1184年 (壽永3年、元暦元年)5,6月
1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)
5月1日 「吾妻鏡」
「故志水の冠者義高の伴類等、征罰の沙汰」
故志水の冠者義高の伴類等、甲斐・信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと擬(ぎ)すの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由、その沙汰有り。足利の冠者義兼・小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。また小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林の輩、信濃の国に下向せしめ、彼の凶徒を捜し求むべきの由定めらると。この外、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人等、同じくこれを相催し、今月十日進発すべきの旨、義盛・能員等に仰せらると。
5月2日 「吾妻鏡」
「志水の冠者誅戮の事に御家人馳せ参ず」
志水の冠者誅戮(ちゅうりく)の事に依って、諸国の御家人馳せ参ず。凡そ群を成すと。
(注釈)
誅戮(ちゅうりく)・・・罪をただして殺すこと。
馳せ参ず(はせさんず)・・・大急ぎで参上する。
5月15日 「吾妻鏡」
「義廣の首を獲る」
申の刻(16時)、伊勢の国(三重県)の駅を馳せ参着す。申して云く、去る四日、波多野の三郎・大井兵衛次郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門の尉惟義家人等、当国羽取山に於いて、志田三郎先生義廣と合戦す。殆ど終日に及び雌雄を争う。然れども遂に義廣の首を獲ると。この義廣は、年来叛逆の志を含み、去々年軍勢を率い、鎌倉に参らんと擬(ぎ)すの刻、小山の四郎朝政これを相禦ぐに依って、成らずして逐電し、義仲に属(つ)かしめたり。義仲滅亡の後また逃亡す。曽(か)ってその存亡を弁(わきま)えざるの間、武衛の御憤り未だ休まざるの処、この告げ有り。殊に喜ばしめ給う所なり。
6月16日 晴れ
「平氏党類、備後国の官兵を追い散らす」
或いは云く、平氏の党類、備後の国(広島県東部)に在るの官兵を追い散らすと。土肥の二郎實衡(頼朝郎従なり)息男早川の太郎と。仍って播磨の国(兵庫県南西部)に在るの梶原平三景時(同郎従)、備前の国(岡山県南東部)に越えたり。その隙を聞き、平氏等少々室泊(室津。兵庫県)に来着し焼き払うと。仍って京都の武士等を催し(集め)遣わさると。凡そ追討の間、沙汰太だ泥の如し。大将軍遠境に在り。公家の事沙汰に人無し。ただ天狗万事を奉行するの比なり。沙汰無し。祈祷(きとう)無し。何を以て安全を期すべきや。
6月17日 陰晴不定
「平氏の勢強し」
平氏その勢強しと。京勢僅かに五千騎に及ばずと。
6月21日 晴れ
「頼朝の上洛八月」
伝聞、頼朝の上洛八月と。
6月23日 晴れ
「大仏の滅金(めっき)」
晩に及び右中弁行隆来たり。簾前に召し大仏の間の事を問う。答えて云く、御身に於いては皆悉く鋳奉りたり。来月の内その功を終うべし。その後滅金(めっき)を塗り奉り、開眼有るべきなり。滅金の料金、諸人の施入(せにゅう)少々有るの上、頼朝千両、秀平五千両奉加(ほうが)の由承る所なりと。
「平氏の勢太だ強し」
(中略)また語りて云く、
平氏の勢太だ強し。源氏の武士等気色を損じたり。大略平氏落ちるの時の如し。決定大事出来すかと。
(注釈)
滅金(めっき)・・・鍍金
施入(せにゅう)・・・寺院などに財物を喜捨すること。
奉加(ほうが)・・・仏堂・伽藍の造営などに財物を寄進すること。寄付。
6月27日 「吾妻鏡」
「志水の冠者を討つが故、堀の籐次親家の郎従梟首」
堀の籐次親家の郎従梟首(きょうしゅ)せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮(ちゅうりく)の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓(もう)さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛(頼朝)遁(のが)れ啓すこと能わず。還(かえ)って以て斬罪に処せらると。
(注釈)
梟首(きょうしゅ)・・・さらし首。
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