1221年(承久3年)5月19日承久の乱
1221年(承久3年)5月19日
承久の乱(じょうきゅうのらん)
義仲が平家を追放し、この時、天皇になったのが後鳥羽天皇で、上皇となり、鎌倉幕府政権成立後、約40年、1221年(承久3年)、公家政権の復活を期待して、兵を集める。この時の執権(幕府の最高権力者)北条義時は直ちに反撃し、朝廷側を完璧に叩く。この事件の首謀者は後鳥羽上皇であるが、一部の武士などの陰謀であるかのように処理しようとするも、義時は後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐にそれぞれ流された。島流しである。清盛や義仲がクーデターを起し、後白河法皇を幽閉したなどと非難されるがその比ではない。この結果さらに武家政権は強化され公家勢力は衰退した。
北条政子の言葉「秀康・胤義等を討ち取れ」
「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は
1221年(承久3年)5月19日
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝(ほうしゃ)の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(ざん)に依って、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡(いせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。」
(藤原秀康・三浦胤義(義村の弟)は首謀者とされる)
(注釈)
報謝(ほうしゃ)・・・恩に報い徳を感謝すること。
溟(めい)・・・くらいうみ。
渤(ぼつ)・・・ほつ。わきたつ。なみうつ。
讒(ざん)・・・そしり。
非義(ひぎ)・・・道理にそむくこと。
綸旨(りんじ)・・・蔵人(くろうど)が勅命を受けて書いた文書。天皇の命令書。
遺跡(いせき)・・・故人ののこした職業や領地。
義仲が言った「皷判官め打破て捨よ」
「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山(となみやま)・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人(こうにん)にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者(かんじゃ)原共が片辺(かたほとり)に付いて、時々入り取りせんは何かあながち僻事(ひが事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官(つづみほうがん)が凶害(きょうがい)とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍(いくさ)にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。
に類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆か。偶然か。
(注釈)
砥浪山(となみやま)・・・富山県西端にある山。倶利伽藍峠がある。
降人(こうにん)・・・降参した人。
ま草(まぐさ)・・・馬・牛などの飼料とする草。
冠者(かんじゃ)・・・わかもの。従者。
片辺(かたほとり)・・・かたすみ。片田舎。
入り取り・・・人家に入り物品を奪い取ること。
僻事(ひが事)・・・道理や事実とちがった事柄。
皷判官(つづみほうがん)・・・平知康。法皇の近臣。
凶害(きょうがい)・・・人を害すること。
軍(いくさ)・・・戦い。
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