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2005年11月23日 (水)

お知らせ

お知らせ

 長い間、お読み頂きありがとうございました。
木曽義仲の悪評に疑問を抱き、各種資料に目を通すうちに
各種資料の捏造の疑惑を感じ、平家物語という「物語」の信憑性、
玉葉などの「個人の日記」の信頼性に疑問を持ちながら、
義仲の弁護を続けてきました。
原本は漢文が多く、そのままでは読む人も少なく、現代文にすると
読者は多いかもしれないが、信頼性に欠ける恐れがあるので、
中間の訓読文調にしました。
 今後、しばらくは誤字、脱字、難解部分の修正等を行います。
時々見て下さい。

 そのうちに、現代文調を出します。

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2005年11月22日 (火)

1185年 (元暦2年、文治元年)11月簡略版

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

 

(11月簡略版)
詳細はリンクのココログ
    http://yosinaka.cocolog-nifty.com/general/

11月1日 
「九郎等下向延引」

11月3日 
「行家・義経西海に赴きたり」

11月4日 天晴 
「武士等義経を追行すと」

11月5日 
「九郎等室に於いて乗船」

11月8日 
「義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿す」

11月10日 
「頼朝追討の宣旨を下さるる」

11月11日 
「三位中将の名良経、九郎の名義経なり義経須く改名すべきなり」

11月12日 
「義経・行家等召し奉るべきの由、院宣を下さると」

11月13日 天晴 
「関東の武士、多く以て入洛すと」

11月14日 天晴 
「頼朝一定京上すべきの由風聞す」

11月15日 「吾妻鏡」
「日本国第一の大天狗」

11月16日 天晴 
「頼朝決定上洛すべしと」

11月18日 
「頼朝卿決定国を出て、当時駿河の国に就く」

11月19日 「吾妻鏡」
「土肥の次郎實平一族等を相具し、関東より上洛」

11月20日 「吾妻鏡」
「義経・行家等悪風に遭い漂没す、両人未だ死せざる」

11月21日 天晴 
「頼朝の上洛決定留まりたり。」

11月22日 「吾妻鏡」
「豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潛かに多武峰に向かう。」

11月23日 天晴 
「北條四郎時政今日入洛す。その勢千騎と」

11月25日 「吾妻鏡」
「北條殿入洛すと」

11月26日 「吾妻鏡」
「義経に追討の宣旨」

[玉葉]
「頼朝追討の宣旨奉行の人々、損亡すべし」

11月28日 「吾妻鏡」
「兵粮米(段別五升)を課す」
 諸国平均に守護(しゅご)地頭(じとう)を補任(ほにん)し、権門(けんもん)勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿籐中納言経房卿に謁し申すと。

[玉葉]
「兵粮(段別五舛)を宛て催すべし」
 伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻(ただ)に兵粮の催し(もよおし)に非ず。惣て以て田地を知行(ちぎょう)すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
(注釈)
兵粮米(ひょうろうまい)・・・戦時における将兵の食糧。
段別五升(たんべつごしょう)・・・田一反あたり5升。
守護(しゅご)・・・大番(おおばん)の催促、謀反人・殺害人の検断などを担当。
大番(おおばん)・・・宮廷の警護をつとめた役。
地頭(じとう)・・・行家・義経を捕らえる名目で、各地の荘園・公領に置いた。
補任(ほにん)・・・職に補し官に任ずること。ふにん。
権門(けんもん)・・・官位高く権勢のある家柄。
北條丸・・・丸・・・「麻呂」の転。人名の下に付ける語。北条時政。
五畿(ごき)・・・畿内。大和、山城、河内、和泉、摂津の五カ国。
山陰(さんいん)・・・山陰道。現在の中国地方・近畿地方の日本海側。
山陽(さんよう)・・・山陽道。播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門。
南海(なんかい)・・・南海道。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐。
西海(さいかい)・・・西海道。今の九州地方。
催し(もよおし)・・・うながし集めること。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。

11月29日 「吾妻鏡」
「諸国守護・地頭・兵粮米の事、御沙汰有るべき」

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2005年11月21日 (月)

1221年(承久3年)5月19日承久の乱

1221年(承久3年)5月19日

承久の乱(じょうきゅうのらん)

義仲が平家を追放し、この時、天皇になったのが後鳥羽天皇で、上皇となり、鎌倉幕府政権成立後、約40年、1221年(承久3年)、公家政権の復活を期待して、兵を集める。この時の執権(幕府の最高権力者)北条義時は直ちに反撃し、朝廷側を完璧に叩く。この事件の首謀者は後鳥羽上皇であるが、一部の武士などの陰謀であるかのように処理しようとするも、義時は後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐にそれぞれ流された。島流しである。清盛や義仲がクーデターを起し、後白河法皇を幽閉したなどと非難されるがその比ではない。この結果さらに武家政権は強化され公家勢力は衰退した。

北条政子の言葉「秀康・胤義等を討ち取れ」

 「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は

1221年(承久3年)5月19日
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝(ほうしゃ)の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(ざん)に依って、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡(いせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。」
(藤原秀康・三浦胤義(義村の弟)は首謀者とされる)
(注釈)
報謝(ほうしゃ)・・・恩に報い徳を感謝すること。
溟(めい)・・・くらいうみ。
渤(ぼつ)・・・ほつ。わきたつ。なみうつ。
讒(ざん)・・・そしり。
非義(ひぎ)・・・道理にそむくこと。
綸旨(りんじ)・・・蔵人(くろうど)が勅命を受けて書いた文書。天皇の命令書。
遺跡(いせき)・・・故人ののこした職業や領地。

義仲が言った「皷判官め打破て捨よ」

 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山(となみやま)・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人(こうにん)にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者(かんじゃ)原共が片辺(かたほとり)に付いて、時々入り取りせんは何かあながち僻事(ひが事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官(つづみほうがん)が凶害(きょうがい)とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍(いくさ)にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。
に類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆か。偶然か。
(注釈)
砥浪山(となみやま)・・・富山県西端にある山。倶利伽藍峠がある。
降人(こうにん)・・・降参した人。
ま草(まぐさ)・・・馬・牛などの飼料とする草。
冠者(かんじゃ)・・・わかもの。従者。
片辺(かたほとり)・・・かたすみ。片田舎。
入り取り・・・人家に入り物品を奪い取ること。
僻事(ひが事)・・・道理や事実とちがった事柄。
皷判官(つづみほうがん)・・・平知康。法皇の近臣。
凶害(きょうがい)・・・人を害すること。
軍(いくさ)・・・戦い。

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2005年11月20日 (日)

1185年 (元暦2年、文治元年)5月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

5月1日 「吾妻鏡」癸未
「義仲朝臣の妹公(字菊)京都より参上」
 故伊豫の守「義仲」朝臣の妹公(字菊)京都より参上す。これ武衛(頼朝)招引(招待)せしめ給うが故なり。御台所(政子)殊に愍み給う。先日所々押領(おうりょう)の由の事、奸曲(かんきょく)の族名を仮り面に立つの條、全く子細を知らざるの旨陳謝すと。豫州は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる雑怠無きの女性、盍(なん)ぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う所なり。
(中略)

(注釈)
押領(おうりょう)・・・むりやり奪うこと。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
美濃の国遠山庄・・・美濃国(岐阜県)恵那郡遠山荘馬籠村らしい。木曽に近い。

5月3日 「吾妻鏡」乙酉
「木曽の妹公の事、御扶持を加えらるる」
 木曽の妹公の事、御扶持(ふち)を加えらるる所なり。憐み奉るべきの趣、小諸の太郎光兼以下信濃の国の御家人等に仰せ付けらると。これ信州は、木曽分国を号す如く、住人皆彼の恩顧を蒙るが故なりと。
(注釈)
扶持(ふち)・・・俸禄を給して、家臣としておくこと。

5月4日 「吾妻鏡」丙戌
「義経の下知に従うべからず」

5月5日 「吾妻鏡」丁亥
「宝劔を尋ね奉るべき範頼に下知」

5月7日 「吾妻鏡」己丑
「義経の使者異心を存ぜざるの起請文を」

[玉葉]大夫の尉義経等東国に下向す。前の内大臣父子、並びに郎従十
  余人相具すと。
[吉記]
  早旦、大夫判官義経前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、
  及び生虜の輩を相具し関東に下向す。左馬の頭能保朝臣同じく下向すと。

5月10日 「吾妻鏡」壬辰
 志摩の国麻生浦に於いて、加藤太光員の郎従等、平氏の家人上総の介忠清法師を搦め取る。京都に伝うと。

5月11日 「吾妻鏡」癸巳
「頼朝去る月二十七日従二位」
[吉記]「沙汰を致す武士妨げの庄園等の注文、管国等狼藉有る」

5月14日 天晴 [吉記]
「忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首」

5月15日 「吾妻鏡」丁酉
「義経の使者参着す」

5月16日 「吾妻鏡」戊戌
「前の内府鎌倉に入る」

5月19日 「吾妻鏡」辛丑
「京畿の群盗等蜂起す」
 京畿の群盗等蜂起す。敢えて禁じ難きの間、相鎮(しず)むべきの子細、今日沙汰を経らる。先ず平氏の家人等の中、戦場を遁れ出るの族、本の在所に閑散(かんさん)せしめ、猶田園を知行す。剰(あまつさ)え都鄙(とかく)に横行し、盗犯(とうはん)を事と為すと。次いで近日、遠江の国(静岡県西部)居住の御家人等、武威を以て恣(ほしいまま)に内奏(ないそう)せしめ、或いは院宣を申し下し、或いは国司・領家等の下文を掠め取り、地利を貪り公平を缺くと。次いで伊豆の守仲綱が男、伊豆の冠者有綱と号する者、廷尉の聟として、多く近国の庄公を掠領(りゃくりょう)すと。この[條々の事、その聞こえ有るに依って、殊に奏聞を経て、悉く以て糺(きゅう)断せしむべきの由定めらると。]
(注釈)
閑散(かんさん)・・・しずかでひっそりしていること。
盗犯(とうはん)・・・窃盗または強盗の犯罪。
内奏(ないそう)・・・内密に奏聞すること。
掠領(りゃくりょう)略奪し領有すること。
国司(こくし)・・・諸国に赴任した地方官。
領家(りょうけ)・・・荘園の実際の所有者、管理者。

5月23日 「吾妻鏡」丁巳
「参河の守(範頼)対馬」

5月24日 「吾妻鏡」戊午
 源廷尉(義経)、思いの如く朝敵を平らげたり。剰(あまつさ)え前の内府(宗盛)を相具し
参上す。その賞兼ねて疑わざるの処、日来不義の聞こえ有るに依って、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中に入れられず。腰越の駅に於いて徒(いたずら)に日を渉(わた)るの間、愁(しゅう)欝(うつ)の余り、因幡(いなば)の前司(大江)廣元に付き一通の款状(かんじょう)を奉る。廣元これを被覧(ひらん)すと雖も、敢えて分明(ぶんめい)の仰せ無し。追って左右(そう)有るべきの由と。彼の書に云く、
「義経の腰越状」
 左衛門の少尉源義経恐れながら申し上げ候。意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅宣(ちょくせん)の御使として、朝敵を傾け累代(るいだい)の弓箭(きゅうせん)の芸を顕わし、会稽(かいけい)の恥辱を雪(すす)ぐ。抽賞(ちゅうしょう)せらるべきの処、思いの外虎口(ここう)の讒言(ざんげん)に依って、莫大の勲功を黙止せらる。義経無犯にて咎(とが)を蒙る。功有りて誤り無きと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩々(つらつら)事の意を案ずるに、以て良薬口に苦く、忠言耳に逆らう、先言なり。茲に因って、讒者の実否を糺(きゅう)されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意(そい)を述べるに能わず。徒に数日を送る。この時に当たり、永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まる処か。将又先世の業因を感ぜんか。悲しきかな。この條、故亡父の尊霊再誕し給わずんば、誰人愚意の悲歎を申し披かん。何れの輩哀憐(あいれん)を垂れんや。新申状を事とし、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚(はっぷ)を父母に受け、幾時節を経ず、故頭殿御他界の間、孤児となり、母の懐中に抱かれ、大和の国宇多郡龍門の牧に赴くより以来、一日片時も安堵の思いに住せず。甲斐無きの命ばかりを存ずると雖も、京都の経廻(けいがい)難治の間、諸国に流行せしむ。身を在々所々に隠し、辺土遠国に栖(す)まんと為し、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、平家の一族追討の為、上洛せしむの手合いに、木曽「義仲」を誅戮(ちゅうりく)するの後、平氏を責め傾けんが為、或時は峨々(がが)たる巖石に駿馬(しゅんめ)を策(むちう)ち、敵の為亡命するを顧みず。或時は漫々(まんまん)たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈むを痛まず、骸(むくろ)を鯨鯢(げいげい)の鰓(えら)に懸く。しかのみならず、甲冑(かつちゅう)を枕と為し、弓箭を業と為す。本意併しながら亡魂(ぼうこん)の憤りを休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剰(あまつさ)え義経五位の尉(じょう)に補任するの條、当家の面目・希代の重職、何事かこれに如かずや。然りと雖も今愁い深く歎き切なり。自ずと仏神の御助に非ざるの外は、爭(いかで)か愁訴(しゅうそ)を達せん。茲に因って、諸神諸社の午王宝印(ごおうほういん)の裏を以て、全く野心を挿まざるの旨、日本国中大小の神祇(じんぎ)冥道(みょうどう)に請驚し奉り、数通の起請文(きしょうもん)を書き進すと雖も、猶以て御宥免(ゆうめん)無し。その我が国は神国なり。神非礼を稟(さず)くべからず。憑(たの)む所他に非ず、偏に貴殿広大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺い高聞に達せしめ、秘計を廻らされ、誤り無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善(せきぜん)の余慶(よけい)を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝えん。仍って年来の愁眉(しゅうび)を開き、一期の安寧(あんねい)を得ん。愚詞に書き尽せず、併しながら省略せしめ候いたり。賢察(けんさつ)を垂れられんと欲す。義経恐惶謹言。
     元暦二年五月日          左衛門の少尉源義経
   進上 因幡前司殿

(注釈)
因幡(いなば)・・・鳥取県東部。
款状(かんじょう)・・・嘆願書。
被覧(ひらん)・・・ひらきみること。
分明(ぶんめい)・・・あきらかなこと。
左右(そう)・・・さしず。
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(皇居の警備担当)
尉(じょう)・・・次官の下の地位。
勅宣(ちょくせん)・・・勅命。みことのり。天皇の命令。
累代(るいだい)・・・代々。
弓箭(きゅうせん)・・・弓と矢。武器・武芸。武士。
会稽(かいけい)・・・会稽の恥。仇討ち。復讐。
抽賞(ちゅうしょう)・・・多くのものからひきぬいて賞すること。
虎口(ここう)・・・きわめて危険なところ。
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわってその人を悪く言うこと。
咎(とが)・・・とがめ。非難。
倩々(つらつら)・・・つくづく。よくよく。
素意(そい)・・・かねてからの思い。
哀憐(あいれん)・・・いつくしみむあわれむこと。なさけ。
身体髪膚(はっぷ)・・・身体と髪と皮膚、すなわち身体全部。
経廻(けいがい)・・・めぐり歩くこと。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪をただして殺すこと。
峨々(がが)・・・山や巌などのけわしくそびえ立つさま。
駿馬(しゅんめ)・・・すぐれてよく走る馬。すぐれてよい馬。
漫々(まんまん)・・・遠くひろびろとしたさま。
骸(むくろ)・・・骨組みだけ残った死人のからだ。
鯨鯢(げいげい)・・・鯨の雄と雌。
甲冑(かつちゅう)・・・鎧(よろい)とかぶと。
亡魂(ぼうこん)・・・臣だ人の魂。
爭(いかで)か・・・どうして。
愁訴(しゅうそ)・・・苦しみや悲しみを嘆き訴えること。
午王宝印(ごおうほういん)・・・神社・寺などが出す厄除けの護符。その裏面は起請文を記す用紙とされた。
神祇(じんぎ)・・・天神と地祇。かみがみ。
冥道(みょうどう)・・・冥界にあるもろもろの仏。
請驚
起請文(きしょうもん)・・・誓詞。
宥免(ゆうめん)・・・罪をゆるすこと。
積善(せきぜん)・・・善行をつみかさねること。
余慶(よけい)・・・先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福。
愁眉(しゅうび)・・・うれえでひそめた眉。
安寧(あんねい)・・・安泰。
賢察(けんさつ)・・・お察し。相手の推察の尊敬語。

5月25日 「吾妻鏡」丁未
「畿内の雑訴成敗」

5月27日 「吾妻鏡」己酉
「盗人禁裏に推参」

5月29日 辛亥 雨降る [吉記]
「頼盛卿出家す」

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2005年11月19日 (土)

1185年 (元暦2年、文治元年)4月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

4月4日 「吾妻鏡」丁巳
「平家悉く以て討滅」

4月4日 [玉葉]
「平氏等を誅伐」

4月5日 「吾妻鏡」戊午
「征伐すでに武威を顕わす」

4月11日 「吾妻鏡」甲子
「西海の飛脚参り、平氏討滅」

4月12日 「吾妻鏡」乙丑
「平氏滅亡の後、」

4月14日 「吾妻鏡」丁卯
「大蔵卿泰経朝臣の使者関東に参着」

4月15日 「吾妻鏡」戊辰
「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」
 関東の御家人、内挙(ないきょ)を蒙らず、功無くして多く以て衛府(えふ)・所司(しょし)等
の官を拝任す。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可を注し加えらると。
   下す 東国侍の内任官の輩中
    本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事副え下す 交名注文一通
 右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、徒に庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り、成功に募らず自由に拝任す。官途(かんと)の陵遅(りょうち)すでにこれに在り。偏に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。先官当職を云わず、任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列(ちょうれつ)に廁(まじ)う。何ぞ籠居(ろうきょ)せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。
     元暦二年四月十五日
   東国住人任官の輩の事
 兵衛の尉(ひょうえのじょう)義廉 鎌倉殿は悪主なり。木曽は吉主なりと申して、父を始め親昵(しんじつ)等を相具し、木曽殿に参らしむなんどと申て、鎌倉殿に祇候(しこう)せば、終には落人となり給うと。処せられなんとて候しは、何に忘却せしむか。希有(けう)の悪兵衛の尉かな。
 兵衛の尉忠信 秀衡の郎等、衛府を拝任せしむ事、往昔(おうせき)より未だ有らず。涯分(がいぶん)を計り、おられよかし。その気にてやらん。これは猫にをつる。
 兵衛の尉重経 御勘当(かんどう)は、ほぼ免されにき。然れば本領に帰府(きふ)せしむべきの処、今は本領に付け申されざれかし。
 渋谷馬の允(じょう)  父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。
 小河馬の允  少々御勘当免じて、御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、色様(いろさま)吉からず。何料の任官やらん。
 兵衛の尉基清 目は鼠(ねずみ)眼にて、ただ候すべきの処、任官希有なり。
 馬の允有経  少々奴、木曽殿御勘当有るの処、少々免ぜしめ給いたらば、ただ候すべきに、五位の馬の允、未曾有の事なり。
 刑部(ぎょうぶ)の丞友景 音様しわがれて、後鬢さまで刑部からなし。
 同男兵衛の尉景貞 合戦の時、心甲にて有る由聞こし食す。仍って御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、任官希有なり。
 兵衛の尉景高 悪気色して、本より白者と御覧ぜしに、任官誠に見苦し。
 馬の允時経  大虚言計りを能として、えしらぬ官好みして、甲斐庄と云うを知らず。あわれ水駅の人かな。悪馬細工して有れかし。
 兵衛の尉季綱 御勘当すこし免して有るべき処、由無き任官かな。
 馬の允能忠  同じ。
 豊田兵衛の尉 色は白らかにして、顔は不覚気なるものの、ただ候すべきに、任官希有なり。また下総に於いて、度々召し有るに不参して、東国平らげられて後参る。不覚か。
 兵衛の尉政綱
 兵衛の尉忠綱 本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼(あはあ)の人かな。
  [馬の允有長]
 右衛門の尉季重 [顔はふわふわとして、希有の任官かな。]
 左衛門の尉景季 久日源三郎
 縫殿(ぬいどの)の助   顔はふわふわとして、希有の任官かな。
 宮内の丞舒国 大井の渡りに於いて、声様誠に臆病気にて、任官見苦しき事かな。
 刑部の丞経俊 官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな。
     この外の輩、その数多く拝任せしむと雖も、文武官の間、何官何職、分明知ろ
     し食し及ばざるの故、委しく注文に載せられず。この外と雖も、永く城外の思
     いを停止せしむべきか。
 右衛門の尉友家
 兵衛の尉朝政
     件の両人、鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘(たい)馬の道草を喰らうが如し。同じく以て下向すべからざるの状件の如し。
(注釈)
内挙(ないきょ)・・・内々で推挙すること。
衛府(えふ)・・・近衛府・衛門府など、禁裏の警備の役所。
所司(しょし)・・・官庁の役人。
国衙(こくが)・・・国司の役所。国の土地。
官途(かんと)・・・官吏の職務。
陵遅(りょうち)・・・物事が次第に衰えてゆくこと。
朝列(ちょうれつ)・・・朝廷に列すること。朝臣の列に加わること。
籠居(ろうきょ)・・・謹慎などして家の中に閉じ籠もっていること。
兵衛(ひょうえ)・・・兵衛府に属し、内裏の門の守衛など。
尉(じょう)・・・衛門府・兵衛府・検非違使などの次官(すけ)の下。
親昵(しんじつ)・・・親しみなじむこと。親しいひと。
祇候(しこう)・・・おそばに奉仕すること。
希有(けう)・・・めったにないこと。奇異なこと。
往昔(おうせき)・・・過ぎ去ったむかし。いにしえ。
涯分(がいぶん)・・・身分に相応したこと。自分の身の程。
勘当(かんどう)・・・罪をかんがえて法に当てはめて処罰すること。
帰府(きふ)・・・役所に帰ること。都に帰ること。
允(じょう)・・・寮のじょう、尉(じょう)と同等。
色様(いろさま)・・・美しい人の敬称。
刑部(ぎょうぶ)・・・裁判・行刑を担当する役所。
縫殿(ぬいどの)・・・縫殿寮で裁縫を担当する所。
助(すけ)・・・寮の次官。
駘(たい)・・・のろい馬。

??? これが本当に公文書か。

4月20日 [玉葉]
「神鏡等すでに渡辺に着御す」

4月21日 「吾妻鏡」甲戌
「梶原平三景時、義経不義の事を訴う」

[玉葉]
  泰経卿を以て密々尋ね問わるる事等
「建禮門院の御事如何」
「前の内府の事如何
「頼朝の賞の事」

4月24日 「吾妻鏡」丁丑
「賢所・神璽今津の辺に着」

4月26日 「吾妻鏡」己卯
「實平が知行の濫妨を停止せしむべき」
「景時が知行の濫妨を停止せしむべき」

[玉葉]
「前の内府、並びに時忠卿以下入洛すと」

[4月28日 「吾妻鏡」辛巳
「建禮門院吉田の辺に渡御す」

[玉葉]
「神鏡、神璽温明殿に」

4月29日 「吾妻鏡」壬午
「義経に随うべからざる由」

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2005年11月18日 (金)

1185年 (元暦2年、文治元年)3月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

3月3日 「吾妻鏡」丙戌
「義仲朝臣の妹公有り」
 左馬の頭(さまのかみ)義仲朝臣(あそみ)の妹公有り。これ先日武衛(頼朝)御台所(政子)御猶子(ゆうし)の契り有り。而るに美濃(岐阜県南部)(一村御志有るの間在国)より上洛し、御息女の威に募り、在京するの間、奸曲(かんきょく)の輩多く以てこれに属(つ)く。往日(おうじつ、むかし)棄損(きそん)の古文書(こもんじょ)を捧げ、不知行(ふちぎょう)の所々を件の姫公に寄附するの後、またその使節と称し、権門(けんもん)庄公等を押妨(おうほう)す。この事、当時人庶の愁う所なり。既に関東の御遠聞に達するの間、これを物狂い女房と号す。且つは彼の濫吹(乱暴)を停止し、且つは相順う族を搦め進すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許に仰せ遣わさる。但し御一族の中に於いて、奸濫人相交るの條、世の謗(そし)りを恥給うに依って、御書の面に於いては物狂いの由を載せらるると雖も、潛かに憐愍(れんみん)の御志有り。関東に参向すべきの趣、内々諫(いさ)め仰せらると。
(注釈)
左馬の頭(さまのかみ)・・・左馬寮の長官。
左馬寮(さまりょう)・・・馬寮(めりょう)。官馬の役所。左右がある。
朝臣(あそみ)・・・三位以上のひとの姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
猶子(ゆうし)・・・養子。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
不知行(ふちぎょう)・・・知行・領地を持たないこと。
古文書(こもんじょ)・・・
権門(けんもん)・・・官位高く権威のある家柄。
押妨(おうほう)・・・おうぼう。押し入って乱暴したり、不当な課税をしたりすること。
憐愍(れんみん)・・・れんびん。

3月4日 「吾妻鏡」丁亥
「在洛の武士狼藉」
 畿内近国の狼唳(ろうれい)を鎮めんが為、典膳大夫久経・近藤七国平を以て、御使としてすでに差し遣わされたり。而るに猶在洛の武士狼藉を現すの由聞き及ばしめ給うに依って、叡疑の恐れを散ぜんが為、その子細を言上せらると。武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんが為に候なり。朝敵候せざれば、武士[また上洛せしむべからず。武士]また上洛せしめざれば、狼藉を致すべからず候か。而るに敵人海を隔つの間、今に追討を遂げず。経廻の武士、国々庄々四度計無き事、その聞こえ多く候。仍って追討せらる以後、直に沙汰せしむべきの由、存じ思い給い候と雖も、近国に於いては、且つは糺(きゅう)定せしめんが為、使者二人上洛せしめ候所なり。その以前不覚者候わば、ただ院宣を守り、御使に相副え、計を廻らし行わんが為に候。然るべからざる進退せしめ候わば、定めて自由の沙汰に似候うか。頼朝が威に募り、武士濫妨(らんぼう)の事、停止せしめ候の計なり。子細の勒状、使者に給い候いたり。この旨を以て申し沙汰せしめ給うべく候。
恐々謹言。
     三月四日           頼朝
   謹上 籐中納言殿
(注釈)
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
狼藉(ろうぜき)・・・乱暴。
糺(きゅう)・・・ただすこと。
謹言(きんげん)・・・手紙の末尾に用いて、敬意を表す語。

3月4日 [玉葉]
「義経が凶党を追討」
 隆職追討の間の事を注し送る。義経が許より上状を申すと。去る月十六日纜を解く。十七日阿波の国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追い落としたり。然れども、未だ平家を伐ち取らずと。

3月8日 「吾妻鏡」辛卯
「屋島の合戦すでに終わり」
 源廷尉(義経)の飛脚西国より参着す。申して云く、去る月十七日、僅かに百五十騎を卒い、暴風を凌ぎ、渡部より纜を解く。翌日卯の刻(6時)阿波の国(徳島県)に着き、則ち合戦を遂ぐ。平家の従兵、或いは誅せられ或いは逃亡す。仍って十九日、廷尉屋島に向かわれたり。この使その左右(そう)を待たず馳参す。而るに播磨の国(兵庫県南西部)に於いて後を顧るの処、屋島の方黒煙天に聳ゆ。合戦すでに終わりたり。内裏以下焼亡その疑い無しと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
左右(そう)・・・決着。

3月9日 「吾妻鏡」壬辰
「兵粮その術無きに」
 参河の守(範頼)西海より状を献られて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の国(大分県)に着くの処、民庶(みんしょ)悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎兄弟・大多和の次郎・工藤一臈以下侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉(ま)げてこれを抑留し、相伴い渡海したり。猶御旨を加えらるべきか。次いで熊野の別当湛増、廷尉(義経)の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国(香川県)に渡る。今また九国に入るべきの由その聞こえ有り。四国の事は義経これを奉る。九州の事は範頼奉るの処、更にまた然る如きの輩に抽んぜらる。啻(ただ)に身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似たり。人の思う所尤も恥と為すと。
(注釈)
民庶(みんしょ)・・・一般の人民。庶民。

3月12日 「吾妻鏡」乙未
「兵粮米を納めらる」
 平氏を征罰せんが為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥並びに妻良の津に浮かべ、兵粮米を納めらる。仍って早く纜を解くべきの由仰せ下さる。俊兼これを奉行す。

3月16日 己亥 天晴 [玉葉]
「平家安藝厳島に」
 伝聞、平家讃岐の国(香川県)シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず引退し、安藝(広島県西部)厳島に着きたりと。その時僅かに百艘ばかりと。神鏡・劔璽帰り来たる事、公家殊なる祈祷無し。微臣壹この事を欲す。仍って近日殊に随分の祈り等を修す。また中心この事を察す。仏天定めて照覧有らんか。

3月17日 庚子 [玉葉]
「平家或いは備前小島に在り。」
 伝聞、平家或いは備前(岡山県南東部)小島に在り。或いは伊豫(愛媛県)五々島に在りと。鎮西の勢三百艘相加わると。但し実否知り難し。

3月21日 「吾妻鏡」甲辰 甚雨
「周防の国の舟船奉行、数十艘を献ず」
 廷尉(義経)平氏を攻めんが為、壇浦に発向せんと欲するの処、雨に依って延引す。爰に周防の国(山口県東部)在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経朝臣書を正利に與う。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。

3月22日 「吾妻鏡」乙巳
「義経数十艘の兵船を促し、壇浦へ」
 廷尉(義経)数十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと。昨日より乗船を聚(あつ)め計を廻らすと。三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会す。廷尉曰く、汝すでに門司関を見る者なり。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしといえり。義澄命を受け、壇浦奥津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に棹さし彦島を出る。赤間関(下関)を過ぎ田の浦に在りと。

3月24日 「吾妻鏡」丁未
「壇浦の海上に於いて、源平相逢う」
 長門の国(山口県西部北部)赤間関(下関)壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻(12時)に及び平氏終に敗傾す。二品(二位)禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(安徳天皇、春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。若宮(今上兄)は御存命と。前の中納言(教盛、門脇と号す)入水す。前の参議(経盛)戦場を出て、
陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没す。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛が為生虜らる。その後軍士等御船に乱入す。或いは賢所(神鏡)を開き奉らんと欲す。時に両眼忽ち暗んで神心惘然たり。平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去したり。これ尊神の別躰、朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鋳改め奉らると。朱雀院の御宇長暦年中、内裏焼亡の時、圓規(えんき)すでに虧(か)けると雖も、平治逆乱の時は、師仲卿の袖に移らしめ給う。その後新造の櫃(ひつ)に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭としてこれを沙汰す。
[澆季の今、猶神変を顕わす。仰ぐべし恃むべし。]

3月27日 [玉葉]
「平氏長門の国に於いて伐たれたり」
 伝聞、平氏長門の国(山口県西部北部)に於いて伐たれたり。九郎の功と。実否未だ聞かず。

3月28日 辛亥 [玉葉]
「平氏伐たれたり」
 右少弁定長来たり。定長云く、平氏伐たれたりの由、この間風を聞く。これ佐々木の三郎ト申す武士の説と。然れども義経未だ飛脚を進せず。不審猶残ると。

3月29日 「吾妻鏡」壬子
「平氏追討の御下文(くだしぶみ)、二月二日」
 平氏追討の事、武衛(頼朝)申さるるに依って、軍旅の功を励ましめんが為、庁の御下文を豊後の国(大分県)の住人等の中に下さる。これ先日の事たりと雖も、彼の案文(あんぶん)、今日関東に到来する所なり。
   院庁下す 豊後の国住人某等
    いよいよ征伐を専らにし、勲功を遂げ勧賞(けんじょう)を期すべき事
 右、平家謀叛の党類、四国辺の島を往反し、朝憲(ちょうけん)を蔑爾(べつじ)するの間、
鎮西辺の民多く烏合(うごう)の群に入り、狼唳(ろうれい)の企てを致せしむ。而るに当国の軍兵等、堅く王法(おうほう)を守り、凶醜(きょうしゅう)に与せず。遂に数船を艤(ぎ)し、
官軍を迎え取り、九国の輩を服従せしむべき由その聞こえ有り。殊に以て叡感(えいかん)あり。いよいよ鋭兵を増し、彼の凶徒を討滅せしむべきなり。各々その勲功に随い、請いに依って賞賜(しょうし)有るべきなり。当国の大名等、宜しく承知すべし。違越せしむ勿れといえり。仰せの所件の如し。故に下す。
     元暦二年二月二日

下文(くだしぶみ)・・・上位者から管轄下の役所や人民などに下した公文書。
案文(あんぶん)・・・文書の写し。
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
朝憲(ちょうけん)・・・朝廷で立てた法規。
烏合(うごう)・・・鳥の集まるように規律もなく統一もなく集まること。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
王法(おうほう)・・・国王の法令。
艤(ぎ)・・・きちんと船を整備する。
叡感(えいかん)・・・天子が感歎なさること。天子のおほめ。
賞賜(しょうし)・・・賞して物を賜うこと。

3月29日 [玉葉]
 定能卿来たり、平氏の間の事を語る。昨日定長の語る如し。

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2005年11月17日 (木)

1185年 (元暦2年、文治元年)2月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

2月5日 「吾妻鏡」己未
「散在の武士狼藉を致す」
 典膳(てんぜん)大夫(たいふ)中原久経・近藤七国平使節として上洛す(先々使節たりと雖も、他人相替わる。今度治定(ちてい)すと)。これ平氏を追討するの間、事を兵粮(ひょうろう)に寄せ、散在の武士、畿内(きない)近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴(しゅうそ)有り。仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。
(中略)

(注釈)
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
治定(ちてい)・・・世の中をおさめること。
兵粮(ひょうろう)・・・戦時における将兵の食糧。
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
愁訴(しゅうそ)・・・苦しみや悲しみを嘆き訴えること。

2月13日 「吾妻鏡」丁卯
「飢饉にて粮無き乗船無き」
 今日、伊澤の五郎の書状、鎮西(九州)より武衛(頼朝)の御旅館に到着す。その詞(し)に云く、平家追討の計を廻らさんが為、長門の国(山口県西部・北部)に入ると雖も、彼の国飢饉(ききん)にて粮(りょう)無きに依って、猶安藝の国(広島県西部)に引退せんと欲す。また九州を攻めんと欲するの処、乗船無きの間、進み戦わざるの由と。即ち御返事に云く、粮無きに依って長門を退くの條、只今敵に相向かわずんば、何事か有らんや。
(中略)

(注釈)
詞(し)・・・文章。
飢饉(ききん)・・・農作物がみのらず、食物が欠乏して、飢え苦しむこと。
粮(りょう)・・・行軍に携行する食糧。食品。

2月14日 「吾妻鏡」戊辰
「船無くして粮尽きる」
 参州(範頼)日来周防の国(山口県東部)に在るの時、武衛(頼朝)仰せ遣わされて云く、土肥の二郎・梶原平三に談らしめ、九国の勢を召すべし。これに就いて善く帰伏(きふく)の形勢を見らば、九州に入るべし。然らずんば、鎮西(九州)と合戦を好むべからず。直に四国に渡り平家を攻むべしといえり。而るに今参州(範頼)九国に赴かんと欲し、船無くして進まず。適々長門の国(山口県西部・北部)に渡ると雖も、粮尽きるの間、また周防の国に引退したり。軍士等漸く変意有って、一揆(いっき)せざるの由これを歎き申さる。その飛脚今日伊豆の国に参着す。仍って今度合戦を遂げず帰洛せしめば、何の眉目(面目)有らんや。粮を遣わすの程堪忍(かんにん)せしめ、これを相待つべし。
(中略)

(注釈)
帰伏(きふく)・・・心をよせてつき従うこと。帰順。降参。
一揆(いっき)・・・心を同じくしてまとまること。
堪忍(かんにん)・・・たえしのぶこと。

2月16日 「吾妻鏡」庚午
「義経先陣を欲す」
 関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国(香川県)に赴く。廷尉(ていじょう)義経先陣として、今日酉の刻(18時)纜(ともづな)を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧(こうしょう)を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。而るに卿諫(いさ)めて云く、泰経兵法(へいほう)を知らずと雖も、推量の覃(およ)ぶ所、大将軍たる者、未だ必ず一陣(いちじん)を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやといえり。廷尉云く、殊に存念(ぞんねん)有り。一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は陣を両所に結ぶ。前の内府(宗盛)讃岐の国(香川県)屋嶋を以て城郭と為す。新中納言知盛九国の官兵を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。
行粧(こうしょう)・・・よそおうこと。
兵法(へいほう)・・・いくさのしかた。用兵と戦闘の方法。兵学。軍法。
一陣(いちじん)・・・第一の陣。先陣。
存念(ぞんねん)・・・いつも心に思っていること。

2月16日 [玉葉]
「義経の発向を制止」
 伝聞、大蔵卿泰経卿御使として渡辺に向かう。これ義経が発向を制止せんが為と。これ京中武士無きに依って御用心の為なりと。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに公卿たり。此の如き小事に依って、輙(たやす)く義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。

2月18日 「吾妻鏡」壬申
「義経屋嶋に発向」
 廷尉(義経)昨日渡部より渡海せんと欲するの処、暴風俄に起こり、舟船多く破損す。士卒の船等一艘として纜を解かず。爰に廷尉云く、朝敵の追討使暫時逗留す。その恐れ有るべし。風波の難を顧(かえりみ)るべからずと。仍って丑の刻(2時)先ず舟五艘を出す。卯の刻(6時)阿波の国椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと。

2月19日 「吾妻鏡」癸酉
「義経屋島の内裏の向浦に到り民屋を焼き払う」 
 また廷尉(義経)、昨日終夜阿波の国(徳島県)と讃岐との境の中山を越え、今日辰の刻(8時)屋島の内裏(だいり)の向浦に到り、牟礼高松の民屋を焼き払う。これに依って先帝(安徳天皇)内裏を出でしめ御う。前の内府(宗盛)また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能盛等を相具し、汀(みぎわ、なぎさ)に馳せ向かう。平家また船に棹(さお)さし、互いに矢石(しせき)を発つ。この間佐藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失す。黒煙天に聳え、白日光を蔽う。
(注釈)
内裏(だいり)・・・天皇の居所としての御殿。
矢石(しせき)・・・矢と弩(いしゆみ)の弾石。やだま。

2月21日 「吾妻鏡」乙亥
「義経阿波の国に渡る」
 平家讃岐の国(香川県)志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏(降参)す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国(徳島県)に渡る。熊野(くまの)の別当(べっとう)湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。
(注釈)
熊野(くまの)・・・和歌山県と三重県にかけての山地。
別当(べっとう)・・・神宮寺の僧職。

2月22日 「吾妻鏡」丙子
「東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着く」
 梶原平三景時以下の東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着くと。

2月27日 [玉葉]
 伝聞、九郎去る十六日纜を解き、無為に阿波の国に着きたりと。

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2005年11月16日 (水)

1185年 (元暦2年、文治元年)1月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

1月6日 「吾妻鏡」
「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」
「乗馬を所望、馬は送らぬ」
 平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付けらるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆(いっき)せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊(いささ)か御不審を散ずと雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。但し定遠・信方は在京す。京都より相具すべきの旨、宗光に仰せ含めらる。宗光委細の御書を帯す。これ鎮西に於いて沙汰有るべきの條々なり。その状に云く、十一月十四日の御文、正月六日到来す。今日これより脚力を立てんとし候つる程に、この脚力到来し、仰せ遣はしたるむね委しく承り候たり。筑紫の事、などか従はざらんとこそおもふ事にて候へ。物騒がしからずして、よくよく国に沙汰し給べし。構えて構えて国の者共ににくまれずしておはすべし。馬の事、実にさるべき事にてはあれども、平家は常に京城をうかがふ事にてあれば、もしおのづから道にて押しとられなどしたらん事は、聞く耳も見苦しき事にてあらんずれば、つかはさぬ也。又内藤六が周防のせいを以て志をさまたげ候なる、以ての外の事也。
(中略)
一揆(いっき)・・・心を同じくしてまとまること。

「九国の御家人への御下文」
  また御下文一通、九国の御家人の中に遣わさる。その状に云く、
下す 
鎮西九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本所を安堵し、且つは参河の守の下知に随い、同心合力し朝敵平家を追討すべき事
 右彼の国々の輩に仰せ、朝敵を追討すべきの由、院宣先にたり。仍って鎌倉殿の御代官両人上洛するの処、参河の守は九国に向かい、九郎判官を以て四国に遣わさる所なり。爰に平家、縦え四国に在りと雖も、九国に着くと雖も、各々且つは院宣の旨を守り、且つは参河の守の下知に随い、同心合力せしめ、件の賊徒を追討すべきなりといえり。九国の官兵、宜しく承知し、不日に勲功の賞を全うすべし。
以て下す。
     元暦二年正月日        前の右兵衛の佐源朝臣

1月8日 壬辰 陰晴不定 [吉記]
「義経四国に向かうべき」
 大府卿院に於いて示して云く、廷尉義経四国に向かうべきの由申す所なり。而るに自身は洛中に候すべきか、ただ郎従を差し遣わすべきかの由、申さるる人有り。且つはこれ忠清法師在京中の由風聞す。定めて凶心を挿むかと。二三月に及ばば兵粮尽きたり。範頼もし引き帰さば、管国の武士等猶平家に属き、いよいよ大事に及ぶかの由、義経申す所なり。予申して云く、義経が申し状、尤もその謂われ有り。大将軍下向せず、郎従等を差し遣わすの間、諸国の費え有りと雖も、追討の実無きか。範頼下向の後この沙汰に及ぶか。然れば今春義経発向し尤も雌雄を決すべきか。忠清法師の事に於いては、沙汰に及ばざるか。但しその身を搦め進すべきの由、尤も宣下せらるべきか。義経下向すと雖も、猶然るべきの輩は、差し分け京都に祇候せしむべきの由、尤も仰せ合わさるべきなり。御祈祷微々、不便極まり無き事なり。その用途無きと雖も、尤も諸社・諸寺に仰せらるべきなり。三種の宝物の事、能々(よくよく)籌(はかりごと)を運(めぐ)らさるるべきの由これを申す。

1月9日 壬辰 陰晴不定 [玉葉]
「光輔宅に群盗乱入す」
今日隆職来る。前に召し雑事を仰す。去夜、大内記光輔の家、群盗乱入す。父長光入道同居、同じくこの災いに遭う。所望により綿衣一領、小袖一領これを遣る。

1月10日 甲午 [吉記]
「義経西国に発向す」
 大夫判官義経西国に発向すと。

1月12日 「吾妻鏡」丙申
「粮絶え船無く」
 参州(範頼)周防(山口県東部)より赤間関(下関)に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況やその外の族に於いてをや。
(中略)

1月26日 「吾妻鏡」庚戌
「豊後の国の住人八十二艘の兵船を献ず。」
「周防の国の住人兵粮米を献ず。」
 豊後の国(大分県)の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄等、参州(範頼)の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防(山口県東部)の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜(ともづな)を解き、豊後の国に渡ると。
(中略)

(注釈)
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。

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2005年11月15日 (火)

1184年 (壽永3年、元暦元年)10、11、12月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

10月13日 
「平氏淡路に着すという」
 伝聞、教盛卿等の為、長門の国(山口県西部・北部)に在るの源氏、葦敷追い落とされたりと。また平氏五六百艘淡路に着くと。

10月14日 
「窃盗等禁中(皇居)に乱入」
 伝聞、さる比窃盗等禁中(皇居)に乱入し、朝餉(朝食)に候ふ女房等衣裳悉く剥ぎ取りたりと。未曾有(みぞう)々々々。
(注釈)
未曾有(みぞう)・・・いまだ曾(かっ)て起こったことがないこと。

11月2日 晴れ
「頼朝に讒言あり」
今日源中納言雅頼卿来たり、世上の事を談ず。その次に云う、ある小僧(東国に通達する者と)語りて云う、摂政の辺りの人、余の事を頼朝に讒言(ざんげん)す。これにより先日奏聞の大事、黙止したりと。余かくの如きを聞く、悲しむべし、悲しむべし。推挙専ら好む所にあらず。讒言何ぞ痛むべきや。只家の前途、国の重事、悲しみて余りあるものか。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪くいうこと。

11月27日 
「頼朝、兼実に甘心」
 實厳阿闍梨来たり、密に語りて云く、少納言入道(相者、俗名宗綱、三條宮近臣)去る夜坂東より上洛す。言語の次いでに申して云く、頼朝云く、右府(兼実)殿の御事を京下りの輩に問う処、人別にその美を称し、未だその悪を聞かず。爰に社稷(しゃしょく)の臣たるを知ると。その気色を見るに、深く甘心(かんしん)の色有り。且つはこれ殊に音信を通せざるの故と。
(注釈)
阿闍梨(あじゃり)・・・僧位の一つ。
社稷(しゃしょく)・・・国家。朝廷。
社稷(しゃしょく)の臣・・・国家の重臣。
甘心(かんしん)・・・満足すること。快く思うこと。

12月7日 晴れ
「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」
 近日群盗の恐れ連日絶えず、去る日院御所に放火の事(即ち打ち消したり)有り。又近辺12町の中、強盗入り数人を害す。しかるに敢えて其の沙汰なしと。よつて泰経卿に付け上疏(じょうそ)を捧げる。疎遠の身諫(かん、いさめる)諍(しょう、あらそう)を献ずる能わずと雖も、納めずの条、全く恥じに非ず。よって微忠の至り、款(かん)状を献ずる許りなり。其の書状此の如し。

「兼実款状(かんじょう)」
「放火群盗等を禁遏(きんあつ)されるべき事」
 右天下騒乱以後、海内静かならざるの間、五畿七道の海陸の路塞がり、調庸祖税の貢ぎすでに空し。適住反の境、災難猶免れず、或いは炎旱(えんかん、ひでり)の愁いに依り、悉く亡損の地と為す。或るいは武士の妨げを恐れ、敢えて子のごとく来たる民無し、之に加え山門の厳穴(がんけつ)未だ安全の栖(せい、すむ)を聞かず。社内寺辺併しながら合戦の場と為す。此の如しの間、貴賤忽ち安堵の計を失う、緇素(しそ)各危困の嘆きを懐く。国土の凋弊(ちょうへい)、年を逐うて増すと雖も、朝家の大営(たいえい)茲に因りて減ずること無し。富者は倉廩(りん、くら)を空しくし、以て僅かに身命を存す。貧者は衣食無く以て飢え寒さ忍び難し。何に況んや近曾(ごろ)以来、放火間々起こり、盗賊頗りに聞ゆ。月卿(げっけい)雲客(うんかく)の居所を嫌わず、洛内城外の舎屋を論せず、連夜の災い日を追って絶えること無し。啻(ただ)資材を奪ふのみに非ず、殆ど又死傷に及ぶ。万人の歎き只此の事に在るのみ。逆党の征伐に於いて、旁々籌策(ちゅうさく)を運(めぐら)すと雖も、盗賊の厳制に至りては、速やかに刑法行うべし。鎮(ちん)乱の政、邇(ちか)きより遠きに及ぶ故なり。早く有司(役人)並びに武士等に仰せ、慥(たしか)に禁遏(きんあつ)されるべきか。其の間の子細宜しく有司の輩を訪ね、無為の謀を廻らされるべきなり。此の沙汰もし遅引せば、人家忽ち滅亡し、衆庶(しゅうしょ)いよいよ度を失うものか。それ君は臣の元首なり。人民の愁歎(しゅうたん)、叡襟(きん、えり)豈傷まざらんや。顧問(こもん)を待たず。進みて上奏の条、恐懼(きょうく)多端(たたん)、戦慄(せんりつ)謝し難し。然れども愚忠を存ずるにより、聖徳(せいとく)を驚かしむる許りなり。披露(ひろう)を計らるべき状くだんの如し。
        十二月七日        在判
    大蔵卿殿
夜に入り泰経の返礼到来す。速く奏すべしと。

(注釈)
上疏(じょうそ)・・・事情を記して上にたてまつること。
款状(かんじょう)・・・訴訟などの嘆願書。
禁遏(きんあつ)・・・おしとどめてやめさせること。
五畿(ごき)・・・五畿内。畿内。大和・山城・河内・和泉・摂津。
七道(しちどう)・・・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道。
調庸祖税・・・現物税。祖は粟、庸は絹、調は絹または麻など。
貢ぎ・・・君主に奉る財物。
厳穴(がんけつ)・・・岩のほらあな。
炎旱(えんかん)・・・ひでり。
緇素(しそ)・・・僧と俗人。
凋弊(ちょうへい)・・・おとろえつかれること。
大営(たいえい)・・・大事業。
月卿(げっけい)・・・公卿。
雲客(うんかく)・・・殿上人。
籌策(ちゅうさく)・・・はかりごと。
鎮(ちん)・・・しずめること。
衆庶(しゅうしょ)・・・庶民。
愁歎(しゅうたん)・・・嘆きかなしむこと。
顧問(こもん)・・・相談すること。
恐懼(きょうく)・・・恐れかしこまること。
多端(たたん)・・・複雑で多岐にわたつていること。
戦慄(せんりつ)・・・恐ろしくて、おののきふるえること。
聖徳(せいとく)・・・天子の徳。
披露(ひろう)・・・文書などをひらきあらわして見せること。

12月25日 「吾妻鏡」庚辰
「鹿島社に寄進」
 鹿島社神主中臣の親廣・親盛等、召しに依って参上す。今日営中(えいちゅう)に参り、金銀の禄物(ろくもつ)を賜う。剩(あまつさ)え当社御寄進の地、永く地頭(じとう)の非法を停止し、一向(いっこう)に神主管領(かんりょう)せしむべきの旨仰せ含めらる。これ日来御願書を捧げ、丹祈(たんき)を抽(ぬき)んじ給うの処、去る春の比、厳重の神変(しんぺん)を現わし給うの後、義仲朝臣伏誅(ちゅう)し、平内府(宗盛)また一谷の城郭を出て、敗北し四国に赴きたり。いよいよ御信心を催すに依って、今この儀に及ぶと。
(注釈)
鹿島社・・・鹿島神宮。
営中(えいちゅう)・・・将軍の居所。
禄物(ろくもつ)・・・禄として賜う金銭など。
地頭(じとう)・・・荘園の領主が土地管理のために現地に置いた荘官。
一向(いっこう)・・・すべて。
管領(かんりょう)・・・支配。
丹祈(たんき)・・・丹誠をこめて祈ること。
神変(しんぺん)・・・人知でははかり知ることのできない不思議な変化。
誅(ちゅう)・・・罪をせめて殺すこと。

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2005年11月14日 (月)

1184年 (壽永3年、元暦元年)7、8、9月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

7月3日 「吾妻鏡」己丑
 武衛(頼朝)前の内府(宗盛)已下平氏等を追討せんが為、源九郎(義経)主を以て西海に遣わすべき事、仙洞(せんとう)に申さると。
(注釈)
仙洞(せんとう)・・・上皇の御所。この場合、後白河法皇のことか。

7月8日 晴 
「伊賀・伊勢の平家党類謀叛」
 伝聞、伊賀(三重県西部)・伊勢(三重県)の国人(こくじん)等謀叛したり。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行(ちぎょう)すと。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻(8時)、家継法師(平家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りたり。
「鈴鹿山を切り塞ぎ」
 また伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛したりと。この事に因って院中物騒す。喩(たと)えを取るに物無し。
(注釈)
国人(こくじん)・・・在地の武士。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。治めること。

7月20日 晴
「官軍近江の国で謀反輩を敗る」
 伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国(滋賀県)に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退散す。宗(そう)たる者を伐ち取りたりと。
(注釈)
宗(そう)・・・最もすぐれた人。

7月21日 
「平田入道梟首」
 伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首(きょうしゅ)せられたり。その外両三人大将軍たる者伐たれたりと。忠清法師・家資等山に籠もりたりと。
「官軍佐々木秀義討たれる」
また官軍の内、大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれたり。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。
(注釈)
梟首(きょうしゅ)・・・斬罪に処せられた人の首を木にかけてさらす事。さらし首。

7月28日 晴 
「太政官庁にて即位行わる」
 この日即位の事有り。治暦四年の例に依って、太政官(だいじょうかん)の正庁に於いて、これを行わる。抑(そもそ)も劔璽(けんじ)の帰り来たるを相待ち、即位を遂行せらるべきや否や、予め人々に問わる。摂政(基通)及び左大臣(経宗)等に依り、剣璽を備えず、天子の位を践(ふ)む。異域例ありと雖も、わが朝かって跡無しと申す。然れども叡慮(えいりょ)並びに識者等の議奏(ぎそう)、天意を知らず、神慮(しんりょ)を測らざるに依って、行わるる所、只目を以てするのみ。
(注釈)
即位(そくい)・・・天皇践粗(せんそ)の後、即位の大礼を行うこと。
太政官(だいじょうかん)・・・国政を総括する最高機関。
劔璽(けんじ)・・・三種の神器のうち、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。宝剣と神璽。
叡慮(えいりょ)・・・天子のお考え。天皇・上皇などの御心。
議奏(ぎそう)・・・政事を議定して奏上すること。
神慮(しんりょ)・・・神のみこころ。

8月1日 晴 
「鎮西多く平氏に与す」
 或る人云く、鎮西(九州)多く平氏に與(よ)したり。安藝の国(広島県西部)に於いては、官軍(早川と)と六ヶ度合戦す。毎度平氏理を得ると。
(注釈)
與(よ)・・・仲間になること。

8月6日 晴
「義経明日任官すべし」
 午の刻、源中納言来たり、数刻言談す。語りて云く、去る比頼朝納言に還るべきの由、推挙を泰経に付け申し上ぐと。定めて不快の事有るか。恐れを為す。また云く、明日除書有るべし。九郎任官すべしといえり。

8月8日 「吾妻鏡」甲子 晴
「範頼、平家追討使として西海に赴く」
 参河(みかわ)の守範頼、平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。旗差(旗これを巻く)一人、弓袋一人、相並び前行す。次いで参州(紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)を着し、小具足(こぐそく)を加え、栗毛(くりげ)の馬に駕(が)す)、次いで扈従(こしょう)の輩一千余騎龍蹄(りゅうてい)を並ぶ。所謂、
    北條の小四郎  足利蔵人義兼   武田兵衛の尉有義  千葉の介常胤
    境の平次常秀  三浦の介義澄   男平太義村     八田四郎武者朝家
    同男太郎朝重  葛西の三郎清重  長沼の五郎宗政   結城の七郎朝光
    籐内所の朝宗  比企の籐四郎能員 阿曽沼の四郎廣綱  和田の太郎義盛
    同三郎宗實   同四郎義胤    大多和の次郎義成  安西の三郎景益
    同太郎明景   大河戸の太郎廣行 同三郎       中條の籐次家長
    工藤一臈祐経  同三郎祐茂    天野籐内遠景    小野寺の太郎道綱
    一品房昌寛   土左房昌俊
  以下なり。武衛(頼朝)御桟敷(さじき)を稲瀬河の辺に構え、これを見物せしめ給うと。
(注釈)
参河(みかわ)・・・参州。愛知県東部。
紺村濃(こんむらご)・・・紺色のむらご。全着すせられる濃い紺色にしたもの。
直垂(ひたたれ)・・・垂領(たりくび)式の上衣で、袴と合わせて用いた。
小具足(こぐそく)・・・武装の際の付属具。
栗毛(くりげ)・・・馬の毛色の名。たてがみと尾は赤褐色で、地色の赤黒色のもの。
駕(が)・・・あやつる。
扈従(こしょう)・・・つき従うこと。
龍蹄(りゅうてい)・・・すぐれた馬。

8月17日 晴
「頼朝上洛の風聞あり」
 伝聞、頼朝鎌倉を出て、すでに上洛するの間、伊豆の国に逗留す。秋の中入京すべからずと。この事甚だ甘心せず。天下勿(たちま)ちに滅亡か。
8月17日 「吾妻鏡」
「九郎左衛門少尉検非違使」
 源九郎主の使者参着す。申して云く、去る六日左衛門(さえもん)少尉(じょう)に任じ、使の宣旨を蒙る。これ所望の限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然の朝恩たるの由仰せ下さるるの間、固辞すること能わずと。この事頗る武衛の御気色に違う。範頼・義信等の朝臣受領の事は、御意より起こり挙し申さるるなり。この主の事に於いては、内々の儀有り。左右無く聴されざるの処、遮って所望せしむかの由御疑い有り。凡そ御意に背かるる事、今度に限らざるか。これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有りと。
(注釈)
左衛門(さえもん)・・・左の皇居諸門の護衛。
尉(じょう)・・・次官(すけ)の下。衛門府、兵衛府、検非違使など。
使(し)・・・検非違使(けびいし)。京中の警察兼裁判官。
宣旨(せんじ)・・・天皇の命を伝える公文書。
御気色・・・御意向。
受領(ずりょう)・・・諸国の長官。(範頼は参河の守、義信は武蔵の守。)

8月18日 晴
「義朝免罪せらるべき事」
 大外記頼業来る。また云く、義朝が首、今に囹圄(れいぎょ)に在り。而るに罪を免さるべし。その間の事勘じ申すべき由、泰経の奉行となり仰せ下されたり。(中略)或る人云く、文覺上人上洛し、在獄の義朝の首を取り、鎌倉に向かうべしと。
(注釈)
囹圄(れいぎょ)・・・ろうや。

8月21日 晴 
「頼朝木瀬川に着す」
 伝聞、頼朝鎌倉城を出て木瀬川(伊豆と駿河の間と)の辺に来着し暫く逗留す。飛脚を進し申して云く、すでに上洛仕る所なり。但しひきはりても上洛候はざるなり。先ず参河の守範頼(蒲の冠者これなり)、数多の勢を相具せしめ参洛せしむ所なり。一日と雖も、京都に逗留すべからず。直に四国に向かうべき由仰せ含める所なりと。また聞く。荒聖人文覺を以て申して云く、当時摂政(基通)平妻を棄て置き洛に留む。敢えて過怠無きの上、君また此の如く思し食す。異議有るべからず。兼ねてまた入道関白(基房)尤も顧問に備うべき人なり。荘園少し。然るべきの国一つ宛て賜うべしと。或る説に云く、文覺頗る不けざるの気有りと。然れども、在獄中の義朝が首を取り、来るべきの由仰せ付くと。

8月23日 晴 
「院頼朝を基通の婿とせんとすという」
 伝聞、摂政(基通)頼朝が聟たるべしと。これ法皇仰すと。仍って五條亭を修理し移住せらる。頼朝上洛の時新妻を迎えんが為と。

9月3日 晴 
「源範頼藤原範季に養育さる」
 早旦範季朝臣来たり、不思議の事を示す。参河の国司範頼(件の男幼稚の時、範季子として養育す。仍って相親しいと)、上洛の間、件の事聞かず知らずの由を答う。頗る疑貽有り。然れども事の跡顕然たり。猶信ぜざるべからざるか。

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2005年11月13日 (日)

1184年 (壽永3年、元暦元年)5,6月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

5月1日 「吾妻鏡」
「故志水の冠者義高の伴類等、征罰の沙汰」
 故志水の冠者義高の伴類等、甲斐・信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと擬(ぎ)すの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由、その沙汰有り。足利の冠者義兼・小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。また小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林の輩、信濃の国に下向せしめ、彼の凶徒を捜し求むべきの由定めらると。この外、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人等、同じくこれを相催し、今月十日進発すべきの旨、義盛・能員等に仰せらると。

5月2日 「吾妻鏡」
「志水の冠者誅戮の事に御家人馳せ参ず」
 志水の冠者誅戮(ちゅうりく)の事に依って、諸国の御家人馳せ参ず。凡そ群を成すと。
(注釈)
誅戮(ちゅうりく)・・・罪をただして殺すこと。
馳せ参ず(はせさんず)・・・大急ぎで参上する。

5月15日 「吾妻鏡」
「義廣の首を獲る」
 申の刻(16時)、伊勢の国(三重県)の駅を馳せ参着す。申して云く、去る四日、波多野の三郎・大井兵衛次郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門の尉惟義家人等、当国羽取山に於いて、志田三郎先生義廣と合戦す。殆ど終日に及び雌雄を争う。然れども遂に義廣の首を獲ると。この義廣は、年来叛逆の志を含み、去々年軍勢を率い、鎌倉に参らんと擬(ぎ)すの刻、小山の四郎朝政これを相禦ぐに依って、成らずして逐電し、義仲に属(つ)かしめたり。義仲滅亡の後また逃亡す。曽(か)ってその存亡を弁(わきま)えざるの間、武衛の御憤り未だ休まざるの処、この告げ有り。殊に喜ばしめ給う所なり。

6月16日 晴れ
「平氏党類、備後国の官兵を追い散らす」
 或いは云く、平氏の党類、備後の国(広島県東部)に在るの官兵を追い散らすと。土肥の二郎實衡(頼朝郎従なり)息男早川の太郎と。仍って播磨の国(兵庫県南西部)に在るの梶原平三景時(同郎従)、備前の国(岡山県南東部)に越えたり。その隙を聞き、平氏等少々室泊(室津。兵庫県)に来着し焼き払うと。仍って京都の武士等を催し(集め)遣わさると。凡そ追討の間、沙汰太だ泥の如し。大将軍遠境に在り。公家の事沙汰に人無し。ただ天狗万事を奉行するの比なり。沙汰無し。祈祷(きとう)無し。何を以て安全を期すべきや。

6月17日 陰晴不定
「平氏の勢強し」
 平氏その勢強しと。京勢僅かに五千騎に及ばずと。

6月21日 晴れ
「頼朝の上洛八月」
 伝聞、頼朝の上洛八月と。

6月23日 晴れ
「大仏の滅金(めっき)」
 晩に及び右中弁行隆来たり。簾前に召し大仏の間の事を問う。答えて云く、御身に於いては皆悉く鋳奉りたり。来月の内その功を終うべし。その後滅金(めっき)を塗り奉り、開眼有るべきなり。滅金の料金、諸人の施入(せにゅう)少々有るの上、頼朝千両、秀平五千両奉加(ほうが)の由承る所なりと。
「平氏の勢太だ強し」
(中略)また語りて云く、
平氏の勢太だ強し。源氏の武士等気色を損じたり。大略平氏落ちるの時の如し。決定大事出来すかと。
(注釈)
滅金(めっき)・・・鍍金
施入(せにゅう)・・・寺院などに財物を喜捨すること。
奉加(ほうが)・・・仏堂・伽藍の造営などに財物を寄進すること。寄付。

6月27日 「吾妻鏡」
「志水の冠者を討つが故、堀の籐次親家の郎従梟首」
 堀の籐次親家の郎従梟首(きょうしゅ)せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮(ちゅうりく)の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓(もう)さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛(頼朝)遁(のが)れ啓すこと能わず。還(かえ)って以て斬罪に処せらると。
(注釈)
梟首(きょうしゅ)・・・さらし首。

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2005年11月12日 (土)

1184年 (壽永3年、元暦元年)4月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

4月1日 天晴 
「頼盛卿の後見の侍余の事叉法皇に奏すと」
ある人云う、頼盛卿の後見の侍清業、去月28日上洛し、件の男を以て余の事叉法皇に奏すと。凡そこの事一切存ぜざる事なり。不詳々々

4月7日 天晴 
「頼朝卿後見の史大夫清業頼朝の推挙堅き事」
 雅頼卿来たり、世上の事を談る。頼朝卿後見の史大夫清業、去る比納言(雅頼)の許に来たり語りて云く、下官(兼実)の事、頼朝の推挙堅き事を存ずと。奏聞の日、八幡(頼朝祝い奉ると)の宝前(ほうぜん)に於いて、能く祈念致すの後、廣元に仰せこれを書せしむと。
(注釈)
史大夫・・・?「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」1月28日
宝前(ほうぜん)・・・神仏の御前。

4月10日 「吾妻鏡」
「頼朝は義仲追討の賞により正四位下に叙さる」
 源九郎の使者京都より参着す。去る月二十七日除目(じもく)有り。武衛(頼朝)正四位下に叙し給うの由これを申す。これ義仲追討の賞なり。彼の聞書(もんじょ)を持参す。この事、藤原秀郷朝臣天慶三年三月九日、六位より従下四位に昇るなり。武衛の御本位は従下五位なり。彼の例に准(なぞら)えらると。また忠文(宇治民部卿)の例に依って、征夷(せいい)将軍の宣下有るべきかの由、その沙汰有り。而るに越階(おっかい)の事は、彼の時の准拠然るべし。將軍の事に於いては、節刀(せっとう)を賜い、軍監(ぐんげん)軍曹(ぐんそう)に任ぜらるるの時、除目を行わる。今度の除目に載せらるの條、始めてその官を置くに似たり。左右無く宣下せられ難きの由、諸卿群議有るに依って、先ず叙位(じょい)と。
(注釈)
除目(じもく)・・・諸司・諸国の官などを任ずる儀式。任官の人名を記した目録の意。
聞書(もんじょ)・・・除目(じもく)の宣旨(せんじ)を記載した文書。
征夷(せいい)・・・えびす(蝦夷、奥羽北海道の反朝廷勢力)を征伐すること。
越階(おっかい)・・・順序を経ずに、段階をとびこして位階の昇進すること。
節刀(せっとう)・・・天皇が将軍に賜った刀。天皇の権限を代行する意味を持つ。
軍監(ぐんげん)・・・鎮守府および征夷使の第3等官。副将軍の次の官。
軍曹(ぐんそう)・・・軍監(ぐんげん)の次に位した役。
叙位(じょい)・・・位階に叙(官位をさずける)すること。

4月16日 去る夕より雨降り、午上甚雨、午後天晴れ
「元暦と改元」  改元。壽永三年を改め元暦元年と為す。
この日改元の事有り。去年その儀有りと雖も、即位以前たるに依って、遂げられずと。然れども天下猶静まらざるの間、即位また急行せられ難し。年を踰(こ)えるの後すでに数月に及ぶ。仍って乱逆止まざるに依って、即位以前行わるる所なり。俊経卿(大應・弘治・大喜)、兼光卿(元徳・文治)、光範朝臣(元暦・恒久・承寛)、業實朝臣(顕寛・應暦)。

4月21日 「吾妻鏡」己丑
「志水の冠者義高逐電」
去る夜より、殿中聊(いささ)か物騒す。これ志水の冠者武衛(頼朝)の御聟(むこ)たりと雖も、亡父すでに勅勘(ちょっかん)を蒙り戮(りく)せらるるの間、その子として、その意趣尤も度(はか)り難きに依って誅せらるべきの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近(じっきん)の壮士等に仰せ含めらる。女房等この事を伺い聞き、密々姫公の御方に告げ申す。仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍(かこ)み郭内(かくない)を出したり。馬を隠し置き、他所に於いてこれに乗らしむ。人に聞かしめざらんが為、綿を以て蹄(ひづめ)を裹(つつ)むと。而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺(ちょうだい)に入り宿衣(しゅくえ)の下に臥し、髻(もとどり)を出すと。日闌(さえぎり)て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。志水双六の勝負を好み、朝暮これを翫(もてあそ)ぶ。幸氏必ずその相手たり。然る間殿中の男女に至るまで、ただ今に坐せしめ給うの思いを成すの処、晩に及び縡(こと)露顕(ろけん)す。武衛(頼朝)太だ忿怒(ふんぬ)し給う。則ち幸氏を召し禁(いま)しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公(君)周章(しゅうしょう)し魂を鎖しめ給う。
(注釈)
勅勘(ちょっかん)・・・天子のとがめ。
戮(りく)・・・切り殺すこと。
昵近(じっきん)・・・なれしたしむこと。
郭内(かくない)・・・一定の区画のうち。
周章(しゅうしょう)・・・あわてふためくこと。

4月24日 天晴れ
「頼朝八幡宮に参籠す」
 今日隆職来たり、密々の事等を語る。頼朝下官(兼実)の事を申せしむ。深い意趣等有り。その事を申さんと欲し、七ヶ日八幡宮(頼朝祈り奉祝の所と)に参籠するの後、宝前に於いて折紙を書き進上せしむと。偏に天下の事を思うに依って申せしむと。

4月26日 「吾妻鏡」甲午
「志水の冠者義高を誅する」
 堀の籐次親家郎従籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを申す。この事密儀たりと雖も、姫公(君)すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎(しゅうたん)の余り、奬水を断たしめ給う。理運(りうん)と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。
(注釈)
愁歎(しゅうたん)・・・嘆き悲しむこと。
奬水・・・奬(すすめる)
理運(りうん)・・・道理にかなっていること。
御台所(みだいどころ)・・・将軍などの妻の敬称。
歎色・・・歎(なげくこと)

4月27日 雨降る [吉記]
 平氏猶強々と。鎮西の輩松浦党已下少々属くの由風聞すと。

4月28日 雨下
「文覚参院兼実の事を申す」
 伝聞、荒聖人聞覺・公朝等、一昨日夕入洛す。今日、件の聖人参院すと。件の聖人を以て余の事猶院に申すと。実にこれ明神の加護か。将又不祥の根元か。

4月28日 [吉記]
「丹後(局)侍従忠房、去る比密々関東に下向」
 伝聞、丹後(局)侍従忠房、去る比密々関東に下向す。武衛(頼朝)の松容を伺わんと為す。一日比可許を蒙り帰洛すと。もしこれ小松大臣(平重盛)子孫事有るべきかの由称せしむ事か。
(注釈)
松・・・松の位(五位の官、大夫、たいふ、たゆう)

4月29日 丁酉
「文覚種々の荒言を吐くと」
 坂東の荒聖人聞覺、今日参院す。広座に於いて種々の荒言を吐くと。

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2005年11月11日 (金)

1184年 (壽永3年、元暦元年)3月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

3月1日 雨
「重衡源平共に召仕わる事を望むも頼朝承諾すべからず」
蔵人左衛門権佐定長昨日の召しにより来る。語りて云く、重衡遣わす所の使者(左衛門の尉重国)帰参す。また消息の返事有り。申状大略和親を庶幾(しょき)するの趣なり。所詮(しょせん)源平相並び召し仕わるべきの由か。この條頼朝承諾すべからず。然れば治め難き事なり。但しこの上は別の御使来たるの時に於いて、子細を奉り、重ねて所存を申すべしと。
3月1日 「吾妻鏡」
「平家追討の御下文(くだしぶみ)」
 武衛(頼朝)御下文を鎮西九国の住人等の中に遣わさる。平家を追討すべきの趣なり。凡そ諸国の軍士を召し聚(あつ)むと雖も、彼の国々平家に與同せしむに依って、未だ帰伏奉らざるが故なり。件の御下文に云く、
   下す 鎮西九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本の如く安堵し、且つは各々[彼の国の官兵等]を引率し、平家の賊徒を追討すべき事
 右、彼の国の輩皆悉く引率し、朝敵を追討すべきの由、院宣(いんぜん)を奉り仰せ下す所なり。抑(そもそも)も平家謀叛の間、去年追討使、東海道は遠江の守(とおとおみのかみ)義定朝臣、北陸道は左馬の頭(さまのすけ)義仲朝臣、鎌倉殿の御代官として、両人上洛するの処なり。兼ねて又義仲朝臣平家と和議を為し、謀反の條、不慮の次第なり。仍って院宣の上、私の勘当(かんどう)を加え、彼の義仲を追討せしめたり。然れども平家四国の辺を経廻せしめ、ややもすれば近国の津泊に出で浮かび、人民の物を奪い取る。狼唳(ろうれい)絶えざるものなり。今に於いては、陸地と云い海上と云い、官兵を遣わし、不日に追討せしむべしといえり。鎮西九国の住人等、且つは本の如く安堵し、且つは皆彼の国の官兵等を引率し、宜しく承知すべし。不日(ふじつ)に勲功の賞を全うす。以て下す。
     壽永三年三月一日       前の右兵衛の佐源頼朝
(注釈)
蔵人(くらんど)・・・くろうど。蔵人所(宮中の雑事)の職員。
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(えもんふ、皇居の護衛)
権(ごん)・・・定員外の権(かり)の地位
佐(すけ)・・・兵衛府、衛門府の次官。
尉(じょう)・・・次官(すけ)の下。
重衡(しげひら)・・・平清盛の五男。
庶幾(しょき)・・・こひねがう。
所詮(しょせん)・・・つまるところ。結局。
下文(くだしぶみ)・・・上位者からその管轄下の役所や人民などに下した公文書。
武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)の唐名。頼朝は兵衛府の次官だった。
聚(あつ)む・・・しゅう。集める。
與同(よどう)・・・与同。同意して力を貸すこと。
帰伏(きふく)・・・心をよせてつき従うこと。
安堵(あんど)・・・支配下の所領の知行(ちぎょう)を保証し、承認すること。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。
院宣(いんぜん)・・・院の宣旨(せんじ)。院司が上皇または法皇の命令を受けて出す公文書。
朝臣(あそん)・・・あそみ。三位以上の人の姓のした、四位の人の名の下につける敬称。
勘当(かんどう)・・・罪を勘(かんが)えて法に当てはめて処罰すること。
津(つ)・・・渡し場。
泊(はく)・・・船着き場。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
不日(ふじつ)・・・まもなく。
右兵衛の佐・・・右の兵衛府の次官。

3月10日 晴
「重衡頼朝の請により東国に下向す」
 今日、重衡東国に下向す。頼朝申請する所なりと。

3月16日 晴
「信西入道後白河天皇暗愚なるも二つの徳ありと頼業に語る」
大外記頼業来たり、語りて云う、先年通憲法師語りて云う、当今(法皇を謂うなり)和漢の間比類少なき暗主なり。謀反の臣傍にあり。一切覚悟の御心無し。人これを悟らしめ奉ると雖も、猶以て覚(さと)らず。かくの如きの愚昧(ぐまい)、古今未だ見ず未だ聞かざる者なり。但しその徳二あり。もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、敢えて人の制法に拘わらず、必ずこれを遂ぐ(この条賢主に於いて大失たり。今愚暗の余り、これを以て徳となす)。次に自ら聞し食し置く所の事、殊に御忘却無し。年月遷(うつ)ると雖も心底に忘れ給わず。
この両事徳となすと。
 ある人云う、平氏伐たれたりと。或いは叉生け捕り、或いは叉土佐の国に引き籠もると。近日かくの如き説縦横、一定を存じ難きか。
(注釈)
信西入道・・・藤原通憲(みちのり)の剃髪後の称。
当今(とうぎん)・・・当代の天皇。今上天皇。
暗主(あんしゅ)・・・愚かな君主。暗君。
愚昧(ぐまい)・・・愚かで道理がわからないこと。
叡(えい)・・・天子の事柄に冠する尊敬語。
賢主(けんしゅ)・・・賢明な君主。
愚暗(ぐあん)・・・おろかで道理にくらいこと。暗愚。
縦横(じゅうおう)・・・かってきまま。自由自在。

3月23日 天晴 
「頼朝兼実を摂政籐氏長者となすべき事等を院に奏す」
光長告げ送りて云う、広季只今入り来たりて云く、頼朝条々の事を院に奏す。その中下官(兼実)摂政籐氏長者たるべきの由挙げしめたり由、廣元(廣季男なり)の許より告げ送る所なりと。即ちその正文(しょうもん)御覧を経るべきの由、廣季申せしむと。当時摂政もしその恩有るべくば、ただ一州を賜ひて足るべしと。件の状一見を加え返し遣わしたり。件の脚力去る十九日到来す。頼朝院に奏する状、即ち廣元執筆し、泰経卿に付すと。同二十一日御返事を遣わし、急ぎ左右(そう)を申すべきの由仰せらると。大略この事然るべからずと仰せらるるものか。或る人云く、去る十一日、左衛門の尉公朝御使として下向す。即ちこの事頼朝の本意此の如きの由、予め風聞するに依って、その子細を仰せ遣わさると。凡そこの事の次第、叡念に堪え難しと謂うべきなり。
「院基通を贔屓(ひいき)す」

「兼実吉事ありと俗人謳歌するは尾籠なり」

(注釈)
摂政(せっしょう)・・・君主代わって政務を行う。
氏長者(うじのちょうじゃ)・・・氏の代表者。
籐氏長者・・・藤原氏の代表者。
正文(しょうもん)・・・原書。真本。原本。
左右(そう)・・・決定。

3月28日 天晴 
「大除目というも別事なし」
 大除目たるべきの由、兼日謳歌す。而るに頼朝が申状に依って、珍事等止められたりと。頼朝正四位下に叙す。もしこれ所望か。将又推して行わるるか。然れば同じく直官に任ぜらるべきか。

3月29日 雨下る 
 或る人云く、入道関白(基房)並びに摂政(基通)の許より、各々使者を頼朝の許に送る。或いは貨物を送り、或いは陳状(ちんじょう)有りと。下官(兼実)ただ仏神に奉仕するのみ。
(注釈)
陳状(ちんじょう)・・・陳述の文書。

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2005年11月10日 (木)

1184年 (壽永3年、元暦元年)2月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

2月1日 天晴れ
「春日祭延引殿歴」
「頼朝近習親能兼実天下を直す事に異議無しと申す」
雅頼卿来たり世上の事を談る。齋院次官親能(前の明法博士中原廣季の子)は頼朝が近習の者、また雅頼卿の門人なり。今度陣の行事となり上洛を為す。去る二十一日件の卿に謁するの次いでに、親能云く、もし天下を直されべくば、右大臣(兼実)殿世を知ろし食すべきなり。異議無しと。納言問いて云く、この條上奏に及ぶべきか如何。親能云く、もし尋ね有らば、この旨を申すべきの由所存なりと。納言重ねて云く、尋ね無くば、黙止すべきか。親能云く、進し申すべきの由は承らずと。事体頗るしどげなきに似たるか。くだんの男責めるも人覚えずなりと。昨今、追討使等、皆悉く下向すと。先ず山陽道を追い落とすの後、漸々沙汰有るべしと。
2月1日 「吾妻鏡」
「蒲の冠者範頼主御気色を蒙る」
 蒲の冠者範頼主御気色を蒙る。これ去年冬、木曽を征せんが為上洛するの時、尾張の国墨俣の渡に於いて、先陣を相争うに依って、御家人等と闘乱するが故なり。その事、今日すでに聞こし食すの間、朝敵追討の以前、私の合戦を好み、太だ穏便ならざるの由仰せらると。
(注釈)
しどげなき・・・しつかりしていない。
気色(きしょく)・・・憤慨。怒りを顔にあらわすこと。
闘乱(とうらん)・・・争乱。戦乱。

2月2日 天晴れ
「院の子と称する人伯耆半国を伐り取る」
「入夜火事あるも院御所難を免る」
「平家追討は院の素懐なり」
或る人云く、西国に向かう追討使等、暫く前途を遂げず。猶大江山の辺に逗留すと。平氏その勢オウ弱に非ず。鎮西少々付きたりと。下向の武士、殊に合戦を好まずと。 土肥の二郎實平・次官親能等(この両人頼朝の代官なり。武士等に相副え、上洛せしむ所なり)、或いは御使誘い仰せらるの儀、甚だ甘心申すと。而るに近臣の小人等(朝方・親信・親宗等、少弁・北面の下臈等に触ると)、一口同音に追討の儀を勧め申す。これ則ち法皇の御素懐(そかい)なり。仍って流れに棹(さお)さし左右(そう)無き事か。この上左大臣(経宗)また追討の儀を執り申さるると。凡そこの条その理然るべしと雖も、神鏡剣璽を重ぜられざる条、神虜如何。天意叉主とせざる者か。
「光長基房の縁人により棄置かるという」
人云う、摂政(基通)の執事家実(兼光の子)年預棟範と。光長松殿(基房)の縁人たるに依り棄て置くと。
(注釈)
素懐(そかい)・・・平素のねがい。かねてからの願い。
棹(さお)さす・・・時流に乗る。また、時流にさからう意に誤用。
左右(そう)・・・かれこれ言うこと。

2月3日 天晴
「行家入洛」
 法印来られる。今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。院の召しに依ってなり。頼朝また勘気を免ずと。
(注釈)
勘気(かんき)・・・主君からのとがめ。

2月4日 雨下る
「平氏安徳天皇を奉じ福原に着すという」
 源納言(雅頼)示し送りて云く、平氏主上(天皇)を具し奉り、福原に着きたり。九国未だ付かず。四国・紀伊の国等の勢数万と。来たる十三日一定入洛すべしと。官軍等手を分かつの間、一方僅かに一二千騎に過ぎずと。天下の大事、大略分明と。

2月5日 雨下る
「弥勒講」

2月6日 天晴 
 或る人云く、平氏一谷に引退し、伊南野に赴くと。但しその勢二万騎と。官軍僅かに二三千騎と。仍って加勢せらるべきの由申し上げると。また聞く、平氏引退の事謬説と。その勢幾千万を知らずと。

2月7日 天晴 

2月8日 天晴 
「一谷合戦の子細」
未明人走り来たりて云う、式部権の少輔範季朝臣の許より申して云く、梶原平三景時の許より、飛脚を進め申して云く、平氏皆悉く伐ち取りたりと。その後午の刻(12時)ばかりに、定能卿来たり、合戦の子細を語る。一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻(8時)より巳の刻(10時)に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされたり。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。大略城中に籠もるの者一人も残らず。但し素より乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在りと。而るに廻し得るべからず。火を放ち焼死したり。疑うに内府(宗盛)等かと。伐ち取る所の輩の交名未だ注進せず。仍って進さずと。
「劔璽神鏡の安否未だ聞かず」
劔璽・内侍所の安否、同じく以て未だ聞かずと。
(注釈)
搦手(からめて)・・・城の裏門を攻める軍勢。
大手(おおて)・・・城の正面に攻めかかる軍勢。
劔璽(けんじ)・・・三種の神器のうち、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。宝剣と神璽。
内侍所 (ないしどころ)・・・八咫鏡(やたのかがみ)。三種の神器の一。巨大な鏡の意。

2月9日 天晴 
「平氏の穢充満」
「重衡實平の許に禁固せらる」
今日、三位中将重衡入京す。褐の直垂小袴を着すと。即ち土肥の二郎實平(頼朝郎従、宗たる者なり)の許に禁固すと。

2月10日 天晴 
「兼実母遠忌」
「義経等義仲と平氏の首に差あるを欝申す」
夜に入り蔵人右衛門権佐定長来たり仰す。院宣に云く、平氏の首等、渡さるべからざるの旨思し食す。而るに九郎義経・加羽の範頼等申して云く、義仲の首を渡され、平氏の首を渡されざるの條、太だその謂われ無し。何故平氏を渡されざるやの由、殊に欝し申すと。この條如何計らひ申すべしといえり。申して云く、その罪科を論ずるに、義仲と斉(ひとし)からず。また帝の外戚(がいせき)等たり、その身或いは卿相に昇り、或いは近臣たり。誅伐を遂げらると雖も、首を渡さるの條、不義と謂うべし。近くは則ち、信頼卿の頸渡されざる所なりと。
「神爾宝剣なお賊手にあり」
之に加え、神璽宝剣猶残りの賊の手にあり。無為に帰来の条、第一の大事なり。もしこの首を渡されば、かの賊等いよいよ怨心を励ましむるか。よって傍々その首を渡さるべからず。将軍等只一旦所存を申すか。子細を仰せらるる上は、何ぞ強ちに執り申さんや。頼朝定めてこの旨を承り申さざるか。この上の左右は勅定にあるべしといえり。定長云う、左大臣(経宗)、内大臣(実定)、忠親卿等に問わる。各渡さるべからざる由を申し、一同すと。
「重衡書札を宗盛に送り剣爾を進上すべしという」
定長叉語りて云う、重衡申していわく、書札に使者を副え(重衡の郎従と)、前内府(宗盛)の許に遣わし、剣璽を乞い取り進上すべしと。この事叶わずと雖も、試みに申請に任せ御覧ずべしと。
(注釈)
外戚(がいせき)・・・母方の親類。
書札(しょさつ)・・・書状。てがみ。かきつけ。

2月11日 雨降り
「平氏誅罰の事により人々参院す」
平氏の首の事、計り申す旨然るべし。また人々渡さるべからざるの由を問い申す。而るに将帥等殊に欝し申す。その上強いてまた悋惜(りんじゃく)に及ぶべからず。仍って渡すべきの由仰せたりと。
「基房院の不興を蒙る」
 伝聞、入道関白(基房)、院の御気色殊に不快と。内々仰せて云く、禅門(基房)摂政を推挙すべき由を頼朝の許に示し遣わす(去年七月乱の後の事と)。頼朝口入に能わざるの由を答うと。叉仰せて云う、去年7月、当時摂政改められるべき儀あり。時に入道12の亜相(師家)を挙る。朕許さず。右府(兼実)当仁の由を存ず。しかるに禅門申して云う、摂録もし右府の家に入らば、永くかの家に留まるべし。わが恥を雪(すす)ぐべからず。よって本人を改めらるべからず。且つこの申し状により動揺無しと。
「摂関家領分かち難し」
しかして禅門叉申して云う、然からば一所庄々、少々分かち賜うべしと。朕答えて云う、摂政氏の長者改易無くば、何ぞ所領の違乱に及ばんや。てえれば、今義仲の乱逆の時に当たり、12の摂政を補し、数百の荘園を領す。これ即ち朕先日摂政の家領輙く分かち難き由を示すにより、事をこの勅言に寄せ、一所も残さず押領すと。次第甚だ欝し思し食す所なりと。
「基房義仲に与し西国御幸を勧め申す」
叉去る冬西国の御幸あるべき由、義仲申し行う時、隆憲を以て使いとなし、禅門頗りに勧め申さる。この事忘れ難しと。(以上院の仰せ)。この事確かなる摂を以て聞く所なり。また聞く。平氏の許に書札を遣わし、音信を通すの人、勝げて計うべからず。王侯卿相・被官・貴賤上下、大都洛人残る輩無し。就中、院の近臣甚だ多しと。余この事聞くと雖も、敢えて相驚かず。一切この恐れ無き故なり。これを以て思うに、貞直の道、こいねがいて猶庶ふべきものか。彼岸の所作今夜結願したり。
(注釈)
悋惜(りんじゃく)・・・ものおしみをすること。
朕(ちん)・・・天子の自称。

2月12日 
「最吉夢あり」
宰相中将貞能来たり語りて云う、明日首を渡さるべしと。

2月13日 雨降り
「平氏の首京師を渡さる」
 この日平氏の首(その数十と)を渡さる。公卿の頭渡さるべからざるの由その議有りと雖も、武士猶欝し申すと。如何。通盛卿の首同じく渡されたり。弾指すべきの世なり。

2月14日 天晴 

2月15日 

2月16日 天晴 
「頼朝上洛せざれば院東国臨幸ありという」
 源中納言雅頼卿来たり語りて云く、頼朝四月上洛すべしと。次官親能院の御使として東国に下向す。仰せに云く、頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸有るべきの由仰せ有りと。この事殆ど物狂い、凡そ左右に能わずと。

2月17日 微雨下 

2月18日 天晴 

2月19日 天晴 
「忠通忌日」
「平氏讃岐国屋島に帰住す」
この日、中御門大納言来らる。
 伝聞、平氏讃岐八島に帰住す。その勢三千騎ばかりと。渡さる首の中、教経に於いては一定現存すと。また維盛卿三十艘ばかりを相卒い南海を指し去りたりと。又聞く、資盛・貞能等、豊後の住人等の為生きながら取られたりと。この説、日来風聞すと雖も、人信受せざるの処、事すでに実説と。また聞く、重衡卿万事尋問せらるの間、下官天下を知るべきの由、平氏議定するの間申せしむと。
「兼実平氏との音信問わる」
よって覆問せられて云う、もし音信を通ずる事あるかと。申して云う、その条一切知らず。只傍若無人たるにより、その仁に当たると。

2月20日 天陰
「頼朝勧賞につき過分事望まずと申す」
 去る月二十一日頼朝の許に遣わす所の飛脚帰参す。頼朝申して云く、勧賞の事ただ上の御計らいに在り。過分の事一切欲する所に非ずと。

2月21日 雨下
「僧事あり」
2月21日 「吾妻鏡」
「木曽殿の御下文」
 尾籐太知宣と云う者有り。この間義仲朝臣に属く。而るに内々御気色を伺い、関東に参向す。武衛今日直に子細を問わしめ給う。信濃の国中野の御牧、紀伊の国田中・池田両庄、知行せしむの旨これを申す。何の由緒を以て伝領せしむやの由尋ね下さる。先祖秀郷朝臣の時より、次第に承け継ぐの処、平治乱逆の刻、左典厩の御方に於いて、牢籠の後得替す。これを愁い申すに就いて、田中庄は、去年八月、木曽殿の御下文を賜うの由これを申す。彼の下文を召し出しこれを覧たまう。仍って知行相違有るべからざるの旨仰せらると。

2月22日 天晴 
「法恩講」
「諸国兵粮米を責め取り他人領を押し取るを事を停止す」
左大弁経房卿来たり。語りて云く、諸国兵粮の責め、並びに武士他人の領を押し取る事、停止すべきの由宣旨を下さる。武士実に申し行うと。

2月23日 
 大夫史隆職、近日下さるべきの宣旨等これを注進す。仍ってこれを続け加ふる施行、更に以て叶うべからざる事か。法有りて行わず。法無きに如かず。

「宗盛追討宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝をして、前の内大臣平朝臣以下の党類を追討せしむべき事
右、左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す。勅(みことのり)を奉る。
前の内大臣以下の党類、近年以降専ら邦国の政を乱す。皆これ氏族の為なり。遂に王城を出て、早く西海に赴く。就中山陰・山陽・南海・西海道の諸国を掠領し、偏に乃貢を奪い取る。この政途を論ずるに、事常篇に絶ゆ。宜しく彼の頼朝をして件の輩を追討せしむべしといえり。
     寿永三年正月二十六日     左大史小槻宿祢

「源義仲党類追討宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝、その身源義仲の余党を召し進せしむべき事
右、左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す。勅を奉る。
謀反の首義仲の余党、遁れて都鄙(ひな)に在るの由、普くその聞こえ有り。宜しく彼の頼朝をして件の輩を召し進せしむべしといえり。
     寿永三年正月二十九日     左大史小槻宿祢
   五幾内七道諸国同じくこれを下知す

「武士押妨停止の宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝をして、且つは子細を捜し尋ね言上を経て、且つは武勇の輩の神社・仏寺、並びに院宮諸司及び人領等を押妨すること、停止に従わせしむべき事
右近年以降、武勇の輩皇憲(天皇が定めた法令)を憚らず、恣に私威を輝かし、自由を成す。文を下し諸国七道に廻らし、或いは神社の神供を押し黷(けが)し、或いは仏寺の仏物を奪い取る。況や院宮諸司及び人領をや。天の譴(けん、せめ)遂に露れ、民の憂い定まること無し。前事の云存、後輩慎むべし。左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す、勅を奉る。自今以後、永く停止に従い、敢えて更に然ること莫れ。但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し、もし制旨に遵(じゅん、したがう)ぜず、猶違犯せしめば、専ら罪科に処し、曽って寛宥(罪科をゆるす)せずといえり。
     寿永三年二月十九日      左大史小槻宿祢
    左弁官下
        五幾内諸国七道諸国に下すこれに同じ

「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」
 応(まさ)に早く国司に仰せ、公田庄園の兵粮米を宛て催すを停止すべき事
右治承以降、平氏の党類暗に兵粮と称し、院宣を掠めなし、恣に五畿七道の庄公に宛て、すでに敬神尊仏の洪範(模範となる大法)を忘る。世の衰微・民の凋弊、職(もとより)としてこれに由れり。況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。曽(かつて)って朝威を失い、共に幽冥に背く。爰に散位源朝臣頼朝、幾日を廻さず西賊を討滅す。然れば則ち干戈(かんか、たてとほこ、武器)永く劔まり・宇宙静謐す。権大納言藤原朝臣忠親宣す、勅を奉り。早く諸国司に仰せ、宜しく件の催しを停止すべしといえり。諸国承知せよ。宣に依りこれを行う。
     寿永三年二月二十二日     左大史小槻宿祢
   中弁藤原朝臣

2月23日 「吾妻鏡」
 前の右馬の助季高・散位宗輔等、義仲朝臣に同意するに依って、これを召し禁しめられ、使の廰に下さると。

2月24日 晴れ
「小御堂修二月会」

2月25日 陰
「近辺の小屋等追捕」
 今月、近辺の小屋等追捕入ると。

2月25日 「吾妻鏡」甲申
  朝務の事、武衛御所存の條々を注し、泰経朝臣の許に遣わさると。その詞(ことば)に云く、
   言上
     條々
  一、朝務の事
 右、先規を守り、殊に徳政を施さるべく候。但し諸国の受領(長官)等、尤も計りの御沙汰有るべく候か。東国・北国両道の国々、謀叛を追討するの間、土民無きが如し。今春より、浪人等旧里に帰住し、安堵せしむべく候。然れば来秋の比、国司を任ぜられ、吏務を行われて宜しかるべく候。
  一、平家追討の事
 右、畿内近国、源氏平氏と号し弓箭に携わるの輩並びに住人等、早く義経が下知に任せ、引率すべき由、仰せ下さるべく候。海路輙(ちょう、すなわち)ならざると雖も、殊に総て追討すべき由、義経に仰せ付けらるべきなり。勲功の賞に於いては、その後頼朝遂って計り申し上ぐべく候。
  一、諸社の事
 我が朝は神国なり。往古の神領相違無し。その外、今度始めて又各々新加せらるべきか。就中、去る比鹿島大明神御上洛の由、風聞出来するの後、賊徒追討す。神戮空しからざるのものか。兼ねて又もし諸社破壊顛倒の事有らば、功程に随い召し付けらるべきの処、功作の後、御裁許を被るべく候。恒例の神事、式目を守り、懈怠無く勤行せしむべきの由、殊に尋ね御沙汰有るべく候。
  一、仏寺の間の事
 諸寺諸山の御領、旧の如く恒例の勤め退転すべからず。近年の如きは、僧家皆武勇を好み、仏法を忘れるの間、行徳を聞かず、用枢(とまら、開き戸の回転軸)無く候。尤も禁制せらるべく候。兼ねて又濫行の不信僧に於いては、公請を用いらるべからず候。自今以後に於いては、頼朝が沙汰として、僧家の武具に至りては、法に任せ奪い取り、朝敵を追討する官兵に與え給うべきの由、存じ思い給う所なり。
  以前の條々の事、言上件の如し。
     壽永三年二月日        源頼朝

2月26日 雨下

2月27日 雨下
「頼朝朝務を計い申す」
伝聞、頼朝四月下旬上洛すべしと。また折紙を以て朝務を計り申すと。人以て可と為すべからず。頼朝もし賢哲の性有らば、天下の滅亡いよいよ増すか。

2月28日 雨下
「基通使者を頼朝遣わす」
 摂政(基通)外記大夫信成を以て使いとなし、頼朝の許に通ぜらると。人何事かをしらず。今旦首途したりと。

2月29日 晴
「良通方詩会」
「宗盛神器・安徳天皇を上洛せしめんと申す」
 九郎平氏を追討の為、来月一日西国に向かうべきの由議有り。而るに忽ち延引すと。何故かを知らず。或る人云く、重衡前の内大臣(宗盛)の許に遣わす所の使者、この両三日帰参す。大臣申して云く、畏(かしこ)まり承りたり。三ヶ宝物並びに主上・女院・八條院殿(時子)に於いては、仰せの如く入洛せしむべし。宗盛に於いては参入に能わず。讃岐の国を賜はり安堵すべし。御共等は清宗を上洛せしむべしと。この事、実か、若しくは茲に因って追討の猶予有るか。

2月30日 晴れ
定能卿来たり、世上の事を談る。平氏和親すべきの由を申すと。
「最勝金剛院修二月会」

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2005年11月 9日 (水)

1184年(寿永3年、元歴元年)1月「愚管抄」

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

「愚管抄」
かゝる程に、やがて次の年正月の廿日、頼朝この事(法住寺殿合戦)きゝて、弟に九郎(源九郎義経)と云ひし者に、土肥実平(どひのさねひら)・梶原景時(かぢはらのかげとき)・次官親能(すけのちかよし)など云者(いふもの)さしのぼせたるが、左右(さう)なく京へ打(うち)いりて、その日の内(うち)に打取(うちとり)て頚とりてき。その時すでに坂東武者(ばんどうむしや)せめのぼると聞(きき)て、義仲は郎等(らうどう)どもを、勢多(せた)・宇治(うぢ)・淀(よど)なんどの方へちらして防がせんと、手びろに企ててゝ有(あり)けるほどに、すゝどに宇治の方より、九郎、親能(ちかよし)はせ入りて、川原に打立(うちたち)たりときゝて、義仲はわづかに四五騎にてかけ出でたりける。やがて落(おち)て勢多の手にくはゝらんと大津(おおつ)の方へをちけるに、九郎追いかゝりて大津の田中にをいはめて、伊勢三郎と云(いひ)ける郎等、打てけりと聞こえき。頚もちて参りたりければ、法皇は御車(おくるま)にて御門(ごもん)へいでゝ御覧(ごらん)じけり。

(注釈)

九郎(源九郎義経)・・・義朝の九男。母は常磐御前。
次官親能(すけのちかよし)・・・斉院次官中原親能。明法博士広季の子。頼朝の近習。
左右(さう)なく・・・たやすく。
頚・・・義仲の首。
勢多(せた)・・・近江国粟太郡。滋賀県大津市。
宇治(うぢ)・・・山城国宇治郡。京都府南部
淀(よど)・・・山城国久世郡。京都市伏見区。
手びろに・・・手広く。
すゝどに・・・鋭く。
川原・・・賀茂の河原。
大津・・・近江国滋賀郡。滋賀県大津市。
田中・・・田の中。
をいはめて・・・追い込んで。
伊勢三郎・・・義盛。

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2005年11月 8日 (火)

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

1月1日 陰、
「院拝礼・小朝拝無し」
払暁、四方拝(しほうはい)常の如し。今日院の拝礼無し(院の御所鋪(ほ)設を改むるに及ばずと)。又小朝拝無し。代始めたれども、日次宣しからざるに依りてなり(凶会)。未の刻(14時)大将(九条良通)(飾剣例の如し)院に参り、即ち参内(さんだい)。晩頭(ばんとう)甘摂政(藤原師家)参入す。その後公卿着陣、節会(せちえ)例の如し。内弁皇后宮大夫(藤原)実房卿、外弁上首権中納言(藤原)長方卿と。大納言(藤原)忠親並びに此の大将等、内弁の作法を見んため外弁に着かずと。不当と雖も又近例と。亥の刻(22時)大将帰り来たり今日の事を語る。具さに大将を召しこれを記す。
「忌月に依り音楽・国栖笛音せざる事重ねて宣下有るべきか」
抑(そもそも)御忌月たるに依り、音楽並びに国栖(くにす、くず)笛声を奏せず。この事先帝(安徳天皇)の御時に宣下せられたり。当今(後鳥羽天皇)又同じかるべし。しかるに重ねて宣下有るべきや否や、大将不審を成し、大外記(中原)師尚の許へ問い遣わす処、事の理重ねて、仰せらるべからざる上、延久元年の例又然らずと。今日又仰せられずと。然れども諸司存じて奏せざるなり。今日手水陪膳(みなもと)季長朝臣、節供((藤原)光長朝臣之を勤め陪膳同前)。この日右少弁(平)基親来たる。夜にいり大風降雨、又雷鳴す。
(注釈)
四方拝(しほうはい)・・・1月1日の宮廷行事。
参内(さんだい)・・・内裏(だいり)に参上すること。
晩頭(ばんとう)・・・ゆうがた。
節会(せちえ)・・・節日などの宴会。
内弁(ないべん)・・・儀式を門内で指揮する首席の公卿。
外弁(がいべん)・・・儀式を門外で指揮する第2位の公卿。
国栖(くにす、くず)・・・大和の国栖人が参列して歌笛を奏したこと。
手水(ちょうず)・・・手・顔などを洗う水。
節供(せちく)・・・節日に供する供御(くご)。元日の膳、15日の粥など。
供御(くご)・・・天皇の飲食物。
陪膳(ばいぜん)・・・膳部の給仕

1月2日 終日降雨、
大外記師尚来たる。手水陪膳(藤原)範季朝臣。

1月3日 陰晴れ不定、
手水陪膳(橘)以政朝臣、今日右大弁(藤原)兼光来たる。弁・少納言小々来たり。凡そ今年出仕の人無しと。この日(清原)頼業、(小槻)隆職等来たる。
「元日節会外弁に外記候らわず」
余人を以て元日の節会外弁外記候らわざる事之を問う。申し云う、外記国栖の時参会し、外弁諸司の役吏に問ふと。かって先例無し。他の事に准じ此の沙汰有りと。内弁職事を以て、事の由を奏すと。余之を案ずるに尤も不審の事なり。

1月4日 陰晴れ不定
定能卿来る。件の卿今年出仕せず、只布衣を着け、院に伺候すと。兼雅、親信等の卿同前と。
「良経院より犬三匹を預かる」
院より犬3匹を中将に預け給う。今日、定能卿相具し来る所なり。事甚だ奇異と。然れども返上する能わず。凡そ法皇のていたらく、始めてとすべからず。
伝聞、頼朝今日出門す、決定入洛すべしと。又虚言か。或る人云く、平氏来る八日入洛すべしと。この事信用せられざる事か。

1月5日 陰晴不定
「弥勒講」
御堂に参る。恒例の弥勒講に依りてなり。この間源中納言(雅頼)来る。よって大将相共に広庇の座に着かしめ、余簾中にあり。講演終わり、布施(公卿等これを取らず)を置く後、余仏前(堂中他所便宜無き故なり)に出で、前源中納言(雅頼)を招き入れ、謁談刻を移す。語りて云く、頼朝の軍兵墨俣に在り。今月中入洛すべきの由聞く所なり。日没に及び退出したり。
「東大寺大仏鋳造の事」
「河内国鋳師を宋朝鋳師に加う」
「行隆子息等に霊託あるか」
(中略)
右中弁行隆また云く、義仲久しかるべからず。頼朝また然るべし。平氏若しくは運有るか。
惣(す)べてその所行に依るべしと。

1月6日 天晴風吹く
「叙位」
或る人云く、坂東の武士すでに墨俣を越え美乃に入りたり。義仲大いに怖畏を懐くと。

1月7日 天晴
「叙位聞書を見る」
摂政正二位に叙す(従二位を越ゆ。本正三位なり)。
「白馬節会」

1月9日 
伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去年の秋の比より連々謳歌す。様々の異説有り。忽ち以て一定したり。
「義仲鋳す鏡の事」
去年月迫る比、義仲一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わす。茲に因って和親すと。

1月10日 
夜に入り人告げて云く、明暁、義仲法皇を具し奉り、北陸に向かうべし決定。公卿多く相具すべしと。これ浮説に非ずと。
1月10日 「吾妻鏡」
「義仲征夷大将軍」
 伊豫の守義仲征夷大将軍を兼ると。ほぼ先規を勘ずるに、鎮守府の宣下に於いては、坂上中興以後、藤原範季(安元二年三月)に至り、七十度に及ぶと雖も、征夷(せいい)使に至りては、僅かに両度たるか。所謂桓武天皇の御宇延暦十六年十一月五日、按察使兼陸奥の守坂上田村麻呂卿を補せらる。朱雀院の御宇天慶三年正月十八日、参議右衛門の督藤原忠文朝臣等を補せらるるなり。爾より以降、皇家二十二代、歳暦二百四十五年、絶えてこの職を補せざるの処、今例を三輩に始む。希代の朝恩と謂うべきか。
(注釈)
鎮守府(ちんじゅふ)・・・蝦夷(えぞ)を鎮撫するため陸奥国に置かれた官庁。
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)・・・鎮守府の長官。
征夷(せいい)・・・えびす(蝦夷、えぞ)を征伐すること。
按察使(あんさつし)・・・あぜち。あんせちし。諸国の行政を監察した官。

1月11日 朝間雨下る、午後天晴
 この日密々女房等を南京(奈良)に遣わす。世間の物惣に依りてなり。基輔の母尼南都に下向す。これを以て名となす。今暁、義仲の下向忽ち停止す。物の告げ有るに依ってなりと。来たる十三日平氏入京すべし。院を彼の平氏に預け、義仲近江の国に下向すべしと。

1月12日 朝間雨下る、晩に及び大風 
この日大将女房叉南都(奈良)に下向す。但し頼輔入道日来中川(山寺なり)にあり。その所に遣わすなり。
伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずるの処、猶法皇を具し奉り、北陸に向かうべきの由これを聞く。すでに謀叛の儀たり。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦の間、第一の郎従(字楯と)を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返したりと。

1月13日 天晴
今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎と。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向延引すと。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
平氏一定今日入洛すべき処、然らざる條三つの由緒有りと。一ハ義仲院を具し奉り、北陸に向かうべき由風聞の故、二ハ平氏武士を丹波の国に遣わし、郎従等を催せしむ。仍って義仲また軍兵を遣わし相防がしむ。然る間、平氏和平を一定したり。仍って事一定の後、脚力を遣わし引き退くべき由仰せ遣わす処、猶合戦を企て、平氏方の郎従十三人の首すでに梟したりと。茲に因って心を置き遅怠す。三ハ行家渡野陪(わたのべ)に出で逢いテ、
一箭射るべきの由を称せしむと。この事に因って遅々す。縦横の説信じ取り難しと雖も浮説に非ずに依りこれを記す。

1月14日 天晴 
「伊勢神宮怪異の条々」
伝聞、大神宮より怪異の由、義仲の許に注進す。
「伊勢国永松御厨・栗真庄・安濃津」
「関東飢饉か」
或る人云く、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと。実否知り難きか。申の刻(16時)、人伝えて云く、明後日義仲法皇を具し奉り、近江の国に向かうべしと。事すでに一定なりと。

1月15日 天晴 
早旦人告げていわく、御幸停止したり。御赤痢病に依りてなりと。義仲独り向かうべしと。或はいわく、向かうべからずと。
「義仲を征東大将軍となすという」
隆職来たり語りて云く、去る夜御斉会の内、論議無し。即位以前たるに依り手なりと。叉云う、義仲征東大将軍たるべきの由、宣旨を下されたりと。
今日、家の節供欠如、余沙汰を致さず。かくの如き事執し思うべき身にあらざる故なり。

1月16日 雨下る 
「義経勢数万に及ぶ」
去る夜より京中鼓騒す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併しながら以て帰洛す。敵勢数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざる故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に向かうべき由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警固し祇候すべし。
「義仲行家を追伐す」
また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべしと。凡そ去る夜より今日未の刻(14時)に至るまで、議定変々数十度に及ぶ。掌(たなごころ、てのうら。)を反すが如し。京中の周章喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付くと。

1月17日 朝間天陰、午後頗晴れ

1月19日 
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
昨今天下頗るまた物騒す。武士等多く西方に向かう。行家を討たんが為と。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防がんが為と。(志田)義廣(三郎先生)大将軍たりと。

1月20日 天気晴れ、物忌みなり、

卯の国(6時)人告げて云く、東軍すでに勢多に付く。未だ西地に渡らずと。相次いで人云く、田原の手すでに宇治に着くと。詞未だ訖(お)わらざるに、六條川原に武士等馳走すと。仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。
「義広敗績す」
義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られたり。東西南北に散じたり。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵(きびす、かかと)を廻さず六條の末に到りたり。義仲の勢元幾ばくならず。。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃(おう、わざわい)に遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来たる。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちたり。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多の手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたりと。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群れ参ずと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がる。実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲の支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべしと。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟(きょう、ふくろう)首せられたり。天の逆賊を罰す。宜(むべ)なるかな。宜(むべ)なるかな。
「義仲の天下六十日」
義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。今日卿相(けいしょう、公卿)等参院すと雖も、門中に入れられずと。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白(藤原基房)藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)す。共に答え無し、又甘摂政顕家の車に乗り参入す。追い帰されたりと。弾指すべし、弾指すべし。余風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
宜(むべ)・・・うべ。もっともであること。
前蹤(ぜんしょう)・・・前例
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

1月20日 「吾妻鏡」
 蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛(頼朝)の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を追罰せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞(せんとう)を警衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国(滋賀県)粟津の辺に於いて、相模の国(神奈川県)住人石田の次郎をして義仲を誅戮(ちゅうりく)せしむ。その外錦織の判官等は逐電(ちくてん)すと。
 征夷大将軍従四位下行伊豫の守源朝臣義仲(年三十一)、春宮帯刀長義賢男。壽永二年八月十日、左馬の頭兼越後の守に任じ、従五位下に叙す。同十六日、伊豫の守に遷任(げんにん)す。十二月十日、左馬の頭を辞す。同十三日、従五位上に叙す。同正五位下に叙す。元暦元年正月六日、従四位下に叙す。十日、征夷大将軍に任ず。
検非違使右衛門権の少尉源朝臣義廣、伊賀の守義経男。壽永二年十二月二十二日、右衛門権の少尉(元は無官)に任ず。使の宣旨を蒙る。
(注釈)
武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)。頼朝は兵衛府の佐(すけ)、次官だった。
仙洞(せんとう)・・・上皇の御所。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪あるものを殺すこと。
逐電(ちくてん)・・・ちくでん。逃亡。
遷任(げんにん)・・・一旦退官したものが、再びもとの官職に任ぜられること。

1月21日 天気晴れ、物忌み昨の如し。
ある人諫めて云う、甘摂政安堵すべからず。下官出馬すべしと。余これを案ずるに、末世の作法進退、天下を恐れ国を棄てざる条あり。政道の治乱を憑(たの)むあるに似たりと雖も、偏に君の最にあるべし。わが君天下を治める間、乱亡止むべからず。不肖の者、委任の任に当たらず。恐らく後悔あるか。これに加え、微臣の社しょくに置いて身命を惜しまざる条、仏天知見あるべし。然れば即ちもし世の運あれば、天士を棄つべからず。運無くば、また一旦の浮栄を欲せざる所なり。如かず(およばない)只伊勢太神官、春日大明神に奉仕せんに。依って一言も上聞せず。諫める人云う、甚だ強しといえり。晩に及び召しあり(定長奉行、定めらるべき事ありと)。風病(ふうびょう)述無し。事矯餝(きょうしょく)にあらず。よってその子細を申したり。今旦、大外記頼業来たり、世上の事を談ず。晩に及び大夫吏隆職来る。洗浴の間これに謁せず。
「基通摂政に還補せらる」
ある人云う、前摂政(基通)還補すべき由と。法皇の愛物なり。いよいよ下官詞を出す能わず。努力(ゆめ)々々。
(注釈)
風病(ふうびょう)・・・かぜ。中風(ちゅうぶう)
矯餝(きょうしょく)・・・いつわりかざること。矯飾。
努力(ゆめ)々々・・・断じて。

1月21日 「吾妻鏡」辛亥
 源九郎義経主、義仲が首を獲るの由奏聞す。今日晩に及び、九郎主木曽が専一の者樋口の次郎兼光を搦め進す。これ木曽が使として、石川判官代を征めんが為、日来河内の国に在り。而るに石川逃亡するの間、空しく以て帰京す。八幡大渡の辺に於いて、主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以て入洛するの処、源九郎家人数輩馳せ向かい、相戦うの後これを生虜ると。

1月22日 天気晴れ、
「兼実院より尋ねらるる条々」
風病聊(いささ)か減有り。仍ってなまじいに参院す。定長を以て尋問せらるる事五箇條、
「平氏追討の事」
一、左右無く平氏を討たるべきの処、三神彼の手におわします。この條如何。計り奏すべしといえり。兼ねてまた公家の使者を追討使に相副え下し遣わすは如何と。
 申して云く、もし神鏡・劔璽安全の謀り有るべくば、忽ちの追討然るべからず。別の御使を遣わし、語り誘わるべきか。また頼朝の許へ、同じく御使を遣わし、この子細を仰せ合わさるべきか。御使を追討使に副えらるの條、甚だ拠る所無きか。
「義仲の首の事」
一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。
申して云く、左右共に事の妨げを為すべからず。但し理の出る所、尤も渡さるべきか。
「頼朝の賞の事」
一、頼朝の賞如何。
申して云く、請いに依るの由仰せらるべきか。然れば又もし恩賞無き由を存ずるか。暗に行われ、その由を仰せらる。何事か有らんや。その官位等の事に於いては、愚案の及ぶ所に非ずといえり。
「頼朝上洛の事」
一、頼朝上洛すべきや否やの事
申して云く、早く上洛せしむべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いては知ろし食すべからず。早速遣わし召すべきなりといえり。
「院御所の事」
一、御所の事如何。
申して云く、早々他所に渡御有るべし。その所、八條院御所の外、然るべきの家無きか。
「昨日の議定大略兼実申状に同じ」
定長語りて云う、昨日左大臣(経宗)、左大将(実定)、皇后宮大夫(実房)、堀川大納言(忠親)、押小路中納言(長方)、左右大弁等参入し議定あり。各の申し状大概下官の申し状に同じ。但し兵士追討の間の事、左大臣左大将猶剣璽を知らず、追討すべきの趣か。これ即ち叡慮かくの如しと(他事、定能卿密にこれを示す)。各形勢に従わるるなり。然るべからず然るべからず。叉首を渡さるる事、長方いわく、もし遠国の賊首を渡さるる事かと(この事然るべからず然るべからず)。叉賞の事、左大将云う、恵美大臣を討ちし時の例に任せ、三品に叙せらるる、宜しかるべしと(この事叉過分なり)。この外の事一同と。退出したる後、人告げていう、摂政内大臣、各元の如くの由仰せ下されたりと。天国を棄てずと雖も、君これを棄てる。末世受生の恨み、宿業を訪ね報いんと欲するのみ。

1月23日 天気晴れ、
観性法橋来る。叉範季朝臣来る。語りて云う、平氏猶追討せらるべき由仰せ下されたりと。神鏡剣璽の事、猶重ぜられざるか。この条神虜恐れあり。これをなす如何如何。大外記頼業注進して云う、昨日宣下せらるる事等。
「大地震」
この日未の刻(14時)大地震。

1月24日 天気晴れ、
「良通所労」
「除病の符を書かしむ」
「不空羂(けん)索観音像を造る」
(注釈)
不空羂(けん)索観音・・・生死の苦海の衆生を済度する観音。
「泰山府君祭」
「不動供を修す」

1月25日 天気晴れ、
「仏法の験により良通回復す」
「基通・実定還補の事」
「近衛亭にて吉書を覧ず」
「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」
「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

1月26日 晴
「三神の安全のため平氏追討止むべきか」
 去る夜より閭巷(りょこう、村里)平氏入洛の由を謳歌(おうか)す。信受せざるの処、果たして以て虚言と。或いは云く、猶平氏追討を止めらるの儀、静賢法印を以て御使として、子細を仰せ含めらるべしと。この儀愚心庶幾(こいねがう)する所なり。これ全く平氏を引級するに非ず。神鏡・劔璽の安全を思うに依ってなり。
1月26日 「吾妻鏡」
 今朝検非違使(けびいし)等、七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに忠直・兼平・行親等の首を請け取り、獄門(ごくもん)の前の樹に懸く。また囚人兼光同じくこれを相具し渡されたり。上卿は籐中納言、職事は頭の弁光雅朝臣と。
(注釈)
謳歌(おうか)・・・声をそろえてほめたたえること。
庶幾(しょき)・・・こいねがうこと。
引級
検非違使(けびいし)・・・京中の警察・裁判官。
獄門(ごくもん)・・・獄屋(ごくや、ろうや)の門。
上卿(しょうけい)・・・儀式を指揮する公卿。
職事(しきじ)・・・実務担当。

1月27日 天晴れ
「平氏征伐朝方等の和讒によるか」
定能卿来たり、世間の事等を語る。その次いでに云く、平氏の事、猶御使を遣わす事を止め、偏に征伐せらるべしと。近習の卿相等の和讒(わざん)か。所謂、朝方・親信・親宗なり。小人君に近づき、国家を擾(みだ)す。誠かなこの言。
「余の庵借り上げの指示」
院より武士を居ゑられんため、余の庵(いおり)を借られるべく、家を指す由仰せあり(定長奉行)。承り訖(おわ)る由を申す。事の体言うに足らず。然れども逓れ避く能わず。末代の事勿論勿論。
「任子慈円より観音経等を受く」
(注釈)
和讒(わざん)・・・一方でやわらぎ親しんで、他方でそしり陥れること。仲介。密語。

1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早旦、大夫史隆職使者を進して云く、忽ち追捕(ついぶ)せられ、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の従類の所為と。召人の滅亡を思ふに依って、使いを九郎の許に遣わし、子細を相触る。縦えその身罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由なり。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書札を以て前の源納言(雅頼)の許に示し遣わす。次官親能彼の納言の家に在り。件の男頼朝の代官となり、九郎に付き上洛せしむ所なり。仍って万事奉行を為すの者と。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って触れんが為、件の男彼の納言に示す所なり。九郎の返事に云く、この事、平氏書札を京都に上す。件の使者を搦め取らる。各々報礼を持つと。その中にこれ有り。史大夫の者召し進すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、院より仰せ下さる。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第不敵。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言の返札到来す。親能一切知らざるの由を申すと。叉宰相中将(定能)に相尋ぬる処、
返事の上、全く知し食さざる事と。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 晩に及び使いを隆職の許に遣わし、子細を尋ね問う。帰り来たり云う。文書等少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身に随う。率爾(そつじ)の尋ねに備えるためなり。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたりと。凡そ官中の文書、古来只一本書なり。然るに肝心失えば、即ち我が朝の滅亡なり。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
追捕(ついぶ)・・・ついふ。ついほ。ついふく。悪者を追いかけて捕らえること。没収。奪い取る。
率爾(そつじ)・・・にわかなさま。軽率なさま。

1月29日 天晴れ
「平氏追討の派遣一定」
この日法印(慈円)来入せられ、中御門大納言(宗家)来らる。
 また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。今日すでに下向(去る二十六日出門)すと。その上猶静賢使節を遂ぐべきの由仰せ有り。静賢辞退すと。その故は、御使を遣わせらるは、彼の畏懼(いく)の心を休ましめ、三神安穏に入洛せんが為なり。而るに勇者を遣わし征討するの上、何ぞ尋常の御使に及ぶや。道理叶わず。また使節を遂げ難きの故なりと。申す所尤も理有るか。凡そ近日の儀掌を反すが如し。不便と。
「全玄僧正の天台座主補任定まる」
(注釈)
畏懼(いく)・・・おそれること。

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2005年11月 7日 (月)

1183年 (壽永二年)12月

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年12月

12月1日 天気晴れ、
今暁女房最吉の夢あり。天下の穢れ気に依り、心経書かず。件の写春日法楽の為なり。よって穢れの限りを過ぎ書き奉るべきなり。
「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」
伝聞、去る21日院の北面候ふ下郎2人(大江公友)伊勢の国に到り、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等なり)に告げ示す。即ち飛脚を頼朝の許へ差し遣わす。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢、僅かに500騎、その外伊勢(三重県)の国人(在地の武士)等多く相従うと。又和泉(大阪府南部)の守平信兼同じく以て合力すと。信性闍梨帰り来たり、山より法印(慈円)の返事を示す。先日余の使となり登山する所なり。
(注釈)
春日(かすが)・・・春日神社
法楽(ほうらく)・・・神仏の手向けにするわざ。
斎院(さいいん)・・・賀茂神社に奉仕した未婚の皇女の居所。
闍梨(じゃり)・・・阿闍梨(あじゃり)?。僧位の一つ。

12月2日 天気晴れ、
伝聞、義仲使いを差し平氏の許に送り(播磨(兵庫県南西部)国室の泊りにありと)、和親をこふと。
「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」
又聞く、去る29日平氏と行家合戦し、行家の軍忽ち以て敗績し、家子(家臣)多く以て伐ち取られたり、忽ち上洛を企つと。又聞く、多田蔵人大夫源行弘(綱)城内に引き籠もり、義仲の命に従うべからずと。

12月3日 天晴れ、
「義仲摂関家領86ケ所を賜るという」
伝聞、義仲一所を賜り、86ケ所を所領すと。
「藤原師家政所始め」
又新摂政の政所始め去る29日と。右中弁光雅執事家司となると。光長棄て置くか如何。拝賀来る8日と。晩に及び隆職来たり。前に召し雑事を仰す。
(注釈)
家司(けいし)・・・三位以上の家の事務をつかさどった職員。
執事(しつじ)・・・事務を執りしきる者。

12月4日 天晴れ、
定能卿退出し、院より来たり語りて云う、昨日義仲院に奏して曰く、頼朝代官日来伊勢の国に在り。郎従等を遣わし追い落としたり。其の中宗(そう)たる者一人、生きながら搦め取りたりと。又語り云う、院中の警護、近日日来に於いて陪し、女車に至るまで検知を加えると。今日終日経を写す。
(注釈)
宗(そう)・・・最もすぐれた人。

12月5日 天晴れ、
「皇嘉門院忌日」
故女院(皇嘉門院)の御忌日なり、早朝大将を伴い、御墓所に参る。
「写経等を供養す」
舎利及び昨日書き奉る所の諸の真言並びに寿量品(復一巻)等を供養し奉る。僧三口、事了り布施を引く。九条の御堂に参る。未の刻(14時)に及び、僧徒参入す。籠僧六口なり(但し、忠玄律師参らず、よって闕請一口を請じ加ふ。又観明法橋を以て導師となす。上臈たるに依りてなり)。公卿右大将(良通)一人なり。布施取衣冠、但し堂童子無し。略儀なり。講演了り、大将被物を取る。その後弥勒講(三口)、日来の如し。その後所作少なし。日没に及び退出す。
伝聞、平氏猶室に在り。南海・山陽両道大略平氏に同じたりと。又頼朝と平氏同意すべしと。平氏密かに院に奏し可許有りと。又義仲使いを差し同意すべしの由を平氏に示すと。平氏承引せずと。
「新摂政家司」
今日御堂に於いて光長語り云う、新摂政の執事親経、年預光雅、御厩(うまや)上司資泰朝臣と。他事未だ聞かずと。
「累代日記は鴨院に在り」
又累代日記併しながら鴨院に在りと。
(注釈)
寿量品(じゅりょうぼん)・・・法華経の一つ。
年預(ねんよ)・・・(臨時に1年を限り他の役所の職員が事務を担当)、執事の下で実務を行った職員。
厩(うまや)・・・馬小屋。

12月6日 天晴、

12月7日 天晴、
早朝仏厳聖人来たる。相次、範季朝臣来たり、世上の事を語る。平氏一定入洛すべきの由、能圓法眼告げ送ると。義仲と和平するや否や。未だ事切らずと。
「藤原宗家来る」
「朔旦叙位の事につき法皇より諮られる」
「賜下名の儀の有無によるべし」
(中略)
伝聞、平氏と和平の事、義仲内々骨張ると雖も、外相受けざるの由を示すと。
「日義仲法皇を奉じて八幡辺に向かわんとす」
晩に及び宰相中将(定能)告げ送りて云く、来たる十日義仲法皇を具し奉り、八幡の辺に向かうべし。彼より平氏を討たんが為、西国に赴くべしと。又範季同状告げ送る。凡そ左右に能わざる事か。或いは云う、明日御幸有るべしと。然れども謬説か。
(注釈)
法眼(ほうげん)・・・法印に次ぐ僧位。

12月8日 天晴
 使者を静賢の許に送り、御幸の次第を問う。返事に云う、凡そ左右する能わず。一定仰せ下されたり。今に於いては異議無し。天下今一重滅亡したり。京都叉安堵すべからず。女房等少々、遠所に遣わすべきかと。凡そ京中の上下周章極み無しと。叉宰相中将退出す。院より御幸に参るべきにより、出立のため退出する所なり。件の相公の室家、この両三日女院に寄宿せらる。新御所の北対辺なり。
「法皇御幸につき御占い行わる」
「五条殿に怪異あり」
当時の御所五条殿、怪異頗りに示す。よって八条院に還御あらんと欲する処、義仲受けざる間、忽ちに八幡御幸の儀出で来たりと。凡そ怪異を忌みらるる条は、亡ぶごとき事あるか。今に於いては、法皇の御身、何によりて惜しみ思し食さるべきや。弾指すべし弾指すべし。
「法皇御幸に他の人参らず」
余の女房、大将の妻等、密々明暁南都に使わすべき由、内々その沙汰を致す。然れども事猶穏便ならず。依って院辺に訪ね伺う処、10日の御幸頗る不定。叉公卿等参入し、御幸の事を尋問せらる由、へい燭以後これを聞き及ぶ。叉縦い御幸ありと雖も、法皇の外他人参るべからず。行幸あるべからず。入道関白以下、諸卿洛中に留まり、万事沙汰を致すべし。京都を損亡せざるため、御幸を申し行う由、義仲称せしむと。よって明暁の下向停止したり。かつまた占いを加うる処、頗る快からざる故なり。叉左少弁光長同じく忽ちにしかるべからざる由を申すなり。
「日頃山門衆徒蜂起す」
 亥の刻(22時)に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇極まり無し。凡そ日来山門衆徒(しゅと)の蜂起、甚だ以て甘心せられず。世の為時に、訴訟も遺恨も有るべき事なり。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべき処、大衆(だいしゅ)蜂起の條、還りて後鑒の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依り、寄せ攻めらるべしと。誠に台獄の仏法滅尽の期至るか。悲しむべし、悲しむべし。頼輔入道今日南都に下向したり。
(注釈)
へい燭(へいしょく)・・・夕刻。
山門(さんもん)・・・寺院。比叡山延暦寺。
衆徒(しゅと)・・・僧兵。
大衆(だいしゅ)・・・多数の僧侶。
後鑒(こうかん)・・・後鑑。後々の手本。
台獄(たいがく)・・・比叡山。

12月9日 天陰 頗る風雪、
伝聞、昨日左大臣(経宗)並びに忠親卿院に参り、成範卿を以て左大臣に問われて云う、義仲申して云う、西国を討つ為罷り向かうべきなり。而るに法皇御在京、不審無きに非ず。山門(さんもん)騒動の由風聞す。仍って法皇を具し奉り下向を欲すと。この事如何。御占い行われるの処、不快の由を申す。之を為す如何。左大臣申し云う、御占いの事沙汰に及ぶべからず。義仲の申す所然るべし。早く御幸有るべしと。又静賢法印を以て忠親卿に問われる。申し状左大臣に同じ。但し密かに申し云う、平氏と和平の儀、義仲に仰せられるべきなりと。然れども件の事義仲おおいに不快の由、外相に表すと。よって仰せ下さるに及ばずと。
「長方の言により八幡御幸停止せられる」
しかる間、長方卿ひそかに使者を以て義仲に触れ云う、穢れ中に八幡御幸如何。たとい御参社無しと雖も、猶神慮恐れ有り。おおいに以て然るべからずと。ここに因り忽ち延引し、穢れ以後御幸給ふべき由定め仰せたりと。猶長方賢名の士なり。
「慈円下京す」
今日、山の法印(慈円)白地(あからさま)に京に下られ、大衆の蜂起熾(し、さかん)盛と。実に只天台の仏法の滅亡すべき時なり。
「俊尭天台座主に補さる」
伝聞、俊尭座主に補せられたりと。
(注釈)

12月10日 天晴れ、
法印(慈円)山上に登り帰られたり。百日の入堂(無動寺なり)、退転、遺恨たるに依り、隆憲を以て義仲に触れ、許しを蒙(こうむ)り登られたり。是また愚身の慶びなり。昨日京に下りしは、世間の物騒に依り、下官(げかん)の辺の事不審の故に下京と。又山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もる條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、すでに山上を攻むべきの由風聞す。仍って且つは下京せらるべきの由、余示し送る所なり。而るに山門を追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、案の如く許し有り。たとい又内心許さざる有りと雖も、此の願いすでに退き難き故、万事を顧みず、山に帰り、下官相共に能く議評せしむるものなり。山王大師(山王権現)知見証明あらんか。大願の趣、具さに注録し難きものか。只仏法の興隆・政道反素の趣なり。
「慈円入堂して兼実等の大願を祈願す」
法印(慈円)・下官、観性(法橋)三人の大願、すでに年序(年数)を積みたり。今の入堂すでにこの事を祈請の故なり。よって百千の事顧みるべからず。只冥衆(みょうしゅ)に任せ奉るのみ。
「臨時除目」
この夜臨時の除目を行わる。
参議藤俊経、藤隆房、(即任右武衛)、藤兼光、
左大弁兼光、左中弁光雅、右中弁行隆、
権光長、左少弁源兼忠、右少弁平基親、
右中将忠良、
義仲左馬の頭を辞退す。また天台座主(俊尭僧正)を仰せ下さると。
(注釈)
山王大師(山王権現)・・・日吉(ひえ)神社の祭神。
知見(ちけん)・・・物事を悟り知る智慧。
下官(げかん)・・・官吏が自分のことをへりくだっていう称。下級の官吏。
法橋(ほっきょう)・・・法眼の次に位。
冥衆(みょうしゅ)・・・人の目に見えない諸天。諸神。

12月11日 天気晴れ、
早朝法印(慈円)示し送り云う、無為無事登山したり。夜の内に護摩以下の所作等悉く勤行(ごんぎょう)したり。悦びをなす少なからずと。大衆(だいしゅ)の事、義仲に立ち会ふ儀は停止し、座主を用ふべからざる条は、決定熾(し、さかん)盛なるべしと。
(注釈)
護摩(ごま)・・・護摩木を焚いて祈る。
勤行(ごんぎょう)・・・勤めて仏道修行すること。

12月12日 天気晴れ、晩に及び雨下る、
伝聞、山の大衆蜂起し、和平相半ばすと。五位蔵人親雅、荷前の事を定め申すべき由、右大将を催す。所労の由を申したり。
(注釈)
荷前・・・

12月13日 陰晴れ不定、時々風吹き
伝聞、平氏入洛、来たる二十日と。或いはまた明春と。義仲と和平の事一定すと。

12月15日 天晴れ、
「方違」
「最勝金剛院堂廊に宿す」
夜に入り法性寺に向かう、最勝金剛院の堂廊に宿す。春節に違はんためなり。女房同じく之を相具す。主税助安倍晴光来たり、天変の事を示す。

12月16日 天晴れ、
早朝東北谷、並びに南隍(こう、ほり)等を見回り、辰の刻(8時)許り九条に帰る。

12月19日 陰晴れ不定、晩に及び少雨、
「兼光に定能の車を貸す」
参議右大弁兼光朝臣拝賀の為来たり、車を申請するに依り、定能卿の車を借りこれを給ふ。密々兼光の許より返し遣わすと。是非礼と雖も、近日の天下に候ふ毎時、別段の事か。余又車を持たざる故なり。
「朔旦叙位行なわる」
此の夜、朔旦(ついたちのあさ)叙位行われる。須らく11月中行われるべき処、五節を行わざるに依り、御即位叙位の次合はせ行うべき由、豫ねて議定有り。是即位の次、下名を賜はんためなり。しかるに嘉承の例、亮(りょう、あきらか)闇の時の例を混合するに依り、憚り有るべし。只格別に叙位を行ひ、下名を賜ふ儀有るべからざる由、法皇仰せ有りと。然り間大事出で来たる。よって即位叙位合わせ行う条、異議無き処、即位又延引す。よってもし明春叙位の次、加え行はるべきか。将に又歳の内に之を行う。
「執筆藤原経房」
先日法皇の仰せに依り、下名を賜ふ儀り有るべからざるかの由、豫ねて其の沙汰有り。遂に歳の内に行わるる所なり。執筆左大弁経房卿。
「山大衆和平す」
この日山大衆の和平、神輿を振り下げ奉りたりと。無動寺法印密々に大衆発すべからざる子細を永弁・智海等の許に示し送らる(内々余の示すに依るなり)。各甘心の色有りと。今日早旦春日の料の心経を書き奉る。穢れの限り過ぐるに依りてなり。

12月20日 天晴れ、
「叙位聞書を見る」
早旦聞書を見る、殊なる事無し。光長四位に叙す。大将の袍(ほう、わたいれ)を申請せしに依り賜ひたり。今明物忌みなり。今暁、智詮阿闍梨熊野に進発す。余及び大将沐浴(もくよく)潔斎(けっさい)してこれを礼す。
「実定礼及び一首を兼実に送る」
今日左大将(藤原実定)札を送り、世上及び自身の事等を示さる。粗く述懐の状有り。其の次一首を送る。
あらきかせ ふきやむと まつほとに もとの心の ととこほりぬる
「兼実の返歌」
返歌
われもさそ かせにととろく かけはしを あやふむほとに ととこほりぬる
天下騒乱の後、茲に五箇年、心一実の道慕うと雖も、首猶双華の鬢(びん)梳(そ、くしけずる)り、即ち静謐(せいひつ)の時を期す。念仏の行を修めんためなり。愚心を以て賢慮を察す。猶豫宜しきか。
(注釈)
袍(ほう)・・・うわぎ。わたいれ。
沐浴(もくよく)・・・神を洗い身を洗うこと。湯水で身体を清めること。
潔斎(けっさい)・・・神事などの前に、酒や肉食などをつつしむ。
鬢(びん)・・・頭の左右側面の耳ぎわの毛。
静謐(せいひつ)・・・静かであること。特に世の中がおだやかに治まること。

12月21日 天晴れ、
「京官除目執筆藤原経房」
此の夜京官の除目行われると。執筆左大弁(兼光)、一夜の儀と。
今日心経一巻を(復十三巻)、覚乗法眼の許に送る。社頭(社前)に於いて供養し奉らんためなり、今日心経千巻を読み奉る。

12月22日 天晴れ、
「心経を覚乗法眼に遣わす」
毎月心経十三巻、(復一巻)を書写し、小布施を相副え、覚乗法眼の許に遣わすなり。是毎年の勤めなり。社頭に於いて供養し奉る所なり。今日又心経千巻を読み奉り、春日御社に法楽し奉る。信心殊に発り、利生(利益)炳焉(へいえん、あきらか)たるものか。
「除目聞書を見る」
未の刻(14時)聞書を見る。左京大夫(藤原)清通(侍従を辞し其の子に譲る(高通))、
右京大夫(藤原)季能、中納言(藤原)隆忠、右衛門督(藤原)家通、左兵衛督(藤原)実守、この外覚悟せず。
「下名」
長方卿備中国を賜るなり(元淡路なり)。今日下名と。
「大地震あり」
今夜子の刻(24時)大地震。近代必ず験有り。恐るべし恐るべし。
夜に入り下記闕(けつ、かける)官帳持ち来たり云う、昨日大下記師尚の許より送り遣わすもの、しかるに参陣の間、今日の除目を行ふを知らずたり。退出の時、これを見て、持参する所なりと。先例無きに依り、返し給ひたり。甚だ奇怪の由を仰す。
「八条辺り焼亡す」
今夜焼亡有り。八条院の辺り、故家朝の後家と。

12月23日 天陰、午後雨降り、夜に入り殊に甚だし、
早朝下名聞書を見る(去夜行われると)。今日頭中将(源)通資札を大将の許に送り、臨時祭に参るべき由を催す。其の上謹み上る所と。すべからく進上と書くべし。よって札を使いに返したり。今日宗家卿来られる。

12月24日 天晴れ、
一昨日覚乗の許に遣わす所の心経、使者遅く持ち向かう。昨日は衰日たり。今日供養し奉るべく、示し送る所なり。よって今日旦つ神事を聞く。巳の刻(10時)大下記頼業布袋を着け密々に来たり、自身及び世上の事を談ず。今日晩頭始めて出仕すべしと。頼業云う、西海の主君(安徳天皇)入御せば、当今(後鳥羽天皇)如何。六条院の体の若(ごと)きかと。余いささか思う所を示す。頼業甘心の色有り。
「牙笏紛失の事」
この日頭中将(源)通資朝臣札を送り(基輔朝臣の許に遣わす)、示し云う、牙(きば)の御笏(しゃく)不虞に紛失の事有り。明日臨時祭の料、尋ね進らすべしといえり。申し云う、元より相持たず。又尋ね得べき力無しといえり。
(注釈)
当今(とうぎん)・・・当代の天皇。今上天皇。
笏(しゃく)・・・束帯着用のとき、右手に持つ板片。牙または木製。

12月25日 天晴れ、
「賀茂臨時祭」
この日臨時祭なり。使参議右衛門督隆房朝臣、公卿忠親卿以下56人参入すと。
「兼実子息春日社に参詣す」
この日愚息小児(良円)密々に春日の御社に参詣す。凡そ余の子息は七歳以前に春日に参らしむべき由、所願有りの故なり。

12月26日 天晴れ、
「崇徳院の神祠立つ所につき諮られる」
大将方に行き向かう。夜に入り帰り来る。蔵人少輔親経来たり、問いて云う、崇徳(崇徳天皇)院の神祠(しんし、ほこら)を立たれるべき由其の沙汰有り。其の所如何。計り申すべしといえり(院宣と)。申し云う、この事先日御占い不快に依り、神祠を止め、改葬為すべき由これを承る。今の仰せ相違如何。但し此の条和説(話し説くこと)なり。其の所に於いては、暗に計らひ申し難し。もし一定の地無くば、然るべき所両三所相定め、御占い行われるべきか。

12月27日
法皇正月十三日天王寺に幸すべしと。此の事親信卿及び(平)業忠等、義仲に追従せんため申し行う所と。
(注釈)
天王寺(てんのうじ)・・・四天王寺の略。大阪市天王寺区にある

12月28日
「不堪佃田荒奏」
此の日摂政(師家)初度の上表と。又不堪荒奏有りと。右少弁基親拝賀の為来たる。権中納言隆忠拝賀すと。定能卿来たる。
(注釈)
上表(じょうひょう)・・・君主に文書をたてまつること。
不堪(ふかん)・・・ある事が上手にできない事。

12月29日 天晴れ、
大夫隆職来たり、世上の事を談ず。平氏・義仲の和平、一定の由、忠清法師の説を以て聞きたりと。
「不堪佃田和奏」
今日和奏と。左大臣陣に参り、不堪の定め有りと。

12月30日 天晴れ、
「熊野御燈明追儺」
今日熊野御燈明の日なり。大将の使いとなり智詮阿闍梨参入なり。よって精進潔斎、追儺(だ、おにやらい、疫病を追い払う)
例の如しと。
(注釈)
儺(だ、おにやらい)・・・疫病を追い払う。
追儺(ついな)・・・年末に火を燃やして虫や鬼を退治した。

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2005年11月 6日 (日)

1183年 (壽永二年)11月「愚管抄」

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年11月
「愚管抄」

かやうにてすぐる程に、この義仲は頼朝を敵(かたき)に思ひけり。平氏は西海(さいかい)にて京へ帰り入らんと思ひたり。この平氏と義仲と云ひかはして、一つになりて関東の頼朝を攻めんと云事出きて、つゝやき、さゝやきなどしける程に、是も一定(いちぢやう)も無しなどにてありけるに、院に候北面下臈(ほくめんげらふ)友康(ともやす)・公友(きみとも)など云者、ひた立(たて)に武士を立て、頼朝こそ猶本体とひしと思て、物がらもさこそ聞こえければ、それをおもはへて頼朝が打のぼらん事を待ちて、又義仲何事かはと思けるにて、法住寺殿、院御所を城にしまはして、ひしと、あぶれ源氏、山々寺々(やまやまてらでら)の者を催して、山の座王明雲参りて、山の悪僧(延暦寺の荒法師)具してひしと固めて候けるに、義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口・楯・根の井と云四人の郎従ありけり、我勢(わがせい)落ちなんず。落ぬさきにとや思ひけん。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎の内五百余騎なんとぞ云ける程の勢にて、はたと寄せてけり。義仲が方に三郎先生(さぶらうせんじやう、志田三郎先生義広)と云源氏ありけるも、かく成りにければ皆御方(みかた)へまいりたりけるが、猶義仲に心をあはせて、最勝光院(さいしようくわうゐん)の方を固めたりける。山の座主が方にありけるが内より、座主の兵士なにばかりかはあらんを、ひし/\と射(い)けるほどに、ほろ/\と落にけり。散(さん)/゛\に追ひちらされて、しかるべき公卿・殿上人・宮なにか皆武士にとられにけり。殿上人己上の人には美乃守信行と云者ぞ当座に殺されにける。そのほかは死去の者は上臈(じやうらふ)ざまにはさすがに無かりけり。さるやうなる武士も皆逃げにけり。院の御幸は清浄光院(しやうじやうくわうゐん)の方へなりたりけり。武士参りて、うるはしく六条(ろくでう)の木曾が六条のかたはらに信成(のぶなり)が家あるにすゑまいらせてけり。当時の六条殿はこれなり。さて山の座主明雲、寺の親王八条宮(はちでうのみや、円恵)と云院の御子(みこ)、これ二人はうたれ給(たまひ)ぬ。明雲が頚(くび)は西洞院河(にしのとうゐんがは)にて求め出(いだし)て、顕真(けんしん)とりてけり。かゝりける程に、それに具して見たる者の申しけるは、「我(わが)固めたる方落ちぬと聞きて、御所(ごしよ)に候けるが、長絹(ちやうけん)の衣に香(かう)の袈裟ぞ着たりける。輿(こし)かきも何も叶なはで馬に乗せて、弟子少々具して、蓮花王院の西の築地(ついぢ)の際(きは)を南ざまへ逃げけるに、その程にて多く射かけゝる矢の、鞍のしづはの上より腰に立ちたりけるを、後ろより引(ひき)抜きける。くゝりめより血流れ出でけり。さて南面の末に田井のありける所にて馬より落ちにけり。武者ども弓を引きつゝ追ひ行きけり。弟子に院の宮、後には梶井(かぢゐ)宮とて、きと座主になられたりしは、十五六にて有りけるは、かしこく「「われは宮なり」と名のられければ、生どりに取りて、武者の小家(こいへ)に唐櫃(からびつ)の上にすゑたりけり」とぞ聞(きこ)へし。八条宮(円恵)は具したりける人あしく、衣(ころも)袈裟なんどを脱がせ申して、紺(こん)の帷子(かたびら)を着せ奉りたりければ、走りかゝりて武者の斬らんとしけるに、うしろに少将房とて近くつかはれける僧は、院の御所に候(さふらふ)源馬助俊光(みなもとのうまのすけとしみつ)と云ふが兄也、その僧の、「兄」と云て手をひろげたりける腕(かいな)を、打落(うちおと)すまでは見きと申す者ありけり。山座主(やまのざす、明雲)が頚(くび)をとりて木曾(義仲)にかう/\と云ければ、「なんでう、さる者」と云ければ、たゞ西洞院川にすてたりけるなめり。「院の御前(ごぜん)に御室(おむろ、守覚)のおはしける、一番に逃給(にげたま)ひにけり。口惜(くちをし)き事也」とぞ人申(まうし)し。明雲は山にて座王あらそいて快修(くわいしう)とたゝかいして、雪の上に五仏院より西塔まで四十八人殺させたりし人なり。すべて積悪(しやくあく)をゝかる人なり。西光(さいくわう)が頚きらるゝ日は、山大衆(のだいしゆう)西坂本に下りて、「これまで候」などいはせて、平人道(へいにふだう、清盛)は、「庭に畳しきて、大衆大(おほ)だけへかへりぼらせ給ふ火の見え候しまでは、拝み申し候ひき」など云けるとぞ聞へし。かやうにて今日は又この武者して候ことこはいかにと、さすがに世の末にも深くかたぶく人多かりけり。寺の宮(みや、円恵)は尊星王法(そんしやうわうほふ)を行なはれけり。院(ゐん)事(こと)をはしますべくは替わり参らせんと祭文(さいもん、誓文)にかゝれたりけりとぞ申しし。又三条宮(高倉宮以仁王)寺(三井寺)にをはせしを、追いだす方(かた)の人なりきなども申しき。いかにも/\この院の木曾(義仲)と御戦いは、天狗(てんぐ)のしわざ疑いなき事也。これをしづむべき仏法も、かく人の心わろく極まりぬれば、利生(りしやう)のうつは物にあらず。術(すべ)なき事なり。

さて義仲は、松殿(まつどの)の子十二歳なる中納言、八歳にて中納言になられて八歳の中納言と云異名(いみやう)ありし人を、やがて内大臣に成(な)して摂政(せつしやう)長者(ちやうじや)になり、又大臣の闕(けつ)もなきに実定(さねさだ)の内大臣を暫(しばし)とて借りてなしたれば、世には「かるの大臣」と云異名又つけてけり。さて松殿世を行はるべきにて有りき。さしも平家にうしなはれ給(たまひ)てしかば、この時だにもなど云心(こころ)にこそ。さて除目(ぢもく)おこなひて善政(ぜんせい)と覚(おぼ)しくて、俊経宰相(としつねさいしやう)になしなどしてありし程に、かゝる次第なれば、一の所の家領文書は松殿皆すべて沙汰せらるべきにて、近衛殿はほろ/\と成りぬるにてありければ、法皇の近衛殿(基通)をいかにも/\いとをしき人に思はせ給て、賀陽院(かやのゐん、藤原泰子)方の領と云は、近衛殿のてゝの中殿(なかどの、基実)賀陽院の御子(みこ)になりて伝え給へる方なれば、そればかりをば近衛殿にゆるさるべしやと、その世にも猶院(ゐん)より仰(おほせ)られたりけるを、しかるべからぬやうに返事を申されたりける、口惜しく思しめしたりける也。松殿なんど程の人も、かくて木曾が世にて、世をながくしらんずと思しけるにやと返返(かへすがへす)口惜しき事也。九条殿(兼実)はうるせく、その時(とき)とりいだされずして、松殿になりけるをば、事がらも十二歳(師家)のをもて方こそあさましけれど、松殿の返(かへ)りなりたるにてこそあれ、いみじ/\とて、我(わ)れのがれたるをば仏神のたすけとよろこばれけり。

(注釈)
西海(さいかい)・・・西海道。九州。
つつやき・・・つぶやき。
一定(いちぢやう)もなし・・・確かでもない。
北面下臈(ほくめんげらふ)・・・北面武士の身分の低い者。
友康(ともやす)・・・鼓判官知康。
公友・・・大江公朝。
ひた立(たて)に・・・ひたすらに。
本体(ほんたい)・・・真の姿。
物(もの)がらもさこそきこへければ・・・ひとがらもさぞかしよいと評判されたので、
をもはへて・・・思えて、予想して。
しまはして・・・作り廻して。
あぶれ源氏・・・住所不定(無頼)の源氏
もよほして・・・集めて。
山の悪僧・・・延暦寺の荒法師。
御方(みかた)・・・後白河院の味方。
最勝光院(さいしようくわうゐん)・・・法住寺寺内の一院。
殿上人(てんじやうびと)・・・殿上に昇ることを許されたひと。
宮(みや)なにか・・・宮様など。
さるやうなる・・・相当のものらしい。
清浄光院(しやうじやうくわうゐん)・・・法住寺殿の近所。
顕真(けんしん)・・・第61代の天台座主。
長絹(ちやうけん)の衣(ころも)・・・長絹という絹織物の一種で作った僧衣。
香(かう)のけさ・・・香染(黄の黒みがかった染め色)の袈裟。
ついぢ(築土)・・・屋根のある土塀。
南ざまへ・・・南方へ。
しづは・・・しずわ、鞍の後方の高くなった所。後輪。
くゝりめ・・・装束の紐でくくった所。
梶井(かぢゐ)宮・・・後白河院の子。承仁法親王。
きと・・・れっきと。
かたびら・・・ひとえもの。
なんでうさる者・・・なんだ、そんなもの。
かたぶく・・・首をかしげる。非難する。
利生(りしやう)のうつは物・・・衆生を利益する道具。人の心。
術(すべ)なき事なり・・・仕方のないことだ。

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2005年11月 5日 (土)

1183年 (壽永二年)11月後半

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年11月

11月19日 天気陰、時々小雨、
「義仲法住寺御所を攻む」
早朝人告げて云う、義仲すでに法皇宮を襲わんとすと。余信受せざるの間、暫く音無し。基輔を以て院に参らしめ、子細を尋ねしむ。午の刻(12時)帰り来たり云う、すでに参上の由、其の聞こえ有りと雖も、未だ其の実無し。凡そ院中の勢甚だ少しと為す。見る者興違の色有りと。光長又来たり、院に奏せん為退出したり。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分かれ、必定寄せんの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依り、大将の居所に向かいたり。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。是河原の在家を焼き払うと。又時作る両度、時に未の刻(14時)なり。或いは云う、吉時と為すと。

「官軍敗績す」
申の刻(16時)に及び、官軍悉く敗績し、法皇取り奉りたり。義仲の士卒等、歓喜限り無し。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉りたり。武士の外、公卿・侍臣の矢に中(あた)り死傷の者十余人と。夢か夢に非ざるか。魂魄(こんぱく、たましい)退散し、万事覚えず。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱有らず。義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり。其の身の滅亡、又以て忽然か。憖(ぎん、ねがう)ひに生きて此の如しの事を見る。只宿業を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政(基通)未だ合戦せざる前、宇治の方へ逃げられたりと。夜に入り、定能卿密かに母堂の許へ来たる。即日余の居所の北隣に来たるなり。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言(藤原)兼房院に参り、合戦の間、雑人のため、僕従・乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出で、当時小屋に在り。乗物を送るべき由、雑色を以て示し送らる。依って牛車等を相具し送り遣わす処、尋ね失いたりと。後に聞く、歩行し法性寺の僧都(慈円)の許に来たると。深更に及び家に帰られたりと。日来却って籠居(ろうきょ)の人、何故今日参院せらるるや、尾籠(びろう)の甚だしき、鳴呼(ああ、あはあ)と謂うべきなり。定めて天下の沙汰となるか。
「天皇の御在所知れず」
主上(後鳥羽天皇)、実清卿相具し奉ると。未だ其の御在所を知らずと。今夜大将亭に宿す。
(注釈)
籠居(ろうきょ)・・・謹慎などして、家の中にとじこもっていること。
尾籠(びろう)・・・無作法、無礼、

11月19日 [吉記]天晴れ。
 午の刻南方火有り。怪しみてこれを見る処、院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入すること能わず。南方の空を見るに夕陽に及び、縦横の説信じ、信ぜざるの処、日入るに及び、院の御方逃げ落としめ給うの由風聞有り。鳴咽(おえつ)の外更に他事を覚えず。後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕(が)し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬(あんば)、或いは匍匐(ほふく)、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。
(注釈)
鳴咽(おえつ)・・・のどをつまらせて泣く。
駕(が)・・・乗り物に乗っていく。
鞍馬(あんば)・・・くらをおいた馬。
匍匐(ほふく)・・・はうこと。
雲客(うんかく)・・・殿上人(てんじょうびと)。

11月20日 天気晴れ、
「基房五条亭へ参るという」
伝聞、入道関白(藤原基房)去る夜より五条亭に参宿し、義仲迎えに寄すと。花山大納言(藤原兼雅)日野の方へ逃げ向かふと。或る人云う、源雅賢搦め取られたり。又源資時切り取られたりと。但し一定の説を知らず。後に聞く、両人共搦め取り武士の許に在りと。

11月21日 天気晴れ、
今日定能卿参院したり。(藤原)親信卿相替り退出すと。昨日静賢法印又召しに依り院に参り、見参に入ると。
「義仲今後世間の事は基房に申し合わすという」
又義仲内々示して云う、世間の事松殿(藤原基房)に申し合わせ、毎事沙汰を致すべしと。頗る静賢詳しからざるか。
「基通入京す」
今夕申の刻(16時)摂政(基通)奈良より入京、前駆け6人、共78人、済々たる威光と。愚案ずるに甘心せず、忍びて入京せらるべきか。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
余密々に祈請(きせい、願かけ)して云う、今度義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる。此の事極まり無き不詳(不吉、不運)なり。よって今度の事、其の中に入るべからず。義仲に順ふべからざる由、聊(いささ)か仏神に謝したり。言ふ莫れ言ふ莫れ。

11月21日 [吉記]
今日、伯耆の守光長已下の首百余、五條河原に懸く。人以て目すと。義仲検知すと。

11月22日 天気晴れ、
「藤原師家内大臣に任じ摂政とす」
早朝太夫吏隆職告げ送りて云う、権大納言(藤原)師家内大臣に任じ、摂政たるべき由仰せくだされたりと。昨夜丑の刻(2時)と。
「後鳥羽天皇閑院に御す」
晩に及び隆職来て語りて云う、主上閑院(かんいん、藤原冬嗣の邸宅)におはしますと。今朝新摂政に参る人々済々、前摂政の居所近々、事甚だ掲焉(えん、いずくんぞ)と。余今度の事を免る、第一の吉慶なり。
「合戦により天台座主明雲及び円恵法親王殺害さる」
伝聞、座主明雲合戦の日、其の場に於いて切り殺されたり。又八条円恵法親王、華山寺辺りに於いて伐ち取られたり。又権中納言頼実卿、直垂折鳥帽子等を着け逃げ去る間、武士等卿相たる由を知らず、引き張りて斧せんとする処、自ら其の名を称すと雖も、衣裳の体尋常の人に非ず、偽りて貴種を称するなり。猶頸を打つべき由、各沙汰する間、下人の中に身知る者有り、実説の由を称す。よって忽ちに死を免る。
「武士等頼実を経宗の許に送り纒頭を賜る」
武士等相共に父大臣(藤原経宗)の許に送ると。大臣憂喜相半ばし、纒頭(てんとう、ほうび)を武士等に与ふと。抑(そもそも)今度の乱、其の詮只明雲・円恵の誅殺にあり。未だ貴種高僧の此の如しの難に遭うを聞かず。仏法の為希代の瑕瑾(かきん、きず)たり。悲しむべし悲しむべし。又人の運報、誠に測り難き事か。前摂政(基通)去る7月の乱の時、専ら其の職を去るべき処、法皇の艶気に依り、動揺無く、今度何の過怠に依り所職を奪はるるや。
「基房に札を送り師家の吉慶を賀す」
入道関白(基房)の許へ書札を送り、其の子の吉慶の事を賀す。本意の由報札有り。
「義仲の許へ使者を遣わす」
又使者を以て義仲の許へに遣わす。是等当時の害を遁れん為なり。
「清原近業落命すという」
又聞く、大外記頼業の子直講清原近業、流矢に中(あた)りて命を失ふと。但し未だ一定を聞かず。よって父真人の許へ問ひ遣はす。今日訪札を前摂政の許に送る。
「殿歴」
この日天下穢れに依り、大原野祭り無し。よって奉弊せず。但し神斎恒の如し。殿歴の説に依るなり。

11月23日 天気晴れ、
この日北家に帰る。
「藤原実定の内大臣を借用という」
伝聞、内大臣(藤原実定)解官に非ず、借用すと。凡そ欠官は三なり。所謂死闕(けつ、かける)、転任・辞退なり。
「借官これに始まる」
借官之当今に始まる。禅門(藤原基房)の計、然るべし、然るべし。

11月24日
侍(外記大夫大江政職)を以て大外記頼業の許に遣わし、其の子親業の安否を吊ふ。去る19日戦場に於いて夭(よう、わかい)亡の由、風聞あるの故なり。

11月25日 陰晴不定、夜に入り小雨、
定能卿院より退出す。余之に謁す。語りて云う、法皇殊に御嘆息の気無きかと。
「方違」
此の夜方違いに依り堂廊に参宿す。

11月26日 天気晴れ、
今日文書の沙汰有り(師景文書なり)。大将・中将等、同じく会合す。夜に入り家に帰る。
「信円興福寺寺務を辞さんとす」
早朝、奈良僧正書を送り云う、松殿の辺の事、最も勝事(しょうじ)なり。凡そ世上の事夢の如し。寺務及び僧正等を辞し申さんと欲する、如何。計らひ示すべしと。条々委細返事を示したり。
(注釈)
勝事(しょうじ)・・・人の耳目をひくような尋常でない事柄。すばらしいこと。奇怪な事件。

11月27日
伝聞、平氏室の泊に付けたりと。実否を知らず。
「源宗雅来る」
今日(源)宗雅朝臣語る。前摂政(基通)の辺りの事、義仲大略所領等の事、相違有るべからざる由を申すと。然れども、又万事松殿(藤原基房)押して沙汰すと。今日仏厳聖人来る。伝聞、借り(任)大臣の事、天下の鼓騒(こそう)、禅門(藤原基房)頗る恥じ色有りと。
(注釈)
鼓騒(こそう)・・・さわぎたてること。

11月28日 天気晴れ、
範季・光長等来たり世上の事等を語る。
「基通の所領八十余所を義仲に賜わらんとす」
前摂政家領等、違乱有るべからざる由、義仲本所に示すと。然る間新摂政(師家)皆悉く下文を成し、八十余所義仲に賜ふと。犯乱の世なり。伝聞、借り(任)大臣の次第、先ず入道関白(藤原基房)、少将藤原顕家を以て使いと為し、内大臣(師家)に触れられると。希異の又奇異、更に言語の及ぶ所にあらざるものか。

11月28日 [吉記]
 前の兵衛の尉国尚、備前の守行家の随兵として西国に下向す。途中より書状を送りて云く、去る九日、三位中将重衡大将軍として、三百余騎の勢を以て、備前の国東川に寄せしむの間、当国検非違使所別当惟資・国武者相共に合戦す。惟資手を負う。武蔵の国住人□四郎介並びに子息打ち取られたり。仍って惟資国府を引き山に入りたりの後、惟資西川より千騎ばかりの勢を以て、申の刻ばかりに寄せしむの間、平氏の兵勝ちたり。少々物具を脱ぎ棄つと。件の日暮れたり。明暁すでに寄せしむの由、国人申せしむと雖も、検非違使所別当即時に寄せしむの間、酉の時ばかりに押し寄せ合戦す。平氏方五十四人討ち取られ、源氏方国人雑人二十人ばかり打たれたりといえり。また安藝志芳庄より、脚力到来して云く、平氏の前陣室泊の辺に着く。追討使前宿に着き馳すと。

11月29日 天気晴れ、
宰相中将定能卿来たり。只今院に参り帰ると。花山大納言(兼雅)頗る恐れを成す由、大将の女房の許へ示し送ると。よって訪札の報状を送りて云はく、解官の中に入らずと雖も、所領を没官せられ、又出仕を停止せらると。尤も不便の事か。晩頭太夫吏隆職解官等を注し送る。
「解官さるる人々」
解官
中納言藤朝方、    参議右京太夫同基家
大宰大弐同実清    大蔵卿高階泰経
参議右大弁平親宗  右中将播磨守源雅賢
右馬頭源資時     肥前の守同康綱
伊豆の守同光遠    兵庫頭藤章綱
越中守平親家        出雲の守藤朝経
壱岐の守平知親    能登の守高階隆経
若狭守源政家        備中守源資定
左衛門尉平知康(大夫尉)
此の外衛府26人と。
「即位踰年の例」
今日申の刻(16時)、五位蔵人親経院のお使いの為来たる。問い云う、御即位来月22日遂行されるべきなり。しかるに18日に至り穢気たり。よってその後22日、伊勢の幣を立てられる。28日本儲け日、即位、此の定定行されるべき処、万事叶ひ難し。よって踰(ゆ、よう、こえる)年例を外記に問わる。天智・天武・皇極・陽成院等の例なり。或いは両三年を経、或いは7・8年におよぶと。或いはまた明年なり。先例すでに在り。明年行われるべきか。計らひ奏すべしと。申し云う、文武以後数代、陽成院の外、未だを踰(こえる)年の例を聞かず。よって左右無く、歳の中に行われるべしと雖も、用途叶い難く、儀式或いは欠くべくば、此の限りに非ず。就中近日の為体(ていたらく)、常途の例に似るべからず。
「即位延引すべし」
況んや先規有りに於いてをや。延引時議に叶うかといえり。左大臣・忠親・長方両卿、皆延引せらるべき由申すと。入道関白頗る歳内に執せられ、院宣は延引よろしかるべしと。

11月30日 天気晴れ、
重ねて頼業の許へ使者を送り、先日使いを以てその子の近業の事を吊ふ。其の返報に付き、いささか申す事有り。忠言と謂うべし。よって其の事を感ずるため仰せ遣わす所なり。

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2005年11月 4日 (金)

1183年 (壽永二年)11月前半

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年11月

11月1日 天気陰。時々小雨。但し衣湿りに及ばず。
「朔旦冬至出御なし」
「昌泰の例」
「左大臣造進次第頗る非なり」
(以下儀式の詳細略)
   ・・・
「賀表作者俊経料紙」
「院御衰日により追討使進発延引す」
この日義仲・行家等平氏討つ為首途(出立)すべしと雖も、忽ち以て延引す。院の御衰日の為に依りなりと。来たる八日進発すべしと。
「朔旦冬至不出御の例」

11月2日 天気晴れ、
「頼朝去月鎌倉城を出るも上洛を停止し、弟義経を遣わしむ」
伝聞、頼朝去る月5日鎌倉の城を出で、すでに京に上り、旅館に宿すこと三ケ夜に及ぶ。しかるに頼盛卿の行向かひ議定あり、粮料(食糧)・蒭(まぐさ)等叶うべからずにより忽ち上洛を停止し、本城に帰り入りたり。其の替り九郎御曹司(誰人か、聞き尋ねるべし)を出立し、すでに上洛せしむと。ある人云う、今日義仲院に参ると。
(注釈)
蒭(まぐさ)・・・刈ったわらや草をぐっと縮めて束ねたまぐさ。牛馬の飼料。

11月3日 天気晴れ、
両息を伴い堂に向かう、師景文書の事を沙汰す。
伝聞、頼朝上洛決定延引したり。其の弟九郎冠者、五千騎の勢を副えて上洛せしむべしと。然れども猶以て不定と。
「北斗堂」

11月4日 天気晴れ、
「頼朝代官不破関に着く」
伝聞、頼朝上洛決定止まりたり。代官入京なり。今朝と。今日布和の関に着くと。先ず事の由を奏し、御定めに随い参洛すべし。義仲・行家等相防ぐにおいては、法に任せ合戦すべし。然らずば過平の事有るべからずの由仰せ合わすと。又聞く、平氏一定讃岐の国に在りと。この日隆職宿禰来る。
11月4日 [吉記]
 或る説に云く、平氏讃岐八嶋に在り。九国の輩菊池已下、追討し進せんが為、すでに文司関を出たりと。また安藝志芳の脚力到来して云く、平氏十月二十日一定鎮西を遂い出されたり。事すでに必然なり。また出家の人その数有りと。東国より上洛の者等その数有り。その説に云く、頼朝鎌倉を立ち、足柄上道に至る。その勢騎歩相並び三百万人に及ぶ。その粮料仮令三万石に余るの間、用途相叶うべからざるの由、猶予するの間、院使康貞下り逢う。仍って鎌倉舘に帰りたり。舎弟字九郎冠者、その名義経と。幾ばくの勢も具せず代官として上道す。今明入京すべし。院の別進を相具すと。国々庄々に下向するの輩或いはこれを施行し、或いは空しく帰洛するなり。叛儀の是非、京上を企つの間、毎事落居せざるの故なり。また秀衡進出す。義仲が子冠者逐電の由風聞す。無実と。

11月5日 天気晴れ、
「春日社奉弊、弥勒講」
伝聞、来たる八日行家鎮西下向に一定す。義仲下向すべからず。頼朝の軍兵と雌雄を決すべしと。

11月6日 天気晴れ、
「春日祭」
「平頼盛鎌倉に赴き頼朝と対面すという」
或人云う、頼盛すでに鎌倉に来着す。唐綾の直垂・立鳥帽子、侍二人、子息皆悉く相具して、各腰刀剣等持たずと。頼朝白糸葛水干・立鳥帽子の対面、郎従50人許り頼朝の後ろに群居すと。
「相模国府」
その後頼盛相模の国府に宿す。頼朝の城を去ること一日の行程と。目代(国守の代官)を以て後見と為すと。能保悪禅師の家に宿すと。頼朝の居を去る一町ばかりと。この事修行者の説たり。雅頼卿の注送する所なり。
「五体不具穢」

11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
伝聞、義仲征伐せらるべき由により、殊に用心し欝念の余り、此の如く承り及ぶ由、院に申さしむと。よって院中警護の武士中に入れられ申したりと。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕す。しかるに義仲一人其の人数に漏るる由、殊に奇を成すの上、又中言の者有るか。行家明夕必定下向と。頼朝代官今日江州に着くと。其の勢僅か56百騎と。忽ち合戦の儀を存せず。只物を院に供せんための使いと。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝弟(九郎)、等上洛すと。
「梅宮祭の弊河原より立つ」
「院の返札あり」
(注釈)
中言(ちゅうげん)・・・両者の間に立ってする告げ口。

11月8日 天気晴れ、
「平氏追討の為行家進発」
今日、備前の守源行家、平氏追討の為進発す。見物者語り云う、其の勢270余騎と。おおいに少なしと為す如何如何。今日義仲すでに打ち立ち、只今乱に逢うの事の如し。院中以下京都の諸人、毎家鼓騒す。
「兼実密かに神鏡等無事を第一とする旨を行家に示す」
そもそも神鏡剣爾、無事迎え取り奉る条、朝家第一の大事なり。しかるに君臣共に此の沙汰無し。よって余密かに此の趣を以て行家に含めたり(全く親睦の縁なし、然れども偏に社しょくを思うにより、或僧を招き具さに以て聞達したり。中心の誓い、上下鑑みるべきのみ)。

11月10日 天気陰、午後雨下る、
「方違」
「北斗堂供養」
伝聞、頼朝の使い供物に於いて江州に着きたり。九郎猶近江に在りと。澄憲法印を以て御使いと為し、義仲の許に遣わし、頼朝の使いの入京、欝存ずべからず由と。悦ばずの色有りと雖も、憖(ぎん、ねがう)ひに領状(承諾)か。勢無きに於いては、強(あなが)ちに相防ぐべからざる由申さしむと。

11月11日 天気晴れ、晩に及び雨下る、

11月12日 天気晴れ、
「平資盛帰洛を望む旨を知康に伝うという」
伝聞、平資盛朝臣使いを大夫尉平知康の許へ送り、君に別れ奉り悲嘆限り無し。今一度華洛へ帰り、再び竜顔(りゅうがん)を拝せんと欲すと。人々疑う所、もし神鏡剣爾を具し奉るかと。又聞く、平氏其の勢数万に及び、追討忽ち叶うべからずと。
(注釈)
竜顔(りゅうがん)・・・天子の顔。

11月13日 雨下る、
「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
藤原季経朝臣来たり語り云う、院の庁官康貞、一昨日上洛すと。閭巷(りょこう)の説に云う、秀衡頼朝追討すべき由、院宣有る旨、義仲秀衡の許に示し遣わし、秀衡件の証文を以て康貞に付き進覧したりと。但し此の条定めて浮説かと。追って尋ね聞くべし。今旦行家鳥羽を起ちたりと。
(注釈)
閭巷(りょこう)・・・村里。

11月14日 天気晴れ、
「頼業を以て両息に尚書を教授せしむ」
大外記頼業来たる。大将(良通)・中将(良経)両息共に尚書を頼業に受け始む。是兼日の支度に非ず、期に臨み思い立つ所なり。頼業明経道において上古の名士に恥じざるなり。よってその説を請け習わしめんためなり。
「平氏に使いを遣わし勅命を以て神器を返還せしめんとす」
申の刻(16時)頭弁兼光院の御使いとなり来る。仰せ云う、神鏡剣爾、城を出て外に在り、わが朝の大事これに過ぎたるなし。よって試みに御使いを遣わし、誘うに勅命を以てする如何。此の事天下変有りし時、人々議奏し、あらかじめ其の沙汰有りと雖も、自然に旬月を送る。しかるに去る9月の日、前内大臣(宗盛)法皇に書を上る。其の状に云う、臣に於いて全く君に背き奉るの意無し。事図らざるに出で、周章の間、旧主に於いては、当時の乱を遁れんため、具し奉り外土に蒙塵(もうじん)したり。然るに此の上の事、偏に勅定に任すべしと。此の状の如くば、弥々(いよいよ)和親の儀を表し、彼の三神を迎え奉られるべきか。
しかるに義仲追討の時、官兵敗績し、此の時に臨み、御使を遣わさるるは、辺民の愚、恐らく士卒のおう弱に諂諛(てんゆ、へつらう)に依る由を存ずるか。此の条如何。能く思量し計らひ奏すべしといえり。申し云う、此の事旧主蒙塵の刻、速やかに此の議有るべし。しかるに延びて今に及ぶ。懈(かい、おこたる)緩(かん、ゆるい)の条、悔いて益無し。況や彼の漏達の趣あるにに於いてをや。御使い遣わされるの条、異議及ばぶべからず。そもそもかの報奏の旨、密かにして豫議有るべし。遠境の間、御使い更に帰参の後、重ねて其の儀有らば、擁(よう、いだく)怠(たい、なまける)の処、自ら変易(へんえき)有るか。よって智慮(ちりょ)の及ぶ所、然も議定有り、御使いに含められるべきなりといえり。兼光云う、摂政(基通)申されて云わく、御使いの上、手跡(しゅせき)を以て女院(建礼門院平徳子)に献ぜられるべし。疑いを殆ど避けんためなり。左府(経宗)申されて云わく、御使い二人有るべきなりと。余云う、此の儀共に然るべし。そもそも器量を撰び、其の人を献せられるべしといえり。兼光退き帰りたり。
(注釈)
蒙塵(もうじん)・・・天子が変事に際し難を避けて逃れること。
諂諛(てんゆ)・・・おもねりへつらうこと。
変易(へんえき)・・・かわること。
智慮(ちりょ)・・・先のこと、細かい事まで考えはかる知恵。
手跡(しゅせき)・・・その人が書いた文字。筆跡。

11月15日 天気晴れ、
晩に及び宰相(藤原定能)中将来たり院中の事を語る。武士の守護、逐日怠らずと。院中上下、或るいは受けず。或いは甘心し、両様と。又云う、頼朝代官九郎、入洛すべきや否や、頗る豫議有り。大略進らす所の物並びに使者等、帰国すべき様其の沙汰有り。
「義仲頼朝代官の入京を承伏す」
然るの間又議出で来たり、澄憲を以て重ねて義仲の許へ仰せ遣わさるるの処、其の勢幾ばくならずば、入京を許されるべき由、憖(ぎん、ねがう)ひに承伏すと。又云う、只今主典代景能来たり入る(頼朝の許に遣わされる所の御使いなり)。此の一両日入洛すと。よって頼朝の報奏の趣を問う処、大略御返事を申すに及ばず、専ら悦ばざる色有り。子細に於いては、始めの御使い(庁官康直)に申したり。今の仰せ只前と同じなり。早く帰参すべしと。敢えて饗応の気無く、殆ど攀縁(はんえん)と謂ふべきかと。
(注釈)
攀縁(はんえん)・・・いきどおること。

11月16日 陰晴れ不定、今暁地震、
「地震」
「定能室平産す」
「法皇法住寺南殿に臨幸あり」
今日院南殿に臨幸すべし。御用心の体、日来において万倍す。今日の出仕指しあうか。よって不参。
「所々にこうを堀、釘抜きを構う」
今夕所々に?(こう、からぼり)を堀り、釘抜きを構え、別段の沙汰と。此の事天狗の所為か。偏に禍を招かるるなり。左右能わず、左右する能わずと。蔵人源清実来たり、右大将(良通)を催し云う、寮の御馬不足、権立馬を進すべしと。力及ばずの由を申す。馬無きに依りてなり。

11月17日 雨下る、
「京中騒動」
平旦人告げて云う、院中武士群集す、京中騒動と。何事かを知らず。
「義仲院御所を襲う由院中に風聞あり」
しばらくありて又人云う、義仲院の御所を襲うべき由、院中に風聞す。
「法皇が義仲を討たるか」
又院より義仲討たれるべき由彼の家に伝え聞く。両方偽詐を以て告げ言う者有るか。此の如しの浮説に依って、彼是鼓騒す。敢えて云うべからずと。もし勅命に背くば、罪の軽重に随い、罪科行わるるは例なり。又たとい王化に服せざる者有りと雖も、一州を慮領し、外土に引き籠もる、粗く先蹤(しょう、あと)有り。未だ洛中咫(し)尺の間此の如しの乱有るを聞かず。此の事計りなり。義仲忽ち国家を危うくし奉るべき理なし。
「君が兵を集むるは志愚の政なり」
只君城を構え兵を集め、衆の心を驚かさるるの条、専ら至愚の政なり。是少人の計より出づるか。果たして以て此の乱有り。王事の軽き、是非の論ずるに足らず。悲しむべし、悲しむべし。午後に及び、聊(いささ)か落居すと。
「法皇御愛物たるにより基通宿候す」
摂政(基通)召しに依り参入し、今夜宿し候はるべしと。是御愛物たるに依り、殊に召しに応ずるなり。他の公卿近習、両三輩の外、参入の人無しと。弾指すべし弾指すべし。藤原長方卿一人参入し、悲泣して退出すと。
「義仲の許に法皇使者を遣わす」
主典代(大江)景宗を以て御使いと為し、義仲に遣わされる。其の状に云う、謀反の条、諍(しょう、あらそう)ひ申すと雖も告げ言ふ人其の実を称す。今に於いてのがれ申すに及ばざるか。

「義仲洛中に逗留するを勧めず」
もし事無実たらば、速やかに勅命に任せ、西国に赴き平氏討つべし。たとい又院宣に背き、頼朝の使いを防ぐべしと雖も、宣旨を申さず、一身早く向かうべきなり。洛中に在りながら、動もすれば聖聴を驚し奉り、諸人を騒がしむ、おおいに不当なり。猶西方に向かわず、中夏に逗留せば、風聞の説、実に処せられるべきなり。能(よく)思量し進退すべしと。其の報奏の趣未だ聞き及ばず。

「兼実使者を以て物騒の子細を院中に尋ねる」
余使者(国行)を以て院に進らしめ、定能卿に示し送りて云う、所労に依り早く参らず、物騒の子細、委しく告げ示されるべしという。返事の趣、大途風聞の如し。晩に及び、左少弁光長来たり語る旨、又以て前と同じなり。此の夜八条院(暲子内親王)八条殿に還御すと。疑うらくは明暁義仲を攻められるべきかと。左右能わず、左右能わず

「義仲勢僅かと雖も勇なり」
義仲其の勢幾ばくならずと雖も、其の衆おおいに勇となすと。京中の征伐、古来聞かず、もし不慮の恐れ在らば、後悔如何。

「近習小人により此の如き大事に至る」
小人等近習の間、遂に此の大事に至る。君の士を見ざるの致す所なり。日本国の有無、一時に決すべきか。犯過無き身、只仏神に奉仕するのみ。

11月18日 天気晴れ、
「吉田祭」
此の日吉田祭なり、
「兼実良通共に院に参る」
早朝大将を伴い院に参らんとする間、泰経卿奉行となり、只今参るべき仰せあり。承りたる由を申す。即ち相共に院に参る。時に辰の刻(8時)なり。泰経卿を以て仰せ下されて云はく、世上の物騒、逐日倍増す。然り間浮言多く出で来たり、御所の警護法に過ぐ。義仲叉命に伏する意無きに似たり。事すでに大事に及べり。よって昨日主典代景宗を以て御使いと為し、仰せられて云わく、征伐の為西国に向かうべき由、度々仰せ下さる。しかるに今下向せず。又頼朝の代官を攻むべき由申さしむと。然からば早く行向かうべし。しかるに両方とも首途せず、すでに君に敵せんとす。其の意趣如何。もし謀反の儀無くば、早く西海に赴くべしといえり。義仲報奏して云う、先ず君に立ち会い奉るべき由、一切存知せず。これにより度々起請を書き進らせたり。今尋ね下さるる条、生涯の慶びなり。西国に下向に於いては、頼朝の代官数万の勢を引率して入京すべし。てへれば一矢射るべき由、素より申す所なり。彼入れらるべからずは、早く西国に下向すべしと。
「法皇条々の事を兼実に諮られる」
この上頼朝の代官の事何様に仰せられるべきや。兼ねて又此の騒動に依り、院に行幸有るべきか。将に忽ち然るべからざるか。此等の条々計らひ申さしむべしといえり。
「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
申し云う、先ず院中のご用心の条、頗る法に過ぎたり。是何故ぞや。ひとえに義仲に敵対せらるるなり。おおいに以て身苦し。王者の行いに非ず。もし犯過有らば、只其の軽重に任せ、刑罰を加えられるべし。又仰せくだされる如くば、申し状いまだ穏便か。然らば先ず然るべき御使いを遣わされ、且つ浮言の次第を尋問せられ、且つ所行の不当を勘発せられ、もし告げ言う輩を指し申さば、法に任せ刑罰に行われるべし。先ず当時敵対の儀を罷(やめる)らるる、尤も宜しきか。義仲もし理に伏し和顔有らば、何ぞ征討に赴かざらんや。たとい罪科有るべしと雖も、出境の後其の沙汰有らば、当時の怖畏有るべからざるか。洛中咫(し)尺の間、君に敵対せらるの条、当時後代、朝の恥辱、国の瑕瑾(かきん、きず)何事か之に過ぎんや。もし又猶勅命を受くるを背ぜずば、かの時法に任せ科断有るべきか。今の沙汰の如くば、王化無しが如し。甚だ以て身苦しきか。頼朝の代官の条に於いて、勢少なくば入るべき由、義仲申す旨、先日風聞有り。更に変じ申すべからずか。又巨多の士卒を率いば、停止すべき由、かの代官に仰せられるべきか。行幸の条、忽ち然るべからざるかといえり。泰経卿御前に参りたり。その後人々多く以て参集し、左大臣以下大略残る人無きか。定長卿を以て暫く候ふへき由仰せられる。よって祗候(しこう)す。
「密々に行幸あり」
未の刻(14時)に及び、定能卿密々に来たり告げて云う、只今御車を以て密々に行幸成りたり。院知し食さずと。頃之(しばらく)ありて定長来たり問いて云う、
「何処を皇居とすべきか」
図らざる外行幸有り。此の亭を以て皇居とすべきか。将に又猶閑院を以て皇居と為すべきか、計らひ申すべしといえり。申し云う、此の御所を以て皇居と為さば、行幸の条おおいに奇。よって只殿上巳下の事、閑院に在るべきかといえり。定長云う、左大臣が申さるる旨同前と。申の刻(16時)に及び伺候す。殊に尋問せらるる事無し。よって泰経に触れて退出したり。太夫吏隆職来たり、余之に謁す。隆職の所存余の案の如し。
「法皇の宮々院中に候す」
摂政今夜より院御所に参宿せらるると。仁和寺宮(守覚)・八条宮(円恵)・鳥羽法印等、皆日来より院中に候はると。

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2005年11月 3日 (木)

1183年 (壽永二年)閏10月

1183年 (壽永二年 癸卯)
閏10月

閏10月1日 天気晴れ、
「日蝕」
この日、日蝕なり。
「時刻勘文に相違す」
「春日朔弊」

閏10月2日 天気晴れ、
「藤原光雅院宣を伝う」
「天下乱逆は崇徳院怨霊の所為という」
「成勝寺内に祠を建つべきか」
「御陵改葬の事につき先例の子細等を兼実に問う」
「山陵を置かずただ仏教によりて訪うべし」
「平城上皇の例」
「藤原兼光来る」
申の刻(16時)、頭弁藤原兼光来たる。余これに謁す(その儀光雅に同じ。蔵人頭といえども家司たるの故なり)。語り云う、平氏始め鎮西に入ると雖も、国人等用ひざるに依り、逃げ出で、長門の国に向かう間、又国中に入れず、よって四国に懸かりたり。平貞能は出家し、西国に留まりたりと。此の由周防・伊予両国より飛脚を進め申しむと。
「平宗盛降伏の使者を義仲に遣わすという」
又ひそかに義仲は兼光の許に使いを送る。其の男の説の如し。相違無し。その上申し云う、前内府(平宗盛)の許より義仲の許に使者を送り云う、今に於いてひとえに帰降すべし。ただ命を乞うと欲すと。この上神鏡剣爾、事の障り無く、迎え取り奉られ難き事、第一の大事なり。次第の沙汰又以て説に背くか。
「改元あるべし」
「北野御幸賞」
「北野社内小神の神位増位の事」

閏10月3日 天気晴れ、
「西山に赴く」
「東寺に参詣す」

閏10月5日 天陰、午後雨下。
「皇嘉門院月忌」

閏10月6日 天気晴れ、
「良通今度の五節参入・御覧共に謹仕せず」
伝聞、頼朝上洛成り難しの間、其の実然るべからずと。又義仲今両三日の間に帰洛すべし、又滅亡すべしと。

閏10月8日 
「泰山府君祭」
「頭中将隆房即位以前の節会の事を尋ね仰す」
「今年五節停止すべし」
「叙位下名の事」

閏10月10日
「方違」

閏10月11日 晴れ
「藤原兼光消息」
「改元何月に行わるべきか」
「兼実返状」
「十二月改元に異議無し」

閏10月12日 天気晴れ、
「五節停止せられる」

閏10月13日 天気晴れ、
晩に及び、太夫吏隆職来たり世間の事談ず。平氏讃岐(香川県)の国に在りと。或る説に女房の船に主上並びに剣爾を具し奉り、伊予(愛媛県)の国に在りと。但しこの条未だ実説を聞かずと。又語り云う、院のお使い庁官泰貞、去る日重ねて頼朝の許へ向かいたり。仰せの趣殊なる事無し。義仲と和平すべしの由なり。
「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本の如く領知すべき宣旨あり」
そもそも東海・東山・北陸三道の荘園・国領、本の如く領知すべき由、宣下せらるべき旨、頼朝申請す。よって宣旨を下さらるの処、北陸道許り、義仲を恐れるにより、その宣旨を成されず。頼朝是を聞かば定めて欝を結ぶか。おおいに不便の事なり。この事未だ聞かず。驚き思うこと少なからず少なからず。この事、隆職不審に耐えず、泰経に問う処、答え云う、
「義仲を恐るるにより北陸道は入らず」
頼朝は恐れるべしと雖も遠境に在り。義仲は当時京にあり。当罰の恐れ有り。よって不当と雖も、北陸を除かれるとの由答えしむという。天子の政、あに以てこの如しや。小人近臣となり、天下の乱止むべきの期無きや。
「北野小神の事未だ宣下なし」
「藤原資隆に良通の詩を見せしむ」

10月14日 天気晴れ、
申の刻16時人告げて云う、平氏の兵強し、前陣の官軍多く以て敗れられたり。よって播磨(兵庫県南西部)より更に義仲備中(岡山県西部)に赴くの由の風聞す。よって又御使いを以て上洛を制せらる。承りたりの由を申す。しかるに忽ち以て上洛の由。今夕明朝の間入洛すべしの由、昨日の夕飛脚到来す。
「京中騒動す」
その後院中の男女、上下周章極まり無し。恰も戦場に交わるが如し。その事漏れ聞ゆる間、京中の人屋、去る夜今朝の間、雑物を東西に運び、妻子を辺土に遣はし、万人色を失ひ、一天の騒動、敢えて云うべからずと。余遅く之を聞く、使いを以て(藤原)範季(院の臣)の許へ尋ね遣はすの処、事巳に実也と。去る夜子の時(0時)、(藤原)経家朝臣の妻男子を産み、即ち夭(よう、わかい)亡したりと。(藤原)頼輔入道の最愛の娘なり。入道飯室に在り。遣り告げたりと。父母現存す。其の哀慟を推すに、実に以て悲しむべし。凡そ今年の産、多く此の聞こえ有り。恐れべきことか。
「後白河法皇逐電の疑いあるも遂げられず」
今夜終夜寝ず。法皇逐電有るべき由、世人疑ひを成す故なり。然れども遂に以て其の事無く、天曙たり。

閏10月15日 夜より甚雨
「改元の時期につき再度諮らる」
「兼実の返事」
「年内改元すべし」
「中原師尚申状」
「先例は 年改元行わる」
「乱逆鎮静の改元詮なし」
「義仲入京す」
今日義仲入京したり。其の勢甚だ少なしと。

閏10月16日 雨下
「義仲院に参る」
今日義仲参院、条々仰せを承る。又申さしむと。子細之を尋ねるべし。
「詩」

閏10月17日 天気陰、
「義仲院への申状」
静賢法印密々に告げ送り云う、昨日義仲院に参り、申し云う、平氏一旦勝ちに乗ると雖も、始終不審に及ぶべからず。鎮西の輩、与力すべからざる由仰せ遣はしたり。又山陰道の武士等、併しながら備中の国に在り。更に恐れ及ぶべからずと。
「頼朝弟上洛という」
又頼朝の弟九郎(源の義経、実名知らず)、大将軍となり、数万の軍兵を卒し、上洛を企てる由、承り及ぶ所なり。其の事を防がんため、急ぎ上洛する所なり。もし事一定たらば行向かうべし。実ならずは此の限りに非ず。今両三日内、其の左右承るべしといえり。以上義仲の申し状なり。只今外聞に及ぶべからず。密かに告げ申す所なりと。平氏不審有るべからざる由申さしむるの条、甚だ以て荒涼の事か。
「秀衡東西より頼朝を攻むべき旨を義仲に示すという」
ある人云う、頼朝の郎従等多く以て秀衡の許へ向かう。依って秀衡頼朝の士卒異心有りの由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝を攻めるべしの由なりと。此の告げを得て、義仲兵士を知らず、迷いて帰洛すと。此の如き事実や否や知り事難きか。

閏10月18日 雨晴れ
「任子等の歯を取る」
「四方皆塞がり」
晩に及び、範季来たり世上の事を談ず。此の次、くだんの男云う、四方皆塞がり、中国の上下、併せ餓死すべし。此の事一切疑うべからず。西海に於いて、謀反の地に非ずと雖も、平氏四国に在りて、通せしめざるの間、又同じ事なり。加えて義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾(こひねが)ひ、殆ど彼を以て、義仲を殺さんとせらるるかの由、僻推(へきすい)を成すか、将に告げ示す人有るかといえり。此の如しの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又、御逐電の事を疑う。之に依り忽ち敗績の官軍を棄てて、迷い上洛する所なり。しかるに忽ち平家を討つ事叶うべからず。
「法皇自ら西国に赴かんとす」
平氏猶在せば、西国の運上又叶うべからず。よって且つ平氏を討たしめん為、且つ義仲の意趣を協(かな)はんため、法皇叡慮より起り、早く西国に赴かしめおはしますべきなり。只先ず、播磨の国に臨幸有るべし。しからば南・西国等の住人等、皆風に向かひ子のごとく来べきなり。その時鎮西の勢を発し、平氏を誅伐したるべし。以後還御有るべきなり。此の他凡そ他の計無しと。即ち此の旨を以て泰経に示す。泰経甘心し、又静賢法印に示す。静賢又以て服膺(ふくよう)す、しかるに未だ此の旨天聴(てんちょう)に達せずと。
「西国臨幸は頼朝にそむく恐れあり」
余之を案ずるに、立つ所の次第、其の理然るべきか。但しもし西海に臨幸有れば、偏に義仲等に釣り具せられ、頼朝に違乖(いかい)の由決定存しむるか。此の天下猶一日と雖も、頼朝執権すべき運有るかの由、素より愚案する所なり。然れば偏えにかの頼朝を変ぜらるる条、尤も思慮有るべきか。愚意の所存、只道理を以て仰せ聞かれ、かれこれ仏神に祈請し、強ちに此の勇士等を恐れず、正道を以て天下に行われば、衆災消ゆべきなり。只先ず、猶平家を討つべき由、義仲に仰せられ、別の使者を以て、又頼朝の許に子細を仰せ遣はさるべきなり。左右無く御下向の条、猶王者のふるまひに非ざるか。然れども口外せざるものなり。範季の議、少人の謀というべし。悲しむべき世なり。
(注釈)
僻推(へきすい)・・・かたよった推量?。
服膺(ふくよう)・・・膺は胸。心にとどめて忘れないこと。
天聴(てんちょう)・・・天皇がお聴きになること。
違乖(いかい)・・・ちがいそむくこと。

閏10月19日 天晴れ
「義仲法皇以下を奉じて北陸に向かうとの風聞あり」
有る人云う、来26日御遠行有るべしと。是昨日範季語る所の儀状か。将に又義仲院以宗たる公卿等を下具し奉り、北陸に向かうべしの由の風聞す。此の両事の間か。凡そ左右する能わずと。
「法皇新日吉社より忽ち還御す」
法皇今日より三ケ日、今比叡に参籠したもふべしと雖も、天下物騒に依り、忽ち以て還御すと。凡そ院中の近臣の周章極み無しと。何事かを知らず。

閏10月20日 天気晴れ、
「静賢法皇の使として義仲亭に向かう」
早朝、大外記頼業来たる。昨日の召しに依りてなり。粗く示し仰する事有り。申す所然るべし。今日静賢法印院のお使いとなり、義仲の家に向かひ、仰せて云わく、其の心説(よろこ)ばざる由聞き食す。子細如何。身の暇を申さず、俄に関東に下向すべしと。此の事等驚き思し食す所なりといえり。
「義仲十月宣旨のことにつき遺恨を申す」
申していわく、君を怨み奉る事二ケ条、
其の一は、頼朝を召し上げらるる事、然るべからざる由申すと雖も、御承引無く、猶以て召し遣はされたり。
其の二は、東海・東山・北陸等の国々に下されし所の宣旨に云う、もし此の宣旨に随わざる輩においては、頼朝の命に随い追討すべしと。此の条義仲生涯の遺恨たるなりと。
「頼朝軍を防がんとして義仲東国に赴くという」
又東国に下向の条においては、頼朝上洛せば、相迎え一矢射るべしの由、素より申す所なり。しかるにすでに以て数万の精兵を差し、(其の身は上らず)上洛を企てしむと。よって相防がんため下向せんとす。更に驚き思し食すべからず。そもそも君を具し奉り、戦場に臨むべし由、議し申すの旨聞し食す、返すがえす恐れ申す。極まり無き無実なりと(以上義仲の申し状)。静賢法印帰り参り、此の由申さんとする処、御行法の間に依り、申し入るる能わず。然る間義仲重ねて使者を以て静賢の許に示し送り云う、猶々関東御幸の条、殊に恐れ申す。早く執奏の人を承るべしと。
「源氏一族義仲宅に於いて会合すという」
件の事、昨日行家以下一族源氏等義仲宅に会合し、議定の間、法皇を具し奉るべき由、其の議出て来たる。しかるに行家・光長等、一切然るべからず。もし此の儀をなさば、違背すべき由、執論の間、其の事遂げず、
「源行家密かに委細を天聴に達せしむ」
件の子細を以て、行家天聴に密達しむと。義仲無実を申す。定め以て詐偽か。恐れ恐れ為す、兼ねて又義仲殊に申請の事ありと。頼朝討つべしの由、一行の証文を賜り、東国の郎従等に見せんと欲すと。此の事すでに大事なり、左右する能わずと。
「平氏優勢」
又伝聞、平氏の党類、九国を出て四国に向かうの間、甚だおう弱、しかるに今度官軍敗績の間、平氏其の衆を得て、勢甚だ強盛、今においては、すなわち(輙)追伐を得るべからずと。しかるに義仲等甚だ安平の由を称す。是又偽言と。天下の滅亡只今来月に在るか。

閏10月21日 雨降り、
「頼朝追討の院宣を義仲請うも許されず」
義仲の所望の両条、頼朝を討つべき由、御教書を申し賜ふ事、並び宣旨の趣、御定めに非ず。てえれば、奉行の人、聊(いささか)勘発有るべき条、共に以て許さずと。この上今一重奉乖(かい、そむく)しむかと。凡そこの両条の望み、太いに以て不当、許容無き条、尤も其の謂われ有りか。或るいは云う、平氏すでに備前の国に来たる。凡そ美作以西、併せ平氏に靡(び、なびく)なびきたり。殆ど播磨に及ぶと。疑うらくは、もし義仲と平氏は同意かと。
「基家逐電は義仲を恐れるか」
又云う、(藤原)基家卿逐電すと。頼盛の聟たるに依り、義仲意趣有りと。其の事を恐れ隠居せしむるか。

閏10月22日 天気晴れ、
伝聞、今日義仲院に参る。
「頼朝の使者伊勢の国に来る」
又聞く、頼朝の使い伊勢の国に来たると雖も、謀反の儀に非ず、
「先日の宣旨を施行せんが為なり」
先日の宣旨を云う、東海・東山道等の庄公に、服せざる輩あらば、頼朝に触れ、沙汰致すべしと。よって其の宣旨の施行のため、且つ国中に仰せ知らしめん為、使者を遣わす所なりと。しかし国民等義仲郎従等の暴虐を悪み、事を頼朝の使いに寄せ、鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎従を射りたりと。
「義仲郎従等を伊勢に派遣す」
之に因り、義仲郎従等を伊勢の国に遣わしたり。
「家の重書を慈円の房に送る」
今日、家の重書等を山上に遣わしたり。法印無動寺の房なり。

閏10月23日 天気晴れ、
早朝人告げる、今夕明朝の間、法皇南都に幸すべしと。疑うらくは、吉野に引き籠もり給ふべきか。但し未だ一定ならずと。
「頼朝の縁者たるにより公衡恐れを成す」
巳の刻(10時)観性法橋来たり語り云う、少将藤原公衡は大宮権亮藤原能保(頼朝の妹の夫)の縁に依り(公衡は能保の妹の夫也)頗る恐れを成すと。
「義仲三ケ条の事を院に奏す」
午の刻(12時)静賢法印来たり語り云う、去る夜、義仲参院、静賢・泰経等を以て伝奏すと。其の申し状に云う、先ず院を取り奉り、北陸に引き籠もるべき由風聞す。以ての外無実、極まり無き恐れなり。この事相伴う所の源氏等(行家以下を指す)執奏する所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るべきなりと。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
次いで、平氏当時追討使無し。尤も不便。三郎先生義広を以て討たしむと欲す。又平氏の入洛を恐れるに依り、院中の緇素、洛下の貴賤、資材を運び妻子を隠す、おおいに穏便に非ず。早く御制止有るべし。此の三ケ条なりと。仰せ云う、先ず院を取り奉るべき条、全く源氏等の執奏に非ず。只世間普く申す為に依り聞し食す所なり。然れども全く御信用無きを以て、沙汰に及ばずと。次いで義広追討使の事、仰せ切られると雖も、頼朝殊に意趣存ずる者かといえり。静賢又云う、実に院を具し奉るべき事は、必ずしも然るべからずのことか。事の理無く、又其の要無き事なり。
「義仲に意趣を存する輩あり」
只毎事忿怨許さざる間、もし北陸に逃げ籠るか、その時意趣を存ずる輩、武士と云い、院の近臣云い、自ら怨みを報ずるか。然らば定めて物騒しきかと(武士の中には、葦敷重隆、殊に意趣を結ぶと。又院の近臣泰経の如く、同じく内々相を怨むと)。然りと雖も、其の恐れ、他人に及ばざるかと。又云う、かの宣旨の趣の事、定長宣を伝え、兼光宣下と。兼光に問わるる処、即ち改め直したり。しかるに直さざる以前の宣旨を以て聞き及ぶか。全く用いられるべからざる事なり。其の由を以て義仲に仰せられるべき由、兼光申すと。良久しくありて帰り出でたり。伝聞、摂政(基通)の愛物・母堂等昨日の暁鞍馬の方へ遣わしたりと。又入道(藤原基房)関白の家中太く以て騒動すと。又聞く、義仲の郎従等、多く伊勢国・美濃国等つかわしたり、京中勢無しと。尹(いん)明語り云う、平氏再び繁盛すべき由、衆人の夢想等有りと。範季申し云う、昨日義仲に謁す。申し状の如くば、謀反の儀無しと。夜に入り、定能卿来たり世上・院中の事等語る。南都臨幸の事、未だ聞き及ばずと。

閏10月24日 天気晴れ、
「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」
伝聞、義仲院に重ねて申して曰く、義広を以て平氏追討すべきの由、申請許さざるの条、未だ其の意を得ず、猶まげて義広を使わさんと欲す。兼ねて又備後の国をかの義広に賜り、其の勢を以て平氏を討つべしと。仰せ云う、全く許さざる儀に非ず、件の男おう弱の由聞し食す。よって叶うべからずの由思し食し、故に左右仰せられざるなり。しかれども猶宣しかるべき由、計らひ申さば、異儀におよぶべからずと。国事又聞し食したり。但し忽ち宰吏に任ぜらるべからずと。奈良僧正札を送り云う、院より密々に召し有り。よって明日白地(あからさまに)上洛すべしと。

閏10月25日 天気晴れ、
「諸社に楽器を奉納す」
「笙(しょう)二管賀茂社琵琶春日社龍笛熊野社」
「方違」
「信円上洛す」
「頼朝相模鎌倉城を起つも秀衡の襲来を恐れ参洛せずという」
伝聞、頼朝相模の鎌倉の城を起ち、暫く遠江の国に住むべし。是を以て精兵五万騎(北陸一万、東山一万、東海二万、南海一万)義仲等討つべし。其の事沙汰せしむ為と。須らく其の身参洛すべき処、奥州秀衡また数万の勢を率い、すでに白河の関を出ると。よって彼の襲来を疑い、中途に逗留し、形勢を伺うべしと。去る五日城に赴くと。

閏10月26日 天気晴れ、
今日終日師景文書等沙汰見しむ、
「義仲興福寺に頼朝討伐を語らうも衆徒承引せず」
伝聞、義仲猶平氏討つべき由院宣有り。憖(ぎん、ねがう)ひに領状すと。又聞く、義仲興福寺の衆徒に触れ云う、頼朝討つ為関東に赴くべし。相伴うべしと。衆徒承引すべからずと。夜に入り帰宅す。この日五位蔵人親雅大将(良通)を催して云う、朔(さく、ついたち)旦日、必ず出仕すべしといえり、承りたり由を申すと。此の夜大将・中将密かに詩有り、無事他聞すべからずと。

閏10月27日 天気晴れ、
「源義兼来る」
夜に入り武者来たり云う(源氏の武者なり、源義兼、石河判官代と号す、故兵衛尉義時孫、判官代義基の子なり)平氏討たんため、行家来月一日進発すべし。彼に伴う為、明日先ず河内の所領に向かうべしと。
「義仲と行家不和という」
其の次語り云う、義仲と行家すでに以て不和、果たして以て不快出で来たるか。返すがえす不便と。其の不和の由緒は、義仲関東に向かうの間、相伴うの由行家に触れる。之を辞遁の間、日来頗る不快の上、此の両三日殊に以て嗷(ごう、うそぶく)々。然り間行家来月朔日必定下向。
「義仲其の功奪わるるを恐れて行家に具して下向せんと欲す」
義仲又其の功を行家に奪われざる為、相具して下向すべき由風聞すと。只今の如くは、外相悪しからずと雖も、其の実必ず相互に隙を指すかと。又云う、行家に於いて頼朝立ち会いすべからずの由、内々議しむと。

閏10月28日

伝聞、行家・義仲等征伐下向したり、来月一日院の御衰日の為に依り、延引、或る説に二日、或るいは八日と。

閏10月29日
「賀表加署の事」
賀表加署の事、先日左大臣次第を造進す。当日仗座に於いて加えるべしの由、造り載せらる。猶不審に依り頼業の許へ問い遣わす。申し云う、事に於いて煩い有るべし。よって兼日公家判賜るべしの由、昨日申し一上げたりと。
「信円法皇に召さる」
この日奈良僧正来られる。去る25日夕上洛される所なり。院の召しに依ると。よって27.8日両日参上す。
「大和国兵士を平家追討に遣わすためか」
然るに全く殊なるの仰せ無しと。大略大和の国の兵士等を催し(集め)、平氏の強者に用意せられるべく、指し遣わすべき故と。始めて衆徒催しすべき由仰せ有り。しかれどももし大衆を発すべくば、悪僧等が力を得るは決定、濫行非法を致すか。当時は、随分奔走し、殊に大衆狼藉の聞こえ無し。今此の院宣の趣漏れ承れば、衆徒の濫吹、全く制法に叶うべからず。此の条重ねて仰せに依り、沙汰致すべし。後日の恐れの為子細申す所なりと。重ねて仰せ云う、申す所尤も然るべし。大衆の条重ねて御定めに随るべし。
「寺家より末寺荘園の兵士を催すべし、其の用意致すべし」
先ず只寺家の力を以て、末寺荘園の兵士を催し、其の用意致すべしと。
「法皇と行家が双六の間信円空しく退出す」
先ず27日参上の処、行家と御双六の間他事無し。見参に入ると雖も、空しく退出し、昨日参上し仰せを奉ると。御堂御八講の次、又上洛すべき由示される所なり。即ち下向せられたり。今度入道関白(基房)の許へ参らず。其の隙無きに依りてなりと。

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2005年11月 2日 (水)

1183年 (壽永二年)10月

1183年 (壽永二年 癸卯)

10月1日 陰雨下る、昼間晴れ、晩に及び風吹き。
伝聞、先日頼朝の許へ遣わす所の院の庁官、此の両三日以前に帰り参る。巨多の引き出物を与ふと。頼朝折紙に戴せ三ケ条の事を申すと。

10月2日 朝間天気陰、午後曇り晴れ、
「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」
ある人云う、頼朝申す所の三ケ条の事、
1は平家押領する所の神社仏寺の領、たしか(慥)に本の如く本社本寺に付すべき由、宣旨を下さるべし。平氏滅亡は、仏神の加護たるの故なりと。
1は院宮諸家の領、同じく平氏多く以て膚掠(りょりゃく)すと。是又本の如く本の主に返し給ひ、人の憂いを休められるべしと。
1は帰降参来の武士等、各其の罪を宥(ゆるす)、斬罪おこなわれざるべからず。其の故何とならば、頼朝昔、勅勘(ちょっかん)の身なりと雖も、身命を全うするに依り、今君の御敵を討伐の任に当たる。今又落ち参る輩の中、自ら此の如しの類ひ無からんや。よって身を以てこれを思うに、敵軍なりと雖も、帰降の輩においては罪科を寛宥(かんゆう)し、身命を存しむべしと。この3条折り紙を戴せて言上すと。
一一の申し条義仲等に斉しからざるか。
「即位に紫宸殿を用うべき院宣有り」
ご即位の間、人々の申し状、去る夜、藤原親経の許へ返し遣わす。返事今日到来し、紫宸殿を用いるべしの由、院宣有り。しかるに方角の事に依り、その沙汰未だ切らずと。伝聞、今年は五節有るべしと。即位以前に五節は久寿の例(二条院)と。
(注釈)
膚掠(りょりゃく)・・・人を虜にし、物を略奪すること。
勅勘(ちょっかん)・・・天子のとがめ。
寛宥(かんゆう)・・・寛大な心で罪過をゆるすこと。
五節(ごせつ)・・・五節供(ごせっく)。毎年五度の節句。
久寿(きゅうじゅ)・・・近衛・後白河天皇朝の年号。

10月3日 雨下る、
「蒜を服す」
今日に至り、蒜(ひる、草の名)を服する。すべて25合なり。ただ今の如くば、その験(しるし)未だ見えず。
(注釈)
蒜(ひる、草の名)・・・ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称。

10月4日 陰晴れ不定、
晩に及び太夫吏隆職来たる。密密に頼朝の進らす所の合戦の注文、並びに折り紙等を持ち来たる。院のお使い庁官の持参する所と。件の折り紙先日の聞く所に違わず。しかれども後代の為之を注し置く。
「頼朝3ケ条申し状」
「社寺に勧賞行われるべき事」
「謀臣の輩出洛するは仏神の罰によるか」
1.勧賞を神社仏寺に行われるべき事、
右日本国は神国なり。しかるに頃年(しきりのとし)の間、謀臣の輩、神社の領を立てず、仏寺の領を顧みず押領の間、遂にその咎(とが)に依り、7月25日忽ちに洛城を出で、処所に散亡す。王法を守護する仏神、冥顕(みょうけん)の罰を加え給ふ所なり。全く頼朝の微力の及ぶ所に非ず。然かれば殊賞を神社仏寺に行われるべく候。近年仏聖灯油の用途これを欠き、先跡(せんせき)無しが如し。寺領もとの如く本所に付すべき由、早く宣下せらるべく候。
「平家押領の王候卿相領を返付すべき事」
1.諸院宮・博陸(関白)以下の領、元の如く本所に返付せらるべき事、右王候(おうこう)卿相(けいしょう)の御領、平家一門数所を押領す。しかる間領家其の沙汰を忘る。堪忍する能わず。早く聖日の明詔を降し、秋雲(しゅううん)の余気を払うべし。災を攘(はら)い福を招く計、何事か之にしかんや。頼朝なお彼の領等を領せば、人の嘆き平家に相同じく候か。宜しく道理に任せご沙汰有るべしといえり。
「落参の平家郎従の斬罪を宥すべき事」
「頼朝勅勘を蒙ると雖も今朝敵を討つ」
1.奸謀者と雖も斬罪を寛宥せられるべし、
右平家の郎従落ち参る輩、たとい科怠(かたい)有りと雖も身命を助けられるべし。その所以は、何となれば、頼朝勅勘を蒙り事に座すと雖も、更に露命を全うし、今朝敵を討つ。後代又この事無からんや。忽ち、斬罪行われるべからず。但し、罪の軽重に随い、ご沙汰有るべきか。以て前3ケ条の事、一心の所存この如し。早くこの趣を以て奏達を計らしめ給ふべし。よって大概を注し、上啓(じょうけい)件の如し。合戦記具さに注すに遑(こう、いとま)あらず。
(注釈)
王候(おうこう)・・・王と諸侯。
卿相(けいしょう)・・・公卿(くぎょう)。公(大臣)と卿(大・中納言および三位以上の朝官)。
詔(しょう)・・・みことのり。
秋雲(しゅううん)・・・うれいをかんじさせる雲。うれいに満ちた気分のたとえ。
科怠(かたい)・・・咎(とが)めるべき怠慢。
上啓(じょうけい)・・・申しあげること。

10月5日 天気陰、
この日蒜(ひる、草の名)忌の内たるに依り、御堂に参らず。大将(九条良通)参る所なり。夜に入り、按察入道(源資賢)来たる。蒜慎みの間に依り簾を隔てて之に謁す。世間の事等を談ず。余に種々の讒言(ざんげん)有りの由聞き及ぶ、且つ、その事に謝し遣わすなり。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪く言うこと。

10月7日 天気晴れ、晩に及び小雨、
「最勝金剛院領、伊賀国四ケ庄国司山本義経のため停廃さる」
最勝金剛院の領、伊賀国四ケ庄皆悉く停廃す。国司山本兵衛尉義経、院奏を歴て停廃する所と。よって(高階)泰経卿に付き院奏を経て、今日(源)兼親を以て示し送る所なり。返事の如きは大略勿論の事か。

10月8日 天気晴れ、
伝聞、一昨日頼朝飛脚進らせ、義仲等、頼朝伐つべき由結構(用意)の事を欝し申すと。(高階)泰経卿の許に礼を送ると。
また聞く、平氏等鎮西に入らんと欲すの間、猶国人(こくじん)等を恐れ、なお周防(すおう)の国に帰到すと。
「法皇石清水御幸」
この日法皇石清水(いわしみず)宮へ幸す。諸卿以下束帯(そくたい)を着け供奉すと。
(注釈)
国人(こくじん)・・・在地の武士。
周防(すおう)・・・山口県東部。防州。
束帯(そくたい)・・・天皇以下文武百官の正服。

10月9日 天気晴れ、
「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」
静賢法印来たり、世間の事談ず。頼朝使者を進らせ、忽ち上洛べからずと。
「藤原秀衡頼朝上洛の跡入る事を恐る」
1は(藤原)秀衡・(佐竹)隆義等上洛の跡に入れ替わるべし。
2は数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず。
この2の故に依り、上洛延引すと。凡そ、頼朝の為体(ていたらく)、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決と。
「志田義広の上洛を欝申す」
今度、使者を献り、欝し申す所は、三郎先生志田義広の上洛なり(本名義範)。叉義仲等、平氏を遂はず朝家を乱す、尤も奇怪、しかるに忽ち賞を行わるるの条太だ謂われ無しと。申し状等その理有るか。この他多く雑事を談ず。具さに録す能わず。
伝聞、義仲播州(ばんしゅう)を経廻し、もし頼朝上洛せば、北陸方へ超え逃げるべし。もし頼朝忽ち上洛せざれば平氏討つべし由の支度すと。
「小除目」
今日小除目ありと。陰陽頭賀茂宣憲名誉無しと雖も、重代衰老により、抽任せらるるか。尤も然るべし。
「頼朝本位に復す」
叉頼朝本位(ほんい)に復する由仰せ下さると。
(注釈)
為体(ていたらく)・・・すがた。ありさま。
播州(ばんしゅう)・・・播磨、兵庫県南西部
本位(ほんい)・・・もとの位。

10月10日 朝晴れ、午後陰風吹き
「日吉諸社に一階加う」 (略)
「紀伊国丹生・高野社」 (略)

10月11日 雨下る
仏厳聖人来たり、後世菩提の事を談ず。

10月13日 天気晴れ、夜に入り雨下る、深く更に大雨
「方違」
方違いの為堂に向かう、
「院庁官再度頼朝の許に遣わさる」
この日隆職来たり、世上の事等談ず。院庁官官吏生(中原)泰貞、(先日御使いとなり頼朝に向かい、去る比帰来す)重ねて御使いとなり坂東に赴くべしと。件の男隆職の許に来たり。頼朝の子細を語ると、記すに遑(こう、いとま)あらず。
又云う、御即位は南殿に於いて行われるべし。しかるに方角の沙汰に依り、陣に参るべき由、親経相催すと。
又云う、平氏決定西海に入りたりと。

10月14日 天気晴れ、
「大地震」
巳の刻(10時)大地震、同刻帰宅す。
「菊池・臼木・緒方等平氏に服さず」
(藤原)伊明云う、平氏去る8月26日鎮西に入りたり。放火以ての外と。
「菊池・臼杵・緒方等平氏に服さず」
肥後の国住人、菊池・豊後の国住人・臼木・御方等未だ帰伏せずと。

10月15日 天気晴れ、
頭中将(藤原隆房)、大将(良通)の五節の事、重ねて催しを加ふ。猶術無しの由を申したり。

10月16日 天気晴れ、
終日、(中原)師景の文書の事を沙汰せしむ。
「鎮星大微に入る」
天文博士(安倍)広基、主税助(安倍)晴光来たり、天変の事を示す。13日雷電、14日大地震、並びに鎮星(ちんせい、土星)大微に入るの変等なり。鎮星の変殊に重しと。

10月17日 天気晴れ、
「虹が二筋出現す観性西山に入る」
卯の刻(6時)虹が二筋(其の色常の如し、殊に分明)、坤(ひつじさる、南西)より艮(うしとら、東北)に至る。又東天に赤い光と。観性(法橋)西山に入りたり。基輔相具し行き向ふ。地形を見せしめん為なり。夜に入り雨下る、
伝聞、義仲の随兵の中、少々が備前の国を超え、しかるにかの国と備中の国の国人等、勢を起し、皆悉く伐り取りたり。即ち、備前の国を焼き払い帰り去りたりと。又聞く、義仲勢無しと。

10月18日 午後雨下る、
「慈円無動寺に登る」
この日、(慈円)法印登山せらたり。日来(去る6月下旬の日よりなり)近隣(女院の新御所)に座せらる。
「北斗念誦」(略)
「詩」(略)

10月20日 天気晴れ、
「良通方に穢出現す」(略)
「平頼盛逐電す」
伝聞、去る18日平頼盛卿逐電す。、京中又鼓騒すと。
申の刻16時頭中将藤原隆房朝臣来たる。穢れ(けがれ)有りの疑いに依って縁変を呼ぶ(略)

10月21日 天気晴れ、
「五体具足の穢れにつき法家の勘文到来す」(略)
「七日穢れとす」(略)
「兼実亭は穢れに非ず」(略)

10月22日 天気晴れ、
 巳の刻(10時)、大外記頼業きたり、世上の事を談ず。ひそかに示す所の旨愚案に同じ。賢士というべしと。才学の卿大夫等、多く僻韻(へきいん)に入ると。政理(せいり)と才学と、素より格別の道なり。
(注釈)
政理(せいり)・・・政治を行うこと。
才学(さいがく)・・・才能と学識。学問。

10月23日 晴れ
「信円書を送り上洛の日次を兼実に問う」(略)
「院御占いあり」(略)
「賀茂在宣に条々の事を尋ねる」(略)
「朔旦の事」(略)
「朔旦は十九年を一章とす」(略)
「保元中朔旦と算勘さるるも止めらる」(略)
「御即位所並びに方角の事」(略)
「衰日等の忌の軽重の事」 (略)
「俊尭僧正の諌言により法皇二国を義仲に賜うという」
ある人云う、義仲に上野・信濃賜るべし、北陸慮掠すべからざる由、仰せ遣わされたり。又頼朝の許へも、件の両国義仲に賜るべし。和平すべしの由、仰せられたりと。この事、或下臈(げろう)の申し状に依る、俊尭僧正一昨日参院(御持仏堂の時と)、此の由法皇に申す。善と称し、即ち僧正の諌(かん、いさめる)言に従い、忽ちこの綸旨(りんじ)を降さられたりと。この条愚案、一切叶うべからず。およそ国家滅亡の結願、ただこの事に在り。弾指すべし、弾指すべし。
朝廷に在る王候卿相、緇素(しそ)貴賤、併しながら私を顧み、公に在らず。実に是愚にして猶愚かなり。国に非ざれば、家を建つること無し。君に非ざれば、親を建つること無し。
「人々敢えて讜言せず」
もし身の安全を思うならば、先ず、国家の静謐(せいひつ、しずか)のちゅう策を巡らすべしの処、各左右を恐れ、敢えて讜言(とうげん)せず、又皆重事を謀る量無きか。悲しむべし、悲しむべし。
(注釈)
下臈(げろう)・・・地位の低い。
綸旨(りんじ)・・・蔵人が勅命を受けて書いた文書。
讜言(とうげん)・・・正しい言
量・・・他を思い計ること。

10月24日 天気陰、
伝聞、頼朝先日院の使い(泰貞)に付き申さしむる事等、各許容無し。天下は君の乱さしめ給ふにてこそ、縁をよじる即ちその路を塞ぎ、美濃以東の慮掠せんと欲すと。但しこの条実説を知らず。

10月25日 雨下
10月26日 
「蔵人親経御即位の事を兼実に問う」(略)
「紫宸殿王相方に当たる」(略)
「一条院の例憚るべきか」(略)
「伐日の忌は新造家にかかる」(略)
「当日臨幸に難なし」(略)
「藤原親経を家司に補す」(略)

10月27日 天気晴れ、
伝聞、来月法皇春日社に行幸すべし。宇治に於いて、摂政(藤原基通)御膳巳下雑事儲けらるべしと。
「又聞く、此の一両日、今一重天下物騒、何事か知らずと、」

10月28日 天気晴れ、
「頼朝11月頃入京か」
伝聞、頼朝去る19日出国、来たる11月朔日(一日)入京すべし、是一定の説と。
「義仲頼朝と雌雄を決すという」
又義仲去る26日(あるいは28日即ち今日なり)、出国、来月45日の間入洛すべし。頼朝と雌雄を決する為と。茲に因り院中以下天下の人皆以てあわただしと。人皆云う所有りか。恐るべし、恐るべし。今日親経来たり、五節の事を辞す。

10月29日 天気晴れ、
「源雅頼卿来たり」
源雅頼卿来たり、世上の事談ず。大略、獲麟(かくりん)畢(おわんぬ、終わりぬ、ひつ)の世なり。すでに存命の計略すでに失う。有り様に随がい勢州(せいしゅう、伊勢)の知る所に下向すべしと。
「良通任大臣を望むにつき院より仰せあり」
この次語り云う、去る日摂政(基道)密かに云う、院より右大将(良通)を大臣に任ずべし間の事を仰せ合はさる。其の趣に云う、この事忽ち速くすべからず。しかるに下官頗りに望む申す如何。松殿(藤原基房)定めて怨まれるか。公の意に於いて如何。左右只叡慮在るべき由を申したりと。
「五節参入御覧の事」(略)
(注釈)
獲麟(かくりん)・・・物事の終末。

10月30日 天気晴れ、
「念誦を始む」(略)

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2005年11月 1日 (火)

1183年 (壽永二年)9月

1183年 (壽永二年 癸卯)

9月1日 雨下、
「滝口名簿を送る」(略)
「名簿書様」(略)
「良通に除目を教える」(略)

9月2日 天晴れ、
「女官除目」(略)
「政始」(略)
「公卿勅使進発」(略)

9月3日 天陰、時々雨降り、
「大夫吏隆職昨日の公事の事を注送す」(略)
「女官除目」(略)
「義仲頼朝の上洛を迎え撃つべく支度すという」
ある人云う、頼朝去る月27日国を出ですでに上洛すと。但し信受せず。義仲偏に立ち会うべく支度すと。天下今一重の暴乱出で来たるか。
「四方の通路皆塞がる」
 凡そ近日の天下、武士のほか、一日の存命の計略無し。よって上下多く片山田舎等へ逃げ去ると。四方皆塞がり(四国及び山陽道安芸以西・鎮西等、平氏征討以前通達すること能わず。北陸・山陽両道義仲押領す。院分巳下の宰吏(さいり)、一切吏務(りむ)能はず。東山・東海両道頼朝上洛以前、又進退すること能わずと)、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られたり。段歩残らず。又京中片山及び神社・仏寺・人屋・在家、悉く以て追捕す。其の他適々不慮の前途を遂げる所の庄公の運上物、多少を論せず、貴賤を嫌わず、皆以て奪い取りたり。此の難、市辺に及び、昨日売買の便を失うと。天は何ぞ無罪の衆生を棄てるや。悲しむべし、悲しむべし。
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
此の如しの災難は、法皇の嗜欲(しよく)の乱政と源氏奢逸の悪行とより出づ。しかる間、社稷(しゃしょく)を思う忠臣、俗塵を逃れる聖人、各非分の横難に遭う、殆ど成仏の直道を怠る、哀しむべしはただ前世の宿業のみ。
(注釈)
宰吏(さいり)・・・国司。
吏務(りむ)・・・役人としての職務。
畿内(きない)・・・大和・山城・河内・和泉・摂津。五畿内。
運上(うんじょう)・・・公物を京都へはこんで上納すること。
嗜欲(しよく)・・・たしなみ好むこと。
奢(しゃ)・・・分に過ぎておごること。
逸(いつ)・・・気楽に楽しむこと。
社稷(しゃしょく)・・・国家。朝廷。
非分(ひぶん)・・・道理にあわないこと。
横難(おうなん)・・・思いがけないわざわい。不慮の災難。
(ミニ解説)
さて、これを兼実に報告している「ある人」が誰かが問題である。官吏ではないようである。「昨日売買の便を失う」と言わせているから、出入りの商人かもしれない。商売人は本当の事は言わないものである。儲かつてしょうがないときは「ぼちぼちです。」、「赤字ですよ」と言うときは収支とんとん。大赤字で首が回らないときは夜逃げと。
残らず刈り取ったり、残らず奪い取ったりしたら、京都市内は餓死者があふれそうだが、そのような風聞も無い。
病で寝込んでいて、人の話を確認も出来ずに書いているだけである。

9月4日 陰晴れ不定、
前源中納言雅頼卿来たり。余疾に依り簾を隔して之に謁す。世上の事等多く以て談説す。其の中余の為無用の事等有り。
「義仲の許に落書あり」
去る日義仲の許に落書有り。即ち義仲の所行の不当悲法等、悉く以て注載す。
「兼実を登用せざる事を難ず」
其の次、余登用せられざる、尤も不便、朝の重器たる由、具さに以て之を載せると。この事、余の辺の事を不快に存ずる輩の所為かと。誠にこの事甚だ由無き事なり。
「中原親能雅頼に飛脚を送り頼朝の上洛を告げる」
又語り云う、頼朝必定上洛すべし。次官、中原親能(広季の男)、頼朝と甚深(じんしん)の知音(ちいん)、当時同宿す。くだんの者、又源(雅頼)中納言の家人、即ち左少弁兼忠の乳母の夫なり。くだんの男一昨日飛脚を以て示し送り云う、十日余りの日、必ず上洛すべし。先ず頼朝の使いとなり、院に申す事あり。親能上洛すべきなり。万事其の次に申し承るべしと。此の如し等の事、多く以て談語し、刻を推(うつ)して後帰りたり。明日は公卿勅使参着の日なり。供花始められる。世の傾く所なり。夜に入り、観性法橋来たり。出ながら之に謁す。くだんの人内大臣(実定)母堂(藤原豪子)の忌に籠もる故なり。語り云う、頼朝今月3日出国、来月1日に入京すべし。是必定の説なりと。但し猶信受せられずの事なり。
(注釈)
甚深(じんしん)・・・なはなだ深いこと。
知音(ちいん)・・・知り合い。

9月5日 雨下る、
「平氏の余勢減ぜず」
早朝ある人云う、平氏の党類、余勢全く減ぜず。四国並びに淡路・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)並びに鎮西の諸国、一同与力(加勢)したり。旧主崩御(ほうぎょ)の由風聞す。誤りの説と。当時周防の国に在り。但し国中皇居に用ふべき家無し。よって船に乗り浪の上に泛(はん、うかぶ)と。貞能以下、鎮西武士菊池・原田等、皆以て同心し、
「鎮西に内裏を立てんとすという」
鎮西すでに内裏を立て、出で来るに随い関中に入るべしと。明年八月上京すべし由結構(けっこう)すと。是等皆浮説に非ざるなり。未の刻(14時)弥勒講に依り御堂に参り、晩に及び帰り来たる。
「京中の万人存命不能」
近日京中の物取り、今一重倍増し、一塵の物途中に持ち出し能わず。京中の万人、今に於いては、一切存命する能わず。義仲院の領以下併しながら押領す。日々倍増し、凡そ緇素(しそ)貴賤、涙を拭はざる無し。
「頼朝の上洛を頼みとす」
たのむ所ただ頼朝の上洛と。かれの愚賢また暗に以て知り難し。ただ我が朝の滅亡、其の時すでに至るか。法皇敢えて国家の乱亡を知らず。近日大造作(建築)を始められると。院中の上下、嘆息のほか他事無きか。誠に仏法王法滅尽の秋なり。
(注釈)
安芸(あき)・・・広島県の西部。
周防(すおう)・・・山口県東部。
長門(ながと)・・・山口県西部・北部。
鎮西(ちんぜい)・・・九州。
崩御(ほうぎょ)・・・天皇の死去。
関中
結構(けっこう)・・・したく。用意。
緇素(しそ)・・・僧と俗人。

9月6日 天気晴れ、
「院供花」
今日より院の供花と。昨日より始められんとす。しかるに勅使参着の日たるに依り、忽ち延引すと。女医博士(丹波)経基を召し、歯下針を加ふ。
 伝聞、入道関白(基房)、少将顕家を以て使いとなし、行家の許へ示し送られ云う(院御逐電の刻の事なり)、先ず摂録(摂政)の職に於いては、家嫡(かちゃく)に非ざれば二男に及ぶと雖も、未だ三男に及ぶの例有らず。しかるに下官仁に当る由、世間謳哥、太だ不当なりと。又院に奏せらるる旨同前と。この事日来聞き及ぶと雖も、信用せざる処、今日定説を聞き、驚奇少なからず。凡そ天子の位、摂政の運、全く人力の及ぶ所に非ず。結構の体、事軽々に似たり。之に加え三男に及ばざる由如何。貞信公(藤原忠平)・大入道殿(藤原兼家)・御堂(藤原道長)、此の三代の例棄て置くか。法皇白黒を弁せず、源氏是非を知らず。只一言の狂惑を以て、万機の巨務を惣べんとす。謀計の至り、冥罰(みょうばつ)定めて速きか。弾指(つまはじき)すべし、弾指すべし。但し余に於いて、乱世の執柄好む所に非ず。
(注釈)
家嫡(かちゃく)・・・家の嫡男、嫡子。正妻の子。
冥罰(みょうばつ)・・・神仏が人知れずくだす罰。
執柄(しっぺい)・・・政治の権柄をにぎること。摂政・関白の異称。

9月7日 今日頭を洗う、明日より念誦すべし、潔斎の為なり、

9月8日 天晴れ、
「恒例念仏を始める」
早朝法印(慈円)来たり。巳の刻(10時)仏厳聖人来たり。即ち余御堂に渡る。今日より恒例念仏始めの為なり。先ず受戒(聖人を戒師と為す)。午の終り許り念仏を始む。今日二万遍。

9月9日 天晴れ、
今日念仏十四万遍。この日蔵人宮内権少輔親経来たり、院宣伝う、(余念仏に依り之に謁せず。人をして之を伝え申さしむ)、
「大神宮恠異の事の沙汰につき法皇より諮問せらる」
去る7月17日、大神宮奇代の恠(かい)異有り。しかるにすでに先朝の御時の事たり。当今に沙汰有る如何。計らひ奏すへしといえり。余申し云う、且つ準拠の例を尋ねられ、計らひ沙汰有るべきか。もし怪異の体、奇異の事たらば、黙止の条如何といえり。念誦の間たるに依り、文書を見ず、又子細申さざるなり。

9月10日 この日念仏十七万遍。

9月11日 
この日念仏二十一万遍。今日、頭弁兼光余の南家に来たりと。然れども念仏の由聞き、此の堂に来たらず。伺候の男に示し置き退出したり。事急事に非ず。よって御念仏以後参上し、承るべき由示すと。夜に入り聞く所なり。御即位の間の条々の事尋問される。すでに念仏以後、委しく披(ひら)き子細を申すべき文書等を見、之を書写す。
「兼実女房夢想」
此の暁に女房の夢に云う、夜相共に新造の宅に渡る。頗る以て半作と。見回りの後、相共に就寝せんとする間、人女房に告げて云う、其の殿(は余を指す)は大職冠(藤原鎌足)の後身なりと。女房夢中に思う様、極めて恐れ有る事なり。年来種々の大願を立て、社稷(しゃしょく、国家)の安全・仏法の興隆等を祈れり。事の体近代の風に似ず。奇しく思ふ処、今彼の後身たる由を聞き、尤も其の謂われありけりと思いて覚めたりと。法成寺入道殿(藤原道長)は聖徳太子(厩戸皇子)並びに弘法大師の後身なり。先代も有る事なり。信仰すべし、信仰すべし。

9月12日 今日念仏十八万反。

9月13日  日念仏十二万反。

9月14日 陰晴不定、
「師景文書を召寄す」
今日、師景文書等を召し寄す。惣べて二百七十余合なり。内府(実定)示す旨有りと雖も、理に伏し避けたり。今日百万遍おわりぬ、今日十二万反。

9月15日 天気晴れ、
「念仏結願」
今日酉の刻(18時)念仏結願。それ以前念仏一万遍(其の中一千遍、高声の念仏なり)。阿弥陀大呪一千遍、礼拝百遍、未だ曾て数反の礼拝を修せず。今度始め此の礼拝を致す。然り間脚気倍増し、殆ど其の功遂げ難し。然れどもひとえに仏法の為身命を捨てる、数遍満ちたりの後、ひとえに以て平臥し、存するが如く亡きが如し。此の夜例の如く法印御堂に於いて二十五三昧を修せらる。女房来たり聴聞す。

9月16日 天晴れ、
「師景文書の部分け目録を取らす」
文書等、檀に分け目録したり。即ち今日より男共に仰せ付け、部を分かち目録を取るべきなり。今日夜に入り家に帰りの次、大将方に向かう。所労に依りてなり。

9月17日 

9月18日 天晴れ、
「良通所労危急に及ぶ」
今日大将更に発す、殆ど危急に及ぶ。依って余・女房及び法印等、たがひに以て行き向かい、種々の願いを立てる(信助阿闍梨諸願書を書き、之を読み上げ)。又仏厳聖人を請じ、受戒せしむ。
「慈円薬師供を修す」
又法印をして薬師供を修せしめ、夜に入り帰りたり。

9月19日 陰晴不定、
「五位蔵人親経御即位間条々事を兼実に尋ねる」
今日宮内権少輔親経(五位蔵人)、来たり、余簾を隔てて之に謁す。親経云う、御即位、蔵人方の事、奉行する所なり。然れども、条々の事、人々に問われるの間の事、兼光朝臣の奉行たり。しかるに病有るに依り近日出仕せず。よって文書を渡したり。先日摂政の直廬(ちょくろ、内裏の宿直のへや)に於いて、人々議定す。然り未だ事切らず。もし十月即位遂げられるば、明日即位の定め有るべし。よって今日申さしむる御状を承り、院に奏すべし。
先日の議定も未だ奏聞せず。且つ兼光朝臣参上し承るべしの由、申さしむるにより、参上する所なりと。この事先日兼光来たり問う。しかるに十五日以後急ぎ申すべき処、自他所労、他事無き間、自然今日に及ぶ。然りの間、親経来たり問う。よって此の問い状に就き子細を申さしむる所なり。
「御即位延引の可否」
1.御即位十月二十七日遂げられるべし。しかるに聊(いささ)か日次の難の有りの上、期日近々、万事出来難し。延引如何。もし延引せば、十一月十日、十二月二十二日、両日の間如何。そもそも延引せば、朔旦出御すべからず。此の条如何。余申し云う、光仁天皇の例に任せ、九月受禅、十月即位、理然るべしと雖も、官庁修理の恒例用途、国費え 民疲れ、万事叶い難くば、
「即位十二月に延引するも憚りなし」
十二月二十二日用いられる、何事かこれ有らんや。吉例の月たり、又最上の日の故なり。朔旦(さくたん、ついたちのあさ)出御無しの条、頗る不穏の事を為すと雖も、粗我が朝の規模を案ずるに、昌泰(醍醐天皇朝の年号)の佳例(吉例)を弁じ、何時の旧跡を求むべきや。之に加え、記文由緒を載せず。疑う所只諸社の祭許りか。今度又即位の延引に依り、
賀表(がひょう、祝意を表して奉る文)無き出御、其の故無きに非ざるか。昌泰の例用いらるの条、異議に及ぶべからざるか。
「践祚は?に行わるも即位は猶沙汰あるべし」
そもそも剣爾を受けず、天子の位を踏むの例、人代以来曾(かって)蹤跡(しょうせき、あと)無し。一日も宝位空しくすべからざるに依り、践祚に於いては急ぎ行なわるる、理然るべしと雖も、即位の時に至り、猶試みに此の沙汰有るべきか。啻(ただ)に例無しの恨み遺(のこ)すのみにあらず、殆ど乱を招く源たるべきか。茲に因り此の大礼を暫し延引し、試みにかの三神を待たるる如何。此の条定めて、神明宗廟(そうびょう、祖先のみたまや)の霊意に叶ひ、みずから鏡・剣・爾符の帰来有るものか。もし然らば、須べからく彼の期を指し殊に祈請有るべきなり。
「朝廷の大事剣爾紛失に過ぎるはなし」
凡そ朝廷の大事、剣爾紛失に過ぎるは莫(な)し、しかるに君臣共に此の事を嘆かず。去る七月二十六日以後、天下の巨務、事に触れ多しと雖も、此の条に至りては、一切沙汰無しが如し。賊徒盗み取り逐電したり。実に計略及び難しと雖も、志し之ゆく所、或いは祈請を致し、或いは籌(ちゅう、はかりごと)策を廻らし、殆ど他事忘れらるべき処、すでに此の大事を重んぜられず。冥鑒(かん、かんがみる)の恐れ有るか。早く即位の期を定め、かの以前、無為無事、かの帰来有るべき由、内外に付け、祈願有るべしの由、中心庶幾(しょき、こいねがう)する所なり。然れども上疏(そ、うとんじる)する能わず。今此の聖問に就いて、
愚意を達する許りなり。
「初度行幸の事」(略)
「晴礼の儀を用いずとも失たらず」(略)
「民部省南門を会昌門に擬すべきかの事」 (略)
「民部省南門は高座の正南に当たらず」(略)
「民部省北垣を移し立てるが宜しきか」(略)
「紫宸殿高座を官庁に移す事の可否」(略)
「治歴の寸法で新造すべし」(略)
「列身定考何処で行われるべきかの事」(略)
「官西庁宜しかるべし」(略)
「紫宸殿における即位を忌む事兼実欝陶す」(略)
「豊楽院なきにより大極殿を用いる」(略)
「大極殿焼失の後は紫宸殿を即位の場と定むべし」(略)
「天子の居を置きながら諸司にて即位行われるは不当なり」(略)
「北陸の宮(加賀)明日入洛あるべし」
北陸の宮(加賀)、明日入洛あるべし。今日寺(三井寺)に就くと。
9月20日 天晴れ
「良通の病を訪う」(略)
「義仲逐電す」
夜に入り、人伝え云う、義仲今日俄に逐電し、行方知れず、郎従等大騒ぎ、院中また物?(そう)と。

9月21日
「義仲の逐電は平氏追討のためという」
伝聞、義仲一昨日院に参り、御前に召さる。勅に云う、天下静かならず、また平氏放逸、毎事不便なりと。義仲申し云う、向かい罷(まか)り向かうべくば、明日早天向かうべしと。即ち院は手づから剣を取りこれを給ふ。義仲これを取り退出し、昨日俄に下向すと。

9月22日
「良通平癒す」(略)
「八条院御不例」(略)

9月23日 陰晴れ不定、
「義仲行家を避ける」
定能卿来たり、雑事を談ず。人伝え云う、行家を追討使に遣わすべき由、院より再三義仲に仰せられる。義仲左右を申さず。俄に以て逃げ下る。行家を籠(かごめる)めん為と。

9月24日
長者、職事季佐を以て、吉田の怪異を告げられる。今朝物忌みなり。

9月25日 雨下る、
「頼朝文覚を以て義仲を勘発す」
伝聞、頼朝文覚聖人を以て義仲等を勘発せしむと。是は追討を懈怠(なまけ)し、併せて京中を損ずる由と。即ち聖人に付き陳(のべる)じ遣(つかわす)はすと。
(注釈)
勘発・・・勘(罪を問いただすこと)。

9月26日 雨下る、
或る人云う、法皇天下の政、沙汰乱れ、惘然(ぼうぜん、呆然)たらしめ給ふと。

9月27日 雨下る、
八条院より仰せられ云う、かの譲りの間の事、重ねて申さしむる処、所労危急ならずは、強ちに急ぐべからざる事か。無下に世に人もなきようなりと。重ねて子細申したり。

9月28日 天気陰、雨小下る、
ある人云う、頼朝上洛は明年45月と。例の如く浮説か。
「大風」
夜半大風。
今暁或る女房の夢見、余の為す最吉の事なりと。

9月29日 朝間天気晴れ、
夜に入り或る人来たり、数刻言談す。社稷(国家、朝廷)を思う故なり。仏天知見せん。今日蔵人宮内権少輔親経の許より、先日(19日)の申し状を注送して云う、詞を以て即ち奏聞したり。然れども後代の為、猶申しおはしまさしむる趣を注し置くべし。よって大概この定め覚悟す。もし相違あれば、直し付けらるべしと。見られるの処尤も神妙なり。但し、一両所直し付けたり、神妙の由を答えたり。そもそも(抑)、即位猶紫宸殿(ししんでん)を用いられるべき由事定まり、天下の嘲り有るか。然れども全く議奏の旨を執するにあらず、帰(まま)政教の道理を存ぜんため、申さしむる由申したり。又申し云う、今般正殿(紫宸殿)用いられるの条、啻(ただ)に聖意無私の美を貽(のこす)すのみにあらず。そもそも又民力煩い有るの愁いを省く者なり。重ねて奏達せんと欲すれば、傍難(ぼうなん)招くべし。退いて黙止せんと欲すれば、不忠を遁(のがれ)難し。進退の間、ひとえに賢慮に任せこれを相計られるべしの状件の如しといえり。
(注釈)
紫宸殿(ししんでん)・・・平安京内裏(だいり)の正殿。
傍難(ぼうなん)・・・悪口を言う、あいての不整ゃ誤りを論じて非難すること。

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