い帰り来たりて云く、事すでに一定。丑の終わり寅の始めの程の事と。

1月16日 晴
「五畿内近国の国司に武士を任じて遠国の凶徒を禦がしむと故院仰せ置く」
左少弁行隆来たりて云く、諸国の勇士、併せて謀叛の心有り。仍って先ず五畿内、及び近江・伊賀・伊勢・丹波等の国、武士を補し以て遠国の凶徒を禦がるべきの由、故院(高倉)仰せ置かりたり。

1月18日 陰晴れ不定
「官兵等美濃の国の源光長を攻む」
伝聞、官兵等美乃の国に入り、光長城を攻む。相互に死者多し。遂に光長が首を梟すと。彼の国の源氏等、光長の外、党類幾ばくならずと。而るにすでに宗たる者を誅伐したり。今に於いては、美乃・尾張両国、共に以て敵対すべきに非ずと。

1月20日 晴 
「頼朝病有りと謬説」
或る人云く、頼朝病有りと。此の如しの謬説多く端物か。伝聞。禅門の小女(世に御子姫君と号す。巫女の腹と)法皇宮に納ると。凡そ思慮の及ぶ所に非ず。弾指して余り有り。

1月21日 晴れ
「頼朝夭亡謬説」
伝聞、頼朝夭亡謬説と。

1月25日 夜より雨下る
「美濃国蒲倉城の逆徒誅殺さる」
美濃の国の逆賊等、討伐せられたり(蒲倉城に籠もり、悉く誅殺せられたりと)。件の事、去る二十日の事と。官軍疵を被るの者、数十人に及ぶ。

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2005年10月 7日 (金)

1180年(治承四年)12月

1180年(治承四年、庚子)

12月1日 晴れ
「伊賀の国反乱」
夜に入り人伝えて曰く、伊賀の国に平田入道と云う者(俗名平家継、故平家定法師男、定能兄と)有り。件の法師近州に寄せ攻め、手嶋の冠者を伐ち(党類郎従、相併せて十六人梟首、二人搦め得ると)、また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落したりと。

12月2日 晴れ
「追討使下向」
辰の刻(8時)、追討使下向す。近江道の方、知盛卿大将軍たり。その外一族の輩数輩相伴う。慥(ぞう、たしか)名を交え尋ね記すべし、(平)信兼・(平)盛澄等同じく以て向かうと。伊賀道、少将(平)資盛大将軍たり。前の筑前の守貞能相具すと。伊勢道、即ち国司(藤原)清綱行き向かうと。

12月3日 天晴
「官軍勢多野地の在家数千宇に放火し近州逆賊追攻む」
伝聞、今暁近州の逆賊楯を引き逐電す。美濃境辺りに到る。仍って官軍勢多・野地等の在家数千宇、放火し追い攻むと。終日の間余烟(えん、けむり)猶尽きずと。美濃の源氏等五千余騎、柏原(近江の国)の辺に出向くと。官兵近江道・伊賀道相並び、京下の勢三千余騎と。また人云く、奈良の大衆熾盛蜂起す。人何事を知らず。境節尤も奇怪の事か。山の大衆三方相分かれたりと(一分座主大衆、官兵に與力。一分七宮方(覚快法親王)大衆両方に与せず。一分堂衆の輩、近州に與力すと)。越後城の太郎助永、甲斐・信濃両国に於いては、他人を交えず、一身に攻め落とすべきの由、申請せしむと。また上野・常陸等の辺、頼朝に乖(かい、そむく)くの輩出来すと。

12月4日 晴れ、
人伝えて云く、江州の武士等併せて落ちたり。三分の二、官軍に與力したり。その残り城に引き籠もると。
「奥州の戎狄(いてき)秀平」
また聞く、奥州の戎狄(いてき)秀平、禅門の命に依って、頼朝を伐ち奉るべきの由、請文を進したりと。但し実否未だ聞かず。

12月5日 天晴
「今日矢合し明日合戦すべし」
伝聞、江州の勢(美濃の源氏等を加う)四千余騎、官兵の勢二千余、今日矢合わせ、明日合戦すべしと。武士等路次により雑人を往還(往来)せしめず、

12月6日 天晴れ
「雅頼邸狼藉の次第」
「勇士等女房の衣裳を剥ぎ取り追捕の如し」
「中原親能雅頼弟に候すとの聞こえあるにより探索せらる」
「親能幼少より相模の国住人に養育せられ頼朝と知音なりという」
「時忠の沙汰に懸かる人恥辱に及ばざるはなし」
「雅頼家の狼藉し宗盛の下知なり」
伝聞、近江の国の武士等三千余騎、官兵(僅かに二千騎ばかり)の為に追い散らされたりと。

12月9日 天晴
「延暦寺衆徒の一部が山本義経と語らう」
伝聞、延暦寺衆徒の中、凶悪の堂衆三四百人ばかり、山下兵衛の尉義経(近江の国逆賊の張本、甲斐入道件の義経に與すと)の語を得て、園城寺を以て城と為し、六波羅に夜打ちに入るべし。また近江の国に進向する所の官軍等、その後を塞ぎ、東西より攻め落とすべきの由、結構を成すと。茲に因って(平)経雅朝臣・(平)清房(禅門息、淡路の守と)等、追って遣わさるべしと。
「興福寺の衆徒宮大衆と称して蜂起す」
また興福寺の衆徒、逐日蜂起し、宮大衆と称すと。四郎房と云う者有り。武勇に堪たるの徒党、四百余人に及ぶ。これ禅門の方人たりと。而るに悪僧等数百人出来し、件の四郎房を払いたり。関東の賊徒江州に攻め来たるの時、南京よりまた洛中に伐ち入るの由、支度を成すと。この事信受せられざるか。凡そ近日の事、併せ以て言語の及ぶ所に非ず、此の如くの乱古今に比類無しか。

12月10日 朝間晴れ、午後天陰風吹く
早朝邦綱卿の許に使いを送る。則帰り来たり云う、
「大衆と官兵山科東の辺に合戦す」
また只今南都より脚力到来す。衆徒すでに入洛を欲し、終夜走り来たる所なり。大衆の勢以ての外と。今日山の悪僧等を追討せんが為、官兵行き向かうの間、山科東の辺に於いて衆徒と降り合い、すでに以て合戦す。未だ事切れずと。申の刻(16時)に及び、大衆等引退し、籠城したりと。夜に入り、南都より告げ送りて云く、大衆蜂起すと雖も、僧綱以下制止を加えるに依って、和平したりと。

12月11日 雪白風寒
「山僧と官兵と合戦す」
伝聞、昨日山僧と官兵と合戦す。両方の勢各々二三十人ばかり、堂衆方四人梟首せられたり。官兵十人ばかり手を負うと。堂衆等山中に引き籠もりたり。或る説、三井寺に籠もるべしと。また聞く、南都の衆徒、僧綱等の制止に依って、一旦和平すと雖も、始終知らずと。

12月12日 天晴、
「官兵等園城寺周辺を焼く」
伝聞、昨日官兵等三井寺に寄せ(山の堂衆一昨日より引き籠もるなり)、夜漏に及び合戦す。堂衆勢少く、引退し江州方に向かいたり。官兵等三井寺の近辺並びに寺中の房舎少々を焼き払う。堂舎に及ばずと。官兵方七十余人疵を蒙ると。また聞く、江州の賊徒等の勢甚だ強し。忽ち落ち得るべからずと。
「武田の党遠江に来たり参州を伐取る」
武田の党、遠江に来住し、参州を伐ち取りたり。美濃・尾張、また素より與力したりと。城の太郎助永、すでに信濃に越えるの由風聞す。謬説と。雪深くて人馬の往還及ぶべからずと。また秀平攻め落とすべきの由、請文を進すの旨、その聞こえ有り。而るに行程の推す所、その使い帰参の期に及ばず。疑うに、士卒の心を励まさんが為、頗る虚聞有るかと。
「南都衆徒昨日より興盛」
申の刻(16時)人伝え云う、南都衆徒、此の両三日蜂起せずの処、俄に昨日より以ての外興盛、末寺荘園の武士を催し、十五大寺一等、今両三日の間上洛企てるべしの由、議定既にしたりと、左右能わずの事か、

12月13日 天晴
「南都衆徒上洛決定すという」
南都衆徒上洛決定すの由、去る夜半並びに今朝両度告げ申す事有りと、但し実否知り難し。夜に入り刑部卿頼輔朝臣来たり、数刻談話、伝聞、前の右中弁親宗朝臣、頼朝と音信の由風聞す。その事に依って召し問わるべしと。
「諸卿に武士を進すべき事催せらる」
また諸卿左右大臣を除くの外、左大将已下、併せて武士を進すべきの由催せらると。これ等奇異の政なり。時忠張行する所と。
(略)
「親宗従者頼朝との内通を認める」
伝聞、前の右中弁親宗、内事を頼朝に通わすの風聞有り。従者(字六郎、執消息の筆者)を召し問わるの処、承伏したりと。

12月14日 晴れ
「山門凶徒一旦追い散らされるも猶結党」
又聞く、山門凶徒一旦追い散らされると雖も、猶結党し、学徒多く与力し、座主方の大衆日を追って減少、凶徒等南都衆徒入京の日を聞く、西坂下より降りる、南北より六波羅を寄せ攻めるべしと、
「平家の郎従等多く逃散す」
禅門・前将軍等気力衰えたり、郎従等多く以て逃げ散り、残る所又争鋒の心無しと。

閭巷云う、近江の官兵等、昨日矢合わせ。また伊勢の武士等、美濃の国に寄せ攻めんと欲すと。

12月15日 天晴
「官軍勝利す」
一昨日、知盛・資盛等、敵城を攻む。甲賀入道並びに山下兵衛の尉義経等、徒党千余騎、即時に追い落とされたり。二百余人梟首し、四十余人捕り得る。残る所併しながら追い散りたり。件の首中に甲賀入道有りと(後聞無実)。
「上洛の南都衆徒僅かにより大衆与力を表すも一致せず」
南都衆徒上洛の議したりと雖も、凶徒僅か500人ばかり、惣大衆等当罰の恐れに依り与力表すの由と雖も其の実一致せず、まして末寺荘園等集まり催すに及ばず、又聞く江州落とされるの由、かたわら忽ちの上洛及ぶべからずかと。大略事の形謀反攻勢に随うか。太いに以て若亡有り、言語及ばずの次第なり。但し此の如しの事多く虚聞有り。実説知り難しか。
「皇嘉門院御領地等武士に召し上げらる」
左少弁行隆行い奉る女院御庄々並びに余領等、皆悉く武士を進め召すべしの由仰せ下さる
「近日行われる事一として国家をなさざる事なし」
天慶の例と。是また人を費やし民煩うなり。凡そ近日行われるの事、一として国家を亡さざることなし。悲しむべし悲しむべし 。尊勝(尊くすぐれた)念誦(ねんじとなえる)常の如し。

12月16日 晴れ、大風、
「近江山本城を攻む」
南都の大衆、すでに入洛の由風聞す。然れどもその実無し。今日重ねて官兵等、近江山下城を攻むと。
「清盛天下の事を宗盛に委ねるという」

12月19日 晴れ
「南都の衆徒和平す」
また聞く、南都の衆徒始終無く、大略源氏の党類少々凶悪の輩に与力す。然りと雖も、惣て大衆制止を加うの間、和平すと。尾籠第一の事か。また頼朝の勢十万騎と。三條宮坂東に在るの由、極めて謬説と。また仲綱決定伐たれたり。平等院に於いて自害の輩、三人の中なり。

12月22日 天晴れ
「官軍南都発向のため大和河内国人道々を守護す」
伝聞、来二十五日、官軍を南都に遣わし、悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払い、一宗を摩滅すべしと。先ず今明の間、大和・河内等の国人を以て、道々を守護す。その後官兵を寄せらるべしと。まさに我が氏滅亡の時、受生の条、只宿業を恨むべし、
12月22日 「山槐記」陰晴不定
「右少将惟盛朝臣越前国に下向」
 右少将惟盛朝臣越前国に下向す。かの国反逆の輩有りの間、鎮めるための件の事と。軍兵三十騎ばかり相具すと。

12月23日 天晴 
「維盛朝臣副将軍として、近江の国に下向」
今日、維盛朝臣副将軍として、近江の国に下向すと。

12月24日 晴れ
伝聞、甲賀入道・山下兵衛の尉等、未だ伐たれず、山下城に籠もる。また尾張・美濃等の武士、彼に相加わらんと欲すと。或いは然らずと。此の如きの説々、皆以て相違す。信受し難き事か。明日南都を攻めらること必定と。
12月24日 「吾妻鏡」
 木曽の冠者義仲、上野の国を避け信濃の国に赴く。これ自立の志有るの上、彼の国多胡庄は、亡父の遺跡たるの間、入部せしむと雖も、武衛の権威すでに東関に輝くの間、帰往の思いを成し此の如しと。

12月25日 晴れ
「平重盛南都追討のため発向す」
今日、蔵人の頭重衡朝臣、大将軍として南都の悪徒を追討せんが為下向す。来二十八日攻戦すべし。今一両日宇治に経廻すべしと。伝聞、美濃・尾張の武士等、早く征伐せらるべきの由、官軍を牒送す。而るにその勢敵対に及ばず。故に勇士を副え下さるを請う。仍って追って維盛朝臣(一昨日下向)を遣わさると。又聞く、熊野別当以下すこぶる反禅門の聞こえ有りと。(後聞無実)

12月27日 天晴
伝聞、河内地方より、官兵を寄せらるるの間、大衆の為射危せられ、三十余人射取られたり。その後追い帰されたりと。宇治地の官軍、今日発向す。明日合戦すべしと。奈良勢六万騎ばかりと。但し一定を知らず。

12月28日 晴れ
「重衡狛川原辺の在家を焼払う」
伝聞、去る夜重衡朝臣南都に寄す。その勢莫大に依って、忽ち合戦すること能わずと。狛川原の辺の在家併せて焼き払う。或いは又光明山を焼かんと欲すと。

12月29日 天晴
「重衡南都征伐より帰洛す」
巳の刻人告げて云く、重衡朝臣南都を征伐し、只今帰洛すと。また人云く、興福寺・東大寺已下、堂宇・房舎地を払い焼失す。御社に於いては免じたりと。また悪徒三百余人これを梟首す。その残り春日山に逃げ籠もると。凶徒の戮(りく、ころす)さるに至れば、還って御寺の要事たり。
「七大寺已下悉く灰燼に変じ仏法王法減尽す」
七大寺已下、悉く灰燼に変わるの條、世の為民の為、仏法・王法減し尽きたるか。凡そ言語の及ぶ所に非ず。筆端の記すべきに非ず。
(略)
「天台の両寺は度々の災に遭うも南都の諸寺に至りては未此の如き事なし」
(略)
悲しむべし悲しむべし

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2005年10月 6日 (木)

1180年(治承四年)11月

1180年(治承四年、庚子)
11月1日 天晴
「追討使追帰される」
伝聞、追討使維盛朝臣已下、追い帰されたり。すでに近江地に赴かんと欲するの間、山憎相禦ぐべきの由風聞す。仍って更に伊勢地に向かいたりと。凡そ逆党の余勢、幾万騎を知らず。東山・東海の諸国、併せて以て与力す。官軍の勢、本五千余騎、追い落とさるるの間、僅かに三四百騎に過ぎずと。凡そ左右する能わず。
「追討使追い返さる例、未曽有」
往昔(おうせき)以来、追討使空しく追い返さるるの例、未だ曽って聞かざる事なり。今に於いては、重ねて相防ぐに及ばざるか。
「清盛の悪逆に依りその余殃上皇に懸る」
人の悪逆に依って、上皇その余殃(おう、わざわい)を懸けしむか。誠に悲しむべき事なり。仏天定めて冥助(みょうじょ、信仏の助力)有るか。憑(たの)む所ただこればかりか。山僧また種々の支度を成すと。また聞く、熊野の湛増いよいよ勝ちに乗るか。鎮西謀叛の者、また以て征伐する能わず。積悪の然らしむ所、感果(ある原因から生じた結果を感じとること)時到るか、其の悪に与(あずか)らざる病士、只三宝神明の護持を仰ぐ所なり、

11月2日 晴れ、
「入道相国帰り来る」
後聞、今日未の刻(14時)入道相国帰り来ると。

11月2日 [吉記]
「東国追討使駿河の国手越より逃げ帰る」
追討使の事、閭巷(りょこう、村里)の説縦横す。但し或る者云く、権の亮(平惟盛)駿河の国に下着の節、一国の勢二千余騎(目代:橘遠茂、棟梁たり)を以て、甲州に寄せしむの処、皆率入の後路を塞ぎ、樹下巖腹に歩兵を隠し置き、皆悉くこれを射取らしむ。異様の下人少々の外、敢えて帰る者無し。その後謀反の輩(源頼朝か、武田信義か)牒状(うったえぶみ)を送る。その状詳しく聞かず。件の子細を糺問(きゅうもん、罪をただし問うこと)するの後首を切らしむ(殺害の條甘心せざるの輩等有り)。その後頼朝襲来の由風聞す。彼等の勢巨万、追討使の勢敵対すべからず。仍って引き返さんと欲するの間、手越(駿河の国)の宿館に於いて失火出来す(扈(したが)う従者の中、坂東の輩等これを放つと)。上下魂を失うの間、或いは甲冑を棄て、或いは乗馬を知らず逃げ帰りたり。これ則ち東国勢江州より皆悉く付くべきの由、兼ねて支度の処、敢えて付かず。或いはその身は参ると雖も、伴類(同類)眷属(一属)は猶伴わず。或いは形勢に随い逆徒等に随う。いよいよ官軍弱きの由を見て、各々逐電す。残る所纔に京下の輩なり。世以て遂帰の由を称す。古今追討使を遣わすの時、未だこの例を聞かず。尤も悲しむべき事なり。但し今度の事ただ事に非ず。由委(くわしいこと)無しに依り記さず、又定説を尋ね知るべし。

11月4日 晴れ
「追討使伊勢に向かわず」
伝聞、追討使伊勢に向かわず。ただ(藤原)忠清ばかり伊勢に赴きをはんぬ。他の人入京すべしと。

11月5日 晴れ、
「清盛・宗盛口論す」
伝聞、前の将軍(平)宗盛、遷都有るべきの由、禅門(清盛)に示すと。禅門承引せざるの間、口論に及ぶ。人以て耳を驚かすと。
「敗残の追討使入京す」
また伝聞、追討使等、今日晩景(夕方)に及び入京す。知度先ず入る。僅か二十余騎。維盛追って入る。また十騎を過ぎずと。
「駿河国高橋宿」
先に去る月十六日、駿河の国高橋の宿に着く。
「甲斐武田城」
これより先、彼の国目代(国守の代理)及び有勢武勇の輩三千余騎、甲斐の武田城に寄せるの間、皆悉く伐ち取られたり。目代以下八十余人頸を切り路頭に懸くと。
「武田方より維盛の館に消息を送る」
同十七日朝、武田方より使者(消息を相副う)を以て、維盛の館に送る。その状に云く、年来見参の志有りと雖も、今に未だその思いを遂げず。幸い宣旨の使として御下向有り。すべからく参上すべしと雖も、程遠く(一日を隔つと)路峻しく、輙(ちょう、すなわち)く参り難し。また渡御煩い有るべし。仍って浮島原(甲斐と駿河の間の広野と)に於いて、相互に行き向かい、見参を遂げんと欲すと。忠清これを見て大いに怒り、使者二人頸を切りたり。
「富士川の戦い」
同十八日、富士川の辺に仮屋を構う。明暁(十九日)寄せ攻むべきの支度なり。而るの間、官軍の勢を計るの処、彼是相並び四千余騎、手定めの陣を作り議定すでにおわり。各々休息の間、官兵の方数百騎、忽ち以て降り落ち、敵軍の城に向かいたり。拘留するに力無く、残る所の勢、僅か一二千騎に及ばず。武田方四万騎と。敵対に及ぶべからざるに依って、竊に以て引退す。
「官軍引退は忠清の謀略なり」
これ則ち忠清の謀略なり。維盛に於いては、敢えて引退すべきの心無しと。而るに忠清次第の理を立て再三教訓す。士卒の輩多く以てこれに同ず。仍って黙止する能わず。京洛に赴くより以来、軍兵の気力、併しながら以て衰損し、適(たまたま)残る所の輩、過半逐電す。凡そ事の次第直事に非ずと。今日勢多に着き、先ず使者(馬允満孝)を以て子細を禅門に示す。
「官軍引退に清盛大怒す」
禅門大いに怒りて云く、追討使を承るの日、命を君に奉りたり。縦え骸を敵軍に曝すと雖も、豈恥と為さんや。未だ追討使を承るの勇士、徒に帰路に赴く事を聞かず。
「清盛追討使の入京を認めず」
もし京洛に入らば、誰人か眼を合すべきや。不覚の耻を家に貽(のこ)し、尾籠の名を世に留むるか。早く路より趾を暗くすべきなり。更に入京すべからずと。然れども竊に入洛し、検非違使(藤原)忠綱の宅に寄宿すと。知度に於いては、先ず以て入洛し、禅門の八條の家に在りと。大略伝説を以てこれを記す。定めて遺漏有るか。但しこれ軍陣に供奉するの輩の説なり。子細多しと雖も、短毫(ごう、け)に及び難きものなり。

11月6日 晴れ
「重ねて追討使を遣わすべし」
福原より或る人示し送りて云く、重ねて追討使を遣わすべし。(平)教盛・(平)経盛等の子息と。豈事の要に叶うや。世上の嘲(あざけ)り、ただこの事に在りと。

11月6日 [吉記]
「関東の事、要害を守護、追討せしむ」
大理(平時忠)を以て仰せられて云く、関東の事美濃の国に居住する源氏等に仰せ、且つは要害を守護し、且つは追討せしむべきの由仰せ遣わすべし。予申して云く、交名を承り宣旨状に載すべきか。

11月8日 陰雨降り、
伝聞、還都有るべきの由、山僧等に仰せらると雖も、忽ちに然るべからず。大略誘(こしら)へ仰せらるるの体なり。始終叶うべからざる事か。また前の大将並びに教盛卿等、自ら赴くべしと。
「遠江以東十五ヶ国頼朝に與力す」
凡そ遠江以東十五ヶ国与力し、草木に至るまで靡かざるは莫しと。

11月8日 [吉記]
追討の間の事宣旨。今日左大将に下すの処、空しくこれを返せらる。未だ由緒を知らず。仍って師大納言に宣下したり。今日復日なり。仍って昨日の日を書くなり。
「安徳天皇宣旨」
   治承四年十一月七日 宣旨
伊豆の国流人源の頼朝、早くも野心を挟み、朝威を軽忽し、人民を劫略(きょうりゃく)し、州縣を抄掠(しょうりゃく)す。縡(こと)希夷に入るの間、誅伐を加えんと欲するの処、甲斐の国住人源の信義猥りに雷同を成し、すでに月諸を送る。各々魚鱗(人字形)鶴翼の陣を結び、旁々(ぼうぼう)星旄電戟の威を輝かす。茲に因って赳々の輩、往々募りに赴く。逆謀の甚だしきこと、古今未だ聞かず。啻(ただ)に丁壮の軍旅に苦しむに非ず。兼ねて老弱の転漕を罷るに有り。細民の愚・衆庶の賤、鳳衙の炳誡を顧みず、自ら梟悪の勧誘に従うか。此と云い彼と云い、責めて余り有り。仍ってその凶党を払わんが為、追討使を遣わす所なり。東海・東山・北陸等の道、強弱を論ぜず、老少を謂わず、表裏力を勠し、逆賊を討たしめよ。就中美濃の国勇武伝家の者、弓馬長芸の輩、多くその聞こえ有り。尤も採用に足る。殊に彼等に仰せ、その辺境の要害を塞ぎ、通関の防御に備えしめよ。便(すなわ)ち憂国の貞心を励まし、忘身の接戦を致すべし。兼ねて又偏列の間、卒伍の中、その雅懐に非ず、凶悪に従い與す。この旨を熟察し、反善を悔過せよ。率土は皆皇民なり。普天は悉く王者なり。絲綸の旨誰か随順せざらん。若しくは夫れ執鋭不撓有り。臨時の功を立てば、その勤節を馬汗に量り、以て不翅の鴻賞を賜わん。宣を遐邇に布告す。詳(つまび)らかに委曲を知らしめよ。
                    蔵人左中弁藤原経房奉る

馬充橘公今日入り来る、追討使惟盛朝臣以下五日入京畢(おわる)一定と、日来次第に具を以て惟を語る。
(藤原経房:「吉記著者」)

(注釈)
軽忽(けいこつ、軽々しく)
劫略(きょうりゃく、おびやかす)
雷同(自分に定見がなくて、みだりに他の説に同意すること)
諸()
魚鱗(陣形の一、魚のうろこの様な形に並ぶ、人字形で、中央部を敵に最も近く進出させる)
鶴翼(鶴が翼を張ったように、敵兵を中にとりこめようとする陣形)
星旄(せいぼう、星のようにきらめく旗)
電戟(でんげき、いなずまのようなひかりを帯びたほこ)
赳々(きゅうきゅう、たくましく進さま)
逆謀(ぎゃくぼう、むほんを起こすはかりごと)
丁壮(壮年の男子、血気盛んで働きざかりの年頃)
転漕(てんそう、陸と海から兵糧を運ぶこと)
細民(下層の民、貧しい人々)
衆庶(もろもろのひと、人民、庶民)
賤(身分が低い、いやしい身分)
鳳衙
炳誡(へいかい、あきらかないましめ)
勠(りく、あわせる)し
卒伍(兵卒の隊伍)
雅懐(風雅な心)
悔過
絲綸(いと、りん、詔勅のこと?)
馬汗
不翅(ただにあらず)
鴻(こう、大きいこと)賞
遐邇(かじ、遠近)
委曲(いきょく、くわしくこまかなこと)

11月9日 晴れ [吉記]
「関東の事、逆徒すでに参河・遠江等」
早旦静賢法印来臨す。偏に世事を歎く。関東の事、今に於いては、故京に帰り沙汰有るの外、難治の由これを談る。逆徒すでに参河・遠江等に及び、神社・仏寺・権門領等、所当を失うべからざるの由沙汰す。偏に世間の無道を破りこの儀を存ずと。

11月12日 晴れ、
「関東の逆党美濃国に到る」
伝聞、関東の逆党、すでに美乃の国に来たり及ぶと。仍って先ず美乃源氏を伐たんが為、禅門ひそかに郎従等を遣わす。その後追討使を遣わさるべしと。

11月15日 晴[吉記]
「山の大衆使参上」
 山の大衆使参上す。山門の訴えに依って、帰都一定の由所司に仰せ含められたり。これ行隆の奉行なり。

11月17日 晴れ
「美濃源氏等凶族等に与力す」
伝聞、美濃の源氏等、皆悉く凶族等に与力し、美濃・尾張両国併せて伐り取りたりと。また聞く、熊野権の別当湛増、その息僧を進せしむ。仍って宥免(ゆうめん、罪をゆるすこと)有りと。また鎮西の賊(菊池権の守)、指せる故無く恩免すと。関東これ等の子細を聞かば、弥(いよいよ)武勇の柔弱を察すか。

11月19日 晴れ
「還都、来二十六日御出門」
伝聞、還都、来二十六日御出門、来月二日御入洛有るべきの由仰せらる。延暦寺衆徒大悦し、種々の御祈り等を始むと。
「東乱近江の国に及ぶ」
或る人云く、東乱近江の国に及ぶと。

11月20日 [吉記]
「還都一定なり」
蔵人弁の許より、出納(中原)国貞を以て示し送りて云く、還都一定なり。来二十三日前の大納言宇治河の亭(摂津の国)に行幸す。二十四日寺江(摂津の国)に渡御す。二十五日木津殿(山城の国)に渡御す。二十六日御入洛有るべし。皇居五條内裏なり。その旨を存じ申し沙汰すべきの由仰せ有りといえり。即ち官外記に仰せ、旁々沙汰を致せしむと。

11月21日 天晴
「宗盛の郎従十余人近江賊徒に梟首される」
閭巷(村里)に云く、近江の国また以て逆賊に属きたり。前の幕下の郎従、伊勢の国に下向するの間、勢多及び野地等の辺に於いて、昨今両日の間、十余人梟首したり。その中に前飛騨の守(平)景家(彼の家後見、有勢武勇の者なり)が姪男有り。伐たれたりと。甲賀入道(柏木義兼、年来彼の国に住む。源氏の一族と)、並びに山下兵衛の尉(同源氏と)等張本たりと。未の刻(14時)、福原より人告げて云く、還都縮められたり。来二十三日出門、二十四日寺江に着き、二十五日木津殿に着き、二十六日御入洛、必定したりと。愚案、もし還都有るべくんば、日来の間、早々有るべきなり。官軍を以て近江・伊勢両国に於いて相禦ぐべきなり。
「敵軍隣国に充満す」
「追討使の沙汰一切無し」
而るに一切追討使の沙汰無し。敵軍すでに隣国に充満するの刻、忽ち以て還都す。豈物議に叶うや。言うこと無し、言うこと無し

11月22日 天陰雨下る
「関東より以仁王の令旨と称し清盛誅伐を令す」
伝聞、関東より一院第三親王(伐害せらる宮なり)と称し、清盛法師を誅伐すべしの宣。東海・東山・北陸道等の武士、与力すべきの由、彼の国々に付す。また三井寺衆徒に給うと。その状、前の伊豆の守仲綱奉ると。これ等詐偽事と疑うか。
11月22日 [吉記]
「近江の国日吉社延暦寺領に賊徒防御を命ず」
大理伝宣、仰せ云う、帰都猶一定なり、兼ねて又日吉社並びに延暦寺領近江の国に充満す仰せの件庄々、早く凶徒を相禦ぐべし。又辺民の中狼心を挟み梟悪に同ずるもの、各討伐すべしの由、下知すべしの旨、山座主(明雲)に仰せすべし、
「美濃源氏近江の国に討ち入るとの風聞あり」
風聞の説、美濃の国に居住の源氏等、近江の国に討ち入ると、或るいは又近江の国住人等合戦の間嗷(ごう)々の由と。

11月23日 晴、夜に入り雨下る
申の刻(16時)人伝えに云く、去る夜、手嶋蔵人某(元三條宮に祇候す。近年禅門並びに幕下の辺に夙(しゅく、つとに)夜す)福原の人宅に放火す。逐電し東国に向かいたりと。
「近江の国一統」
また聞く、近江の国併せて一統したり。水海東西の船等、悉く東岸に付く。また雑船筏等を以て、勢多に浮橋を渡したり。
「北陸道の運上物、悉く取られる」
凡そ北陸道の運上物、悉く以て点取したり。大津の辺の人家騒逃す。凡そ鼓動極まり無しと。三宮遠江橋下の宿に御坐す。
「頼朝等美濃・尾張の境に在り」
頼朝等美濃・尾張の境に在り。先ず美濃・近江等の国人の勢を以て、大津及び山科の辺に推し入るべし。三井寺を以て先陣とすべし。形に随い法勝寺、及び大内等に寄宿すべしと。今に於いては、勿論猶以て追討使の沙汰無し。福原の辺人気色自若、敢えて驚きの色無し。偏に以て酔郷たり。
「適々所在の武士は暇を賜り本国に下向す」
適々所在の武士、この両三日の間追討使の事に出立せんが為、各々身の暇を賜り本国に下向す。福原の勢僅かに二千騎と。大略運報尽きたる期か。新院御悩危急と。夜に入り下人云う、帰都停止したりと、明暁人進む故真偽聞くべしなり、
「延暦寺と園城寺に闘諍有り」
伝聞、山と三井寺と闘諍(そう、あらそい)有り。その事に依って延暦寺園城寺を焼くべしと。後聞、宮・頼朝等駿河の国に在りと。宮ハ不審の物なり。

11月23日 [吉記]
「今夕還都有るべきに」
 今夕還都有るべきに依って御出門たり。前の大納言邦綱卿宇治の新亭(この都に幸すの後新造する華亭なり。土木未だ功を終えず。近日不日に沙汰すと)に行幸す。

11月24日 天晴
「還都必定すという」
伝聞、還都必定したり。昨日御出門。今日寺江に着御す。明日木津殿に渡御し、明後日早旦御入洛と。近江の騒動に依って、還都猶予有るべきの由、その議出来すと雖も猶一定したり。法皇・禅門同じく上洛有るべし。一人も福原に残るべからずと。

11月24日 [吉記]
「出御有り。上皇・法皇同じく」
 辰の刻出御有り。上皇同じく御進発(行幸以前なり)。御車に駕せしめ給う。法皇早旦御進発(御輿)。行幸並びに御幸、申の斜めに前の大納言(邦綱)の寺江亭(主上・上皇御所各別、法皇御舟を以て御宿所たり)に着御す。

11月25日 天晴風吹く
今夕行幸・御幸、共に木津殿に着御すと。伝聞、近江の勢幾ばくも非ずと。また北陸道頗る反気有りと。

11月26日 晴れ
「昨日大風により雑船多く以て海に入り三島江の辺に逗留す」
早旦人告げて云く、昨日大風の間、雑船多く以て海に入る。仍って木津殿に着御せず、三島江の辺に御逗留し。今日夜に入り入御有るべしと。
(中略)
「天皇邦綱の五條の第に着御」
日未だ西山に沈まず。五條の第(邦綱卿家)に着御す。供奉の公卿、成範・時忠等ばかりなり。
(略)
「上皇六波羅池殿に着御」
院夜に入り御入洛。頼盛卿六波羅の第(池殿と号す)におはします。
「法皇六波羅の第泉殿に着御」
法皇未の刻(14時)ばかりに入洛。故内大臣(平重盛)六波羅の第(泉殿と号す)におはします。武士数十騎、路の間囲繞(いじょう)し奉ると。去る六月二日、忽然として都を摂州福原の別業に遷す。神福を降らさず。人皆禍を称す。彼の不可に依って、この災異に到る。所謂天変地夭の難・旱水(かんすい、ひでりと洪水)風虫の損・厳神霊社の怪・関東鎮西の乱等これなり。
「神明三宝の冥助に依り還都有り」
而るに神明三宝の冥助に依って、今この還都有り。
「還都を歓娯せざるは莫し」
一天の下・四海の中、王侯・卿相・緇素・貧賤・道俗・男女・老少・都鄙、歓娯せざると云うこと莫し。この事誠にこれ衆庶の怨みを散じ、萬民の望みに協うものなり。抑も禅門相国、忽ち忠心の懇意を変え、聖主仙院、各々上都の宮闕に帰る。人悦ぶ色有りと雖も、世還りて奇しき思ひを成すか。
「還都に條々の由緒有り」
但し云々の説の如きは、條々の由緒有るか。先ず関東の謀反、縡(こと)遷都より起こるという。何となれば、法皇を禁囚し、重臣を刑罰し、洛都を狭少の地に占め、民人莫大の愁いを懐く。皆これ名を勅宣に仮ると雖も、その実ただ雅意に任す。これ等の子細、逆心すでに炳焉(へいえん、あきらかなさま)たり。早く遠境の間に達し、各近国の兵を集め、平家の盛勢を伐ち亡ぼし、源氏の絶えたる跡を起こさんと欲すと。これ則ち去る歳僭上の咎、今年遷都の徴なり。君主もし帝都に帰らば、賊徒何ぞ民烟(煙)を亡ぼさんや(是一)。次いで台獄の衆徒、度々の奏状を上し、面々の鬱憤を達す。
(略)
申す所理無きに非ず。尤もこれ裁許すべし(是二)。次いで新院の御悩、日を逐って増有り。辺土の行宮に於いて、もし大漸の事出来せば、終身の恨みを遺さんと欲す。枉(ま)げて帰都有るべきの由、院宣再三に及ぶ、黙止能わず(是三)。次いで禅門深く積悪の重きを悔やみ、神明の心を蕩(うご)かさんが為、この儀出来すと(是四)。此の如き等の由来に依って、忽ち不慮の還都、これ天下の謳歌する所か、強ち浮言に非ざらか。仍ってほぼ子細を録すのみ。
「政を公に委ねざれば遷都の詮無きか」
愚意案ずるに、此の事天地の変異、四海の夭殃(ようおう、わかいわざわい)、なんぞ必ずしも遷都に依るか、只悪逆の然らしむ所なり。もし猶政を公に委ねざれば、遷都の詮無しの定めといえりか。

11月28日 天晴
「若狭国有勢の在庁近州に与力す」
伝聞、来月二日追討使を江州(ごうしゅう、近江、滋賀県)に遣わすべしと。また若狭(福井県の西部)の国(経盛卿吏務を掌る)有勢の在庁、近州に与力したりと。

11月29日 天晴
「近江武士三井寺に打ち入る」
夜に入り人伝えに、近江の国の武士数千騎、今日申の刻(16時)ばかりより三井寺(圓城寺)に打ち入ると。この事に依って、六波羅・八條等の辺、武士騒動し、京中物騒極まり無しと。

11月29日 [吉記]
「近江の国の賊徒すでに勢多を越えたり」
昏に臨み風聞に云く、近江の国の賊徒すでに勢多を越えたり。或いは三井寺に籠もると。京中騒動すと雖も、官軍未だ発向せず。奇なるべし、悲しむべし、入道相国今日入洛すと。

11月30日 陰晴不定、午後小雨
「近江武士船を点取るため西岸に着す」
伝聞。昨日の近州の武士等数萬に及ばず。ただ船六艘を西岸に着け、少々寺中に打ち入る。僧徒等子細を問うに、船を点定せんが為に来るの由を返答す。惣べて其の勢百騎ばかりの中半分の者船等を点取り東岸に帰着したり、残り五十騎ばかりは前岸に着船、猶西岸に居留と。且つ船等を点定する為、且つ事態を伺わしむの為来たり所か、今日京中頗る静かと、酉の刻(18時)定能卿来たり、談旬・五節等の間の事、又天下怖畏の事、誠に万人逃れずの怖れか。
「柏木義兼打ち入らんとるも武田を待ち暫く遅々す」
人伝えに云く、甲賀の入道左右無く打ち入らんと欲するの処に、甲斐の武田人を送りて云く、暫く攻め寄すべからず。我行き向かうべし、侍ち具して寄せるべきなり。無勢にて追い帰されらば、後悔あるべしと。仍って彼を相具せんが為に遅々すと。甲賀の入道と謂うは義兼法師なり。刑部の丞(源)義光の末葉と。

11月30日 「吉記」
「東国逆乱・謀反逐日倍増」
今日院に於いて評定有りの事、東国逆徒の事なり。公卿左大臣・左大将直衣・師大納言・新大納言・堀河中納言左代弁等候上達部座、予仰せ奉ると。東国逆乱・謀反逐日倍増・すでに近江の国に及び、就中昨日は賊徒等が圓城寺(三井寺)に討ち入り、指す所無しの為と雖も、帝都遠からず、驚き思し召す所なり。何様行い計られるべしや、宣申し定べしといえり、人々下臈より申し定、定め趣御前に参り聞き奉りたり。

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2005年10月 5日 (水)

3.1 木曽義仲入京前1180.4..10

3.木曽義仲の洛日

木曽義仲の関連年表

1154年(久寿元年)義仲(駒王丸)誕生(現埼玉県比企郡嵐山町)
1155年(久寿2年)義仲(駒王丸)木曽へ(父義賢戦死)
1156年(保元元年)保元の乱
1159年(平治元年)平治の乱
1160年(永歴元年)義朝殺され、頼朝伊豆へ
1166年(仁安元年)義仲元服
1168年(仁安3年)高倉天皇即位(8才)
1177年(治承元年)京都鹿ヶ谷事件(反平家の計画)
1179年(治承3年)清盛クーデター、院政停止。
1180年(治承4年)
    2月 安徳天皇即位(3才)
    4月 以仁王、平家追討の令旨を出す
    5月 以仁王死す
    8月 頼朝伊豆で挙兵
    9月 義仲木曽で挙兵
    10月 富士川の戦い
1181年(治承5年、養和元年)天下大飢饉。
    2月 清盛病死
    6月横田河原の戦い。
1182年(養和2年、寿永元年)
1183年(寿永2年)
    5月倶利伽藍峠の戦い
    7月平家都落ち、義仲入京
    11月法住寺合戦
1184年(寿永3年、元歴元年)
    1月義仲征畏大将軍
    1月義仲戦死(31才)
    2月一の谷合戦
1185年(元歴2年、文治元年)
    2月屋島の合戦
    3月壇ノ浦の合戦(平家滅亡)

そこで、

3.1 入京前
1180年(治承4年)から1183年(寿永2年)6月までの概要と

3.2 入京
1183年(寿永2年)7月から1184年(寿永3年)1月までの詳細

3.3 敗戦後
1184年(寿永3年)2月からの概要

を「玉葉」を中心に観て行きます。

3.1 入京前
1180年(治承四年、庚子)

4月9日 「吾妻鏡」辛卯
 入道源三位頼政卿、平相国禅門(清盛)を討滅すべき由、日者(さきに)用意の事有り。然れども私の計略を以て、太だ宿意を遂げ難きに依って、今日[夜に入り、子息伊豆の守仲綱等を相具し、密かに一院第二宮の]三條高倉の御所に参る。前の右兵衛の佐頼朝已下の源氏等を催し、彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給うべきの由これを申し行う。仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。而るに陸奥の十郎義盛(廷尉為義末子)折節在京するの間、この令旨を帯し東国に向かう。先ず前の兵衛の佐(頼朝)に相触るの後、その外の源氏等に伝うべきの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の蔵人に補す(名字を行家と改む)。

(注釈)
三位(官位、公務員の等級、一位から八位、正と従、上と下の区分がある)
入道(仏道に入り三位以上の人)
相国(太政大臣・左大臣・右大臣の唐名)
禅門(在俗のまま剃髪して仏門に云った男子)
令旨(りょうじ、皇太子・親王・王・女院の命令文書)
八條院(後白河法皇の妹)
蔵人(くろうど、宮中の雑事職)
右兵衛(宮廷の警備)
佐(すけ、兵衛府等の第二位の官職、次官)
尉(じょう、兵衛府等の第三位の官職、判官)
散位(官位があり、役職の無い)
(解説)
源頼政が高倉宮(以仁王)を促して、平家追討の令旨を発行させ、
源十郎行家(源為義の末子)に諸国の源氏へ配布させた。
源頼政は当時在家僧侶風となり、官位が三位であったので、源三位頼政(げんざんみよりまさ)と通称された。

4月27日 「吾妻鏡」壬申
 高倉宮の令旨、今日前の武衛将軍(頼朝)伊豆の国北條館に到着す。八條院の蔵人行家持ち来たる所なり。
    (中略)
   下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事
 右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣す、最勝王の勅を奉(うけたまわる)にいわく、清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、凶徒を起こし国家を亡ぼす。百官万民を悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。財を盗み國を領し、
    (中略)
清盛法師並びに従類を追討すべし。もし同心せざるに於いては、死流追禁の罪過に行うべし。もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知し、宣に依ってこれを行うべし。
     治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣(仲綱)

(注釈)
高倉宮(以仁王)
武衛(兵衛府、宮中の警備)
前の武衛将軍(頼朝)
東山道(中山道)
朝臣(五位以上の人の姓名に付ける敬称)
最勝王(以仁王)
勅(ちょく、天子の命令)
五機(京都近県、大和、山城、河内、和泉、摂津)
七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)
(解説)
高倉宮(以仁王)が最勝王と称して、平家追討の令旨を源仲綱に書かせている。
諸国の反清盛平家の反乱軍はこの令旨を旗印として挙兵し、われこそは官軍と称する。
朝廷及び平家からすると謀反の輩だが。

5月10日 天晴
「武士洛中に満ち世間物騒」
今暁(ぎょう、夜明け)、入道相国(平清盛)入洛、武士洛中に満つ。世間又物騒と。
(注釈)
洛(都、京都:漢の洛陽が都だったので)
入洛(京都に入る)
洛中 (京都の中)

5月15日 天晴
「以仁王配流せらる」
 昏(こん、日暮れ)に臨むの間、京中鼓騒す。山の大衆(比叡山延暦寺の僧兵等)下洛するの由風聞す。但しその実無しと。今夜三條高倉宮(後白河院第二子)配流(流罪)と。件の宮は八條女院(後白河院の妹)の御猶子(養子)なり。此の外縦横の説多しと雖も、信取り難し。

[愚管抄]
 高倉の宮(以仁王)とて、院(後白河)の宮に高倉の三位(成子)とておぼえせし女房産み参らせたる御子をはしき。諸道(しよだう)の事沙汰(さた)ありて王位に御心(おこころ)かけたりと人思ひたりき。この宮を左右(さう)なく流しまいらせんとて、頼政源三位が子に兼綱と云う検非違使(けびいし)を追つかいまいらせて、三條高倉の御所へ参られけるを、とく逃がさせ給いて、三井寺に入せたりける。寺法師どももてなして道々切りふさぎたりける。頼政はもとより出家したりけるが、近衛河原の家を焼て仲綱伊豆の守・兼綱など具して参りにける。

5月16日 陰晴れ不定、晩に及び小雨
 隆職宿祢、三條宮(高倉宮、以仁王)配流の事を注し送る。その状件の如し。
   源以光(本の御名以仁、忽ち姓を賜り名を改むと)
    宜しく遠流に処し、早く畿(京都付近の地)外に追い出さしむべし。
   高倉宮配流の事、仰せ下さるるの状件の如し。
(注釈)
隆職宿祢(大夫史、小槻隆職宿祢)
大夫史(太政官の下級官吏)
太政官(現在の内閣?)

(解説)
以仁王を皇族から外し(臣籍降下)、源以光として遠流の刑にする文書。
太政官の下級官吏の隆職が右大臣の兼実に報告している。

「三井寺衆徒以仁王を守護す」
 伝聞、高倉宮、去る夜検非違使未だその家に向かわざる以前、ひそかに逃げ去り三井寺に向かう。彼の寺の衆徒守護し、将に天台山に登り奉るべし。両寺の大衆謀叛を企つべしと。
「以仁王若宮逐電(逃亡)の聞こえ有り」
 また件の宮の子の若宮(八條院に候するの女房腹なり。所生の時より女院養育せらる。即ちその宮中に祇候す)逐電の由その聞こえ有り。仍って武士等彼の女院御所を打ち囲み、その中を捜し求む。これより先女院御一身に於いては、頼盛卿の家(即ち件の卿の妻参上し相具し奉る)に出で奉りたりといえり。即ち件の若宮、女院を求め出で奉り還御すと。(略)後聞、八條院他所に渡御すること謬説なり。女院に居奉りながら頼盛卿父子参入す。一所残らず捜し求めしむと。
(注釈)
検非違使(けびいし、警察官兼裁判官)
三井寺(園城寺、大津市にある。寺ともいう)
衆徒(しゅと、僧、僧兵等)
大衆(だいしゅ、僧、僧兵等)
天台山(比叡山、延暦寺)
祇候(しこう、おそばに奉仕すること)
還御(かんぎょ、天皇などが帰ること)
渡御(とぎょ、天皇などがお出かけになること)
謬説(まちがった説)

(八條院:後白河院の妹)

5月17日 天晴
「以仁王三井寺にあり」
 伝聞、昨日巳の刻(10時)ばかりに、八條宮(圓恵法親王これなり)、使者を以て宗盛(むねもり)・時忠(ときただ )等の卿に示すと。高倉宮おはします所、三井寺(園城寺)、平等院なり。京を出らるべきの由沙汰する所なりといえり。これにより時忠卿、彼の御迎えのため人を進す。また宗盛卿武士五十騎ばかりを彼の使に着け副えこれを遣わす。即ち八條宮の下法師(下人、従者)原三人これを相具す。秉燭(へいしょく、夕刻) に首途(出立)す。子の刻(24時)彼の寺に到る。但し寺中に入らず、小関外に群集す。先ず以て下法師達御迎えに参るの状を示し証す。即ち帰り来たりて云く、今日日没以前、大衆三十人ばかりを相率い、京の御所に渡御したり。早く帰らるべしと。仍って別当(長官)使い並びに武士等、八條宮に参り、先ずこの由を申す。
(中略)
この状を聞き、事の次第を宗盛・時忠等の卿に示す。その後重ねて沙汰の趣を聞かず。大略武士の卑陋(下品)、言い足らざる事か。凡そ昨日の朝、彼の宮逐電するの由を聞く、福原に至りたり。その使い今日帰京すべし。その後毎事沙汰有るべしと。
(中略)
武者云く、諸国に散在するの源氏の末胤(まついん)等、多く以て高倉宮の方人となり。また近江の国武勇の輩、同じく以てこれに与みすと。凡そこの間巷(ちまた)説縦横し真偽知り難し。
(注釈)
八條宮(圓恵法親王、高倉宮の弟)
武勇の輩(武士)

5月19日 雨降る
「律上房・尊上房が凶徒の張本たり」
 伝聞、昨日園城寺に遣わさるる所の僧綱(そうごう)の中、房覺僧正一人去る夜帰洛す(他の僧綱等出京せずと)。彼の宮猶出で奉るべからざるの由、大衆申し切りたり。凶徒七十人ばかり、その中律上房・尊上房、この両人張本たりと。この由今日院(後白河法皇)に奏すと。山門(比叡山延暦寺)与力すべからずの由、頻りに制抑せらる。
(注釈)
僧綱(そうごう、僧の官職で、各寺の僧を任命し、僧正(そうじょう)・僧都(そうず)・律師(りっし)があり、それぞれ大・少・正・権に分かれる)


5月20日 雨下 
「園城寺以仁王出し奉る事を承諾するも八條宮の使追い帰さる」
 人伝えに云く、留守する所の僧綱、子細を衆徒に示す。衆徒各々宮を出し奉るべきの由承諾す。仍って昨日八條宮御迎えの為人を進せらる(有識二人並びに房官等を相副えらると)。彼の宮の在所に就いて、出で奉らんと欲するの処、宮色を作して云く、汝我を搦めんと欲す、更に手に懸くべからずと。爰に甲冑(かっちゅう)を着す悪僧七八人出来し、彼の有識已下を追い散らす。殆ど凌礫(りょうれき)に及ぶと。仍って空しく以て帰洛す。事猶僧綱等の制止叶うべからずと。又云う、在京武士等懼悚(くしょう、おそれる)極まり無しと。
(注釈)
有職(うしき、僧綱に次ぐ職官、已講(いこう)、内供(ないぐ)、阿闍利(あじゃり)の三官)
甲冑(かっちゅう、よろいとかぶと)
悪僧(武芸にすぐれた僧)
凌礫(りょうれき、あなどりさげすむ)
懼(く、おそれる)悚(しょう、おそれる)

5月21日 朝間天晴、午後雨下る 
「園城寺を攻むべき事」
 今日園城寺を攻むべきの由、武士等に仰せらる。明後日発向すべしと。前の大将宗盛卿已下十一人、所謂大将・頼盛(よりもり)・教盛(のりもり)・経盛(つねもり)・知盛(とももり)等の卿、維盛(これもり)・資盛(すけもり)・清経等の朝臣、重衡(しげひら)朝臣、頼政入道等と。人語って云く、大衆一同出で奉りべからざるの由、議定申したり。宮曰く、衆徒たとえ我を此の地に放ち、命終わるべしと雖も、更に人手に入るべからずと。意気衰損無し。おおいに以て甲なりと。見る者感歎せざる無しと。此の間かの宮に親眤(い、じつ、近づき親しむ)する輩 、及び一度参入の人知音(知人)等と雖も、併せ尋ね捜され、人多く損亡すべしと。但し余に於いては、涓塵(けんじん、少し)もこの恐れ無き者なり。仏天知見あるべきか。園城寺の仏法滅尽の時至るか。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
親眤(い、じつ、近づき親しむ)


5月22日 雨下る、時々天晴 
「頼政入道子息等を引率し三井寺に籠る」
去る夜半、頼政入道子息等(正綱・宗頼相伴わず)を引率し三井寺に参籠す。すでに天下
の大事か。
(中略)
「山大衆三百余人与力す」
邦綱卿門下に於いて消息一通を見せしむ。山の大衆三百人与力したる由、山僧の消息なり。
「奈良の大衆蜂起に京中の武士等恐怖す」
夜に入り南都より人来たりて云く、奈良の大衆蜂起す。すでに上洛せんと欲すと。また前の将軍以下、京中の武士等、偏に以て恐怖す。家中の雑物を運び、女人等を逃せしむ。大略逃げ降るべきの支度か。

[愚管抄]
 頼政、三井寺に参りて、寺より六はらへ夜打ち出したててあるほどに、おそくさして松阪にて夜明けにければ、この事をとげず。


5月24日 陰晴れ不定
「南都の衆徒宗盛邸を攻むべき由風聞す」
人伝えに云く、南都の衆徒、前の将軍家に責め寄すべしと。仍って彼の家中大騒ぎと。

[愚管抄]
 頼政、宇治へ落させ給いて、一夜おわしましける。

5月25日 [愚管抄]
 平家、おしかけて攻め寄せて戦いければ、宮の御方にはただ頼政が勢誠にすくなし。大勢にて馬いかだにて宇治川わたしてければ、何わざをかわせん。やがて仲綱は平等院の殿上の廊に入って自害してけり。にえ野の池すぐる程にて、追いつきて宮をば打ちとりまいらせてけり。頼政もうたれぬ。


5月26日 天晴れ
「奈良大衆上洛」
卯の一点(5時から30分)に人告げて云く、奈良の大衆すでに上洛すと。また云く、衆徒僻事(ひがごと、不都合な事)なり。
「以仁王等南都に逃げ去る」
三井寺に坐(おわ)す宮・頼政入道相共に、去る夜半ばかりに逃げ去り南都(奈良)に向かう。その告げを得るに依って、武士等追い攻めると。
(中略)
「頼政等誅殺さる」
午の刻(12時)、検非違使季貞前の大将の使いとして参院す。時忠卿に相逢い、申して云く、頼政が党類併せて誅殺したり。彼の入道・兼綱並びに郎従十余人の首を切りたり。宮に於いては慥(たしか)にその首を見ざると雖も、同じく伐ち得たり。その次第、寅の刻(4時)ばかりに、逃げる者の告げを得る。
「宇治川橋の合戦」
 即ち検非違使景高(飛弾の守景家嫡男)・同忠綱(上総の守忠清一男)等已下、士卒三百余騎これを遂いて責む。時に敵軍等宇治平等院に於いて羞(しゅう、すすめる)喰(くう)の間なり。宇治川の橋を引くに依って、忠清已下十七騎、先ず打ち入る。河水敢えて深み無く、遂に渡り得る。暫く合戦するの間、官軍進み得ず。その隙を得て引いて降ち去る。官軍猶これを追い、河原に於いて頼政入道・兼綱等を討ち取りたり。その間彼是死者太だ多し。疵を被るの輩、勝げて計うべからず。敵軍僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの色無し。甚だ以て甲なりと。その中兼綱の矢前を廻るの者無し。恰も八幡太郎の如しと。
「以仁王自害するか」

5月27日 朝間雨下る。辰の刻(8時)以後天晴れ。
「以仁王討ち漏らすとの疑いあり」
 源の以光(以仁王)謀叛を巧み、園城寺に逃げ籠もる。彼の寺の凶徒同意するの間、その所を避け南都に赴く。興福寺の悪徒また以て與力す。未だ前途を遂げざるの路次に於いて、頼政入道以下軍兵等を誅殺す。彼の以光その内に漏れるか。世の疑う所、もし南都に移住するか。但しこの條分明ならずといえり。

(中略)
「南都より以仁王誅殺せらるとの告げあり」



1180年(治承四年)
9月3日 陰晴れ不定、
「熊野権別当謀叛」
伝聞、熊野権の別当(長官)湛増謀叛す。その弟湛覺の城、及び所領の人家数千宇(う、いえ)を焼き払う。鹿瀬以南併せて掠領したり。行朝同意すと。この事去る月中旬比の事と。
「源頼朝伊豆・駿河を押領す」
また伝聞、謀叛の賊(源)義朝の子(頼朝)、年来配所伊豆の国に在り。而るに近日凶悪を事とし、去る比新司(平時兼)の先使を凌礫す(時忠卿知行の国なり)。凡そ伊豆・駿河両国を押領したり。
「源行家頼朝に與力」
また(源)為義息(行家)、一両年来熊野の辺に住して、去る五月乱逆の刻、坂東方に赴きたり、彼の義朝の子に与力し、大略謀叛を企てるか。宛(あたかも)将門の如しと。凡そ去年11月以後天下静かならず、是即ちひとえに海内を乱刑を以て鎮めんと欲すの間、蝦夷(えみし、えぞ)の類其の威勢怖れず、動もすれば暴虐の心を起す、将来又鎮め得るべからざる事か。

9月4日 「山槐記」晴れ、
今日或者云う、故義朝男兵衛佐頼朝義兵を起こすと。伊豆の国を虜椋す。坂東騒動す。

9月5日 「山槐記」晴れ、
 後聞、今日東国追討使宣旨下されると。
東海道諸国  追討伊豆国流人源頼朝並びに与力の輩の事

9月7日 「吾妻鏡」
 源氏木曽の冠者(かんじゃ、わかもの)義仲主は、帯刀(たてわき)先生(せんじょう)義賢が二男なり。義賢去る久壽二年(1155年)八月、武蔵の国大倉館に於いて、鎌倉の悪源太義平(義朝の長男)主の為討ち亡ぼさる。時に義仲三歳の嬰児たるなり。乳母夫中三権の守(中原)兼遠これを懐き、信濃の国木曽に遁れ下り、これを養育せしむ。成人の今、武略稟性、平氏を征し家を興すべきの由存念有り。而るに前の武衛(頼朝)石橋に於いてすでに合戦を始めらるの由遠聞に達し、忽ち相加わり素意を顕わさんと欲す。爰に平家の方人(味方)小笠原の平五頼直と云う者有り。今日軍士を相具し木曽を襲わんと擬す。木曽の方人村山の七郎義直並びに栗田寺別当(長官)大法師範覺等この事を聞き、当国市原に相逢い、勝負を決す。両方合戦半ばにして日すでに暮れぬ。然るに義直箭(矢)窮まり頗る雌伏(他人の支配下で堪える)す。飛脚を木曽の陣に遣わし事の由を告ぐ。仍って木曽大軍を率い競い到るの処、頼直その威勢に怖れ逃亡す。城の四郎長茂に加わらんが為、越後の国に赴くと。
(注釈)
帯刀(たてわき、たちはき、皇太子の護衛)
先生(せんじょう、隊長)
権の守(正員以外の守(国の長官))
中三(中原家の三男)
稟性(ひんせい、うまれつきの性質)
悪源太(この時代の悪は強いの意味)

9月7日 「山槐記」晴れ、
 権律師源実曰く、義朝の子伊豆を虜領す。坂東国の輩これを追討し男を伐り取る。義朝子においては箱根山に入りたりの由申し上げるの由、
  ・・・
 義朝子伊豆国を領す、武田太郎は甲斐国を領す。伊豆国流人兵衛佐謀反を企て合戦の事。8月23日寄り合いの輩。
    ・・・
兵衛佐残り少なく討たれたり、箱根山に逃れ籠もりたり。8月28日脚力出国し、今日到来す、7日。


9月9日 晴れ
「関東反逆の聞こえ有り」
関東反逆の聞こえ有り。去る五日大外記・大夫史等、召しに依って院に参り評議有り。
「評議有りて頼朝追討すべく宣下せられる」
追討すべきの由、頭弁(源経房)宣下し、左大将(藤原実定)官符を成さる。(平)維盛・(平)忠度・(平)知度等、来二十二日下向すべしと。但し群賊纔(わず)か五百騎ばかり、官兵二千余騎、すでに合戦に及び、
「凶族山中に逃げ入る」
凶族等山中に逃げ入りたりの由、昨日(六日なり)飛脚到来すと。然れば大将軍等の発向、若くは事に後れ有るかといえり。
(注釈)
大外記(太政官の官職)
大夫史(太政官の官職)
官符(太政官符、太政官から発する公文書)
太政官(現在の内閣?)
弁(太政官の中級の官吏の名、左右、大中少がある。)
頭弁(中弁のうち蔵人(くろうど)を兼ねる者、頭の弁)
飛脚(急用を遠くへ知らせる使い)

9月9日 「山槐記」晴れ、
 頭弁経房云う、坂東大乱、追討使三人遣わす、右少将惟盛朝臣、薩摩の守忠度朝臣、武蔵(参河の誤り?)守知度等なり。


9月11日 夜より雨降り
「頼朝追討の宣旨」
大夫史隆職、注し送る宣旨かくの如し。
     治承四年九月五日   宣旨  左大将、左中弁
伊豆の国の流人源の頼朝、忽ち凶徒凶党を相語らい、当国隣国を虜掠せんと欲すと。叛逆の至り、すでに常篇(じょうへん、通常)に絶ゆ。宜しく右近衛権の少将平の維盛朝臣・薩摩の守同忠度朝臣・参(三)河の守同知度等をして、彼の頼朝、及び与力の輩を追討せしむべし。兼ねてまた東海・東山両道の武勇に堪える者、追討に備えしむべし。その中殊に功有る輩を抜きんで、不次(破格)の賞に加うべしといえり。

 伝聞、近曽(源)仲綱息(素より関東に住すと)を追討の為、武士等(大庭の三郎景親と。
これ禅門(清盛)ひそかに遣わす所なり)を遣わす。而るに件の仲綱息、奥州方に逃げ脱したり。
「頼朝箱根山に籠もる」
然るの間、忽ち頼朝の逆乱出来す。仍って合戦の間、頼朝等を筥根山に遂い籠めたり。茲に因って追い落とさるる由風聞か。
「平廣常等頼朝に与力し事大事に及ぶ」
而るにその後上総の国の住人、介(上総の国守)の八郎(平)廣常、並びに足利の太郎(故俊綱子と)等も与力す。その外隣国有勢の者等、多く以て与力(加勢)す。還って景親等を殺しと欲するの由、去る夜飛脚到来す。事大事に及ぶと。但し実否を知り難し。此の如しの浮説甚だ多し。禅門(清盛)来十二日芸州(安芸、広島の西部)に参るべし、又新院(高倉上皇)来十二日の間、同じく詣で給わるべしと、また熊野の湛増、猶悪逆を事とす。別当範智与力したりと。
(注釈)
宣旨(天皇の命を伝える公文書)
近衛(皇居の警護)
仲綱(頼政の息子)
上総(かずさ、千葉の中央)
伊豆(静岡の東部)
薩摩(鹿児島の西部)
参(三)河(愛知の東部)


9月13日 朝間小雨、午後晴れ、
「平貞俊東国追討使の中に入る」
筑前の守(平)貞俊来たりて云く、東国追討使の中に罷り入り、来二十二日発向すべしと。信濃の国すでに与力したりと。夜に入り、(伯耆の守藤原)基輔福原より還り、人々の報旨等を示す。

9月19日 雨降り、
「筑紫に反逆の者あり」
伝聞、筑紫(九州)また叛逆の者有り。禅門ひそかに追討使を遣わしたりと。また熊野の事、日を追って熾(し、さかん)盛す。然れども、未だその沙汰(政務の裁断・処理)に及ばずと。

9月20日 雨下、
「良通平惟盛に馬を送る」
右大将(長男良通)馬を少将惟盛朝臣の許(福原に在り。使内舎人弐房)に遣わす。下向の追討使に依ってなり。今日大風。

9月22日 晴れ
「東国勢数万に及ぶ」
伝聞、東国の事日を追ってその勢数万に及ぶ。当時七八ヶ国掠領したりと。
9月22日 「山槐記」天晴れ
今日、東国追討使の少将惟盛朝臣が官符を賜り福原を出る。

9月23日 晴れ、
「東国追討使入京す」
右少将惟盛朝臣の以下、関東凶賊追討の使い等入洛す、(一昨日福原を出、昨日小屋に宿し、今日故京に入る)来二十七八日の間首途(出立ち)すべし、但し一昨日出門の為、吉日の為故と、
「以仁王等駿河の国より奥方へ向かうとの告礼あり」
伝聞、高倉宮(以仁王)及び(源)頼政入道等、去る朔日駿河の国猶奥方に向かうの由、かの国人の告礼有りと、件の状世間に披露す、之奇異又奇怪、喩え取る物無し、かの宮の子と称す幼少の人三宮有りと、もし件の宮を以て父宮と称するか、将に又天狗の為す所か、虚誕(でたらめ)一旦と雖も此の如くの披露、未曾有の事なり、これ則ち禅門人望を失う間、事に於いて彼の為、凶瑞(ずい、しるし)を表さんと欲し天下の士女閭(りょ、あつまり)巷、奇怪の風聞をなすものなり、
「伯耆の国(鳥取西部)荘園停廃宣旨」
伯州の荘園、停廃の宣旨到来すと。

9月23日 「山槐記」天陰
追討使、昨日、福原を出る。今日六波羅に着くと。

9月28日 晴れ
「山の大衆蜂起」
伝聞、山(比叡山延暦寺)の大衆蜂起すと。

9月29日 晴れ
「追討使発向」
今暁、追討使等発向したりと。
9月29日 「山槐記」朝間陰
今暁、東国追討使右少将惟盛朝臣六波羅家を出で発すと。去る22日福原を出る。23日旧都に着く。その後今の所に留まる。
伝聞、上総の守(藤原)忠清この都に於いて忌十死一生日、少将云う、今途中の儀、旧都に於いて忌日次すべし、忠清云う、六波羅は先祖の旧宅なり、忌み被らずと争う、この如しの間相論ずと。
(注釈)
六波羅家(平家一門の居宅)


1180年(治承四年、庚子)
10月2日 雨下、
「熊野合戦」
伝聞、去る月晦の比、熊野の湛増の館にてその弟湛覺攻戦す。相互に死者多し。未だ落ちずと。また近江の国(滋賀県)住人の中、召さるるの者有り。相禦の間度々合戦すと。凡そ近日在々所々、乖背(かいはい、もとりそむく)せざると云うこと莫し。
「武を以て天下を治むるは乱代の至りなり」
武を以て天下を治むの世、豈以て然るべきや。誠に乱れたる代の至りなり。

10月3日 陰時々火雨
「熊野合戦は謬説という」
伝聞、熊野の合戦謬説と。また伝聞、関東の事すでに大事に及ぶと。

10月7日 「山槐記」晴れ、
 大理(検非違使長官)院に於いて示され曰く、頼朝すでに安房(千葉県南部)の国(頭弁知行国なり)を虜椋すの由。頭弁経房朝臣を付け我新院(高倉上皇)に奏す。注進する脚力が詞を申していえり、余彼の状を見せられるを取り乞う、駿河(静岡の中央部)の国住人五百余騎発し伊豆の国へ向かい頼朝を攻める。頼朝党箱根山に引き籠もる。八月晦日頼朝等箱根山を出て船に乗る。夜半安房の国に着く。九月一日与力の輩に於いて諸郡に分與す。人家を追捕(ついほ、ついぶく)し、調物を奪い取る。この旨具(つぶさ)に注進する所なり。

10月8日 晴れ
夜に入り伝聞。高倉宮(以仁王)必定現存し、去る七月伊豆の国に下着すと。当時甲斐の国に御坐(おわ)し、仲綱已下相具し祇候(しこう)すと。但し信を取るに能わず。
「清盛遷都の事により人望を失う」
凡そ権勢の人(清盛)、遷都の事に依って、人望を失うの間、此の如きの浮説流言す。勝げて計ふべからざるか。誠に不便の事か。

10月13日 「吾妻鏡」
 木曽の冠者義仲、亡父義賢主の芳躅(ほうたく)を尋ね、信濃の国を出て上野(こうずけ、群馬県)の国に入る。仍って住人等漸く和順するの間、俊綱(足利の太郎)の為民間を煩わすと雖も、恐怖の思い成すべからざるの由、下知を加うと。
(注釈)
芳躅(ほうたく、ほうちょく、古人の事跡)



10月17日 晴れ
伝聞、追討使遠江(とおとうみ、静岡西部)の国に於いて、彼の国の住人の為射落さると。後聞謬説と。

10月19日 陰雨下、
「以仁王現存の事」
或る人云く、高倉宮誅伐せらるの由猶疑い有り。その故ハ菅の冠者ト云う男、年来彼の宮に参り住吉の辺ニ居住す。宮三井寺に渡御するの後、白地(あからさま)に参入す。武勇の者に非ざるに依って、即ち退出せんと欲するの間忽ち逃げ去る。不慮の外に相具し奉り南都(奈良)に向かうの間、路に於いて伐たれたり。件の男年齢三十余歳、容貌醜からず。頗る以て優美。和琴を弾き横笛を吹くと。誅戮(ちゅうりく、)せらるるの由を称し宮ハもしこの人かと。件の男彼の宮に参るの由、世人偏にこれを知らず。殺害せらるの由、また以て日来風聞せず。この間この子細を知るの輩謳歌すと。但し宮もし現存せば、爭(いかで)か数月の間、その実風聞せざるや。猶信受せられざる事なり。
(注釈)
誅伐(ちゅうばつ、罪ある者を攻め討つこと)
誅戮(ちゅうりく、罪あるものを殺すこと)

10月20日 陰雨下
「延暦寺の衆徒蜂起の事」
 伝聞、延暦寺の衆徒熾盛蜂起す。奏状を以て職事(しきじ)に付けたり。これ遷都を止むべきの由なり。もし裁許無くば、山城(京都南部)・近江両国を押領すべきの由、支度を成すの由と。
(注釈)
奏状(臣下の意見を奏上する文書)
職事(しきじ、雑事職)
裁許(採決して許可すること)

10月28日 「山槐記」晴れ、
 頭弁(経房朝臣)曰く、頼朝党駿河の国に進出し富士川辺りで合戦。追討使官軍敗れ、伊勢(三重県)の国に向かうの由風聞す。

10月29日 天晴
「坂東逆賊の党類、余勢数万に及ぶ。追討使?(オウ)弱極まり無しと」
 伝聞、坂東逆賊の党類、余勢数万に及ぶ。追討使?(オウ)弱極まり無しと。誠に我が朝滅尽の期なり。悲しむべし。悲しむべし、未の刻(14時)ばかり俄に天陰、大雨大風雷鳴、是天変か、恐るべし恐るべし。
(注釈)
?(オウ)弱(かよわい、すくない)

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2005年10月 4日 (火)

平成臨時仮想法廷

「平成臨時仮想法廷」
    (注:このなかの証人及び証言は筆者の推定(独断と偏見?)です。)
「木曽義仲軍乱暴狼藉事件」

被告     義仲軍残党(木曽次郎義仲以下将兵代理)
証人    平家物語原作者
証人    平家物語編集者
証人    琵琶法師
証人   九条兼実「玉葉」著者
証人    慈円「愚管抄」著者
証人    藤原経房「吉記」著者 
証人    中山忠親「山槐記」著者 
証人    藤原定家「明月記」著者 
証人    鎌倉「吾妻鏡」編集者 
証人    京都市民
証人    山寺僧
証人    平家軍残党
証人    鎌倉軍武将(梶原景時)
証人    ものとり
証人    農民


裁判長 「ただいまより、寿永2年7月京都進攻後における8月9月中の木曽義仲軍の乱暴  狼藉事件について審議を開始する。検察官は、罪名と罰状を述べて下さい。」

検察官  「罪名、京都市内において公卿及び寺社、市民に対する乱暴狼藉および乱暴狼藉 の取り締まりの命令違反及び職務怠慢。」

    「罰状、位階剥奪、官職停止、京都追放」

裁判長    「被告人は、罪名を認めますか。」

被告(義仲軍残党)「認めない。木曽軍は信濃の木曽及び信濃・甲斐の農民を主体とする軍であり、 今までほぼ連戦連勝であるが、敵地を占領しても乱暴狼藉をしたことは無い。
今回の入京軍には北陸の兵、美濃、尾張、近江の将兵が加わっているが、市民等に対し乱暴狼藉をしたことは無い。叉市内のものとり、夜盗、平家の残党、山僧等による乱暴狼藉の取り締まりも命令に従い、各軍が分担して忠実に実行した。」

(続-1 平家物語作者等の証言)

検察官    「証人、平家物語原作者に尋ねる。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(平家物語原作者)「なるべく史実に忠実に書いたつもりです。木曽義仲軍の市民に対する乱暴狼藉の事実は無い。書いた覚えも無い。」

弁護人    「証人、平家物語原作者に尋ねる。平家軍は京都から退却する時、六波羅を焼き払いましたか。」

証人(平家物語原作者)「はい、その通りです。」

弁護人    「証人、平家物語原作者に尋ねる。慈円の「愚管抄」によると、六波羅を焼き払った時、京都中のものとりが集まり、乱れ入り、物とりけりとなっている。事実ですか。」

証人(平家物語原作者)「はい、その通りです。」

弁護人    「証人、平家物語原作者に尋ねる。法皇以下公卿の多くが比叡山に退避していた時、慈円の「愚管抄」によると、京中はたがいについぶくをしたようですが、事実ですか。」

証人(平家物語原作者)「はい、その通りです。」

検察官    「証人、平家物語編集者に尋ねる。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(平家物語編集者)「木曽義仲軍の乱暴狼藉の事実は無いかもしれない。事実を書いた原作物語では、琵琶法師の語りの時、聴衆の庶民が不愉快な表情をするので、 さらに、作者編集者の中には    僧侶も加わっているので、木曽義仲軍が乱暴狼藉したように変更しました。特にものとりが集まったとか、互いについぶくしたなどは、絶対に語れません。しかし、市内の乱暴狼藉の事実はありました。それが平家軍なのか、源氏軍なのか、野盗なのか、昼間でも服装外見だけでは見分けが付きません。ちょうど、先に滅んだのが、義仲軍なので、死人に口無し、義仲軍のせいにしました。」

検察官    「証人    琵琶法師に質問する。原作を改編しましたか。」

証人(琵琶法師)「勿論です。原作どおりでは、面白くないし、聴衆の庶民に不都合で不愉快な語りなど、特にものとりが集まったとか、互いについぶくしたなどは、絶対に語れません。また 権力者の朝廷や鎌倉の批判、悪口なども語れません。悪事は全て義仲軍のせいにしました。」

(続-2 九条兼実等の証言)

検察官    「証人、九条兼実に質問する。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(九条兼実)「多分、事実だと思います。」

検察官    「多分ということは、実際には見ていないのですか。」

証人(九条兼実)「はい、私は病弱でしたので、いろいろな人から聞いた事を日記に記述していました。」

検察官    「いろいろな人の情報は信用できますか。」

証人(九条兼実)「はい、信用出来ると思いますので、乱暴狼藉は事実だと思います。」

弁護人    「それでは、あなたの日記「玉葉」の寿永2年7月21日の平家軍の人数を数えた時何人でしたか」

証人(九条兼実)「私の使用人が数えました。1080騎でした。間違いありません。」

弁護人    「これを世間の風聞では7.8千騎、または万騎と称している。有名無実の風聞かくの如しではありませんか。」

証人(九条兼実)「全くその通りです。軍勢の数は大袈裟な風聞となっています。」

弁護人    「その他の風聞自体も大袈裟ではありませんか。」

証人(九条兼実)「そんな事はありません。」

弁護人    「それでは「頼朝上洛」の風聞は、実際の上洛までに何回書きましたか。」

証人(九条兼実)「多分10回以上です。」

弁護人    「木曽軍等の悪評の風聞も実際には十分の一ではありませんか。」

証人(九条兼実)「いいえ、間違いないと思います。」

弁護人    「木曽軍等の乱暴の程度も風聞の十分の一ではありませんか。」

証人(九条兼実)「いいえ、間違いないと思います。」

弁護人    「証人    藤原経房({吉記」作者)に質問します。寿永2年7月21日の軍勢の数は何人と 聞いていますか。」

証人(藤原経房)「3千人と聞いて記録しました。」

弁護人    「実際に数えましたか。」

証人(藤原経房)「そんなこと出来るわけがない」

(続-3 慈円等の証言)

検察官    「証人    慈円(「愚管抄」作者)に質問します。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(慈円)「木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実ではない。愚管抄にも記述したように、 多分、平家軍が京都から退却する時、六波羅の屋敷に放火したが、その時、京都中のものとりが集まって乱入し、ものとりした事とか、法皇と公家の大部分が比叡山に退避して、京都の権力、警備が手薄になった時、お互いについぶく(略奪)をしたことが、木曽義仲軍のしわざにされたようです。かっての養和の大飢饉の時、四万人の餓死者が出たとされる大都市です。この大都市に五万の軍勢が入いれば、多少のひしめき合いはあります。 何も事件が無いというのがおかしい。木曽義仲軍の入京前の混乱や法住寺合戦の混乱に比べれば木曽義仲軍の入京後の若干のごたごたなど記述するほどの事件でもない。」

検察官    「証人    藤原経房(「吉記」作者)に質問します。木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実か。」

証人(藤原経房)「木曽義仲軍の乱暴狼藉は事実ではないと思います。木曽義仲軍が入京する前々日、山僧等による追捕物取りがありました。眼前に天下の滅亡を見る思いがしました。慈円の証言とほぼ一致します。」

弁護人    「証人(藤原経房)の家は無事でしたか。」

証人(藤原経房)「我が家は幸運にも無事でした。平家関係者や手薄の家が特に狙われたようです。」

検察官    「木曽義仲軍が入京後、乱暴狼藉はありましたか。」

証人(藤原経房)「はい、寺社、公卿の家にまで、追捕物取りがあったようです。 直ちに、法皇の命令で木曽義仲軍に乱暴狼藉を鎮めるように伝えました。」

検察官    「被告人(義仲軍残党)木曽義仲は配下の軍に市内の乱暴狼藉を取り締まるように命令しましたか。」

被告(義仲軍残党)「もちろんです。全軍に対し、それぞれ持ち場を分担し、取り締まりを実施したが、各軍の大将は軍事貴族ですから、各自の名誉をかけて努力したはずです。平家軍の残党、僧兵、野盗、市民が入り乱れてものとり、放火を行い、事件は多発し、我が軍兵は地理不案内で追いかけても逃げられることが多かった。制圧には時間を要したことは事実です。」

(続-4 義仲軍残党等の証言)

検察官    「被告人(義仲軍残党)木曽義仲軍の宿舎はどうしましたか。」

被告(義仲軍残党)「平家軍が民家等を徴用していたので、其れを引き続き、使用しました。」

弁護人    「証人(九条兼実)の家等は、平家軍、木曽義仲軍に徴用されましたか。」

証人(九条兼実)「いいえ、徴用されていません。」

弁護人    「証人(九条兼実)の家等は、鎌倉軍に徴用されましたか。」

証人(九条兼実)「はい、庵の一つを借り上げるとの指示が有りました。」

検察官    「被告人(義仲軍残党)木曽義仲軍の食料調達はどうしましたか。」

被告(義仲軍残党)「寄付と追捕(ついほ)によりました。」

検察官    「被告人(義仲軍残党)寄付で食料は集まりましたか。」

被告(義仲軍残党)「しぶしぶながら寄付に応じました。多分逆らえないと思ったのでしょう。 どうしても応じない処は追捕により強制取り立てしました。」

検察官    「追捕とは何ですか。」

弁護人    「追補とは、ついぶくとも云い、兵粮米の取り立てを行うものです。法皇の命令によるものなので 一応、合法な行為です。これは既に平家軍が官軍となり北陸征伐と称して出発するとき、法皇から許可を    得た命令なので、官軍となった義仲軍にも有効なのです。義仲軍は信濃・北陸地方では食料は寄付で間に合っていました。比叡山にいるときも、隣の百斉寺から米の寄付を受けました。この京都では寄付は期待出来ないので、最小限の追捕は必要です。」

検察官    「証人(藤原経房)と証人(九条兼実)に質問です。追捕は合法行為ですか。」

証人(藤原経房)「はい。法皇の命令により、兵粮米の追捕は、数年前から始まり、それでも不足なので、 北陸遠征の時は進軍途中での追捕つまり「路次追捕」も認められることになりました。 新たに官軍となった義仲軍にも追捕は合法行為として認められます。」

証人(九条兼実)「合法行為かもしれないが、実際には略奪に等しく酷い命令です。その点  頼朝殿は偉い。このような追捕を止めるように命令を出しました。」

弁護人    「しかし、その後新たに全国一律の5パーセントの兵粮米を割り当てましたね。」

証人(九条兼実)「その通りです。約1年半後文治元年11月です。」

(続-5 鎌倉軍武将の証言)

弁護人    「証人(鎌倉軍武将)に質問します。鎌倉軍は追捕をしましたか。」

証人(鎌倉軍武将)「はい、もちろんです。ただし、京都市内では一応遠慮しました。」

弁護人    「証人(鎌倉軍武将)に質問します。鎌倉軍は京都市内では追捕をしましたか。」

証人(鎌倉軍武将)「はい、京都市内では、平家関係者の追捕をしました。」

弁護人    「証人(鎌倉軍武将)に質問します。寿永3年1月28日大夫吏隆職を追捕をしましたか。 大夫吏隆職は平家関係者ではありません。」

証人(鎌倉軍武将)「これは、官職名の勘違いです。吏大夫の者を追補すべしの命によるものです。」

弁護人    「証人(梶原景時)に質問します。寿永3年1月摂津の国で勝尾寺を追捕をしましたか。」

証人(梶原景時)「はい、周辺住民のうわさで、勝尾寺が食料や平家の残党を隠しているらしいので追捕をしました。」

弁護人    「証人(梶原景時)に質問します。勝尾寺の追捕のとき放火しましたか。」

証人(梶原景時)「はい、焼失は事実ですが、わが軍の将兵か、平家の残党が逃げる時、放火したのか は不明です。

弁護人    「証人(梶原景時)に質問します。一の谷合戦後、追捕禁止の命令が出ましたか。」

証人(梶原景時)「はい、そのため、以後の食料調達に苦労し、平家追討は遅れました。」

弁護人    「証人(梶原景時)に質問します。追捕禁止の時、食料調達はどうしましたか。」

証人(梶原景時)「それまでの備蓄と、寄付に頼りました。それにこっそり追捕(略奪)もしました。」

弁護人    「証人(梶原景時)に質問します。それで十分でしたか。」

証人(梶原景時)「とんでもない。まだ食料不足で、将兵はふらふらです。戦意も上がりません。 まさに腹が減っては戦は出来ぬです。しかし、ようやく平家追討が終了してから、庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取りと非難されました。(元暦二年四月十五日)」


   
                                                

(続-6 市民と山寺僧の証言)

弁護人    「証人(市民)に質問します。平家軍が六波羅を放火して、退却する時は、どうしましたか。」

証人(市民)「平家軍が焼き払って、退却するという噂を聞いてかけつけましたが、かなりの人数が 入り乱れていて、既に殆ど略奪されたり、燃え尽きて、手に入れたものは殆どありません。」

弁護人    「証人(市民)は何故、駆けつけたのですか。」

証人(市民)「以前から、家を平家軍の兵舎として徴用され、さらに兵粮の追捕ということで、食料や資材を没収されていましたので、少しでも取り返したかったのてす。」

弁護人    「証人(市民)は、義仲軍が入る前に略奪はありましたか。」

証人(市民)「全く同じ理由で、退却した平家の関係者の家を狙って略奪していました。ついでに警備の手薄な家もやられたようです。」

弁護人    「証人(市民)は、義仲軍が入って後、略奪はありましたか。」

証人(市民)「はい、直後はありましたが、取り締まりが始まり、段々少なくなりました。」

弁護人    「証人(市民)は、義仲軍の、乱暴狼藉略はありましたか。」

証人(市民)「はい、宿舎としての徴用と、食料の追補は平家軍と全く同じでした。ただ、取り締まりが厳しく、強盗・夜盗が少なくなり、平家軍より、ましかもしれません。」

弁護人    「証人    (山寺僧)は平家軍が六波羅を放火した時は、どうしましたか。」

証人(山寺僧)「我々が駆けつけた時は、殆ど燃え尽きて、何も捕れませんでした。」

弁護人    「証人(山寺僧)は、義仲軍が入る前に略奪はありましたか。」

証人(山寺僧)「以前から、奈良の寺が焼き討ちされたり、追補ということで、食料の没収がありましたので、少しでも取り返そうと、出かけました。」

弁護人    「証人(山寺僧)は、義仲軍が入って後、略奪はありましたか。」

証人(山寺僧)「我が寺は僧兵が数百人もいるので、大丈夫でしたが、神社とか小さな寺は略奪されたようです。」

弁護人    「証人(山寺僧)は、義仲軍の、乱暴狼藉はありましたか。」

証人(山寺僧)「我が寺にも寄付ということで、義仲軍が来ましたが断固追い払いました。しかし、小さな寺とか、神社はやむを得ず、寄付に応じたようです。」

(続-7 平家軍残党の証言)

弁護人    「証人(平家軍残党)に質問します。平家軍は追捕はしましたか。」

証人(平家軍残党)「はい、食料の調達ということで、民家とか、神社などから、兵粮の追捕と称して、没収しました。」

弁護人    「証人(平家軍残党)は、追捕は簡単でしたか。」

証人(平家軍残党)「はい、最初は簡単でしたが、次第に皆隠しているので、それを探し出すのに時間がかかるようになりました。」

弁護人    「証人(平家軍残党)は、義仲軍が入る前に略奪はしましたか。」

証人(平家軍残党)「いいえ。我々がしたのは追捕です。我々が官軍ですから」

弁護人    「証人(平家軍残党)は、京都から退却する時、なぜ六波羅に放火したのですか。」

証人(平家軍残党)「敵軍に食料や宿舎を利用させないためです。退却する時の常識です。」

弁護人    「証人(平家軍残党)は、義仲軍が入って後、略奪はしましたか。」

証人(平家軍残党)「いいえ。我々がしたのは追捕です。我々がまだ官軍ですから。ただし、賊軍扱いされているので、義仲軍に追いかけられました。」

弁護人    「証人(平家軍残党)は、義仲軍の取り締まりは厳しかったですか。」

証人(平家軍残党)「はい、最初は向こうは地理不案内で、うまく逃げていましたが、段々厳しくなりました。」

弁護人    「証人(平家軍残党)は、義仲軍の取り締まりは厳しくても、略奪はしましたか。」

証人(平家軍残党)「はい、勿論です。食わねば死んでしまいます。運悪く捕まって伐られた者もいるようです。」

(続-8 ものとり等の証言)

弁護人    「証人(ものとり)は、六波羅の略奪には参加しましたか。何を捕りましたか。」

証人(ものとり)「はい、参加しました。食料の燃え残りが少し捕れました。」

弁護人    「証人(ものとり)は、義仲軍が入る前に略奪はしましたか。」

証人(ものとり)「はい、しました。」

弁護人    「証人(ものとり)は、義仲軍が入って後、略奪はしましたか。」

証人(ものとり)「はい、しました。」

弁護人    「証人(ものとり)は、義仲軍の取り締まりは厳しかったですか。」

証人(ものとり)「はい、最初は向こうは地理不案内で、うまく逃げていましたが、段々厳しくなりました。」

弁護人    「証人(ものとり)は、義仲軍の取り締まりは厳しくても、略奪はしましたか。」

証人(ものとり)「はい、勿論です。食わねば死んでしまいます。運悪く捕まって伐られた者もいるようです。」

弁護人    「被告人(義仲軍残党)木曽義仲軍は乱暴狼藉の犯人を捕獲しましたか。」

被告(義仲軍残党)「はい。強盗、夜盗、平家軍残党はもちろん、源氏軍の兵でも特にひどいのは、せしめのためにも、何人か、処分しました。」

弁護人    「証人(九条兼実)は処分の伝聞はありますか。」

証人(九条兼実)「8月末に武士を伐ったという話しを聞きました。多分それだと思います。」

(続-9 九条兼実等の証言)

弁護人    「証人(九条兼実)の日記によると、9月3日義仲軍等が全て刈り取ったとなっています。それでは、市内の餓死者が増加するはずですが、餓死者の風聞はありましたか。」

証人(九条兼実)「そのような風聞はありません。」

弁護人    「証人    (農民)に質問します。義仲軍は略奪をしましたか。」

証人    (農民)「いいえ、刈り取りの支援をしてくれました。義仲軍には農民兵が多いようです。」

弁護人    「証人    (農民)に質問します。義仲軍は寄付を強要しましたか。」

証人    (農民)「はい、寄付に応じないと、追捕ということで、殆ど没収されるらしいので、やむを得ず、少々寄付しました。」

弁護人    「証人(九条兼実)の日記によると、9月3日義仲軍等が全て奪い捕ったとなっています。それでは、市内の餓死者が増加するはずですが、餓死者の風聞はありましたか。」

証人(九条兼実)「そのような風聞はありません。」

弁護人    「証人(九条兼実)の日記によると、9月5日までは或人の云う義仲軍等の乱暴狼藉の風聞が 時々あります。それ以後は見あたりませんが、どうしましたか。」

証人(九条兼実)「残念ながら、それ以後或人からの義仲軍の乱暴狼藉の風聞の報告が無くなりました。」

弁護人    「証人(九条兼実)の日記によると、「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が
朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」、「不能左右」、「可弾指」が非常に多いが、何回あるか わかりますか。」

証人(九条兼実)「そのようなことはわかりません。」

弁護人    「「可悲(悲しむべし)」103回、「滅亡」68回、「滅尽」14回、「    未曾有」172回、「不能左右」107回、「可弾指」59回、「天変地異」の記述672回・・・約40年間の回数です。」

証人(九条兼実)「そのようなことは数えたこともない。」

弁護人    「証人(九条兼実)の日記「玉葉」によると、「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。何回あるか、わかりますか。」

証人(九条兼実)「そのようなことはわかりません。」

弁護人    「「風聞」176回、「伝聞」383回、「或人云う」235回、「人伝」    107回・・・
    約40年間の回数です。」

証人(九条兼実)「そのようなことは数えたこともない。」

(続-10 九条兼実慈円の証言)

弁護人    「証人(九条兼実)の日記「玉葉」によると、寿永3年12月、義経が検非違使として、京都にいたころ、近所で強盗放火事件が多発しましたか。」

証人(九条兼実)「はい、その通りです。」

弁護人    「証人(九条兼実)の日記「玉葉」によると、寿永3年12月近所で強盗放火事件が多発しました。そこで、取り締まりを要請する上申書を出しましたか。」

証人(九条兼実)「はい、その通りです。」

弁護人    「証人(九条兼実)その上申書によると治安が悪いと嘆いていますが、その内容としては寿永2年の8月、9月に記述したものと類似していませんか。」

証人(九条兼実)「いいえ、そのようなことはありません。」

弁護人    「証人(九条兼実)は、平家軍、義仲軍には反感を抱いたいたので、表現が厳しく、贔屓をしている頼朝、義経の関係者への上申書なので、表現が穏やかになっています。」

証人(九条兼実)「いいえ、そのようなことはありません。」

弁護人    「証人 慈円に質問します。貴方の兄の九条兼実は、頼朝贔屓ですか。」

証人 慈円「多分、頼朝贔屓だと思います。後に頼朝の推薦で、関白、大政大臣になりました。」

弁護人    「証人 慈円に質問します。あなたは、頼朝贔屓ですか。」

証人 慈円「いいえ、頼朝贔屓ではないと思います。しかし、後に兄兼実の推薦で、天台座主になりました。」

                                                

(続-11 日記等の作者の証言)

弁護人    「証人    藤原経房「吉記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    藤原経房「吉記」作者「残念ながら8月9月10月の記録は紛失しました。」

弁護人    「証人    藤原経房「吉記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月を回顧した記録はありませんか。」

証人    藤原経房「吉記」作者「調べてみないとわかりません。」

弁護人    「証人    中山忠親「山槐記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月の記録は ありませんか。」

証人    中山忠親「山槐記」作者「残念ながら8月9月10月の記録は紛失しました。」

弁護人    「証人    中山忠親「山槐記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月を回顧した記録はありませんか。」

証人    中山忠親「山槐記」作者「調べてみないとわかりません。」

弁護人    「証人    藤原定家「明月記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    藤原定家「明月記」作者「残念ながら寿永2年から数年の記録は紛失しました。」

弁護人    「証人    藤原定家「明月記」作者に質問します。寿永2年8月9月10月を回顧した記録はありませんか。」

証人    藤原定家「明月記」作者「調べてみないとわかりません。」

弁護人    「証人    鎌倉「吾妻鏡」編集者 に質問します。寿永2年8月9月10月の記録はありませんか。」

証人    鎌倉「吾妻鏡」編集者 「残念ながら寿永2年の記録は1年分紛失しました。」

                                                

(続-12 判決)

裁判長 「判決を言い渡す。

    主文、義仲及び義仲軍無罪。

    判決理由、平家物語の木曽軍の乱暴狼藉の記述は事実ではなく捏造である。
        九条兼実の玉葉の木曽軍の乱暴狼藉の記述は正体不明の或人の風聞が多く信用出来ない。
        慈円の愚管抄は木曽軍の乱暴狼藉を記述せず、木曽軍以外の乱暴狼藉を記述しており信用出来る。
        市民からすると乱暴と思われる追捕も当時は官軍としての合法行為であり、平家軍、
        鎌倉軍も同様に追捕をしていた。

    以上。」

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2005年10月 3日 (月)

朝日将軍木曽義仲の洛日

「朝日将軍の洛日」

「朝日将軍木曽義仲の洛日」
「平安貴族の見た木曽義仲」

1.1 「玉葉」「愚管抄」「吉記」「吾妻鏡」

 「平家物語」によれば、木曽義仲軍は京都での乱暴狼藉などの悪評により、鎌倉の頼朝・義経軍に討たれたことになっている。九条兼実の日記「玉葉」にも乱暴狼藉の記述がある。九条兼実の弟の慈円の著書「愚管抄」には、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、意外な事実が記述されている。「平家物語」の「創作・誇張」である。多くの歴史研究者が指摘するように「平家物語」は史書ではなく単なる文学作品である。現代の小説である。例えば宮尾登美子の小説は事実かと問うのと同じである。平家物語では他の史料と比較して多くの史実上のミス、又は創作が指摘されている。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者、頼朝や朝廷に逆らう事は困難である。負けた平家、義仲だけが悪く、頼朝・義経は正しいと表現せざるを得ない「平家物語」の限界である。義経でさえ美男子だったかもしれないのに「色白で反っ歯の小男」と表現されており、後白河法皇とか頼朝の良くない表現は当然の如く有り得無い。
 後世の小説家の多くが「平家物語」と「玉葉」の記事を鵜呑みにして義仲軍が乱暴狼藉を働いたように記述しているが、「愚管抄」には、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、意外な事実が記載されている。
 本書では、かなり正確な史料とされている「玉葉」「愚管抄」「吉記」「吾妻鏡」に基づき、義仲軍が京都へ朝日が昇る勢いで攻め上がり、後白河法皇、頼朝の計略により、落日の如く消えて行く様子を観る。

1.2 各資料の説明
 「玉葉」とは、京都の公家、九条兼実(くじょうかねざね)の日記である。彼は自己及び子孫の参考のため記録したのであり、後日公開されるとは考えず、思った事、聞き伝え、秘密事項も詳しく記述している。 九条兼実は右大臣も務める貴族であるから、新興勢力の武士に反感を持っている。義仲についてもかなり反感を持って観察し記述している。 当時の権力の中枢は御白河法皇とその近臣にあり、九条兼実は右大臣ではあるが病弱で、平家・法皇と意見が対立する事が多く、単なる御意見番のような立場であった。重要な決定の会議に参加はしていないが、参加者などから伝え聞いて年・月・日毎に詳細に記録している。
 「愚管抄」は兼実の弟の慈円(じえん)が、歴史上の大きな事件毎に記述したもので晩年の1220年頃書かれたとされている。
 「吉記」は権大納言藤原経房の日記である。「玉葉」に比較すると欠落が多い。
 「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録とされ、信用度は高い。これが公式記録かと疑うような記述もある。叉、義仲入京の寿永二年や、頼朝死亡の年などの記録が欠落している。
 「山槐記」は中山忠親の日記である。内大臣と進んだ。三公を三槐ともいう。そこで中山の山を加え山槐記と称した。欠落が多い。平家物語に出てくる「富士川の合戦」で平家軍が水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし、退却する話しが出てくるが虚言甚だ多しと記述している。


2.「乱暴狼藉の真相・・・とんだ濡れ衣
                                京中はたがいについぶく(愚管抄より)」
2.1 追捕(ついほ、ついぶく)
 「愚管抄」によれば、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、「平家物語」の「創作・誇張」であり、「玉葉」による風聞の「大袈裟」な記述によるものである。「追捕」による食料・兵糧米の調達のときのいざこざであろう。
 現在の納税は会社員は給料から天引き(源泉徴収)、自営業者は自主申告の納税である。これを戦費不足の為増税となった時、警察官や兵隊が直接「追加納税せよ」と称し厳しい取り立てに来たらどうなるか。
 当時京都以西の西国は大飢饉だった。平家軍も兵粮米の調達に苦心し全国の荘園からも、かき集めた。清盛の死後、宗盛は「兵粮すでに尽き、征伐の力無し、清盛の沙汰の如く西海・北陸道の運上物を点定(徴収)し、兵粮米にあてるべきかと」と提案している。(玉葉の養和元年閏二月六日参照)しかし未だ不足し、とうとう寿永2年4月の義仲追討軍の場合は「平家物語・北国下向」にも表現されるように、「片道賜りてければ・・・追捕(ついぶく)し・・・人民山野に逃散す」とあるように兵粮米の片道分は進軍途中で現地調達(強制取り立て・略奪)を認められた。これを「路次追捕(ろじついぶく)」という。現地調達との名目とはいえ実態は略奪に等しく進軍途中の官庁・神社仏寺・民家は大迷惑である。抵抗すると殺されたり焼き討ちされた。平家軍は京都を出発する時は京都市内外でも追捕をした。(玉葉の寿永二年四月十三日、十四日参照)

2.2 官軍の追捕
 これが官軍となった義仲軍にも引き継がれ、京都周辺で追補により食料調達をしたと思われる。入京時の7月28日(旧暦、新歴8月24日)は米の収穫前で特に食料が不足していた。その後新米の収穫が始まり兼実の風聞でも1ヶ月ほど(旧暦9月5日、新暦10月1日)で追補は終了したと思われる。食料の確保が出来れば治安の回復は容易である。この時期に頼朝も上京を促されたが兵粮米の確保に不安だ、その他の理由で断った。(玉葉の寿永二年十月九日参照)
 その後上京した義経軍も京都市内では遠慮したが、平家側とみなした公家や京都以外では追捕・乱暴した記録が「玉葉」「平家物語・延慶本」その他の史料に残っている。
 「愚管抄」によれば、義仲軍の乱暴狼藉の記述は無く、義仲軍入京前の平家軍の京都からの退却の時、「六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。」の記述とか、法皇・貴族が比叡山に退避し、京都の権力・警備が空白になった時、「その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじにて」と記述する。
 「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後の状況については「かくてひしめきてありける程に」という程度の表現である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。

参照 http://www.cometweb.ne.jp/ara/GKS05.htm
      http://www.st.rim.or.jp/%7Esuccess/gukansyo05_yositune.html
 筆者も当初は、平家物語は信用してないから、義仲軍の乱暴は事実でないと思っていた。しかし、玉葉の記述によると、もしやかなりの乱暴をしたのは事実かなと疑い始めた。しかし、「愚管抄」の長文の中に、上述の一文を見つけ、謎が解けた思いがした。

2.3 「ものとりの略奪」と「たがいについぶく」
 当初、追補(ついほ、ついぶく)とは官吏・官軍が朝廷の許可により正当な権利有りと称して、従来の年貢以上に兵粮米等を強制取り立てしたものが略奪に近いことから、略奪をもついぶくとも云うようになったようである。
 さらに、慈円の「愚管抄」では「法住寺合戦」も詳細に記述している。「愚管抄」では天変地異とか、火事、放火、強盗、群盗のような事件の記述は非常に少なく政変とか合戦の記述がメインである。その慈円が義仲入京前の京都市内の混乱「ものとりの略奪」や「たがいについぶく」を記述しているのは、永い人生のなかでよほど印象に残っているからに違いない。
 このような人物が、「玉葉」に記述するような「義仲軍等の乱暴狼藉」を見逃すだろうか。兼実は慈円の面倒をよくみており、当時慈円は法性寺座主であり、7月25日には行動を共にしている。多分、九条兼実の風聞では混乱が約1カ月続いたようである。しかし、慈円から見れば、義仲入京前の平家その他僧兵や一般民衆の略奪の混乱、法住寺合戦の混乱に比べれば、記述するほどの事件でも無かった。従前の平家軍と同様の食料調達のための当然の追捕で、平家軍と同じか、ましと見たに違いない。当時、平家軍は兵粮米の調達と称して追捕を行い、食料や資材を没収(略奪)していた。市民らの仕返しとも考えられる。

2.4 市民の略奪「たがいについぶく」

 最近ではイラクの首都バグダッドに米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪化した時など、一般市民が何をしたか。略奪に走る市民を見て、人間の心理行動はは時代や民族の違いに関係無く共通だと思う。
 [吉記]7月26日(義仲入京前)によれば、「山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将の縁辺と称し放火し、或いは追捕・物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。余の亭は此のわざわいを免れる。ひとえに仏神の冥助なり」となっており、平家関係者は特に狙われたようである。吉記の著者は法皇の院庁の官吏であり、在宅していたので難を免れたようである。山僧も加わり物取追捕したようである。
 「平家物語」は琵琶法師の庶民への語り物として始まったようである。そこで慈円の記述するような平家が都落ちするとき、京中のものとりが集まったとか、京中の一般民衆が互いについぶく(略奪)をしたなどの混乱の真実を語れるはずが無い。最初の原作者は真実を忠実に記述したかもしれないが、次第に琵琶法師や編集者が、聴衆に受けるように権力者から迫害を受けないように変形したと思われる。 平家物語の作者は僧も加わっているからやはり仲間の悪口は書けない。死人に口無し。義仲のせいにしておこう。とんだ濡れ衣を着せられたものである。庶民に媚び、権威に逆らえず、真実を語れない「平家物語」の限界である。いつの時代でも同じだが、事実のそのままの記述では受けない、売れない、没収される、処罰されるかもしれない。

2.5 ひしめきてありける
 勿論義仲入京後も混乱は続いたようで、「吉記」7月30日にも「京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金銅追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。」と記述される。これらの乱暴が義仲軍とは限らない。どさくさに紛れ込んだ強盗、夜盗、平家の残党かもしれない。なにしろ現代のように警察官や軍隊のような制服を着ているわけではない。田舎を出たときの粗末な服装か途中で平家の落ち武者から略奪した服装かもしれない。義仲軍か平家軍か野盗か判別も出来ないだろう。
 「愚管抄」によれば義仲軍等の入京後の状況については「かくてひしめきてありける程に」という程度の表現である。「押し合ってごたごたしているうちに」である。何も無く無風であったわけではない。大混乱の中へ進駐したのである。
 当時、京都市内の民家は公卿の家も含め、官軍平氏の兵舎として徴用されていた。頼朝、義仲の反乱を始め各地で反乱が起き、平家は追討軍を発するが、その軍の集結地として、京都市内の徴用された民家などが使用された。出発する前の軍による追捕と幸運にも凱旋した軍、不運にも敗戦した帰還兵による追捕による混乱があった。さらに僧兵、市民による略奪の混乱中であった。それを一応制圧したようである。しかし、六波羅の放火略奪、市内の市民等の略奪の惨状に比べれば、平家軍、義仲軍の追捕によるごたごたなど問題ではない。
 とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、市内は強盗、群盗、放火など平家軍、源氏軍、僧兵、公卿の従者、庶民の乱暴が横行した時代である。それらをまとめて義仲軍のせいにしたようである。
 これを現代の「スピード違反」に例えてみよう。制限速度50キロの普通道路を平家が取り締まりに必要だと100キロで走行の許可を取った。義仲も真似をした。義経・範頼も真似をした。周辺住民は皆大迷惑である。なかには真似をして許可無しで150キロ以上で飛ばす暴走族や住民もいた。義仲が最初に死んだ。鎌倉が100キロ走行を止めようと提案し、取り締まりを始めた。平家も死んだ。義経も死んだ。暴走族や住民は悪い事をしたと反省したが、悪いことをしたのは義仲だけだと口裏を合わせた。しかし、慈円和尚が一番悪いのは150キロ以上で暴走した奴だとポツリと云った。

                                           

2.6 兼実・慈円は頼朝贔屓
 慈円は「愚管抄」を記述するにあたり、史料を集め、「平家物語」を耳にし、兄の日記「玉葉」も眼にしたはずである。しかし、真実を記録しておこうと記述したに違いない。養和の大飢饉のとき、鴨長明の方丈記によれば餓死者が四万人も出たほどの大都市に五万の軍勢が入れば、かなりのひしめきあいでかなりの摩擦ごたごたは有るだろう。ただ此の四万とか五万の人数は多すぎると思うが。義仲軍入京前の混乱に比べれば、それほどの事は無いようだ。
 玉葉の風聞によれば、義仲軍等に田は全て刈り取られた、運上物は全て奪い取られたとなっている(寿永2年9月3日)。とすれば北朝鮮のように市内には餓死者があふれそうであるが、そのような風聞は無い。 平家物語、源平盛衰記、玉葉には義仲軍等の乱暴について非常に詳しく記述するが、義仲入京前に「ものとりが集まる」とか「たがいについぶく」などの記述は無い。入京後「愚管抄」では「かくてひしめきてありける程に」のみである。入京前の「ものとりが略奪」とか「たがいについぶく」などの混乱ぶりに比べれば随分あっさりしている。更に、平家軍、鎌倉軍も追捕による略奪や放火をしたはずだが、その記述が無い。各軍の追捕があえて記述するほどの事でもないのか。
 慈円は義仲贔屓では無い、どちらかといえば頼朝贔屓である。後に頼朝贔屓の兄兼実の推薦により、天台座主(比叡山延暦寺のトップ)にも就任した。
 頼朝の計略により、法皇公卿の間では既に平家追放の功績は頼朝第一、義仲第二とみなしていた(寿永2年7月30日参照)。にもかかわらず、義仲は頼朝などと無視しようとする。さらに天皇の後継問題にも口出しする(寿永2年8月14日参照)。気に入らない。頼朝の方がましかなと期待したようである。
 兼実は平家や法皇と意見の対立があり、義仲入京前や、法住寺合戦のとき、義仲に一時期待したこともあったが、まだ見ぬ頼朝に期待が膨らんだようである。後に頼朝が次々に繰り出す巧妙な作戦にもしや我が朝滅亡かと不安を抱くが、それは永い年月を経て現実のものとなる。後に頼朝の推薦により、関白・太政大臣になるなど朝廷の権力中枢となるが、結局、公家政権から武家政権への手助けをしたことになった。

                                              

3.「風聞と実態の違い」
3.1 兼実は病弱で神経過敏
 兼実は権力中枢から遠ざけられているが、いつか返り咲きを期待し、宮中や市内外から各種情報を集めている。親類縁者をはじめ、平家関係者からも情報を集める。但し病弱のせいか伝聞・風聞・或人云うが多い。伝聞・風聞であるから、真偽明らかではない事も、後日真偽の確認のため記録するとしている。風聞は大袈裟だから注意すべしと云いながら、風聞等を実によく記録している。風聞を後日訂正している場合もあるが、修正してない場合も多い。特に義仲軍、頼朝軍の入京の風聞は各所に出てくるが殆ど修正していない。記述した事が真実とは限らない。
 その風聞の程度は約十分の一に割り引いて受け取る必要がある。その理由は本人も自覚しているように軍勢の数の風聞と実数の違いである。(寿永2年7月21日を参照)
 かなり神経過敏で、地震、雷鳴、大雨、大風などの天変地異にも驚き、官軍(平家軍)が大敗したとか、南都(奈良)の七大寺が焼き討ちされた、熊野の那智が荒れた、自分の意見が採用されない、除目(人事異動)が気に入らないときなど、得意の「可悲」(悲しむべし)、天下・王法・仏法・我が朝「滅亡」・「滅尽」、「未曾有」(みぞう)、「不能左右」(左右する能わず)、「可弾指」(弾指すべし)を連発し大袈裟である。又記録漏れもある。(「可悲(悲しむべし)」103回、「滅亡」68回、「滅尽」14回、「未曾有」172回、「不能左右」107回、「可弾指」59回、「天変地異」の記述672回・・・約40年間の回数)

3.2 「有名無実の風聞かくの如し」
 「玉葉」では「風聞」、「伝聞」、「或人云う」、「人伝」が多い。(「風聞」176回、「伝聞」383回、「或人云う」235回、「人伝」107回・・・約40年間の回数)この「或人」は誰なのか、信用に足るのか。後日検証すると誤りも多い。義仲軍等乱暴の記述についても「或人云う」であり、兼実は病弱のため自分の眼では見ていない。多分、下級の役人か京都の庶民の何人かが市内外の情報を集め報告していたのであろう。自分の仲間の不正は報告するはずがない。信憑性に欠ける。風聞・伝聞・その他を報告する者も大袈裟にしないと意味が無い。
 その他たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「有名無実の風聞かくの如し」と「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべしと。事件があったかもしれないが正確には不明と。被害があったかもしれないが正確には不明と。事件の数は十分の一に、被害の程度はやはり十分の一に割り引いて処理すべきである。
 兼実は平家など武家には反感を持っているが、何故か頼朝には期待している。兼実が義仲に反感を持っているとわかれば、義仲軍の悪評が集まる。一寸した事件も過大に報告され、記録される。その記事も九月五日を最後にぴたりと止まる。殆ど事件が無く報告しようが無いのだろう。

3.3 義経が検非違使でも放火強盗事件が多発
 翌年、範頼軍が中国地方で苦戦し、義経が検非違使として京都にいるころ、放火強盗事件が多発する。とにかくこの時代は全国的な内乱状態で、ほぼ全員が武器を持ち、いつ強盗に変身しても不思議ではない。
 兼実は取り締まりを申し込むがその時の文書は義仲軍が乱暴狼藉したと勘違いした記述と類似している。(元歴元年12月7日参照) 贔屓の頼朝の関係者への上申書であるから、かなり穏やかに書いてあるが、京都内外の治安が悪いと嘆いている。中身は義仲在京中の8月から9月に記述したものと良く似ている。
 義仲には反感を抱いているからかなり厳しい表現である。比較的治安が良いと思われていた義経在京中も、義仲在京中もあまり違いが無いのか。義仲在京中治安が悪いと嘆いたのもこの程度か。

(参考)
元歴元年12月7日 晴れ。「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」近日群盗の恐れ連日絶えず、去る比院の御所に放火の事有り、(即ち打ち消したり)又近辺一二町村の中、強盗入り数人を害す。しかれども敢えて其の沙汰なしと。よつて泰経卿に付き上疏を奉ぐ、
(中略)


3.3b 「兼実款状」款状(かんじょう、嘆願書)
「放火群盗等を禁遏(あつ、とどめる)されるべき事」
 右天下騒乱以後、海内静かならざるの間、五畿七道の海陸の路塞がり、調庸祖税の貢ぎすでに空し、適住反の境、災難猶免れず、或いは炎旱(えんかん、ひでり)の愁いに依り、悉く亡損の地と為す。或るいは武士の妨げを恐れ、敢えて子のごとく来たる民無し、之に加え山門の厳穴未だ安全の栖(せい、すむ)を聞かず、社内寺辺併しながら合戦の場と為す、此の如しの間、貴賤忽ち安堵の計りを失う、せん素各危困の嘆きを懐き、国土の凋弊、年を逐うて増すと雖も、朝家の大営茲に因りて減ずること無し、富者は倉廩(りん、くら)を空しくし、以て僅かに身命を存す、貧者は衣食無く、以て飢え寒さ忍び難し、何況や近曾以来、放火間々起こり、盗賊頗りに聞ゆ、月卿(げっけい、公卿)雲客(うんかく、殿上人)の居所を嫌わず、洛内城外の舎屋を論せず、連夜の災い日を追って絶えること無し、啻(し、ただ)資材を奪ふのみに非ず、殆ど又死傷に及ぶ、万人の歎只此の事に在るのみ、逆党の征伐に於いて、旁々籌(ちゅう、はかりごと)策を運(めぐら)すと雖も、盗賊の厳制に至りては、速やかに刑法行うべし、鎮乱の政、邇(に、じ、ちか・い)より遠きに及ぶ故なり。早く有司並びに武士等に仰せ、慥(ぞう、たしか、あわただしく)禁遏(あつ、とど・める)されるべきか。其の間の子細宜しく有識の輩を訪ね、無為の謀を廻らされるべきなり。此の沙汰もし遅引せば、人家忽ち滅亡し、衆庶いよいよ度を失うものか。
(以下省略)

3.3c 「玉葉」より寿永2年の風聞
寿永2年8月6日
「京中の物取り追捕逐日倍増」、
 京中の物取り追捕、逐日倍増、天下すでに滅亡したり、山掘厳穴、閑かなるべきの所無し、三界無安の金言、誠なるかなこの言。

寿永2年9月3日 天陰、時々雨降り、ある人云う、
「四方の通路皆塞がる」
 凡そ近日の天下、武士のほか、一日の存命の計略無し、よって上下多く片山田舎等へ逃げ去ると、四方皆塞がり、(四国及び山陽道安芸以西・鎮西等、平氏征討以前通達すること能わず、北陸・山陰両道義仲押領す、院分巳下の宰吏、一切吏務能はず、東山・東海両道頼朝上洛以前、又進退すること能わずと)、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られたり、段歩残らず、又京中片山及び神社・仏寺・人屋・在家、悉く以て追捕す、其の他適々不慮の前途を遂げる所の庄公の運上物、多少を論せず、貴賤を嫌わず、皆以て奪い取りたり、此の難、市辺に及び、昨今売買の便を失うと、天は何ぞ無罪の衆生を棄てるや、悲しむべし、悲しむべし、
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
此の如しの災難は、法皇の嗜欲の乱政と源氏奢逸の悪行とより出づ、しかる間、社しょく(天下)を思う忠臣、俗塵を逃れる聖人、各非分の横難に遭う、殆ど成仏の直道を怠る、哀しむべしはただ前世の宿業のみ、

寿永2年9月5日 雨下る、ある人云う、
「京中の万人存命不能」
近日京中の物取り、今一重倍増し、一塵の物途中に持ち出し能わず、京中の万人、今に於いては、一切存命する能わず、義仲院の領以下併しながら押領す、日々倍増し、凡そ(僧と俗人)貴賤、涙を拭はざる無し、

 全て刈り取られた、全て奪い取られたとなっている。北朝鮮のように市内には餓死者があふれかえりそうであるが、そのような風聞は無い。多分、義仲軍の兵士は農民出身が多いので、刈り取りの応援に出たのが誤解されたか、ある一人の田一枚が全部奪われたのが、ある一人は田全部奪われた、さらに農民全員が全部奪われたと大袈裟になり、兼実に伝わった。運上物にしても、ある一人の持ち物が全部奪われた、それがその人のグループ全員が奪われた、さらには運上物は全部奪われたと大袈裟になった。普通の常識で考えれば、そのような事はあり得ないが、兼実は義仲軍ならやりそうだと先入観を持っているからそのようなデマも真実と思い込み、記述した。


                                           

4.「風聞・伝聞は事実か」

 兼実は平家その他の武家に反感を抱いていた。当然である。兼実は天皇の後継問題に平家や義仲が口出しするのが不愉快だった。これは現代でも同じでガードマンに雇った男が家の跡継ぎはあいつがいいなどと口出ししたら、不愉快である。
 情報を伝える側も義仲の悪評を大袈裟に伝える方が兼実が受け入れる。良い評判を伝えてもいい顔をしない。それなら悪評のみ伝えよう。捏造しても話そうとなる。これは現代でもある話しで、イラクが核兵器を保有している確かな情報があるとのことで、イラクに進攻したが、実際には核兵器は無いようだ。
 このように情報は集める側が公平でないと偏った情報が集まり易い。なぜか頼朝の上洛を期待しているので、頼朝上洛すの風聞、伝聞、或人云うは多い。実際の上洛まで何回あるか。数えてみた。8回以上。10回。やはり伝聞、風聞の10分の9は誤りか。
 兼実は当時右大臣であり、後には太政大臣も務めた人物である。その人の日記だから間違いは無いだろうと誤解している小説家・研究者が多い。高校・大学の教師でも、「玉葉」を頭から信じて、記述は真実と思い込んでいる人が多い。朝廷の行事、儀式の記述は間違い無いと思うが、「玉葉」の風聞・伝聞・或人云うはあやしいと、敢えて反論するものである。研究者の一層の検討を期待する。
 火の無い所に煙りは立たぬという言葉もあるが、風聞・伝聞は最初の事実の見聞からいかに変遷するか、簡単な実験でも良く知られている事である。兼実の日記のみで決めつける事は出来ない。兼実がそのような風聞を聞いたのは事実かもしれない。しかしその風聞の元の事実があったかどうかは定かでは無い。
 アメリカのタイフーン「カトリーヌ」の災害で死者は一万人を超えると報道されたが、結局千人以下だった。また「レイプ」が多発しているとのことで、治安部隊が出動したが、実際には一件も無かった。とにかく混乱状況では大袈裟なデマが多発する。

5.「平家物語」中の軍勢の数について

5.1 「ごまんとある」・・・多数ある
 木曽軍5万騎というが、実数は多分半分以下ないし十分の一の五千人、多くとも一万ではないだろうか。「ごまんとある」これは現在でも多数ある場合の表現である。又その根拠として「玉葉」の寿永2年7月21日の日記によると、「追討使兼実家の傍を経て発向す」の記述で、「午の刻(12時)追討使が発向する。三位中将平資盛が大将軍と為し、肥後守貞能を相具し、余の家東小路、富小路を経て、多原方へ向かう、家僕等密々に見物し人数を数えた、「其の勢僅か千騎」その勢1080騎と、多分確かである、日来、世の推しはかる所7、8千騎及び万騎と、その勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべし、」と、たまたま平家の追討軍の軍勢が家の近くを通ったので数えさせたら1080騎だった。これを普通世間では7.8千騎または一万騎と称している。兼実自身も「風聞の大袈裟ぶり」を確認している。「風聞」の程度は十分の一に割り引いて受け取るべし。
 大本営発表ではないが、自軍の軍勢を多めに吹聴するだろうし、別ルートで合流したり、途中で志願兵が参加し、徴兵もあり、人数は増加する。二千ないし三千になるかもしれない。 同日の「吉記」の記録では3千余騎としている。
 [吉記]7月21日 「今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。」と。当時の軍記物語の軍勢の数は十分の一ないし三分の一に割り引くと実際に近いようである。

5.2 木曽義仲軍劣勢でも連勝
 木曽義仲軍が常に人数では劣勢なのに勝ってきたのは、敵軍の人数が風聞の半分か10分の一かもしれないということ、さらに敵の遠征軍に対して自軍は待ち受けている有利さを考慮した結果であろう。遠征軍は食料の調達をしながらの進軍であるから、疲れているので、2分の一、3分の一でも勝つ事がある。京都より西では状況が逆転したので、なかなか勝てない。
 最後の宇治川の合戦、義経軍6万騎との戦いでは、多分10分の一ないし5分の一の六千ないし1万騎と予想した。自軍は二千ないし三千騎である。敵は遠征で疲れているから、勝てるかもしれないと考えた。
 人数が全く正しければ絶対負けるはずだから、直ちに撤退したはずである。又かなり以前から義経軍の500騎程度がうろうろしていたので、それが若干の増援を受けて侵攻してきたと勘違いしたか。
 「玉葉」によれば、義仲は京都を撤退するとき、法皇を具し、市内を焼き払う予定だった。しかし、どちらも実行してない。出来なかったのか。平家は天皇を具し、六波羅辺りを焼き払って、早々と退却した。おかげで市内は大混乱になった。義仲はぎりぎりまで、市内に留まったので、市内の混乱は無かった。義仲の配慮か、偶然か、不幸中の幸いである。兼実は「一切狼藉無し。最も冥加なり」と義経軍のみ賞賛しているが、実は義仲もほめるべきである。


6.「食料の調達方法」
6.1 寄付・・・反乱軍の食料の調達
 義仲は最初は反乱軍として出発する。食料の調達はどうするか。当時の土地の支配は国有地と荘園という貴族や神社仏寺の私有地があった。まず官庁や政府軍の食料を略奪するか、神社仏寺または地方の豪族に寄付を請うしかない。また配下となった豪族から食料は入手出来る。信濃、北陸地方は食料調達は容易であったようである。源平盛衰記でも、延暦寺と対峙したとき、百斉寺から米五百石をいただくと記述する。 
 まず出発するとき、何日分の米が持参出来るか。現在の軍隊のような食料補給部隊は無い。本人持参が原則である。不足したらどうするか。寄付に頼るか、追捕(略奪)しか無い。
 当時は大軍の遠征の兵糧米は数ヶ月分持参し、不足分は略奪方式が普通であり、不可能となつたら、やむをえず停戦し本国へ帰還した。
 兵士が1日米何合必要としたろうか。通常米1石が一人1年分と計算したようであるが、これは1日3合弱となり、宮沢賢治が詩で読んでいるように1日4合の玄米を食すとすれば、1.5石必要である。若い兵士なら1日5合以上必要であろう。つまり10日で5升。30日で1.5斗、2ヶ月で3斗必要である。昔は米俵を使用した。米俵1表には約4斗が入り、約60Kgとなり、通常の大人なら軽々と担いだようである。米俵1俵で一人約2.3ヶ月持つことになる。これを牛か馬で運ぶことになる。義仲軍も4月に信濃を出発してから当然最初の米は無くなっているから、どこかで寄付を受けたり、強制調達して進軍したと思われる。
 京都に入る前、比叡山延暦寺で法皇、公家と会見した時、兵粮米の調達について追捕を認める旨の指示があつたと思われる。兼実は義仲軍は追捕をしていると非難しているが、法皇以下他の公家は何ら非難せず、やむなしと思っている。多分慈円も。。
                                             

6.2 追捕・・・官軍の食料の調達
 現代の軍隊の遠征軍は補給部隊が本国から武器・弾薬・食料を補給するのが原則であり、アメリカ軍は補給を重視し戦闘員と非戦闘員(補給担当)の比率が5対5といわれている。日本の自衛隊は旧日本軍と同じく補給を重視せず9対1のようである。
 当時は遠征軍に補給部隊など無く、食料は本人持参が原則である。不足したら現地調達(追輔、強制取立、略奪)が当たり前になっていた。平家の追討軍の遠征から、状況が変化する。
 治承5年2月7日、全国の神社・仏寺・諸司・諸家・五畿・七道諸国へ数の多少を定めず、堪えられる程度の負担をせよとの宣旨が出ている。諸国への兵粮米の追加徴収が始まる。
 治承5年2月8日には京中の諸家を左右京職官人・官吏・検非違使等が計る。これは大略、公家・富有の者の兵粮米負担であるが、それに限らず、院・宮併せ富を分かち貧に与えるものであると。飢饉の対策でもあると。備蓄米とか家の広さを調べ、兵士の食料、宿舎に徴用したようである。

 「兼実は右大臣であるから、平家、義仲も遠慮したようであるが、鎌倉軍は兼実の庵の借り上げを指示したようである。(寿永三年一月二十七日)」

 兵粮米不足であるから征伐を休むよう議論もしている。しかし、無理矢理兵粮米をかき集め路次追捕をしながら追討軍は進軍した。兼実はこの追捕を認める会議に参加出来ず、その宣旨の記述が無いが、この追捕を取り消す宣旨が出ている事(寿永三年二月二十三日)から、追捕、路次追捕は当時としては、合法だったようである。追捕される側からすれば、酷い命令ではある。京都から撤退した平家軍は、相変わらず官軍と称し、同様の追捕による兵粮調達をした。新たに官軍となった義仲軍も鎌倉軍も同様である。兼実は平家軍・義仲軍が京内外で追捕を行ない、どのような結果になるか知っていたようである。そらみろという口調で或人に云わせて記述している。責任は法皇にあるとも言っている。
                                              

6.3 「腹が減ってはいくさは出来ぬ」
 頼朝は「一の谷合戦」以後、この「路次追捕」のような兵粮米調達と全国への兵粮米徴収の禁止の宣旨を出させ通達した(寿永三年二月二十三日)が、そのため源氏の現地軍は兵粮の調達に苦労し、「一の谷合戦」以後平家追討は遅れた。まさに「腹が減ってはいくさは出来ぬ」のであり、度々の現地軍からの兵粮米不足の要請に頼朝が応じ、義経の参戦もあり、ようやく平家追討が終わる。頼朝は義経らが許可無く任官したことを非難する文書で「徒に庄園の年貢を抑留し、国衙の官物を掠め取り」と非難している。(元暦二年四月十五日)部下が追捕禁止の命令を守らなかったことを苦々しく思っていたようである。しかし頼朝は約1年半後文治元年11月、新たに全国一律の5パーセントの兵粮米を割り当てた。
 旧日本軍が各地で略奪暴行した例が報告されるが、やはり食料の補給が不充分なため、現地軍としては現地調達と称して略奪せざるを得ない。
 「平家物語」にも各種あり、平家軍・木曽義仲軍の追捕乱暴は共通に記述されているが鎌倉軍の追捕乱暴の記述は「平家物語・延慶本」のみである。梶原景時の軍勢が勝尾寺を追捕し放火する場面である。当時鎌倉の悪口は書きにくいはずだが、延慶本が記述されたころは、梶原景時は追放された時期でもあり、勝尾寺の記録では戦後、頼朝の命により再建された。その再建に梶原景時が尽力したとされている。
                                             
7.「平家物語」延慶本による追捕乱暴の場面

 「平家物語」延慶本には、平家軍、義仲軍、鎌倉軍の追捕の記述がある。義仲軍入京前の混乱の記述は無い。

7.1.平家軍の場合

 「北国下向」

片道賜りてければ、路地もて会える物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物仏物をもいはず、をしなべて逢う坂の関より、これを奪い取りければ、狼藉なる事おびたたし。まして、大津、唐崎、三津、川尻、間野、高島、比良の麓、塩津、海津に至るまで、在在所々の家々を次第に追ふくす。かかりければ、人民山野に逃げ隠れて、はるかにこれを見やりつつ、おのおの声整えてぞ叫びける。昔よりして朝敵を鎮めむが為に、東国北国に下り、西海南海に赴く事、その例多しといへども、かくの如くの、人民を費やし国土を損ずる事なし。されば源氏をこそ滅ぼして、かの従類を煩わしむべきに、かやうに天下を悩ます事はただ事に非ずとぞ申ける。

7.2.義仲軍の場合
 「入京後」
源氏の世に成りたりとも、させるそのゆかりならざらむ者は、なにの喜びかあるべきなれども、人の心のうたてさは、平家のかた弱るときけば内々喜び、源氏の方つよると聞けば、京に入りてぞ喜びあひける。さはあれども、平家西国へ落ちたまひしかば、その騒ぎにひかれて安きき心なし。資材雑具東西南北へ運び隠すほどに、ひき失うこと数をしらず。穴を掘りて埋めしかば、あるいは討ち破り、あるいは朽ち損じてぞうせにける。あさましとも愚かなり。まして北国の夷討ち入りにし後は、八幡、賀茂の嶺を憚らず、青田を刈せて馬に飼ひ、人の倉を打ち破りて物を取る。しかるべき大臣公家のもとなむどこそ憚りけれ、片辺につきては武士乱れ入りて、少しも穏しき所なく、家々を追捕しければ、いま食はむとてとりくはたてたる物をも取り奪われ、口を空しくしけり。家々には武士有る所もなき所も、門門に白旗立ち並べたり。道をすぐる者も安きことなし。衣装を剥ぎ獲りければ、男も女も見苦しきことにてぞ有ける。平家の世には六波羅殿のご一家と有しと、老いたるも若きも嘆きあへる事斜めならず。木曽かかる悪事をふるまひける事は、加賀の国井上の次郎もろかたがけうくんによりてとぞ、のちには聞こえし、
                                             

7.3.鎌倉軍の場合

 「梶原摂津の国勝尾寺焼き払うこと」

十八 元歴元年二月四日、梶原一ノ谷へ向かいけるに、民ども勝尾寺に物を隠す由をほの聞きて、兵襲いせめしかば、老いたるも若きも逃げ隠れき。三衣一鉢を奪うのみにあらず、たちまちに火を放ちにければ、堂舎仏閣悉く春の霞となり、仏像経巻しかしながら夜の雲と昇りぬ。かんやうきゆうの煙のへんぺんたりしも、仏閣あらねばその咎なを軽く、祇園寺の炎の炎々たりしも、人の企てならねばその罪重からじ。しかるを今滅ぼす所は仏閣僧坊六十八宇、経論しやうしよ九千余巻、仏像道具資材雑物、全て算術の及ぶ処にあらず。罪すでにごぎやくざいよりも重し。たうぐわあに地獄の苦しみをまぬかれむや。薬師三尊は自ずから炎を逃れ、千手観音は空しく煙となり給へり。目もくれ心も消えて、泣き悲しむ者多し。されども、ちやうじやうぶつの金堂の阿弥陀の御神に納めたりし金堂の観音と、灰の中より求め奉る、百済国より送れる三尺五寸のつきがねも、水の如くに熔けるに、三尊残り給へるを見て、寺僧共歓喜の涙をぞ流しける

義経の目付役として有名な梶原景時が食料調達のための追捕の軍勢の指揮官として登場している。一の谷の合戦場へ向かう途中である。勝尾寺は焼けたが、戦後、頼朝は再建し、梶原景時が尽力したと記録されている。                                             



8.「猫おろし事件」

 「平家物語の猫間中納言」の項で、近所の公家「猫間中納言」が訪ねてきたとき、食事を出したが、「ねこま殿」を「ねこ殿」と間違えたとか、粗末な食器で山盛りご飯を強要した。食べ残しを「ねこおろし」したとからかったという話しである。義仲は無礼な奴であるという評価のようである。しかし、当時の公家社会では少々のだじゃれは許容されていたようである。それが平家政権では「へいしが倒れた」というようなしゃれも通用しない時代だった。禿髪(かぶろ)などという密告部隊もいた。少しでも悪口言うとひどい目に遭った。恐ろしかった。義仲はそんなことはない。本人がだじゃれが通用する。というように話しを面白くしたようである。実際は不明。
 叉、発音が不明瞭なのをからかっているようでもある。木曽軍には北陸地方の武士も加わっているので、なかには「ま」の発音が不明瞭な者がいたかもしれない。現在でも新潟の知人の「印鑑」の発音は「えんかん」と聞こえる。また宮城県の知人は「中山」を「なかま」とやぬきで発音した。「ま」がぬける「まぬけ」な話しとしてからかっているのか。
 また食事の習慣や作法が武士と公家、田舎と京都で異なることも原因である。田舎では食事時に来客があると一緒に食事をするのが常識である。ということは食事時に訪問は遠慮するのが常識である。また食料事情が悪い時は出された食事や菓子も遠慮するのが常識であり、逆に出した側は何回か勧めるのが常識である。その他当時大飢饉の頃で、山盛りご飯をかき込んで食ってみたいという庶民の願望があったかもしれない。また「速飯、速便、速駆け」はかっての旧日本軍では常識であった。京都では「おぶ(お茶)でもどうぞ」は完全な挨拶言葉だから、お茶は出てこないが、地方では「お茶でものんでけや」と本当にお茶を出してくれる。
 この話しには「語りもの系」と「読み本系」と2系統あり、もう一つは「ねこ殿」と間違えたのは家来の「ねのいのこやた」であるとか、残した食事を「お持ち帰り」として公家の従者に持たせたのに「こんなものが食えるか」と放り投げて帰った。それを見た義仲の家来が京都の人は上も下も贅沢だと嘆く話しである。(源平盛衰記、平家物語延慶本など)当時京都は大飢饉で死者が何万人も出たそうである。それでも公家連中は贅沢していたかもしれない。やや落ち目とはいえ公家貴族の悪口は言えない。
                                              

9.「法住寺合戦」
9.1 クーデター
 「平家物語」によると義仲軍の乱暴狼藉を取り締まれとの使者に義仲が無礼な対応をしたので討ってしまえということになっているが、「玉葉」「愚管抄」によると乱暴狼藉に関係無く、法皇側が頼朝に期待して、とにかく義仲が邪魔なので、兵を集めて追い出そうとしたのが事実のようである。法皇が兵を集めて、その兵力の比が逆転しそうなので、討たれる前に攻めようとなつたようである。であるから、合戦後の処理も計画的とは言えない。
 また四方から火矢により放火したとの記述があるが、「玉葉」「吉記」に煙が上がるの記述があるのみである。義仲軍は火攻めの例は少ない。「愚管抄」では詳しい記述の割には、火とか煙の記述は無い。有名な倶利伽藍峠の「火牛の計」作戦も後世の創作であるとされている。
 「愚管抄」の特徴のある記事としては、法皇の弟で天台座主の「明雲」が討たれ、その首を執った者が報告したのに義仲は「なんだそんなもの」と云ったので、首は道ばたに棄てられた。
 法住寺合戦はクーデターであり、武力による急激な政権奪取であり、武力革命である。理由はどうあれ正否を論ずるのは困難である。クーデターそのものが悪であると決めつけることは出来ない。フランス革命を始め各国の政権交代が武力革命によることが多いが一慨に不当とは言えない。まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。要はその後善政が持続すれば良いのである。義仲政権は見通しの甘さにより、周囲の情勢利あらずで、60日しか持たなかったので、判断のしようがない。
 義仲軍は頼朝軍に負けたので、朝廷に対する反乱と決めつけられたが、「承久の乱」、「南北朝」の例など実は反乱軍が勝利した場合でも朝廷側の誰かを朝廷をそそのかした逆臣とみなして処罰するという方法でつじつま合わせをしている事が多い。
 頼朝も実はじわじわと武力による威嚇で、政権を奪ったことになる。序々にやるか、一気にやるかの違いに過ぎない。
                                             
       
9.2 皷判官め打破て捨よ
 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者原共がかたほとりに付いて、時々いりどりせんは何かあながちひが事(僻事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官が凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。、

9.3 秀康・胤義等を討ち取れ
 「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(さん、ざん、そし・る)に依って、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。」
に類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を
参考にしたか。偶然か。(藤原秀康・三浦義村の弟胤義は首謀者とされる)
                                             
10.「日義村」の命名由来
 明治初期の町村合併の時、現在の長野県木曽郡の原野村と宮ノ越村が合併して、「朝日将軍木曽義仲」の日と義から日義村と命名したようである。明治初期のお役人が木曽義仲はけしからん奴だとは考えていなかった証拠である。あるいは事務量が多いので、めくら判だったのか。その後明治政府以降の「皇民化教育」の影響で、天皇に逆らった者は逆賊でけしからんとなったようである。
                                                


11.「木曽殿」と「木曽」
 平家物語が複数の作者の合作であるというのは良く知られているが、義仲の登場する場面も京都以外では「木曽殿」と呼び、京都中の場面では「木曽」と呼び捨てである。これは明らかに作者が義仲より位階が異なることを示す。京中での義仲の行動をやや見下しているのは義仲より上位の公家が作者であり、京都以外での行動の記述は義仲に敬意を抱いている作者のようである。後の「延慶本」や「源平盛衰記」では「木曽」に統一されている。
                                                


12.義仲の功績
 平家追討戦における義仲の功績を現代の人工衛星の打ち上げに例えると、義仲が第一段ロケット、義経が第二段ロケット、頼朝が人工衛星本体、その管制システムが北条を中心とする関東武士団ということになるか。さらに北条氏は他の政敵を排除し、ついには頼朝やその子孫までも排除した。最終の勝利者は北条氏である。いずれにしてもその後数百年続く武家政権の基礎を築いたことになる。
                                             
13.義仲の限界
 義仲はまだ若かったから無理もないが、戦わずして勝のが最上などといえば、怒るかもしれない。個々の戦闘能力は高いから、小規模の合戦には勝てるかもしれないが、大規模な軍団となった時の戦略とか、政治的かけひきとなると、参謀策士がいない。
 これは現代の企業における技術者だけの集団のようなものである。技術者が何か発明をする。新製品を開発する。しかしそれだけでは会社は続かない。伸びない。商品が売れなければならない。そのためには製品化の工場が必要だ。広告もいる。販売の営業もいる。経理も要る。総務課もいる。個人事業主は一人でやらねばならない。やはり得意な分野を分担したほうが効率的だ。技術者だけで会社を作ると、製品開発だけは熱中するが他はおざなりとなり、特に経理は無視して赤字続きとなり、破綻する。即ち全般を特に経理を担当する経営者が必要だ。本人にその能力が無ければ補佐する者が必要だ。
 義仲の直属の部下はほぼ全員が戦闘員、戦闘参謀で、戦略参謀、政治参謀はいなかつたようだ。尤もそのころそのような人材がいなかったことも事実で、そのような発想すら無かったろう。暗中模索の連続だったと思う。技術者同士で会社を興したが、諸問題山積で、参考書もなく、助言者もいない、右往左往しているようなものである。
 義仲が入京した時、各地から反平家の源氏軍が合流したが、それらは義仲の指揮下に入ったわけではない。義仲の直属軍と比較しても同程度の兵力を持っているので、思いどおりには動かない。もたもたしているうちに法皇が反義仲連合を画策し始めた。やむを得ずクーデターとなった。
 頼朝は戦争には戦闘技術以外の戦略や計略が必要で有効な事に気づいたか、北条家が補佐したか、うまく策略を廻らしている。朝廷の下級官吏を採用したり、その提案をうまく利用している。年齢が10才上というのも、義仲の30前後の血気盛んなのに比べ、40前後の体力がやや落ち目なので、頭で勝負しようとするのもかえって有利か。
                                             

14.「源平合戦」から「治承・寿永の内乱」

 軍記物語の影響から、「源平合戦」と源氏と平家の対抗戦のような気がするが、実は頼朝に従がった関東武士団の7割から8割は平家の系統だった。厳密には関東の平氏と西国の平氏の争い「平平合戦」である。たまたま頼朝はその頭として担ぎ出されたに過ぎない。その他、頼朝や義仲以外にも各地で反乱か゜起きて、全国的な内乱状態であった。ということで、源平合戦はふさわしくないので現在は「治承・寿永の内乱」と呼称されている。

                                                
15.「富士川の合戦」

  「平家物語」に平家軍が水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし、退却する。吾妻鏡によれば事実のようである。
 「山槐記」に平家軍が水鳥の羽音を敵軍の襲来と勘違いし、退却する話しが出てくるが虚言甚だ多しと記述している。そのようなデマが流布したのは事実のようである。

「吾妻鏡」1180年(治承四年)10月20日 
  武衛(頼朝)駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将(平)惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒、悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛したり。

16.参考文献
 1.九条家本玉葉 宮内庁書陵部編 明治書院
 2.訓読玉葉   高橋貞一著   高科書店
 3.吾妻鏡・玉葉データペース 福田豊彦監修 吉川弘文館
 4.玉葉索引   多賀宗隼編著  吉川弘文館
 5.新訂吉記2  高橋秀樹    和泉書院
 6.吉記2    増補史料大成刊行会 臨川書店
 7.山槐記    増補史料大成刊行会 臨川書店
 8.中世初期政治史研究 北爪真佐夫 吉川弘文館
 9.鎌倉幕府成立史の研究 川合康  校倉書房
 10.源平合戦の虚像を剥ぐ 川合康  講談社
 11.愚管抄   丸山次郎校注    岩波書店
 12.愚管抄全註解 中島悦次     有精堂
 13.愚管抄の研究 石田一良     ペリカン社
 14.愚管抄の創成と方法 尾崎勇   汲古書院
 15.明月記1  辻彦三郎校訂    続群書類従完成会
 16.平家物語上下 松本章男      集英社
 17.平家物語上下 山下宏明     明治書院
 18.平家物語6789 杉本圭三郎    講談社
 19.平家物語の虚構と真実上 上横手雅敬 塙新書
 20.逆説の日本史 井沢元彦     小学館
 21.源平合戦・戦場の教訓 柘植久慶 PHP
 22.源義経111の謎 楠木誠一郎  成美堂出版
 23.源義経の謎 人物往来社
 24.義経の謎  加来耕三      講談社
 25.源頼朝鎌倉殿誕生 関幸彦    PHP
 26.説話の語る日本の中世 関幸彦  人物往来社
 27.木曽義仲  田屋久男      アルファゼネレーション
 28.木曽義仲  下出積與      人物往来社
 29.木曽義仲  小川由秋      PHP
 30.木曽義仲  長島喜平      国書刊行会
 31.木曽義仲  畠山次郎      銀河書房
 32.木曽義仲の生涯 塩川治子    河出書房新社
 33.木曽義仲の隠れ城 島田安太郎  龍門堂
 34.源氏対平氏  人物往来社
 35.源平争乱  関幸彦       青春出版
 36.ガイドテキスト 今井弘幸    日義村
 37.治承・寿永の内乱論序説 浅香年木 法政大学出版局

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