1184年(寿永3年、元歴元年)1月
1月1日 陰、
「院拝礼・小朝拝無し」
払暁、四方拝(しほうはい)常の如し。今日院の拝礼無し(院の御所鋪(ほ)設を改むるに及ばずと)。又小朝拝無し。代始めたれども、日次宣しからざるに依りてなり(凶会)。未の刻(14時)大将(九条良通)(飾剣例の如し)院に参り、即ち参内(さんだい)。晩頭(ばんとう)甘摂政(藤原師家)参入す。その後公卿着陣、節会(せちえ)例の如し。内弁皇后宮大夫(藤原)実房卿、外弁上首権中納言(藤原)長方卿と。大納言(藤原)忠親並びに此の大将等、内弁の作法を見んため外弁に着かずと。不当と雖も又近例と。亥の刻(22時)大将帰り来たり今日の事を語る。具さに大将を召しこれを記す。
「忌月に依り音楽・国栖笛音せざる事重ねて宣下有るべきか」
抑(そもそも)御忌月たるに依り、音楽並びに国栖(くにす、くず)笛声を奏せず。この事先帝(安徳天皇)の御時に宣下せられたり。当今(後鳥羽天皇)又同じかるべし。しかるに重ねて宣下有るべきや否や、大将不審を成し、大外記(中原)師尚の許へ問い遣わす処、事の理重ねて、仰せらるべからざる上、延久元年の例又然らずと。今日又仰せられずと。然れども諸司存じて奏せざるなり。今日手水陪膳(みなもと)季長朝臣、節供((藤原)光長朝臣之を勤め陪膳同前)。この日右少弁(平)基親来たる。夜にいり大風降雨、又雷鳴す。
(注釈)
四方拝(しほうはい)・・・1月1日の宮廷行事。
参内(さんだい)・・・内裏(だいり)に参上すること。
晩頭(ばんとう)・・・ゆうがた。
節会(せちえ)・・・節日などの宴会。
内弁(ないべん)・・・儀式を門内で指揮する首席の公卿。
外弁(がいべん)・・・儀式を門外で指揮する第2位の公卿。
国栖(くにす、くず)・・・大和の国栖人が参列して歌笛を奏したこと。
手水(ちょうず)・・・手・顔などを洗う水。
節供(せちく)・・・節日に供する供御(くご)。元日の膳、15日の粥など。
供御(くご)・・・天皇の飲食物。
陪膳(ばいぜん)・・・膳部の給仕
1月2日 終日降雨、
大外記師尚来たる。手水陪膳(藤原)範季朝臣。
1月3日 陰晴れ不定、
手水陪膳(橘)以政朝臣、今日右大弁(藤原)兼光来たる。弁・少納言小々来たり。凡そ今年出仕の人無しと。この日(清原)頼業、(小槻)隆職等来たる。
「元日節会外弁に外記候らわず」
余人を以て元日の節会外弁外記候らわざる事之を問う。申し云う、外記国栖の時参会し、外弁諸司の役吏に問ふと。かって先例無し。他の事に准じ此の沙汰有りと。内弁職事を以て、事の由を奏すと。余之を案ずるに尤も不審の事なり。
1月4日 陰晴れ不定
定能卿来る。件の卿今年出仕せず、只布衣を着け、院に伺候すと。兼雅、親信等の卿同前と。
「良経院より犬三匹を預かる」
院より犬3匹を中将に預け給う。今日、定能卿相具し来る所なり。事甚だ奇異と。然れども返上する能わず。凡そ法皇のていたらく、始めてとすべからず。
伝聞、頼朝今日出門す、決定入洛すべしと。又虚言か。或る人云く、平氏来る八日入洛すべしと。この事信用せられざる事か。
1月5日 陰晴不定
「弥勒講」
御堂に参る。恒例の弥勒講に依りてなり。この間源中納言(雅頼)来る。よって大将相共に広庇の座に着かしめ、余簾中にあり。講演終わり、布施(公卿等これを取らず)を置く後、余仏前(堂中他所便宜無き故なり)に出で、前源中納言(雅頼)を招き入れ、謁談刻を移す。語りて云く、頼朝の軍兵墨俣に在り。今月中入洛すべきの由聞く所なり。日没に及び退出したり。
「東大寺大仏鋳造の事」
「河内国鋳師を宋朝鋳師に加う」
「行隆子息等に霊託あるか」
(中略)
右中弁行隆また云く、義仲久しかるべからず。頼朝また然るべし。平氏若しくは運有るか。
惣(す)べてその所行に依るべしと。
1月6日 天晴風吹く
「叙位」
或る人云く、坂東の武士すでに墨俣を越え美乃に入りたり。義仲大いに怖畏を懐くと。
1月7日 天晴
「叙位聞書を見る」
摂政正二位に叙す(従二位を越ゆ。本正三位なり)。
「白馬節会」
1月9日
伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去年の秋の比より連々謳歌す。様々の異説有り。忽ち以て一定したり。
「義仲鋳す鏡の事」
去年月迫る比、義仲一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わす。茲に因って和親すと。
1月10日
夜に入り人告げて云く、明暁、義仲法皇を具し奉り、北陸に向かうべし決定。公卿多く相具すべしと。これ浮説に非ずと。
1月10日 「吾妻鏡」
「義仲征夷大将軍」
伊豫の守義仲征夷大将軍を兼ると。ほぼ先規を勘ずるに、鎮守府の宣下に於いては、坂上中興以後、藤原範季(安元二年三月)に至り、七十度に及ぶと雖も、征夷(せいい)使に至りては、僅かに両度たるか。所謂桓武天皇の御宇延暦十六年十一月五日、按察使兼陸奥の守坂上田村麻呂卿を補せらる。朱雀院の御宇天慶三年正月十八日、参議右衛門の督藤原忠文朝臣等を補せらるるなり。爾より以降、皇家二十二代、歳暦二百四十五年、絶えてこの職を補せざるの処、今例を三輩に始む。希代の朝恩と謂うべきか。
(注釈)
鎮守府(ちんじゅふ)・・・蝦夷(えぞ)を鎮撫するため陸奥国に置かれた官庁。
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)・・・鎮守府の長官。
征夷(せいい)・・・えびす(蝦夷、えぞ)を征伐すること。
按察使(あんさつし)・・・あぜち。あんせちし。諸国の行政を監察した官。
1月11日 朝間雨下る、午後天晴
この日密々女房等を南京(奈良)に遣わす。世間の物惣に依りてなり。基輔の母尼南都に下向す。これを以て名となす。今暁、義仲の下向忽ち停止す。物の告げ有るに依ってなりと。来たる十三日平氏入京すべし。院を彼の平氏に預け、義仲近江の国に下向すべしと。
1月12日 朝間雨下る、晩に及び大風
この日大将女房叉南都(奈良)に下向す。但し頼輔入道日来中川(山寺なり)にあり。その所に遣わすなり。
伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずるの処、猶法皇を具し奉り、北陸に向かうべきの由これを聞く。すでに謀叛の儀たり。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦の間、第一の郎従(字楯と)を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返したりと。
1月13日 天晴
今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎と。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向延引すと。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
平氏一定今日入洛すべき処、然らざる條三つの由緒有りと。一ハ義仲院を具し奉り、北陸に向かうべき由風聞の故、二ハ平氏武士を丹波の国に遣わし、郎従等を催せしむ。仍って義仲また軍兵を遣わし相防がしむ。然る間、平氏和平を一定したり。仍って事一定の後、脚力を遣わし引き退くべき由仰せ遣わす処、猶合戦を企て、平氏方の郎従十三人の首すでに梟したりと。茲に因って心を置き遅怠す。三ハ行家渡野陪(わたのべ)に出で逢いテ、
一箭射るべきの由を称せしむと。この事に因って遅々す。縦横の説信じ取り難しと雖も浮説に非ずに依りこれを記す。
1月14日 天晴
「伊勢神宮怪異の条々」
伝聞、大神宮より怪異の由、義仲の許に注進す。
「伊勢国永松御厨・栗真庄・安濃津」
「関東飢饉か」
或る人云く、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと。実否知り難きか。申の刻(16時)、人伝えて云く、明後日義仲法皇を具し奉り、近江の国に向かうべしと。事すでに一定なりと。
1月15日 天晴
早旦人告げていわく、御幸停止したり。御赤痢病に依りてなりと。義仲独り向かうべしと。或はいわく、向かうべからずと。
「義仲を征東大将軍となすという」
隆職来たり語りて云く、去る夜御斉会の内、論議無し。即位以前たるに依り手なりと。叉云う、義仲征東大将軍たるべきの由、宣旨を下されたりと。
今日、家の節供欠如、余沙汰を致さず。かくの如き事執し思うべき身にあらざる故なり。
1月16日 雨下る
「義経勢数万に及ぶ」
去る夜より京中鼓騒す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併しながら以て帰洛す。敵勢数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざる故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に向かうべき由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警固し祇候すべし。
「義仲行家を追伐す」
また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべしと。凡そ去る夜より今日未の刻(14時)に至るまで、議定変々数十度に及ぶ。掌(たなごころ、てのうら。)を反すが如し。京中の周章喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付くと。
1月17日 朝間天陰、午後頗晴れ
1月19日
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
昨今天下頗るまた物騒す。武士等多く西方に向かう。行家を討たんが為と。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防がんが為と。(志田)義廣(三郎先生)大将軍たりと。
1月20日 天気晴れ、物忌みなり、
卯の国(6時)人告げて云く、東軍すでに勢多に付く。未だ西地に渡らずと。相次いで人云く、田原の手すでに宇治に着くと。詞未だ訖(お)わらざるに、六條川原に武士等馳走すと。仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。
「義広敗績す」
義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られたり。東西南北に散じたり。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵(きびす、かかと)を廻さず六條の末に到りたり。義仲の勢元幾ばくならず。。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃(おう、わざわい)に遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来たる。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちたり。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多の手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたりと。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群れ参ずと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がる。実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲の支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべしと。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟(きょう、ふくろう)首せられたり。天の逆賊を罰す。宜(むべ)なるかな。宜(むべ)なるかな。
「義仲の天下六十日」
義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。今日卿相(けいしょう、公卿)等参院すと雖も、門中に入れられずと。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白(藤原基房)藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)す。共に答え無し、又甘摂政顕家の車に乗り参入す。追い帰されたりと。弾指すべし、弾指すべし。余風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
宜(むべ)・・・うべ。もっともであること。
前蹤(ぜんしょう)・・・前例
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。
1月20日 「吾妻鏡」
蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛(頼朝)の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を追罰せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞(せんとう)を警衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国(滋賀県)粟津の辺に於いて、相模の国(神奈川県)住人石田の次郎をして義仲を誅戮(ちゅうりく)せしむ。その外錦織の判官等は逐電(ちくてん)すと。
征夷大将軍従四位下行伊豫の守源朝臣義仲(年三十一)、春宮帯刀長義賢男。壽永二年八月十日、左馬の頭兼越後の守に任じ、従五位下に叙す。同十六日、伊豫の守に遷任(げんにん)す。十二月十日、左馬の頭を辞す。同十三日、従五位上に叙す。同正五位下に叙す。元暦元年正月六日、従四位下に叙す。十日、征夷大将軍に任ず。
検非違使右衛門権の少尉源朝臣義廣、伊賀の守義経男。壽永二年十二月二十二日、右衛門権の少尉(元は無官)に任ず。使の宣旨を蒙る。
(注釈)
武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)。頼朝は兵衛府の佐(すけ)、次官だった。
仙洞(せんとう)・・・上皇の御所。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪あるものを殺すこと。
逐電(ちくてん)・・・ちくでん。逃亡。
遷任(げんにん)・・・一旦退官したものが、再びもとの官職に任ぜられること。
1月21日 天気晴れ、物忌み昨の如し。
ある人諫めて云う、甘摂政安堵すべからず。下官出馬すべしと。余これを案ずるに、末世の作法進退、天下を恐れ国を棄てざる条あり。政道の治乱を憑(たの)むあるに似たりと雖も、偏に君の最にあるべし。わが君天下を治める間、乱亡止むべからず。不肖の者、委任の任に当たらず。恐らく後悔あるか。これに加え、微臣の社しょくに置いて身命を惜しまざる条、仏天知見あるべし。然れば即ちもし世の運あれば、天士を棄つべからず。運無くば、また一旦の浮栄を欲せざる所なり。如かず(およばない)只伊勢太神官、春日大明神に奉仕せんに。依って一言も上聞せず。諫める人云う、甚だ強しといえり。晩に及び召しあり(定長奉行、定めらるべき事ありと)。風病(ふうびょう)述無し。事矯餝(きょうしょく)にあらず。よってその子細を申したり。今旦、大外記頼業来たり、世上の事を談ず。晩に及び大夫吏隆職来る。洗浴の間これに謁せず。
「基通摂政に還補せらる」
ある人云う、前摂政(基通)還補すべき由と。法皇の愛物なり。いよいよ下官詞を出す能わず。努力(ゆめ)々々。
(注釈)
風病(ふうびょう)・・・かぜ。中風(ちゅうぶう)
矯餝(きょうしょく)・・・いつわりかざること。矯飾。
努力(ゆめ)々々・・・断じて。
1月21日 「吾妻鏡」辛亥
源九郎義経主、義仲が首を獲るの由奏聞す。今日晩に及び、九郎主木曽が専一の者樋口の次郎兼光を搦め進す。これ木曽が使として、石川判官代を征めんが為、日来河内の国に在り。而るに石川逃亡するの間、空しく以て帰京す。八幡大渡の辺に於いて、主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以て入洛するの処、源九郎家人数輩馳せ向かい、相戦うの後これを生虜ると。
1月22日 天気晴れ、
「兼実院より尋ねらるる条々」
風病聊(いささ)か減有り。仍ってなまじいに参院す。定長を以て尋問せらるる事五箇條、
「平氏追討の事」
一、左右無く平氏を討たるべきの処、三神彼の手におわします。この條如何。計り奏すべしといえり。兼ねてまた公家の使者を追討使に相副え下し遣わすは如何と。
申して云く、もし神鏡・劔璽安全の謀り有るべくば、忽ちの追討然るべからず。別の御使を遣わし、語り誘わるべきか。また頼朝の許へ、同じく御使を遣わし、この子細を仰せ合わさるべきか。御使を追討使に副えらるの條、甚だ拠る所無きか。
「義仲の首の事」
一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。
申して云く、左右共に事の妨げを為すべからず。但し理の出る所、尤も渡さるべきか。
「頼朝の賞の事」
一、頼朝の賞如何。
申して云く、請いに依るの由仰せらるべきか。然れば又もし恩賞無き由を存ずるか。暗に行われ、その由を仰せらる。何事か有らんや。その官位等の事に於いては、愚案の及ぶ所に非ずといえり。
「頼朝上洛の事」
一、頼朝上洛すべきや否やの事
申して云く、早く上洛せしむべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いては知ろし食すべからず。早速遣わし召すべきなりといえり。
「院御所の事」
一、御所の事如何。
申して云く、早々他所に渡御有るべし。その所、八條院御所の外、然るべきの家無きか。
「昨日の議定大略兼実申状に同じ」
定長語りて云う、昨日左大臣(経宗)、左大将(実定)、皇后宮大夫(実房)、堀川大納言(忠親)、押小路中納言(長方)、左右大弁等参入し議定あり。各の申し状大概下官の申し状に同じ。但し兵士追討の間の事、左大臣左大将猶剣璽を知らず、追討すべきの趣か。これ即ち叡慮かくの如しと(他事、定能卿密にこれを示す)。各形勢に従わるるなり。然るべからず然るべからず。叉首を渡さるる事、長方いわく、もし遠国の賊首を渡さるる事かと(この事然るべからず然るべからず)。叉賞の事、左大将云う、恵美大臣を討ちし時の例に任せ、三品に叙せらるる、宜しかるべしと(この事叉過分なり)。この外の事一同と。退出したる後、人告げていう、摂政内大臣、各元の如くの由仰せ下されたりと。天国を棄てずと雖も、君これを棄てる。末世受生の恨み、宿業を訪ね報いんと欲するのみ。
1月23日 天気晴れ、
観性法橋来る。叉範季朝臣来る。語りて云う、平氏猶追討せらるべき由仰せ下されたりと。神鏡剣璽の事、猶重ぜられざるか。この条神虜恐れあり。これをなす如何如何。大外記頼業注進して云う、昨日宣下せらるる事等。
「大地震」
この日未の刻(14時)大地震。
1月24日 天気晴れ、
「良通所労」
「除病の符を書かしむ」
「不空羂(けん)索観音像を造る」
(注釈)
不空羂(けん)索観音・・・生死の苦海の衆生を済度する観音。
「泰山府君祭」
「不動供を修す」
1月25日 天気晴れ、
「仏法の験により良通回復す」
「基通・実定還補の事」
「近衛亭にて吉書を覧ず」
「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」
「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」
1月26日 晴
「三神の安全のため平氏追討止むべきか」
去る夜より閭巷(りょこう、村里)平氏入洛の由を謳歌(おうか)す。信受せざるの処、果たして以て虚言と。或いは云く、猶平氏追討を止めらるの儀、静賢法印を以て御使として、子細を仰せ含めらるべしと。この儀愚心庶幾(こいねがう)する所なり。これ全く平氏を引級するに非ず。神鏡・劔璽の安全を思うに依ってなり。
1月26日 「吾妻鏡」
今朝検非違使(けびいし)等、七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに忠直・兼平・行親等の首を請け取り、獄門(ごくもん)の前の樹に懸く。また囚人兼光同じくこれを相具し渡されたり。上卿は籐中納言、職事は頭の弁光雅朝臣と。
(注釈)
謳歌(おうか)・・・声をそろえてほめたたえること。
庶幾(しょき)・・・こいねがうこと。
引級
検非違使(けびいし)・・・京中の警察・裁判官。
獄門(ごくもん)・・・獄屋(ごくや、ろうや)の門。
上卿(しょうけい)・・・儀式を指揮する公卿。
職事(しきじ)・・・実務担当。
1月27日 天晴れ
「平氏征伐朝方等の和讒によるか」
定能卿来たり、世間の事等を語る。その次いでに云く、平氏の事、猶御使を遣わす事を止め、偏に征伐せらるべしと。近習の卿相等の和讒(わざん)か。所謂、朝方・親信・親宗なり。小人君に近づき、国家を擾(みだ)す。誠かなこの言。
「余の庵借り上げの指示」
院より武士を居ゑられんため、余の庵(いおり)を借られるべく、家を指す由仰せあり(定長奉行)。承り訖(おわ)る由を申す。事の体言うに足らず。然れども逓れ避く能わず。末代の事勿論勿論。
「任子慈円より観音経等を受く」
(注釈)
和讒(わざん)・・・一方でやわらぎ親しんで、他方でそしり陥れること。仲介。密語。
1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早旦、大夫史隆職使者を進して云く、忽ち追捕(ついぶ)せられ、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の従類の所為と。召人の滅亡を思ふに依って、使いを九郎の許に遣わし、子細を相触る。縦えその身罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由なり。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書札を以て前の源納言(雅頼)の許に示し遣わす。次官親能彼の納言の家に在り。件の男頼朝の代官となり、九郎に付き上洛せしむ所なり。仍って万事奉行を為すの者と。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って触れんが為、件の男彼の納言に示す所なり。九郎の返事に云く、この事、平氏書札を京都に上す。件の使者を搦め取らる。各々報礼を持つと。その中にこれ有り。史大夫の者召し進すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、院より仰せ下さる。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第不敵。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言の返札到来す。親能一切知らざるの由を申すと。叉宰相中将(定能)に相尋ぬる処、
返事の上、全く知し食さざる事と。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
晩に及び使いを隆職の許に遣わし、子細を尋ね問う。帰り来たり云う。文書等少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身に随う。率爾(そつじ)の尋ねに備えるためなり。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたりと。凡そ官中の文書、古来只一本書なり。然るに肝心失えば、即ち我が朝の滅亡なり。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
追捕(ついぶ)・・・ついふ。ついほ。ついふく。悪者を追いかけて捕らえること。没収。奪い取る。
率爾(そつじ)・・・にわかなさま。軽率なさま。
1月29日 天晴れ
「平氏追討の派遣一定」
この日法印(慈円)来入せられ、中御門大納言(宗家)来らる。
また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。今日すでに下向(去る二十六日出門)すと。その上猶静賢使節を遂ぐべきの由仰せ有り。静賢辞退すと。その故は、御使を遣わせらるは、彼の畏懼(いく)の心を休ましめ、三神安穏に入洛せんが為なり。而るに勇者を遣わし征討するの上、何ぞ尋常の御使に及ぶや。道理叶わず。また使節を遂げ難きの故なりと。申す所尤も理有るか。凡そ近日の儀掌を反すが如し。不便と。
「全玄僧正の天台座主補任定まる」
(注釈)
畏懼(いく)・・・おそれること。
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