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2005年11月18日 (金)

1185年 (元暦2年、文治元年)3月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

3月3日 「吾妻鏡」丙戌
「義仲朝臣の妹公有り」
 左馬の頭(さまのかみ)義仲朝臣(あそみ)の妹公有り。これ先日武衛(頼朝)御台所(政子)御猶子(ゆうし)の契り有り。而るに美濃(岐阜県南部)(一村御志有るの間在国)より上洛し、御息女の威に募り、在京するの間、奸曲(かんきょく)の輩多く以てこれに属(つ)く。往日(おうじつ、むかし)棄損(きそん)の古文書(こもんじょ)を捧げ、不知行(ふちぎょう)の所々を件の姫公に寄附するの後、またその使節と称し、権門(けんもん)庄公等を押妨(おうほう)す。この事、当時人庶の愁う所なり。既に関東の御遠聞に達するの間、これを物狂い女房と号す。且つは彼の濫吹(乱暴)を停止し、且つは相順う族を搦め進すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許に仰せ遣わさる。但し御一族の中に於いて、奸濫人相交るの條、世の謗(そし)りを恥給うに依って、御書の面に於いては物狂いの由を載せらるると雖も、潛かに憐愍(れんみん)の御志有り。関東に参向すべきの趣、内々諫(いさ)め仰せらると。
(注釈)
左馬の頭(さまのかみ)・・・左馬寮の長官。
左馬寮(さまりょう)・・・馬寮(めりょう)。官馬の役所。左右がある。
朝臣(あそみ)・・・三位以上のひとの姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
猶子(ゆうし)・・・養子。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
不知行(ふちぎょう)・・・知行・領地を持たないこと。
古文書(こもんじょ)・・・
権門(けんもん)・・・官位高く権威のある家柄。
押妨(おうほう)・・・おうぼう。押し入って乱暴したり、不当な課税をしたりすること。
憐愍(れんみん)・・・れんびん。

3月4日 「吾妻鏡」丁亥
「在洛の武士狼藉」
 畿内近国の狼唳(ろうれい)を鎮めんが為、典膳大夫久経・近藤七国平を以て、御使としてすでに差し遣わされたり。而るに猶在洛の武士狼藉を現すの由聞き及ばしめ給うに依って、叡疑の恐れを散ぜんが為、その子細を言上せらると。武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんが為に候なり。朝敵候せざれば、武士[また上洛せしむべからず。武士]また上洛せしめざれば、狼藉を致すべからず候か。而るに敵人海を隔つの間、今に追討を遂げず。経廻の武士、国々庄々四度計無き事、その聞こえ多く候。仍って追討せらる以後、直に沙汰せしむべきの由、存じ思い給い候と雖も、近国に於いては、且つは糺(きゅう)定せしめんが為、使者二人上洛せしめ候所なり。その以前不覚者候わば、ただ院宣を守り、御使に相副え、計を廻らし行わんが為に候。然るべからざる進退せしめ候わば、定めて自由の沙汰に似候うか。頼朝が威に募り、武士濫妨(らんぼう)の事、停止せしめ候の計なり。子細の勒状、使者に給い候いたり。この旨を以て申し沙汰せしめ給うべく候。
恐々謹言。
     三月四日           頼朝
   謹上 籐中納言殿
(注釈)
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
狼藉(ろうぜき)・・・乱暴。
糺(きゅう)・・・ただすこと。
謹言(きんげん)・・・手紙の末尾に用いて、敬意を表す語。

3月4日 [玉葉]
「義経が凶党を追討」
 隆職追討の間の事を注し送る。義経が許より上状を申すと。去る月十六日纜を解く。十七日阿波の国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追い落としたり。然れども、未だ平家を伐ち取らずと。

3月8日 「吾妻鏡」辛卯
「屋島の合戦すでに終わり」
 源廷尉(義経)の飛脚西国より参着す。申して云く、去る月十七日、僅かに百五十騎を卒い、暴風を凌ぎ、渡部より纜を解く。翌日卯の刻(6時)阿波の国(徳島県)に着き、則ち合戦を遂ぐ。平家の従兵、或いは誅せられ或いは逃亡す。仍って十九日、廷尉屋島に向かわれたり。この使その左右(そう)を待たず馳参す。而るに播磨の国(兵庫県南西部)に於いて後を顧るの処、屋島の方黒煙天に聳ゆ。合戦すでに終わりたり。内裏以下焼亡その疑い無しと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
左右(そう)・・・決着。

3月9日 「吾妻鏡」壬辰
「兵粮その術無きに」
 参河の守(範頼)西海より状を献られて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の国(大分県)に着くの処、民庶(みんしょ)悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎兄弟・大多和の次郎・工藤一臈以下侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉(ま)げてこれを抑留し、相伴い渡海したり。猶御旨を加えらるべきか。次いで熊野の別当湛増、廷尉(義経)の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国(香川県)に渡る。今また九国に入るべきの由その聞こえ有り。四国の事は義経これを奉る。九州の事は範頼奉るの処、更にまた然る如きの輩に抽んぜらる。啻(ただ)に身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似たり。人の思う所尤も恥と為すと。
(注釈)
民庶(みんしょ)・・・一般の人民。庶民。

3月12日 「吾妻鏡」乙未
「兵粮米を納めらる」
 平氏を征罰せんが為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥並びに妻良の津に浮かべ、兵粮米を納めらる。仍って早く纜を解くべきの由仰せ下さる。俊兼これを奉行す。

3月16日 己亥 天晴 [玉葉]
「平家安藝厳島に」
 伝聞、平家讃岐の国(香川県)シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず引退し、安藝(広島県西部)厳島に着きたりと。その時僅かに百艘ばかりと。神鏡・劔璽帰り来たる事、公家殊なる祈祷無し。微臣壹この事を欲す。仍って近日殊に随分の祈り等を修す。また中心この事を察す。仏天定めて照覧有らんか。

3月17日 庚子 [玉葉]
「平家或いは備前小島に在り。」
 伝聞、平家或いは備前(岡山県南東部)小島に在り。或いは伊豫(愛媛県)五々島に在りと。鎮西の勢三百艘相加わると。但し実否知り難し。

3月21日 「吾妻鏡」甲辰 甚雨
「周防の国の舟船奉行、数十艘を献ず」
 廷尉(義経)平氏を攻めんが為、壇浦に発向せんと欲するの処、雨に依って延引す。爰に周防の国(山口県東部)在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経朝臣書を正利に與う。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。

3月22日 「吾妻鏡」乙巳
「義経数十艘の兵船を促し、壇浦へ」
 廷尉(義経)数十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと。昨日より乗船を聚(あつ)め計を廻らすと。三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会す。廷尉曰く、汝すでに門司関を見る者なり。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしといえり。義澄命を受け、壇浦奥津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に棹さし彦島を出る。赤間関(下関)を過ぎ田の浦に在りと。

3月24日 「吾妻鏡」丁未
「壇浦の海上に於いて、源平相逢う」
 長門の国(山口県西部北部)赤間関(下関)壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻(12時)に及び平氏終に敗傾す。二品(二位)禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(安徳天皇、春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。若宮(今上兄)は御存命と。前の中納言(教盛、門脇と号す)入水す。前の参議(経盛)戦場を出て、
陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没す。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛が為生虜らる。その後軍士等御船に乱入す。或いは賢所(神鏡)を開き奉らんと欲す。時に両眼忽ち暗んで神心惘然たり。平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去したり。これ尊神の別躰、朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鋳改め奉らると。朱雀院の御宇長暦年中、内裏焼亡の時、圓規(えんき)すでに虧(か)けると雖も、平治逆乱の時は、師仲卿の袖に移らしめ給う。その後新造の櫃(ひつ)に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭としてこれを沙汰す。
[澆季の今、猶神変を顕わす。仰ぐべし恃むべし。]

3月27日 [玉葉]
「平氏長門の国に於いて伐たれたり」
 伝聞、平氏長門の国(山口県西部北部)に於いて伐たれたり。九郎の功と。実否未だ聞かず。

3月28日 辛亥 [玉葉]
「平氏伐たれたり」
 右少弁定長来たり。定長云く、平氏伐たれたりの由、この間風を聞く。これ佐々木の三郎ト申す武士の説と。然れども義経未だ飛脚を進せず。不審猶残ると。

3月29日 「吾妻鏡」壬子
「平氏追討の御下文(くだしぶみ)、二月二日」
 平氏追討の事、武衛(頼朝)申さるるに依って、軍旅の功を励ましめんが為、庁の御下文を豊後の国(大分県)の住人等の中に下さる。これ先日の事たりと雖も、彼の案文(あんぶん)、今日関東に到来する所なり。
   院庁下す 豊後の国住人某等
    いよいよ征伐を専らにし、勲功を遂げ勧賞(けんじょう)を期すべき事
 右、平家謀叛の党類、四国辺の島を往反し、朝憲(ちょうけん)を蔑爾(べつじ)するの間、
鎮西辺の民多く烏合(うごう)の群に入り、狼唳(ろうれい)の企てを致せしむ。而るに当国の軍兵等、堅く王法(おうほう)を守り、凶醜(きょうしゅう)に与せず。遂に数船を艤(ぎ)し、
官軍を迎え取り、九国の輩を服従せしむべき由その聞こえ有り。殊に以て叡感(えいかん)あり。いよいよ鋭兵を増し、彼の凶徒を討滅せしむべきなり。各々その勲功に随い、請いに依って賞賜(しょうし)有るべきなり。当国の大名等、宜しく承知すべし。違越せしむ勿れといえり。仰せの所件の如し。故に下す。
     元暦二年二月二日

下文(くだしぶみ)・・・上位者から管轄下の役所や人民などに下した公文書。
案文(あんぶん)・・・文書の写し。
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
朝憲(ちょうけん)・・・朝廷で立てた法規。
烏合(うごう)・・・鳥の集まるように規律もなく統一もなく集まること。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
王法(おうほう)・・・国王の法令。
艤(ぎ)・・・きちんと船を整備する。
叡感(えいかん)・・・天子が感歎なさること。天子のおほめ。
賞賜(しょうし)・・・賞して物を賜うこと。

3月29日 [玉葉]
 定能卿来たり、平氏の間の事を語る。昨日定長の語る如し。

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