2005年11月23日 (水)

お知らせ

お知らせ

 長い間、お読み頂きありがとうございました。
木曽義仲の悪評に疑問を抱き、各種資料に目を通すうちに
各種資料の捏造の疑惑を感じ、平家物語という「物語」の信憑性、
玉葉などの「個人の日記」の信頼性に疑問を持ちながら、
義仲の弁護を続けてきました。
原本は漢文が多く、そのままでは読む人も少なく、現代文にすると
読者は多いかもしれないが、信頼性に欠ける恐れがあるので、
中間の訓読文調にしました。
 今後、しばらくは誤字、脱字、難解部分の修正等を行います。
時々見て下さい。

 そのうちに、現代文調を出します。

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2005年11月22日 (火)

1185年 (元暦2年、文治元年)11月簡略版

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

 

(11月簡略版)
詳細はリンクのココログ
    http://yosinaka.cocolog-nifty.com/general/

11月1日 
「九郎等下向延引」

11月3日 
「行家・義経西海に赴きたり」

11月4日 天晴 
「武士等義経を追行すと」

11月5日 
「九郎等室に於いて乗船」

11月8日 
「義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿す」

11月10日 
「頼朝追討の宣旨を下さるる」

11月11日 
「三位中将の名良経、九郎の名義経なり義経須く改名すべきなり」

11月12日 
「義経・行家等召し奉るべきの由、院宣を下さると」

11月13日 天晴 
「関東の武士、多く以て入洛すと」

11月14日 天晴 
「頼朝一定京上すべきの由風聞す」

11月15日 「吾妻鏡」
「日本国第一の大天狗」

11月16日 天晴 
「頼朝決定上洛すべしと」

11月18日 
「頼朝卿決定国を出て、当時駿河の国に就く」

11月19日 「吾妻鏡」
「土肥の次郎實平一族等を相具し、関東より上洛」

11月20日 「吾妻鏡」
「義経・行家等悪風に遭い漂没す、両人未だ死せざる」

11月21日 天晴 
「頼朝の上洛決定留まりたり。」

11月22日 「吾妻鏡」
「豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潛かに多武峰に向かう。」

11月23日 天晴 
「北條四郎時政今日入洛す。その勢千騎と」

11月25日 「吾妻鏡」
「北條殿入洛すと」

11月26日 「吾妻鏡」
「義経に追討の宣旨」

[玉葉]
「頼朝追討の宣旨奉行の人々、損亡すべし」

11月28日 「吾妻鏡」
「兵粮米(段別五升)を課す」
 諸国平均に守護(しゅご)地頭(じとう)を補任(ほにん)し、権門(けんもん)勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿籐中納言経房卿に謁し申すと。

[玉葉]
「兵粮(段別五舛)を宛て催すべし」
 伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻(ただ)に兵粮の催し(もよおし)に非ず。惣て以て田地を知行(ちぎょう)すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。
(注釈)
兵粮米(ひょうろうまい)・・・戦時における将兵の食糧。
段別五升(たんべつごしょう)・・・田一反あたり5升。
守護(しゅご)・・・大番(おおばん)の催促、謀反人・殺害人の検断などを担当。
大番(おおばん)・・・宮廷の警護をつとめた役。
地頭(じとう)・・・行家・義経を捕らえる名目で、各地の荘園・公領に置いた。
補任(ほにん)・・・職に補し官に任ずること。ふにん。
権門(けんもん)・・・官位高く権勢のある家柄。
北條丸・・・丸・・・「麻呂」の転。人名の下に付ける語。北条時政。
五畿(ごき)・・・畿内。大和、山城、河内、和泉、摂津の五カ国。
山陰(さんいん)・・・山陰道。現在の中国地方・近畿地方の日本海側。
山陽(さんよう)・・・山陽道。播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門。
南海(なんかい)・・・南海道。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐。
西海(さいかい)・・・西海道。今の九州地方。
催し(もよおし)・・・うながし集めること。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。

11月29日 「吾妻鏡」
「諸国守護・地頭・兵粮米の事、御沙汰有るべき」

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2005年11月21日 (月)

1221年(承久3年)5月19日承久の乱

1221年(承久3年)5月19日

承久の乱(じょうきゅうのらん)

義仲が平家を追放し、この時、天皇になったのが後鳥羽天皇で、上皇となり、鎌倉幕府政権成立後、約40年、1221年(承久3年)、公家政権の復活を期待して、兵を集める。この時の執権(幕府の最高権力者)北条義時は直ちに反撃し、朝廷側を完璧に叩く。この事件の首謀者は後鳥羽上皇であるが、一部の武士などの陰謀であるかのように処理しようとするも、義時は後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐にそれぞれ流された。島流しである。清盛や義仲がクーデターを起し、後白河法皇を幽閉したなどと非難されるがその比ではない。この結果さらに武家政権は強化され公家勢力は衰退した。

北条政子の言葉「秀康・胤義等を討ち取れ」

 「吾妻鏡」によると約40年後に起きた「承久の乱」の時の北条政子の言葉は

1221年(承久3年)5月19日
「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ)より深し。報謝(ほうしゃ)の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒(ざん)に依って、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡(いせき)を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。」
(藤原秀康・三浦胤義(義村の弟)は首謀者とされる)
(注釈)
報謝(ほうしゃ)・・・恩に報い徳を感謝すること。
溟(めい)・・・くらいうみ。
渤(ぼつ)・・・ほつ。わきたつ。なみうつ。
讒(ざん)・・・そしり。
非義(ひぎ)・・・道理にそむくこと。
綸旨(りんじ)・・・蔵人(くろうど)が勅命を受けて書いた文書。天皇の命令書。
遺跡(いせき)・・・故人ののこした職業や領地。

義仲が言った「皷判官め打破て捨よ」

 「平家物語」によると義仲が法住寺事件の前に放った言葉は、
「われ信濃を出し時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさ(軍)よりはじめて、北国には、砥浪山(となみやま)・黒坂・塩坂・篠原、西国には福隆寺縄手・ささ(篠)のせまり(迫り)・板倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善帝王(天皇)にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて降人(こうにん)にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらんものが、馬一疋づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田どもからせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者(かんじゃ)原共が片辺(かたほとり)に付いて、時々入り取りせんは何かあながち僻事(ひが事)ならむ。大臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。是は皷判官(つづみほうがん)が凶害(きょうがい)とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍(いくさ)にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍(いくさ)ようせよ。者ども」
と言ったとされている。
に類似性を感じるが、いかがでしょう。これは平家物語の編集者が吾妻鏡の文章を参考にしたか。逆か。偶然か。
(注釈)
砥浪山(となみやま)・・・富山県西端にある山。倶利伽藍峠がある。
降人(こうにん)・・・降参した人。
ま草(まぐさ)・・・馬・牛などの飼料とする草。
冠者(かんじゃ)・・・わかもの。従者。
片辺(かたほとり)・・・かたすみ。片田舎。
入り取り・・・人家に入り物品を奪い取ること。
僻事(ひが事)・・・道理や事実とちがった事柄。
皷判官(つづみほうがん)・・・平知康。法皇の近臣。
凶害(きょうがい)・・・人を害すること。
軍(いくさ)・・・戦い。

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2005年11月20日 (日)

1185年 (元暦2年、文治元年)5月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

5月1日 「吾妻鏡」癸未
「義仲朝臣の妹公(字菊)京都より参上」
 故伊豫の守「義仲」朝臣の妹公(字菊)京都より参上す。これ武衛(頼朝)招引(招待)せしめ給うが故なり。御台所(政子)殊に愍み給う。先日所々押領(おうりょう)の由の事、奸曲(かんきょく)の族名を仮り面に立つの條、全く子細を知らざるの旨陳謝すと。豫州は朝敵として、討罰に預かると雖も、指せる雑怠無きの女性、盍(なん)ぞこれを憐まざらんかと。仍って美濃の国遠山庄の内一村を賜う所なり。
(中略)

(注釈)
押領(おうりょう)・・・むりやり奪うこと。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
美濃の国遠山庄・・・美濃国(岐阜県)恵那郡遠山荘馬籠村らしい。木曽に近い。

5月3日 「吾妻鏡」乙酉
「木曽の妹公の事、御扶持を加えらるる」
 木曽の妹公の事、御扶持(ふち)を加えらるる所なり。憐み奉るべきの趣、小諸の太郎光兼以下信濃の国の御家人等に仰せ付けらると。これ信州は、木曽分国を号す如く、住人皆彼の恩顧を蒙るが故なりと。
(注釈)
扶持(ふち)・・・俸禄を給して、家臣としておくこと。

5月4日 「吾妻鏡」丙戌
「義経の下知に従うべからず」

5月5日 「吾妻鏡」丁亥
「宝劔を尋ね奉るべき範頼に下知」

5月7日 「吾妻鏡」己丑
「義経の使者異心を存ぜざるの起請文を」

[玉葉]大夫の尉義経等東国に下向す。前の内大臣父子、並びに郎従十
  余人相具すと。
[吉記]
  早旦、大夫判官義経前の内府(張藍摺の輿に乗る)並びに前の右衛門の督清宗(騎馬)、
  及び生虜の輩を相具し関東に下向す。左馬の頭能保朝臣同じく下向すと。

5月10日 「吾妻鏡」壬辰
 志摩の国麻生浦に於いて、加藤太光員の郎従等、平氏の家人上総の介忠清法師を搦め取る。京都に伝うと。

5月11日 「吾妻鏡」癸巳
「頼朝去る月二十七日従二位」
[吉記]「沙汰を致す武士妨げの庄園等の注文、管国等狼藉有る」

5月14日 天晴 [吉記]
「忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首」

5月15日 「吾妻鏡」丁酉
「義経の使者参着す」

5月16日 「吾妻鏡」戊戌
「前の内府鎌倉に入る」

5月19日 「吾妻鏡」辛丑
「京畿の群盗等蜂起す」
 京畿の群盗等蜂起す。敢えて禁じ難きの間、相鎮(しず)むべきの子細、今日沙汰を経らる。先ず平氏の家人等の中、戦場を遁れ出るの族、本の在所に閑散(かんさん)せしめ、猶田園を知行す。剰(あまつさ)え都鄙(とかく)に横行し、盗犯(とうはん)を事と為すと。次いで近日、遠江の国(静岡県西部)居住の御家人等、武威を以て恣(ほしいまま)に内奏(ないそう)せしめ、或いは院宣を申し下し、或いは国司・領家等の下文を掠め取り、地利を貪り公平を缺くと。次いで伊豆の守仲綱が男、伊豆の冠者有綱と号する者、廷尉の聟として、多く近国の庄公を掠領(りゃくりょう)すと。この[條々の事、その聞こえ有るに依って、殊に奏聞を経て、悉く以て糺(きゅう)断せしむべきの由定めらると。]
(注釈)
閑散(かんさん)・・・しずかでひっそりしていること。
盗犯(とうはん)・・・窃盗または強盗の犯罪。
内奏(ないそう)・・・内密に奏聞すること。
掠領(りゃくりょう)略奪し領有すること。
国司(こくし)・・・諸国に赴任した地方官。
領家(りょうけ)・・・荘園の実際の所有者、管理者。

5月23日 「吾妻鏡」丁巳
「参河の守(範頼)対馬」

5月24日 「吾妻鏡」戊午
 源廷尉(義経)、思いの如く朝敵を平らげたり。剰(あまつさ)え前の内府(宗盛)を相具し
参上す。その賞兼ねて疑わざるの処、日来不義の聞こえ有るに依って、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中に入れられず。腰越の駅に於いて徒(いたずら)に日を渉(わた)るの間、愁(しゅう)欝(うつ)の余り、因幡(いなば)の前司(大江)廣元に付き一通の款状(かんじょう)を奉る。廣元これを被覧(ひらん)すと雖も、敢えて分明(ぶんめい)の仰せ無し。追って左右(そう)有るべきの由と。彼の書に云く、
「義経の腰越状」
 左衛門の少尉源義経恐れながら申し上げ候。意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅宣(ちょくせん)の御使として、朝敵を傾け累代(るいだい)の弓箭(きゅうせん)の芸を顕わし、会稽(かいけい)の恥辱を雪(すす)ぐ。抽賞(ちゅうしょう)せらるべきの処、思いの外虎口(ここう)の讒言(ざんげん)に依って、莫大の勲功を黙止せらる。義経無犯にて咎(とが)を蒙る。功有りて誤り無きと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩々(つらつら)事の意を案ずるに、以て良薬口に苦く、忠言耳に逆らう、先言なり。茲に因って、讒者の実否を糺(きゅう)されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意(そい)を述べるに能わず。徒に数日を送る。この時に当たり、永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まる処か。将又先世の業因を感ぜんか。悲しきかな。この條、故亡父の尊霊再誕し給わずんば、誰人愚意の悲歎を申し披かん。何れの輩哀憐(あいれん)を垂れんや。新申状を事とし、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚(はっぷ)を父母に受け、幾時節を経ず、故頭殿御他界の間、孤児となり、母の懐中に抱かれ、大和の国宇多郡龍門の牧に赴くより以来、一日片時も安堵の思いに住せず。甲斐無きの命ばかりを存ずると雖も、京都の経廻(けいがい)難治の間、諸国に流行せしむ。身を在々所々に隠し、辺土遠国に栖(す)まんと為し、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、平家の一族追討の為、上洛せしむの手合いに、木曽「義仲」を誅戮(ちゅうりく)するの後、平氏を責め傾けんが為、或時は峨々(がが)たる巖石に駿馬(しゅんめ)を策(むちう)ち、敵の為亡命するを顧みず。或時は漫々(まんまん)たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈むを痛まず、骸(むくろ)を鯨鯢(げいげい)の鰓(えら)に懸く。しかのみならず、甲冑(かつちゅう)を枕と為し、弓箭を業と為す。本意併しながら亡魂(ぼうこん)の憤りを休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剰(あまつさ)え義経五位の尉(じょう)に補任するの條、当家の面目・希代の重職、何事かこれに如かずや。然りと雖も今愁い深く歎き切なり。自ずと仏神の御助に非ざるの外は、爭(いかで)か愁訴(しゅうそ)を達せん。茲に因って、諸神諸社の午王宝印(ごおうほういん)の裏を以て、全く野心を挿まざるの旨、日本国中大小の神祇(じんぎ)冥道(みょうどう)に請驚し奉り、数通の起請文(きしょうもん)を書き進すと雖も、猶以て御宥免(ゆうめん)無し。その我が国は神国なり。神非礼を稟(さず)くべからず。憑(たの)む所他に非ず、偏に貴殿広大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺い高聞に達せしめ、秘計を廻らされ、誤り無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善(せきぜん)の余慶(よけい)を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝えん。仍って年来の愁眉(しゅうび)を開き、一期の安寧(あんねい)を得ん。愚詞に書き尽せず、併しながら省略せしめ候いたり。賢察(けんさつ)を垂れられんと欲す。義経恐惶謹言。
     元暦二年五月日          左衛門の少尉源義経
   進上 因幡前司殿

(注釈)
因幡(いなば)・・・鳥取県東部。
款状(かんじょう)・・・嘆願書。
被覧(ひらん)・・・ひらきみること。
分明(ぶんめい)・・・あきらかなこと。
左右(そう)・・・さしず。
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(皇居の警備担当)
尉(じょう)・・・次官の下の地位。
勅宣(ちょくせん)・・・勅命。みことのり。天皇の命令。
累代(るいだい)・・・代々。
弓箭(きゅうせん)・・・弓と矢。武器・武芸。武士。
会稽(かいけい)・・・会稽の恥。仇討ち。復讐。
抽賞(ちゅうしょう)・・・多くのものからひきぬいて賞すること。
虎口(ここう)・・・きわめて危険なところ。
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわってその人を悪く言うこと。
咎(とが)・・・とがめ。非難。
倩々(つらつら)・・・つくづく。よくよく。
素意(そい)・・・かねてからの思い。
哀憐(あいれん)・・・いつくしみむあわれむこと。なさけ。
身体髪膚(はっぷ)・・・身体と髪と皮膚、すなわち身体全部。
経廻(けいがい)・・・めぐり歩くこと。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪をただして殺すこと。
峨々(がが)・・・山や巌などのけわしくそびえ立つさま。
駿馬(しゅんめ)・・・すぐれてよく走る馬。すぐれてよい馬。
漫々(まんまん)・・・遠くひろびろとしたさま。
骸(むくろ)・・・骨組みだけ残った死人のからだ。
鯨鯢(げいげい)・・・鯨の雄と雌。
甲冑(かつちゅう)・・・鎧(よろい)とかぶと。
亡魂(ぼうこん)・・・臣だ人の魂。
爭(いかで)か・・・どうして。
愁訴(しゅうそ)・・・苦しみや悲しみを嘆き訴えること。
午王宝印(ごおうほういん)・・・神社・寺などが出す厄除けの護符。その裏面は起請文を記す用紙とされた。
神祇(じんぎ)・・・天神と地祇。かみがみ。
冥道(みょうどう)・・・冥界にあるもろもろの仏。
請驚
起請文(きしょうもん)・・・誓詞。
宥免(ゆうめん)・・・罪をゆるすこと。
積善(せきぜん)・・・善行をつみかさねること。
余慶(よけい)・・・先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福。
愁眉(しゅうび)・・・うれえでひそめた眉。
安寧(あんねい)・・・安泰。
賢察(けんさつ)・・・お察し。相手の推察の尊敬語。

5月25日 「吾妻鏡」丁未
「畿内の雑訴成敗」

5月27日 「吾妻鏡」己酉
「盗人禁裏に推参」

5月29日 辛亥 雨降る [吉記]
「頼盛卿出家す」

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2005年11月19日 (土)

1185年 (元暦2年、文治元年)4月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

4月4日 「吾妻鏡」丁巳
「平家悉く以て討滅」

4月4日 [玉葉]
「平氏等を誅伐」

4月5日 「吾妻鏡」戊午
「征伐すでに武威を顕わす」

4月11日 「吾妻鏡」甲子
「西海の飛脚参り、平氏討滅」

4月12日 「吾妻鏡」乙丑
「平氏滅亡の後、」

4月14日 「吾妻鏡」丁卯
「大蔵卿泰経朝臣の使者関東に参着」

4月15日 「吾妻鏡」戊辰
「東国侍の内任官の輩本国に下向することを停止」
 関東の御家人、内挙(ないきょ)を蒙らず、功無くして多く以て衛府(えふ)・所司(しょし)等
の官を拝任す。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可を注し加えらると。
   下す 東国侍の内任官の輩中
    本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事副え下す 交名注文一通
 右任官の習い、或いは上日の労を以て御給を賜い、或いは私物を以て朝家の御大事を償い、各々朝恩に浴す事なり。而るに東国の輩、徒に庄園の年貢を抑留し、国衙(こくが)の官物を掠め取り、成功に募らず自由に拝任す。官途(かんと)の陵遅(りょうち)すでにこれに在り。偏に任官を停止せしめば、成功の便無きものか。先官当職を云わず、任官の輩に於いては、永く城外の思いを停め、在京し陣役に勤仕せしむべし。すでに朝列(ちょうれつ)に廁(まじ)う。何ぞ籠居(ろうきょ)せしむや。もし違い墨俣以東に下向せしめば、且つは各々本領を召され、且つはまた斬罪に申し行わしむべきの状、件の如し。
     元暦二年四月十五日
   東国住人任官の輩の事
 兵衛の尉(ひょうえのじょう)義廉 鎌倉殿は悪主なり。木曽は吉主なりと申して、父を始め親昵(しんじつ)等を相具し、木曽殿に参らしむなんどと申て、鎌倉殿に祇候(しこう)せば、終には落人となり給うと。処せられなんとて候しは、何に忘却せしむか。希有(けう)の悪兵衛の尉かな。
 兵衛の尉忠信 秀衡の郎等、衛府を拝任せしむ事、往昔(おうせき)より未だ有らず。涯分(がいぶん)を計り、おられよかし。その気にてやらん。これは猫にをつる。
 兵衛の尉重経 御勘当(かんどう)は、ほぼ免されにき。然れば本領に帰府(きふ)せしむべきの処、今は本領に付け申されざれかし。
 渋谷馬の允(じょう)  父は在国なり。而るに平家に付き経廻せしむの間、木曽大勢を以て攻め入るの時、木曽に付いて留まる。また判官殿御入京の時、また落ち参る。度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。
 小河馬の允  少々御勘当免じて、御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、色様(いろさま)吉からず。何料の任官やらん。
 兵衛の尉基清 目は鼠(ねずみ)眼にて、ただ候すべきの処、任官希有なり。
 馬の允有経  少々奴、木曽殿御勘当有るの処、少々免ぜしめ給いたらば、ただ候すべきに、五位の馬の允、未曾有の事なり。
 刑部(ぎょうぶ)の丞友景 音様しわがれて、後鬢さまで刑部からなし。
 同男兵衛の尉景貞 合戦の時、心甲にて有る由聞こし食す。仍って御糸惜しみ有るべきの由思し食すの処、任官希有なり。
 兵衛の尉景高 悪気色して、本より白者と御覧ぜしに、任官誠に見苦し。
 馬の允時経  大虚言計りを能として、えしらぬ官好みして、甲斐庄と云うを知らず。あわれ水駅の人かな。悪馬細工して有れかし。
 兵衛の尉季綱 御勘当すこし免して有るべき処、由無き任官かな。
 馬の允能忠  同じ。
 豊田兵衛の尉 色は白らかにして、顔は不覚気なるものの、ただ候すべきに、任官希有なり。また下総に於いて、度々召し有るに不参して、東国平らげられて後参る。不覚か。
 兵衛の尉政綱
 兵衛の尉忠綱 本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼(あはあ)の人かな。
  [馬の允有長]
 右衛門の尉季重 [顔はふわふわとして、希有の任官かな。]
 左衛門の尉景季 久日源三郎
 縫殿(ぬいどの)の助   顔はふわふわとして、希有の任官かな。
 宮内の丞舒国 大井の渡りに於いて、声様誠に臆病気にて、任官見苦しき事かな。
 刑部の丞経俊 官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな。
     この外の輩、その数多く拝任せしむと雖も、文武官の間、何官何職、分明知ろ
     し食し及ばざるの故、委しく注文に載せられず。この外と雖も、永く城外の思
     いを停止せしむべきか。
 右衛門の尉友家
 兵衛の尉朝政
     件の両人、鎮西に下向するの時、京に於いて拝任せしむ事、駘(たい)馬の道草を喰らうが如し。同じく以て下向すべからざるの状件の如し。
(注釈)
内挙(ないきょ)・・・内々で推挙すること。
衛府(えふ)・・・近衛府・衛門府など、禁裏の警備の役所。
所司(しょし)・・・官庁の役人。
国衙(こくが)・・・国司の役所。国の土地。
官途(かんと)・・・官吏の職務。
陵遅(りょうち)・・・物事が次第に衰えてゆくこと。
朝列(ちょうれつ)・・・朝廷に列すること。朝臣の列に加わること。
籠居(ろうきょ)・・・謹慎などして家の中に閉じ籠もっていること。
兵衛(ひょうえ)・・・兵衛府に属し、内裏の門の守衛など。
尉(じょう)・・・衛門府・兵衛府・検非違使などの次官(すけ)の下。
親昵(しんじつ)・・・親しみなじむこと。親しいひと。
祇候(しこう)・・・おそばに奉仕すること。
希有(けう)・・・めったにないこと。奇異なこと。
往昔(おうせき)・・・過ぎ去ったむかし。いにしえ。
涯分(がいぶん)・・・身分に相応したこと。自分の身の程。
勘当(かんどう)・・・罪をかんがえて法に当てはめて処罰すること。
帰府(きふ)・・・役所に帰ること。都に帰ること。
允(じょう)・・・寮のじょう、尉(じょう)と同等。
色様(いろさま)・・・美しい人の敬称。
刑部(ぎょうぶ)・・・裁判・行刑を担当する役所。
縫殿(ぬいどの)・・・縫殿寮で裁縫を担当する所。
助(すけ)・・・寮の次官。
駘(たい)・・・のろい馬。

??? これが本当に公文書か。

4月20日 [玉葉]
「神鏡等すでに渡辺に着御す」

4月21日 「吾妻鏡」甲戌
「梶原平三景時、義経不義の事を訴う」

[玉葉]
  泰経卿を以て密々尋ね問わるる事等
「建禮門院の御事如何」
「前の内府の事如何
「頼朝の賞の事」

4月24日 「吾妻鏡」丁丑
「賢所・神璽今津の辺に着」

4月26日 「吾妻鏡」己卯
「實平が知行の濫妨を停止せしむべき」
「景時が知行の濫妨を停止せしむべき」

[玉葉]
「前の内府、並びに時忠卿以下入洛すと」

[4月28日 「吾妻鏡」辛巳
「建禮門院吉田の辺に渡御す」

[玉葉]
「神鏡、神璽温明殿に」

4月29日 「吾妻鏡」壬午
「義経に随うべからざる由」

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2005年11月18日 (金)

1185年 (元暦2年、文治元年)3月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

3月3日 「吾妻鏡」丙戌
「義仲朝臣の妹公有り」
 左馬の頭(さまのかみ)義仲朝臣(あそみ)の妹公有り。これ先日武衛(頼朝)御台所(政子)御猶子(ゆうし)の契り有り。而るに美濃(岐阜県南部)(一村御志有るの間在国)より上洛し、御息女の威に募り、在京するの間、奸曲(かんきょく)の輩多く以てこれに属(つ)く。往日(おうじつ、むかし)棄損(きそん)の古文書(こもんじょ)を捧げ、不知行(ふちぎょう)の所々を件の姫公に寄附するの後、またその使節と称し、権門(けんもん)庄公等を押妨(おうほう)す。この事、当時人庶の愁う所なり。既に関東の御遠聞に達するの間、これを物狂い女房と号す。且つは彼の濫吹(乱暴)を停止し、且つは相順う族を搦め進すべきの由、今日近藤七国平、並びに在京・畿内の御家人等の許に仰せ遣わさる。但し御一族の中に於いて、奸濫人相交るの條、世の謗(そし)りを恥給うに依って、御書の面に於いては物狂いの由を載せらるると雖も、潛かに憐愍(れんみん)の御志有り。関東に参向すべきの趣、内々諫(いさ)め仰せらると。
(注釈)
左馬の頭(さまのかみ)・・・左馬寮の長官。
左馬寮(さまりょう)・・・馬寮(めりょう)。官馬の役所。左右がある。
朝臣(あそみ)・・・三位以上のひとの姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
猶子(ゆうし)・・・養子。
奸曲(かんきょく)・・・わるだくみのあること。
不知行(ふちぎょう)・・・知行・領地を持たないこと。
古文書(こもんじょ)・・・
権門(けんもん)・・・官位高く権威のある家柄。
押妨(おうほう)・・・おうぼう。押し入って乱暴したり、不当な課税をしたりすること。
憐愍(れんみん)・・・れんびん。

3月4日 「吾妻鏡」丁亥
「在洛の武士狼藉」
 畿内近国の狼唳(ろうれい)を鎮めんが為、典膳大夫久経・近藤七国平を以て、御使としてすでに差し遣わされたり。而るに猶在洛の武士狼藉を現すの由聞き及ばしめ給うに依って、叡疑の恐れを散ぜんが為、その子細を言上せらると。武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんが為に候なり。朝敵候せざれば、武士[また上洛せしむべからず。武士]また上洛せしめざれば、狼藉を致すべからず候か。而るに敵人海を隔つの間、今に追討を遂げず。経廻の武士、国々庄々四度計無き事、その聞こえ多く候。仍って追討せらる以後、直に沙汰せしむべきの由、存じ思い給い候と雖も、近国に於いては、且つは糺(きゅう)定せしめんが為、使者二人上洛せしめ候所なり。その以前不覚者候わば、ただ院宣を守り、御使に相副え、計を廻らし行わんが為に候。然るべからざる進退せしめ候わば、定めて自由の沙汰に似候うか。頼朝が威に募り、武士濫妨(らんぼう)の事、停止せしめ候の計なり。子細の勒状、使者に給い候いたり。この旨を以て申し沙汰せしめ給うべく候。
恐々謹言。
     三月四日           頼朝
   謹上 籐中納言殿
(注釈)
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
狼藉(ろうぜき)・・・乱暴。
糺(きゅう)・・・ただすこと。
謹言(きんげん)・・・手紙の末尾に用いて、敬意を表す語。

3月4日 [玉葉]
「義経が凶党を追討」
 隆職追討の間の事を注し送る。義経が許より上状を申すと。去る月十六日纜を解く。十七日阿波の国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追い落としたり。然れども、未だ平家を伐ち取らずと。

3月8日 「吾妻鏡」辛卯
「屋島の合戦すでに終わり」
 源廷尉(義経)の飛脚西国より参着す。申して云く、去る月十七日、僅かに百五十騎を卒い、暴風を凌ぎ、渡部より纜を解く。翌日卯の刻(6時)阿波の国(徳島県)に着き、則ち合戦を遂ぐ。平家の従兵、或いは誅せられ或いは逃亡す。仍って十九日、廷尉屋島に向かわれたり。この使その左右(そう)を待たず馳参す。而るに播磨の国(兵庫県南西部)に於いて後を顧るの処、屋島の方黒煙天に聳ゆ。合戦すでに終わりたり。内裏以下焼亡その疑い無しと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
左右(そう)・・・決着。

3月9日 「吾妻鏡」壬辰
「兵粮その術無きに」
 参河の守(範頼)西海より状を献られて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の国(大分県)に着くの処、民庶(みんしょ)悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎兄弟・大多和の次郎・工藤一臈以下侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉(ま)げてこれを抑留し、相伴い渡海したり。猶御旨を加えらるべきか。次いで熊野の別当湛増、廷尉(義経)の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国(香川県)に渡る。今また九国に入るべきの由その聞こえ有り。四国の事は義経これを奉る。九州の事は範頼奉るの処、更にまた然る如きの輩に抽んぜらる。啻(ただ)に身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似たり。人の思う所尤も恥と為すと。
(注釈)
民庶(みんしょ)・・・一般の人民。庶民。

3月12日 「吾妻鏡」乙未
「兵粮米を納めらる」
 平氏を征罰せんが為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥並びに妻良の津に浮かべ、兵粮米を納めらる。仍って早く纜を解くべきの由仰せ下さる。俊兼これを奉行す。

3月16日 己亥 天晴 [玉葉]
「平家安藝厳島に」
 伝聞、平家讃岐の国(香川県)シハク庄に在り。而るに九郎襲い攻めるの間、合戦に及ばず引退し、安藝(広島県西部)厳島に着きたりと。その時僅かに百艘ばかりと。神鏡・劔璽帰り来たる事、公家殊なる祈祷無し。微臣壹この事を欲す。仍って近日殊に随分の祈り等を修す。また中心この事を察す。仏天定めて照覧有らんか。

3月17日 庚子 [玉葉]
「平家或いは備前小島に在り。」
 伝聞、平家或いは備前(岡山県南東部)小島に在り。或いは伊豫(愛媛県)五々島に在りと。鎮西の勢三百艘相加わると。但し実否知り難し。

3月21日 「吾妻鏡」甲辰 甚雨
「周防の国の舟船奉行、数十艘を献ず」
 廷尉(義経)平氏を攻めんが為、壇浦に発向せんと欲するの処、雨に依って延引す。爰に周防の国(山口県東部)在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経朝臣書を正利に與う。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。

3月22日 「吾妻鏡」乙巳
「義経数十艘の兵船を促し、壇浦へ」
 廷尉(義経)数十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと。昨日より乗船を聚(あつ)め計を廻らすと。三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会す。廷尉曰く、汝すでに門司関を見る者なり。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしといえり。義澄命を受け、壇浦奥津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に棹さし彦島を出る。赤間関(下関)を過ぎ田の浦に在りと。

3月24日 「吾妻鏡」丁未
「壇浦の海上に於いて、源平相逢う」
 長門の国(山口県西部北部)赤間関(下関)壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻(12時)に及び平氏終に敗傾す。二品(二位)禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(安徳天皇、春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。若宮(今上兄)は御存命と。前の中納言(教盛、門脇と号す)入水す。前の参議(経盛)戦場を出て、
陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没す。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛が為生虜らる。その後軍士等御船に乱入す。或いは賢所(神鏡)を開き奉らんと欲す。時に両眼忽ち暗んで神心惘然たり。平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去したり。これ尊神の別躰、朝家の惣持なり。神武天皇第十代崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ、鋳改め奉らると。朱雀院の御宇長暦年中、内裏焼亡の時、圓規(えんき)すでに虧(か)けると雖も、平治逆乱の時は、師仲卿の袖に移らしめ給う。その後新造の櫃(ひつ)に入れ奉り、民部卿資長蔵人頭としてこれを沙汰す。
[澆季の今、猶神変を顕わす。仰ぐべし恃むべし。]

3月27日 [玉葉]
「平氏長門の国に於いて伐たれたり」
 伝聞、平氏長門の国(山口県西部北部)に於いて伐たれたり。九郎の功と。実否未だ聞かず。

3月28日 辛亥 [玉葉]
「平氏伐たれたり」
 右少弁定長来たり。定長云く、平氏伐たれたりの由、この間風を聞く。これ佐々木の三郎ト申す武士の説と。然れども義経未だ飛脚を進せず。不審猶残ると。

3月29日 「吾妻鏡」壬子
「平氏追討の御下文(くだしぶみ)、二月二日」
 平氏追討の事、武衛(頼朝)申さるるに依って、軍旅の功を励ましめんが為、庁の御下文を豊後の国(大分県)の住人等の中に下さる。これ先日の事たりと雖も、彼の案文(あんぶん)、今日関東に到来する所なり。
   院庁下す 豊後の国住人某等
    いよいよ征伐を専らにし、勲功を遂げ勧賞(けんじょう)を期すべき事
 右、平家謀叛の党類、四国辺の島を往反し、朝憲(ちょうけん)を蔑爾(べつじ)するの間、
鎮西辺の民多く烏合(うごう)の群に入り、狼唳(ろうれい)の企てを致せしむ。而るに当国の軍兵等、堅く王法(おうほう)を守り、凶醜(きょうしゅう)に与せず。遂に数船を艤(ぎ)し、
官軍を迎え取り、九国の輩を服従せしむべき由その聞こえ有り。殊に以て叡感(えいかん)あり。いよいよ鋭兵を増し、彼の凶徒を討滅せしむべきなり。各々その勲功に随い、請いに依って賞賜(しょうし)有るべきなり。当国の大名等、宜しく承知すべし。違越せしむ勿れといえり。仰せの所件の如し。故に下す。
     元暦二年二月二日

下文(くだしぶみ)・・・上位者から管轄下の役所や人民などに下した公文書。
案文(あんぶん)・・・文書の写し。
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
朝憲(ちょうけん)・・・朝廷で立てた法規。
烏合(うごう)・・・鳥の集まるように規律もなく統一もなく集まること。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
王法(おうほう)・・・国王の法令。
艤(ぎ)・・・きちんと船を整備する。
叡感(えいかん)・・・天子が感歎なさること。天子のおほめ。
賞賜(しょうし)・・・賞して物を賜うこと。

3月29日 [玉葉]
 定能卿来たり、平氏の間の事を語る。昨日定長の語る如し。

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2005年11月17日 (木)

1185年 (元暦2年、文治元年)2月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

2月5日 「吾妻鏡」己未
「散在の武士狼藉を致す」
 典膳(てんぜん)大夫(たいふ)中原久経・近藤七国平使節として上洛す(先々使節たりと雖も、他人相替わる。今度治定(ちてい)すと)。これ平氏を追討するの間、事を兵粮(ひょうろう)に寄せ、散在の武士、畿内(きない)近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴(しゅうそ)有り。仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。
(中略)

(注釈)
典膳(てんぜん)・・・内膳司(ないぜんし、天皇の食事担当)の次官。
大夫(たいふ)・・・五位。たゆう。
治定(ちてい)・・・世の中をおさめること。
兵粮(ひょうろう)・・・戦時における将兵の食糧。
畿内(きない)・・・帝都付近の地。大和・山城・河内・和泉・摂津。
愁訴(しゅうそ)・・・苦しみや悲しみを嘆き訴えること。

2月13日 「吾妻鏡」丁卯
「飢饉にて粮無き乗船無き」
 今日、伊澤の五郎の書状、鎮西(九州)より武衛(頼朝)の御旅館に到着す。その詞(し)に云く、平家追討の計を廻らさんが為、長門の国(山口県西部・北部)に入ると雖も、彼の国飢饉(ききん)にて粮(りょう)無きに依って、猶安藝の国(広島県西部)に引退せんと欲す。また九州を攻めんと欲するの処、乗船無きの間、進み戦わざるの由と。即ち御返事に云く、粮無きに依って長門を退くの條、只今敵に相向かわずんば、何事か有らんや。
(中略)

(注釈)
詞(し)・・・文章。
飢饉(ききん)・・・農作物がみのらず、食物が欠乏して、飢え苦しむこと。
粮(りょう)・・・行軍に携行する食糧。食品。

2月14日 「吾妻鏡」戊辰
「船無くして粮尽きる」
 参州(範頼)日来周防の国(山口県東部)に在るの時、武衛(頼朝)仰せ遣わされて云く、土肥の二郎・梶原平三に談らしめ、九国の勢を召すべし。これに就いて善く帰伏(きふく)の形勢を見らば、九州に入るべし。然らずんば、鎮西(九州)と合戦を好むべからず。直に四国に渡り平家を攻むべしといえり。而るに今参州(範頼)九国に赴かんと欲し、船無くして進まず。適々長門の国(山口県西部・北部)に渡ると雖も、粮尽きるの間、また周防の国に引退したり。軍士等漸く変意有って、一揆(いっき)せざるの由これを歎き申さる。その飛脚今日伊豆の国に参着す。仍って今度合戦を遂げず帰洛せしめば、何の眉目(面目)有らんや。粮を遣わすの程堪忍(かんにん)せしめ、これを相待つべし。
(中略)

(注釈)
帰伏(きふく)・・・心をよせてつき従うこと。帰順。降参。
一揆(いっき)・・・心を同じくしてまとまること。
堪忍(かんにん)・・・たえしのぶこと。

2月16日 「吾妻鏡」庚午
「義経先陣を欲す」
 関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国(香川県)に赴く。廷尉(ていじょう)義経先陣として、今日酉の刻(18時)纜(ともづな)を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧(こうしょう)を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。而るに卿諫(いさ)めて云く、泰経兵法(へいほう)を知らずと雖も、推量の覃(およ)ぶ所、大将軍たる者、未だ必ず一陣(いちじん)を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやといえり。廷尉云く、殊に存念(ぞんねん)有り。一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は陣を両所に結ぶ。前の内府(宗盛)讃岐の国(香川県)屋嶋を以て城郭と為す。新中納言知盛九国の官兵を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。
(注釈)
廷尉(ていじょう)・・・検非違使で左衛門尉を兼務している者。検非違使の官職名は判官。
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。
行粧(こうしょう)・・・よそおうこと。
兵法(へいほう)・・・いくさのしかた。用兵と戦闘の方法。兵学。軍法。
一陣(いちじん)・・・第一の陣。先陣。
存念(ぞんねん)・・・いつも心に思っていること。

2月16日 [玉葉]
「義経の発向を制止」
 伝聞、大蔵卿泰経卿御使として渡辺に向かう。これ義経が発向を制止せんが為と。これ京中武士無きに依って御用心の為なりと。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに公卿たり。此の如き小事に依って、輙(たやす)く義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。

2月18日 「吾妻鏡」壬申
「義経屋嶋に発向」
 廷尉(義経)昨日渡部より渡海せんと欲するの処、暴風俄に起こり、舟船多く破損す。士卒の船等一艘として纜を解かず。爰に廷尉云く、朝敵の追討使暫時逗留す。その恐れ有るべし。風波の難を顧(かえりみ)るべからずと。仍って丑の刻(2時)先ず舟五艘を出す。卯の刻(6時)阿波の国椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと。

2月19日 「吾妻鏡」癸酉
「義経屋島の内裏の向浦に到り民屋を焼き払う」 
 また廷尉(義経)、昨日終夜阿波の国(徳島県)と讃岐との境の中山を越え、今日辰の刻(8時)屋島の内裏(だいり)の向浦に到り、牟礼高松の民屋を焼き払う。これに依って先帝(安徳天皇)内裏を出でしめ御う。前の内府(宗盛)また一族等を相率い海上に浮かぶ。廷尉(赤地錦の直垂・紅下濃の鎧を着し、黒馬に駕す)、田代の冠者信綱・金子の十郎家忠・同余一近則・伊勢の三郎能盛等を相具し、汀(みぎわ、なぎさ)に馳せ向かう。平家また船に棹(さお)さし、互いに矢石(しせき)を発つ。この間佐藤三郎兵衛の尉継信・同四郎兵衛の尉忠信・後藤兵衛の尉實基・同養子新兵衛の尉基清等、内裏並びに内府休幕以下の舎屋を焼失す。黒煙天に聳え、白日光を蔽う。
(注釈)
内裏(だいり)・・・天皇の居所としての御殿。
矢石(しせき)・・・矢と弩(いしゆみ)の弾石。やだま。

2月21日 「吾妻鏡」乙亥
「義経阿波の国に渡る」
 平家讃岐の国(香川県)志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏(降参)す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国(徳島県)に渡る。熊野(くまの)の別当(べっとう)湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。
(注釈)
熊野(くまの)・・・和歌山県と三重県にかけての山地。
別当(べっとう)・・・神宮寺の僧職。

2月22日 「吾妻鏡」丙子
「東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着く」
 梶原平三景時以下の東士、百四十余艘を以て屋島の磯に着くと。

2月27日 [玉葉]
 伝聞、九郎去る十六日纜を解き、無為に阿波の国に着きたりと。

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2005年11月16日 (水)

1185年 (元暦2年、文治元年)1月

1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)

1月6日 「吾妻鏡」
「船無く粮絶え、船を用意し兵粮米を送る」
「乗馬を所望、馬は送らぬ」
 平家を追討せんが為西海に在るの東士等、船無く粮絶えて合戦の術を失うの由、その聞こえ有るの間、日来沙汰有り。船を用意し兵粮米を送るべきの旨、東国に仰せ付けらるる所なり。その趣を以て、西海に仰せ遣わされんと欲するの処、参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆(いっき)せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。その外鎮西の條々これを申さる。また乗馬を所望せらると。この申状に就いて、聊(いささ)か御不審を散ずと雖も、猶雑色定遠・信方・宗光等を下し遣わさる。但し定遠・信方は在京す。京都より相具すべきの旨、宗光に仰せ含めらる。宗光委細の御書を帯す。これ鎮西に於いて沙汰有るべきの條々なり。その状に云く、十一月十四日の御文、正月六日到来す。今日これより脚力を立てんとし候つる程に、この脚力到来し、仰せ遣はしたるむね委しく承り候たり。筑紫の事、などか従はざらんとこそおもふ事にて候へ。物騒がしからずして、よくよく国に沙汰し給べし。構えて構えて国の者共ににくまれずしておはすべし。馬の事、実にさるべき事にてはあれども、平家は常に京城をうかがふ事にてあれば、もしおのづから道にて押しとられなどしたらん事は、聞く耳も見苦しき事にてあらんずれば、つかはさぬ也。又内藤六が周防のせいを以て志をさまたげ候なる、以ての外の事也。
(中略)
一揆(いっき)・・・心を同じくしてまとまること。

「九国の御家人への御下文」
  また御下文一通、九国の御家人の中に遣わさる。その状に云く、
下す 
鎮西九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本所を安堵し、且つは参河の守の下知に随い、同心合力し朝敵平家を追討すべき事
 右彼の国々の輩に仰せ、朝敵を追討すべきの由、院宣先にたり。仍って鎌倉殿の御代官両人上洛するの処、参河の守は九国に向かい、九郎判官を以て四国に遣わさる所なり。爰に平家、縦え四国に在りと雖も、九国に着くと雖も、各々且つは院宣の旨を守り、且つは参河の守の下知に随い、同心合力せしめ、件の賊徒を追討すべきなりといえり。九国の官兵、宜しく承知し、不日に勲功の賞を全うすべし。
以て下す。
     元暦二年正月日        前の右兵衛の佐源朝臣

1月8日 壬辰 陰晴不定 [吉記]
「義経四国に向かうべき」
 大府卿院に於いて示して云く、廷尉義経四国に向かうべきの由申す所なり。而るに自身は洛中に候すべきか、ただ郎従を差し遣わすべきかの由、申さるる人有り。且つはこれ忠清法師在京中の由風聞す。定めて凶心を挿むかと。二三月に及ばば兵粮尽きたり。範頼もし引き帰さば、管国の武士等猶平家に属き、いよいよ大事に及ぶかの由、義経申す所なり。予申して云く、義経が申し状、尤もその謂われ有り。大将軍下向せず、郎従等を差し遣わすの間、諸国の費え有りと雖も、追討の実無きか。範頼下向の後この沙汰に及ぶか。然れば今春義経発向し尤も雌雄を決すべきか。忠清法師の事に於いては、沙汰に及ばざるか。但しその身を搦め進すべきの由、尤も宣下せらるべきか。義経下向すと雖も、猶然るべきの輩は、差し分け京都に祇候せしむべきの由、尤も仰せ合わさるべきなり。御祈祷微々、不便極まり無き事なり。その用途無きと雖も、尤も諸社・諸寺に仰せらるべきなり。三種の宝物の事、能々(よくよく)籌(はかりごと)を運(めぐ)らさるるべきの由これを申す。

1月9日 壬辰 陰晴不定 [玉葉]
「光輔宅に群盗乱入す」
今日隆職来る。前に召し雑事を仰す。去夜、大内記光輔の家、群盗乱入す。父長光入道同居、同じくこの災いに遭う。所望により綿衣一領、小袖一領これを遣る。

1月10日 甲午 [吉記]
「義経西国に発向す」
 大夫判官義経西国に発向すと。

1月12日 「吾妻鏡」丙申
「粮絶え船無く」
 参州(範頼)周防(山口県東部)より赤間関(下関)に到る。平家を攻めんが為、その所より渡海せんと欲するの処、粮絶え船無く、不慮の逗留数日に及ぶ。東国の輩、頗る退屈の意有り。多く本国を恋う。和田の小太郎義盛が如き、猶潛かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況やその外の族に於いてをや。
(中略)

1月26日 「吾妻鏡」庚戌
「豊後の国の住人八十二艘の兵船を献ず。」
「周防の国の住人兵粮米を献ず。」
 豊後の国(大分県)の住人臼杵の次郎惟隆・同弟緒方の三郎惟栄等、参州(範頼)の命を含み、八十二艘の兵船を献ず。また周防(山口県東部)の国の住人宇佐郡の木上七遠隆兵粮米を献ず。これに依って参州纜(ともづな)を解き、豊後の国に渡ると。
(中略)

(注釈)
纜(ともづな)・・・艫(とも、船尾)にあって、船をつなぎとめる綱。

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2005年11月15日 (火)

1184年 (壽永3年、元暦元年)10、11、12月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

10月13日 
「平氏淡路に着すという」
 伝聞、教盛卿等の為、長門の国(山口県西部・北部)に在るの源氏、葦敷追い落とされたりと。また平氏五六百艘淡路に着くと。

10月14日 
「窃盗等禁中(皇居)に乱入」
 伝聞、さる比窃盗等禁中(皇居)に乱入し、朝餉(朝食)に候ふ女房等衣裳悉く剥ぎ取りたりと。未曾有(みぞう)々々々。
(注釈)
未曾有(みぞう)・・・いまだ曾(かっ)て起こったことがないこと。

11月2日 晴れ
「頼朝に讒言あり」
今日源中納言雅頼卿来たり、世上の事を談ず。その次に云う、ある小僧(東国に通達する者と)語りて云う、摂政の辺りの人、余の事を頼朝に讒言(ざんげん)す。これにより先日奏聞の大事、黙止したりと。余かくの如きを聞く、悲しむべし、悲しむべし。推挙専ら好む所にあらず。讒言何ぞ痛むべきや。只家の前途、国の重事、悲しみて余りあるものか。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪くいうこと。

11月27日 
「頼朝、兼実に甘心」
 實厳阿闍梨来たり、密に語りて云く、少納言入道(相者、俗名宗綱、三條宮近臣)去る夜坂東より上洛す。言語の次いでに申して云く、頼朝云く、右府(兼実)殿の御事を京下りの輩に問う処、人別にその美を称し、未だその悪を聞かず。爰に社稷(しゃしょく)の臣たるを知ると。その気色を見るに、深く甘心(かんしん)の色有り。且つはこれ殊に音信を通せざるの故と。
(注釈)
阿闍梨(あじゃり)・・・僧位の一つ。
社稷(しゃしょく)・・・国家。朝廷。
社稷(しゃしょく)の臣・・・国家の重臣。
甘心(かんしん)・・・満足すること。快く思うこと。

12月7日 晴れ
「院御所放火近辺に強盗入るも沙汰なし」
 近日群盗の恐れ連日絶えず、去る日院御所に放火の事(即ち打ち消したり)有り。又近辺12町の中、強盗入り数人を害す。しかるに敢えて其の沙汰なしと。よつて泰経卿に付け上疏(じょうそ)を捧げる。疎遠の身諫(かん、いさめる)諍(しょう、あらそう)を献ずる能わずと雖も、納めずの条、全く恥じに非ず。よって微忠の至り、款(かん)状を献ずる許りなり。其の書状此の如し。

「兼実款状(かんじょう)」
「放火群盗等を禁遏(きんあつ)されるべき事」
 右天下騒乱以後、海内静かならざるの間、五畿七道の海陸の路塞がり、調庸祖税の貢ぎすでに空し。適住反の境、災難猶免れず、或いは炎旱(えんかん、ひでり)の愁いに依り、悉く亡損の地と為す。或るいは武士の妨げを恐れ、敢えて子のごとく来たる民無し、之に加え山門の厳穴(がんけつ)未だ安全の栖(せい、すむ)を聞かず。社内寺辺併しながら合戦の場と為す。此の如しの間、貴賤忽ち安堵の計を失う、緇素(しそ)各危困の嘆きを懐く。国土の凋弊(ちょうへい)、年を逐うて増すと雖も、朝家の大営(たいえい)茲に因りて減ずること無し。富者は倉廩(りん、くら)を空しくし、以て僅かに身命を存す。貧者は衣食無く以て飢え寒さ忍び難し。何に況んや近曾(ごろ)以来、放火間々起こり、盗賊頗りに聞ゆ。月卿(げっけい)雲客(うんかく)の居所を嫌わず、洛内城外の舎屋を論せず、連夜の災い日を追って絶えること無し。啻(ただ)資材を奪ふのみに非ず、殆ど又死傷に及ぶ。万人の歎き只此の事に在るのみ。逆党の征伐に於いて、旁々籌策(ちゅうさく)を運(めぐら)すと雖も、盗賊の厳制に至りては、速やかに刑法行うべし。鎮(ちん)乱の政、邇(ちか)きより遠きに及ぶ故なり。早く有司(役人)並びに武士等に仰せ、慥(たしか)に禁遏(きんあつ)されるべきか。其の間の子細宜しく有司の輩を訪ね、無為の謀を廻らされるべきなり。此の沙汰もし遅引せば、人家忽ち滅亡し、衆庶(しゅうしょ)いよいよ度を失うものか。それ君は臣の元首なり。人民の愁歎(しゅうたん)、叡襟(きん、えり)豈傷まざらんや。顧問(こもん)を待たず。進みて上奏の条、恐懼(きょうく)多端(たたん)、戦慄(せんりつ)謝し難し。然れども愚忠を存ずるにより、聖徳(せいとく)を驚かしむる許りなり。披露(ひろう)を計らるべき状くだんの如し。
        十二月七日        在判
    大蔵卿殿
夜に入り泰経の返礼到来す。速く奏すべしと。

(注釈)
上疏(じょうそ)・・・事情を記して上にたてまつること。
款状(かんじょう)・・・訴訟などの嘆願書。
禁遏(きんあつ)・・・おしとどめてやめさせること。
五畿(ごき)・・・五畿内。畿内。大和・山城・河内・和泉・摂津。
七道(しちどう)・・・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道。
調庸祖税・・・現物税。祖は粟、庸は絹、調は絹または麻など。
貢ぎ・・・君主に奉る財物。
厳穴(がんけつ)・・・岩のほらあな。
炎旱(えんかん)・・・ひでり。
緇素(しそ)・・・僧と俗人。
凋弊(ちょうへい)・・・おとろえつかれること。
大営(たいえい)・・・大事業。
月卿(げっけい)・・・公卿。
雲客(うんかく)・・・殿上人。
籌策(ちゅうさく)・・・はかりごと。
鎮(ちん)・・・しずめること。
衆庶(しゅうしょ)・・・庶民。
愁歎(しゅうたん)・・・嘆きかなしむこと。
顧問(こもん)・・・相談すること。
恐懼(きょうく)・・・恐れかしこまること。
多端(たたん)・・・複雑で多岐にわたつていること。
戦慄(せんりつ)・・・恐ろしくて、おののきふるえること。
聖徳(せいとく)・・・天子の徳。
披露(ひろう)・・・文書などをひらきあらわして見せること。

12月25日 「吾妻鏡」庚辰
「鹿島社に寄進」
 鹿島社神主中臣の親廣・親盛等、召しに依って参上す。今日営中(えいちゅう)に参り、金銀の禄物(ろくもつ)を賜う。剩(あまつさ)え当社御寄進の地、永く地頭(じとう)の非法を停止し、一向(いっこう)に神主管領(かんりょう)せしむべきの旨仰せ含めらる。これ日来御願書を捧げ、丹祈(たんき)を抽(ぬき)んじ給うの処、去る春の比、厳重の神変(しんぺん)を現わし給うの後、義仲朝臣伏誅(ちゅう)し、平内府(宗盛)また一谷の城郭を出て、敗北し四国に赴きたり。いよいよ御信心を催すに依って、今この儀に及ぶと。
(注釈)
鹿島社・・・鹿島神宮。
営中(えいちゅう)・・・将軍の居所。
禄物(ろくもつ)・・・禄として賜う金銭など。
地頭(じとう)・・・荘園の領主が土地管理のために現地に置いた荘官。
一向(いっこう)・・・すべて。
管領(かんりょう)・・・支配。
丹祈(たんき)・・・丹誠をこめて祈ること。
神変(しんぺん)・・・人知でははかり知ることのできない不思議な変化。
誅(ちゅう)・・・罪をせめて殺すこと。

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2005年11月14日 (月)

1184年 (壽永3年、元暦元年)7、8、9月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

7月3日 「吾妻鏡」己丑
 武衛(頼朝)前の内府(宗盛)已下平氏等を追討せんが為、源九郎(義経)主を以て西海に遣わすべき事、仙洞(せんとう)に申さると。
(注釈)
仙洞(せんとう)・・・上皇の御所。この場合、後白河法皇のことか。

7月8日 晴 
「伊賀・伊勢の平家党類謀叛」
 伝聞、伊賀(三重県西部)・伊勢(三重県)の国人(こくじん)等謀叛したり。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行(ちぎょう)すと。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻(8時)、家継法師(平家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りたり。
「鈴鹿山を切り塞ぎ」
 また伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛したりと。この事に因って院中物騒す。喩(たと)えを取るに物無し。
(注釈)
国人(こくじん)・・・在地の武士。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。治めること。

7月20日 晴
「官軍近江の国で謀反輩を敗る」
 伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国(滋賀県)に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退散す。宗(そう)たる者を伐ち取りたりと。
(注釈)
宗(そう)・・・最もすぐれた人。

7月21日 
「平田入道梟首」
 伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首(きょうしゅ)せられたり。その外両三人大将軍たる者伐たれたりと。忠清法師・家資等山に籠もりたりと。
「官軍佐々木秀義討たれる」
また官軍の内、大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれたり。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。
(注釈)
梟首(きょうしゅ)・・・斬罪に処せられた人の首を木にかけてさらす事。さらし首。

7月28日 晴 
「太政官庁にて即位行わる」
 この日即位の事有り。治暦四年の例に依って、太政官(だいじょうかん)の正庁に於いて、これを行わる。抑(そもそ)も劔璽(けんじ)の帰り来たるを相待ち、即位を遂行せらるべきや否や、予め人々に問わる。摂政(基通)及び左大臣(経宗)等に依り、剣璽を備えず、天子の位を践(ふ)む。異域例ありと雖も、わが朝かって跡無しと申す。然れども叡慮(えいりょ)並びに識者等の議奏(ぎそう)、天意を知らず、神慮(しんりょ)を測らざるに依って、行わるる所、只目を以てするのみ。
(注釈)
即位(そくい)・・・天皇践粗(せんそ)の後、即位の大礼を行うこと。
太政官(だいじょうかん)・・・国政を総括する最高機関。
劔璽(けんじ)・・・三種の神器のうち、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。宝剣と神璽。
叡慮(えいりょ)・・・天子のお考え。天皇・上皇などの御心。
議奏(ぎそう)・・・政事を議定して奏上すること。
神慮(しんりょ)・・・神のみこころ。

8月1日 晴 
「鎮西多く平氏に与す」
 或る人云く、鎮西(九州)多く平氏に與(よ)したり。安藝の国(広島県西部)に於いては、官軍(早川と)と六ヶ度合戦す。毎度平氏理を得ると。
(注釈)
與(よ)・・・仲間になること。

8月6日 晴
「義経明日任官すべし」
 午の刻、源中納言来たり、数刻言談す。語りて云く、去る比頼朝納言に還るべきの由、推挙を泰経に付け申し上ぐと。定めて不快の事有るか。恐れを為す。また云く、明日除書有るべし。九郎任官すべしといえり。

8月8日 「吾妻鏡」甲子 晴
「範頼、平家追討使として西海に赴く」
 参河(みかわ)の守範頼、平家追討使として西海に赴く。午の刻進発す。旗差(旗これを巻く)一人、弓袋一人、相並び前行す。次いで参州(紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)を着し、小具足(こぐそく)を加え、栗毛(くりげ)の馬に駕(が)す)、次いで扈従(こしょう)の輩一千余騎龍蹄(りゅうてい)を並ぶ。所謂、
    北條の小四郎  足利蔵人義兼   武田兵衛の尉有義  千葉の介常胤
    境の平次常秀  三浦の介義澄   男平太義村     八田四郎武者朝家
    同男太郎朝重  葛西の三郎清重  長沼の五郎宗政   結城の七郎朝光
    籐内所の朝宗  比企の籐四郎能員 阿曽沼の四郎廣綱  和田の太郎義盛
    同三郎宗實   同四郎義胤    大多和の次郎義成  安西の三郎景益
    同太郎明景   大河戸の太郎廣行 同三郎       中條の籐次家長
    工藤一臈祐経  同三郎祐茂    天野籐内遠景    小野寺の太郎道綱
    一品房昌寛   土左房昌俊
  以下なり。武衛(頼朝)御桟敷(さじき)を稲瀬河の辺に構え、これを見物せしめ給うと。
(注釈)
参河(みかわ)・・・参州。愛知県東部。
紺村濃(こんむらご)・・・紺色のむらご。全着すせられる濃い紺色にしたもの。
直垂(ひたたれ)・・・垂領(たりくび)式の上衣で、袴と合わせて用いた。
小具足(こぐそく)・・・武装の際の付属具。
栗毛(くりげ)・・・馬の毛色の名。たてがみと尾は赤褐色で、地色の赤黒色のもの。
駕(が)・・・あやつる。
扈従(こしょう)・・・つき従うこと。
龍蹄(りゅうてい)・・・すぐれた馬。

8月17日 晴
「頼朝上洛の風聞あり」
 伝聞、頼朝鎌倉を出て、すでに上洛するの間、伊豆の国に逗留す。秋の中入京すべからずと。この事甚だ甘心せず。天下勿(たちま)ちに滅亡か。
8月17日 「吾妻鏡」
「九郎左衛門少尉検非違使」
 源九郎主の使者参着す。申して云く、去る六日左衛門(さえもん)少尉(じょう)に任じ、使の宣旨を蒙る。これ所望の限りに非ずと雖も、度々の勲功を黙止せられ難きに依って、自然の朝恩たるの由仰せ下さるるの間、固辞すること能わずと。この事頗る武衛の御気色に違う。範頼・義信等の朝臣受領の事は、御意より起こり挙し申さるるなり。この主の事に於いては、内々の儀有り。左右無く聴されざるの処、遮って所望せしむかの由御疑い有り。凡そ御意に背かるる事、今度に限らざるか。これに依って平家追討使たるべき事、暫く御猶予有りと。
(注釈)
左衛門(さえもん)・・・左の皇居諸門の護衛。
尉(じょう)・・・次官(すけ)の下。衛門府、兵衛府、検非違使など。
使(し)・・・検非違使(けびいし)。京中の警察兼裁判官。
宣旨(せんじ)・・・天皇の命を伝える公文書。
御気色・・・御意向。
受領(ずりょう)・・・諸国の長官。(範頼は参河の守、義信は武蔵の守。)

8月18日 晴
「義朝免罪せらるべき事」
 大外記頼業来る。また云く、義朝が首、今に囹圄(れいぎょ)に在り。而るに罪を免さるべし。その間の事勘じ申すべき由、泰経の奉行となり仰せ下されたり。(中略)或る人云く、文覺上人上洛し、在獄の義朝の首を取り、鎌倉に向かうべしと。
(注釈)
囹圄(れいぎょ)・・・ろうや。

8月21日 晴 
「頼朝木瀬川に着す」
 伝聞、頼朝鎌倉城を出て木瀬川(伊豆と駿河の間と)の辺に来着し暫く逗留す。飛脚を進し申して云く、すでに上洛仕る所なり。但しひきはりても上洛候はざるなり。先ず参河の守範頼(蒲の冠者これなり)、数多の勢を相具せしめ参洛せしむ所なり。一日と雖も、京都に逗留すべからず。直に四国に向かうべき由仰せ含める所なりと。また聞く。荒聖人文覺を以て申して云く、当時摂政(基通)平妻を棄て置き洛に留む。敢えて過怠無きの上、君また此の如く思し食す。異議有るべからず。兼ねてまた入道関白(基房)尤も顧問に備うべき人なり。荘園少し。然るべきの国一つ宛て賜うべしと。或る説に云く、文覺頗る不けざるの気有りと。然れども、在獄中の義朝が首を取り、来るべきの由仰せ付くと。

8月23日 晴 
「院頼朝を基通の婿とせんとすという」
 伝聞、摂政(基通)頼朝が聟たるべしと。これ法皇仰すと。仍って五條亭を修理し移住せらる。頼朝上洛の時新妻を迎えんが為と。

9月3日 晴 
「源範頼藤原範季に養育さる」
 早旦範季朝臣来たり、不思議の事を示す。参河の国司範頼(件の男幼稚の時、範季子として養育す。仍って相親しいと)、上洛の間、件の事聞かず知らずの由を答う。頗る疑貽有り。然れども事の跡顕然たり。猶信ぜざるべからざるか。

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2005年11月13日 (日)

1184年 (壽永3年、元暦元年)5,6月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

5月1日 「吾妻鏡」
「故志水の冠者義高の伴類等、征罰の沙汰」
 故志水の冠者義高の伴類等、甲斐・信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと擬(ぎ)すの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由、その沙汰有り。足利の冠者義兼・小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。また小山・宇都宮・比企・河越・豊島・足立・吾妻・小林の輩、信濃の国に下向せしめ、彼の凶徒を捜し求むべきの由定めらると。この外、相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人等、同じくこれを相催し、今月十日進発すべきの旨、義盛・能員等に仰せらると。

5月2日 「吾妻鏡」
「志水の冠者誅戮の事に御家人馳せ参ず」
 志水の冠者誅戮(ちゅうりく)の事に依って、諸国の御家人馳せ参ず。凡そ群を成すと。
(注釈)
誅戮(ちゅうりく)・・・罪をただして殺すこと。
馳せ参ず(はせさんず)・・・大急ぎで参上する。

5月15日 「吾妻鏡」
「義廣の首を獲る」
 申の刻(16時)、伊勢の国(三重県)の駅を馳せ参着す。申して云く、去る四日、波多野の三郎・大井兵衛次郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門の尉惟義家人等、当国羽取山に於いて、志田三郎先生義廣と合戦す。殆ど終日に及び雌雄を争う。然れども遂に義廣の首を獲ると。この義廣は、年来叛逆の志を含み、去々年軍勢を率い、鎌倉に参らんと擬(ぎ)すの刻、小山の四郎朝政これを相禦ぐに依って、成らずして逐電し、義仲に属(つ)かしめたり。義仲滅亡の後また逃亡す。曽(か)ってその存亡を弁(わきま)えざるの間、武衛の御憤り未だ休まざるの処、この告げ有り。殊に喜ばしめ給う所なり。

6月16日 晴れ
「平氏党類、備後国の官兵を追い散らす」
 或いは云く、平氏の党類、備後の国(広島県東部)に在るの官兵を追い散らすと。土肥の二郎實衡(頼朝郎従なり)息男早川の太郎と。仍って播磨の国(兵庫県南西部)に在るの梶原平三景時(同郎従)、備前の国(岡山県南東部)に越えたり。その隙を聞き、平氏等少々室泊(室津。兵庫県)に来着し焼き払うと。仍って京都の武士等を催し(集め)遣わさると。凡そ追討の間、沙汰太だ泥の如し。大将軍遠境に在り。公家の事沙汰に人無し。ただ天狗万事を奉行するの比なり。沙汰無し。祈祷(きとう)無し。何を以て安全を期すべきや。

6月17日 陰晴不定
「平氏の勢強し」
 平氏その勢強しと。京勢僅かに五千騎に及ばずと。

6月21日 晴れ
「頼朝の上洛八月」
 伝聞、頼朝の上洛八月と。

6月23日 晴れ
「大仏の滅金(めっき)」
 晩に及び右中弁行隆来たり。簾前に召し大仏の間の事を問う。答えて云く、御身に於いては皆悉く鋳奉りたり。来月の内その功を終うべし。その後滅金(めっき)を塗り奉り、開眼有るべきなり。滅金の料金、諸人の施入(せにゅう)少々有るの上、頼朝千両、秀平五千両奉加(ほうが)の由承る所なりと。
「平氏の勢太だ強し」
(中略)また語りて云く、
平氏の勢太だ強し。源氏の武士等気色を損じたり。大略平氏落ちるの時の如し。決定大事出来すかと。
(注釈)
滅金(めっき)・・・鍍金
施入(せにゅう)・・・寺院などに財物を喜捨すること。
奉加(ほうが)・・・仏堂・伽藍の造営などに財物を寄進すること。寄付。

6月27日 「吾妻鏡」
「志水の冠者を討つが故、堀の籐次親家の郎従梟首」
 堀の籐次親家の郎従梟首(きょうしゅ)せらる。これ御台所の御憤りに依ってなり。去る四月の比、御使として志水の冠者を討つが故なり。その事已後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給い、日を追って憔悴す。諸人驚騒せざると云うこと莫し。志水が誅戮(ちゅうりく)の事に依って、この御病有り。偏に彼の男の不儀に起こる。縦え仰せを奉ると雖も、内々子細を姫公の御方に啓(もう)さざるやの由、御台所強く憤り申し給うの間、武衛(頼朝)遁(のが)れ啓すこと能わず。還(かえ)って以て斬罪に処せらると。
(注釈)
梟首(きょうしゅ)・・・さらし首。

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2005年11月12日 (土)

1184年 (壽永3年、元暦元年)4月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

4月1日 天晴 
「頼盛卿の後見の侍余の事叉法皇に奏すと」
ある人云う、頼盛卿の後見の侍清業、去月28日上洛し、件の男を以て余の事叉法皇に奏すと。凡そこの事一切存ぜざる事なり。不詳々々

4月7日 天晴 
「頼朝卿後見の史大夫清業頼朝の推挙堅き事」
 雅頼卿来たり、世上の事を談る。頼朝卿後見の史大夫清業、去る比納言(雅頼)の許に来たり語りて云く、下官(兼実)の事、頼朝の推挙堅き事を存ずと。奏聞の日、八幡(頼朝祝い奉ると)の宝前(ほうぜん)に於いて、能く祈念致すの後、廣元に仰せこれを書せしむと。
(注釈)
史大夫・・・?「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」1月28日
宝前(ほうぜん)・・・神仏の御前。

4月10日 「吾妻鏡」
「頼朝は義仲追討の賞により正四位下に叙さる」
 源九郎の使者京都より参着す。去る月二十七日除目(じもく)有り。武衛(頼朝)正四位下に叙し給うの由これを申す。これ義仲追討の賞なり。彼の聞書(もんじょ)を持参す。この事、藤原秀郷朝臣天慶三年三月九日、六位より従下四位に昇るなり。武衛の御本位は従下五位なり。彼の例に准(なぞら)えらると。また忠文(宇治民部卿)の例に依って、征夷(せいい)将軍の宣下有るべきかの由、その沙汰有り。而るに越階(おっかい)の事は、彼の時の准拠然るべし。將軍の事に於いては、節刀(せっとう)を賜い、軍監(ぐんげん)軍曹(ぐんそう)に任ぜらるるの時、除目を行わる。今度の除目に載せらるの條、始めてその官を置くに似たり。左右無く宣下せられ難きの由、諸卿群議有るに依って、先ず叙位(じょい)と。
(注釈)
除目(じもく)・・・諸司・諸国の官などを任ずる儀式。任官の人名を記した目録の意。
聞書(もんじょ)・・・除目(じもく)の宣旨(せんじ)を記載した文書。
征夷(せいい)・・・えびす(蝦夷、奥羽北海道の反朝廷勢力)を征伐すること。
越階(おっかい)・・・順序を経ずに、段階をとびこして位階の昇進すること。
節刀(せっとう)・・・天皇が将軍に賜った刀。天皇の権限を代行する意味を持つ。
軍監(ぐんげん)・・・鎮守府および征夷使の第3等官。副将軍の次の官。
軍曹(ぐんそう)・・・軍監(ぐんげん)の次に位した役。
叙位(じょい)・・・位階に叙(官位をさずける)すること。

4月16日 去る夕より雨降り、午上甚雨、午後天晴れ
「元暦と改元」  改元。壽永三年を改め元暦元年と為す。
この日改元の事有り。去年その儀有りと雖も、即位以前たるに依って、遂げられずと。然れども天下猶静まらざるの間、即位また急行せられ難し。年を踰(こ)えるの後すでに数月に及ぶ。仍って乱逆止まざるに依って、即位以前行わるる所なり。俊経卿(大應・弘治・大喜)、兼光卿(元徳・文治)、光範朝臣(元暦・恒久・承寛)、業實朝臣(顕寛・應暦)。

4月21日 「吾妻鏡」己丑
「志水の冠者義高逐電」
去る夜より、殿中聊(いささ)か物騒す。これ志水の冠者武衛(頼朝)の御聟(むこ)たりと雖も、亡父すでに勅勘(ちょっかん)を蒙り戮(りく)せらるるの間、その子として、その意趣尤も度(はか)り難きに依って誅せらるべきの由、内々思し食し立つ。この趣を昵近(じっきん)の壮士等に仰せ含めらる。女房等この事を伺い聞き、密々姫公の御方に告げ申す。仍って志水の冠者計略を廻らし、今暁遁れ去り給う。この間女房の姿を仮り、姫君御方の女房これを圍(かこ)み郭内(かくない)を出したり。馬を隠し置き、他所に於いてこれに乗らしむ。人に聞かしめざらんが為、綿を以て蹄(ひづめ)を裹(つつ)むと。而るに海野の小太郎幸氏は、志水と同年なり。日夜座右に在って、片時も立ち去ること無し。仍って今これに相替わり、彼の帳臺(ちょうだい)に入り宿衣(しゅくえ)の下に臥し、髻(もとどり)を出すと。日闌(さえぎり)て後、志水の常の居所に出て、日来の形勢を改めず、独り双六を打つ。志水双六の勝負を好み、朝暮これを翫(もてあそ)ぶ。幸氏必ずその相手たり。然る間殿中の男女に至るまで、ただ今に坐せしめ給うの思いを成すの処、晩に及び縡(こと)露顕(ろけん)す。武衛(頼朝)太だ忿怒(ふんぬ)し給う。則ち幸氏を召し禁(いま)しめらる。また堀の籐次親家已下の軍兵を方々の道路に分け遣わし、討ち止むべきの由を仰せらると。姫公(君)周章(しゅうしょう)し魂を鎖しめ給う。
(注釈)
勅勘(ちょっかん)・・・天子のとがめ。
戮(りく)・・・切り殺すこと。
昵近(じっきん)・・・なれしたしむこと。
郭内(かくない)・・・一定の区画のうち。
周章(しゅうしょう)・・・あわてふためくこと。

4月24日 天晴れ
「頼朝八幡宮に参籠す」
 今日隆職来たり、密々の事等を語る。頼朝下官(兼実)の事を申せしむ。深い意趣等有り。その事を申さんと欲し、七ヶ日八幡宮(頼朝祈り奉祝の所と)に参籠するの後、宝前に於いて折紙を書き進上せしむと。偏に天下の事を思うに依って申せしむと。

4月26日 「吾妻鏡」甲午
「志水の冠者義高を誅する」
 堀の籐次親家郎従籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを申す。この事密儀たりと雖も、姫公(君)すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎(しゅうたん)の余り、奬水を断たしめ給う。理運(りうん)と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。
(注釈)
愁歎(しゅうたん)・・・嘆き悲しむこと。
奬水・・・奬(すすめる)
理運(りうん)・・・道理にかなっていること。
御台所(みだいどころ)・・・将軍などの妻の敬称。
歎色・・・歎(なげくこと)

4月27日 雨降る [吉記]
 平氏猶強々と。鎮西の輩松浦党已下少々属くの由風聞すと。

4月28日 雨下
「文覚参院兼実の事を申す」
 伝聞、荒聖人聞覺・公朝等、一昨日夕入洛す。今日、件の聖人参院すと。件の聖人を以て余の事猶院に申すと。実にこれ明神の加護か。将又不祥の根元か。

4月28日 [吉記]
「丹後(局)侍従忠房、去る比密々関東に下向」
 伝聞、丹後(局)侍従忠房、去る比密々関東に下向す。武衛(頼朝)の松容を伺わんと為す。一日比可許を蒙り帰洛すと。もしこれ小松大臣(平重盛)子孫事有るべきかの由称せしむ事か。
(注釈)
松・・・松の位(五位の官、大夫、たいふ、たゆう)

4月29日 丁酉
「文覚種々の荒言を吐くと」
 坂東の荒聖人聞覺、今日参院す。広座に於いて種々の荒言を吐くと。

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2005年11月11日 (金)

1184年 (壽永3年、元暦元年)3月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

3月1日 雨
「重衡源平共に召仕わる事を望むも頼朝承諾すべからず」
蔵人左衛門権佐定長昨日の召しにより来る。語りて云く、重衡遣わす所の使者(左衛門の尉重国)帰参す。また消息の返事有り。申状大略和親を庶幾(しょき)するの趣なり。所詮(しょせん)源平相並び召し仕わるべきの由か。この條頼朝承諾すべからず。然れば治め難き事なり。但しこの上は別の御使来たるの時に於いて、子細を奉り、重ねて所存を申すべしと。
3月1日 「吾妻鏡」
「平家追討の御下文(くだしぶみ)」
 武衛(頼朝)御下文を鎮西九国の住人等の中に遣わさる。平家を追討すべきの趣なり。凡そ諸国の軍士を召し聚(あつ)むと雖も、彼の国々平家に與同せしむに依って、未だ帰伏奉らざるが故なり。件の御下文に云く、
   下す 鎮西九国の住人等
 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本の如く安堵し、且つは各々[彼の国の官兵等]を引率し、平家の賊徒を追討すべき事
 右、彼の国の輩皆悉く引率し、朝敵を追討すべきの由、院宣(いんぜん)を奉り仰せ下す所なり。抑(そもそも)も平家謀叛の間、去年追討使、東海道は遠江の守(とおとおみのかみ)義定朝臣、北陸道は左馬の頭(さまのすけ)義仲朝臣、鎌倉殿の御代官として、両人上洛するの処なり。兼ねて又義仲朝臣平家と和議を為し、謀反の條、不慮の次第なり。仍って院宣の上、私の勘当(かんどう)を加え、彼の義仲を追討せしめたり。然れども平家四国の辺を経廻せしめ、ややもすれば近国の津泊に出で浮かび、人民の物を奪い取る。狼唳(ろうれい)絶えざるものなり。今に於いては、陸地と云い海上と云い、官兵を遣わし、不日に追討せしむべしといえり。鎮西九国の住人等、且つは本の如く安堵し、且つは皆彼の国の官兵等を引率し、宜しく承知すべし。不日(ふじつ)に勲功の賞を全うす。以て下す。
     壽永三年三月一日       前の右兵衛の佐源頼朝
(注釈)
蔵人(くらんど)・・・くろうど。蔵人所(宮中の雑事)の職員。
左衛門(さえもん)・・・左の衛門府(えもんふ、皇居の護衛)
権(ごん)・・・定員外の権(かり)の地位
佐(すけ)・・・兵衛府、衛門府の次官。
尉(じょう)・・・次官(すけ)の下。
重衡(しげひら)・・・平清盛の五男。
庶幾(しょき)・・・こひねがう。
所詮(しょせん)・・・つまるところ。結局。
下文(くだしぶみ)・・・上位者からその管轄下の役所や人民などに下した公文書。
武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)の唐名。頼朝は兵衛府の次官だった。
聚(あつ)む・・・しゅう。集める。
與同(よどう)・・・与同。同意して力を貸すこと。
帰伏(きふく)・・・心をよせてつき従うこと。
安堵(あんど)・・・支配下の所領の知行(ちぎょう)を保証し、承認すること。
知行(ちぎょう)・・・土地を支配すること。
院宣(いんぜん)・・・院の宣旨(せんじ)。院司が上皇または法皇の命令を受けて出す公文書。
朝臣(あそん)・・・あそみ。三位以上の人の姓のした、四位の人の名の下につける敬称。
勘当(かんどう)・・・罪を勘(かんが)えて法に当てはめて処罰すること。
津(つ)・・・渡し場。
泊(はく)・・・船着き場。
狼唳(ろうれい)・・・狼のように心がねじけていて、道理にそむくこと。
不日(ふじつ)・・・まもなく。
右兵衛の佐・・・右の兵衛府の次官。

3月10日 晴
「重衡頼朝の請により東国に下向す」
 今日、重衡東国に下向す。頼朝申請する所なりと。

3月16日 晴
「信西入道後白河天皇暗愚なるも二つの徳ありと頼業に語る」
大外記頼業来たり、語りて云う、先年通憲法師語りて云う、当今(法皇を謂うなり)和漢の間比類少なき暗主なり。謀反の臣傍にあり。一切覚悟の御心無し。人これを悟らしめ奉ると雖も、猶以て覚(さと)らず。かくの如きの愚昧(ぐまい)、古今未だ見ず未だ聞かざる者なり。但しその徳二あり。もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、敢えて人の制法に拘わらず、必ずこれを遂ぐ(この条賢主に於いて大失たり。今愚暗の余り、これを以て徳となす)。次に自ら聞し食し置く所の事、殊に御忘却無し。年月遷(うつ)ると雖も心底に忘れ給わず。
この両事徳となすと。
 ある人云う、平氏伐たれたりと。或いは叉生け捕り、或いは叉土佐の国に引き籠もると。近日かくの如き説縦横、一定を存じ難きか。
(注釈)
信西入道・・・藤原通憲(みちのり)の剃髪後の称。
当今(とうぎん)・・・当代の天皇。今上天皇。
暗主(あんしゅ)・・・愚かな君主。暗君。
愚昧(ぐまい)・・・愚かで道理がわからないこと。
叡(えい)・・・天子の事柄に冠する尊敬語。
賢主(けんしゅ)・・・賢明な君主。
愚暗(ぐあん)・・・おろかで道理にくらいこと。暗愚。
縦横(じゅうおう)・・・かってきまま。自由自在。

3月23日 天晴 
「頼朝兼実を摂政籐氏長者となすべき事等を院に奏す」
光長告げ送りて云う、広季只今入り来たりて云く、頼朝条々の事を院に奏す。その中下官(兼実)摂政籐氏長者たるべきの由挙げしめたり由、廣元(廣季男なり)の許より告げ送る所なりと。即ちその正文(しょうもん)御覧を経るべきの由、廣季申せしむと。当時摂政もしその恩有るべくば、ただ一州を賜ひて足るべしと。件の状一見を加え返し遣わしたり。件の脚力去る十九日到来す。頼朝院に奏する状、即ち廣元執筆し、泰経卿に付すと。同二十一日御返事を遣わし、急ぎ左右(そう)を申すべきの由仰せらると。大略この事然るべからずと仰せらるるものか。或る人云く、去る十一日、左衛門の尉公朝御使として下向す。即ちこの事頼朝の本意此の如きの由、予め風聞するに依って、その子細を仰せ遣わさると。凡そこの事の次第、叡念に堪え難しと謂うべきなり。
「院基通を贔屓(ひいき)す」

「兼実吉事ありと俗人謳歌するは尾籠なり」

(注釈)
摂政(せっしょう)・・・君主代わって政務を行う。
氏長者(うじのちょうじゃ)・・・氏の代表者。
籐氏長者・・・藤原氏の代表者。
正文(しょうもん)・・・原書。真本。原本。
左右(そう)・・・決定。

3月28日 天晴 
「大除目というも別事なし」
 大除目たるべきの由、兼日謳歌す。而るに頼朝が申状に依って、珍事等止められたりと。頼朝正四位下に叙す。もしこれ所望か。将又推して行わるるか。然れば同じく直官に任ぜらるべきか。

3月29日 雨下る 
 或る人云く、入道関白(基房)並びに摂政(基通)の許より、各々使者を頼朝の許に送る。或いは貨物を送り、或いは陳状(ちんじょう)有りと。下官(兼実)ただ仏神に奉仕するのみ。
(注釈)
陳状(ちんじょう)・・・陳述の文書。

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2005年11月10日 (木)

1184年 (壽永3年、元暦元年)2月

1184年 (壽永3年、4月16日改元 元暦元年 甲辰)

2月1日 天晴れ
「春日祭延引殿歴」
「頼朝近習親能兼実天下を直す事に異議無しと申す」
雅頼卿来たり世上の事を談る。齋院次官親能(前の明法博士中原廣季の子)は頼朝が近習の者、また雅頼卿の門人なり。今度陣の行事となり上洛を為す。去る二十一日件の卿に謁するの次いでに、親能云く、もし天下を直されべくば、右大臣(兼実)殿世を知ろし食すべきなり。異議無しと。納言問いて云く、この條上奏に及ぶべきか如何。親能云く、もし尋ね有らば、この旨を申すべきの由所存なりと。納言重ねて云く、尋ね無くば、黙止すべきか。親能云く、進し申すべきの由は承らずと。事体頗るしどげなきに似たるか。くだんの男責めるも人覚えずなりと。昨今、追討使等、皆悉く下向すと。先ず山陽道を追い落とすの後、漸々沙汰有るべしと。
2月1日 「吾妻鏡」
「蒲の冠者範頼主御気色を蒙る」
 蒲の冠者範頼主御気色を蒙る。これ去年冬、木曽を征せんが為上洛するの時、尾張の国墨俣の渡に於いて、先陣を相争うに依って、御家人等と闘乱するが故なり。その事、今日すでに聞こし食すの間、朝敵追討の以前、私の合戦を好み、太だ穏便ならざるの由仰せらると。
(注釈)
しどげなき・・・しつかりしていない。
気色(きしょく)・・・憤慨。怒りを顔にあらわすこと。
闘乱(とうらん)・・・争乱。戦乱。

2月2日 天晴れ
「院の子と称する人伯耆半国を伐り取る」
「入夜火事あるも院御所難を免る」
「平家追討は院の素懐なり」
或る人云く、西国に向かう追討使等、暫く前途を遂げず。猶大江山の辺に逗留すと。平氏その勢オウ弱に非ず。鎮西少々付きたりと。下向の武士、殊に合戦を好まずと。 土肥の二郎實平・次官親能等(この両人頼朝の代官なり。武士等に相副え、上洛せしむ所なり)、或いは御使誘い仰せらるの儀、甚だ甘心申すと。而るに近臣の小人等(朝方・親信・親宗等、少弁・北面の下臈等に触ると)、一口同音に追討の儀を勧め申す。これ則ち法皇の御素懐(そかい)なり。仍って流れに棹(さお)さし左右(そう)無き事か。この上左大臣(経宗)また追討の儀を執り申さるると。凡そこの条その理然るべしと雖も、神鏡剣璽を重ぜられざる条、神虜如何。天意叉主とせざる者か。
「光長基房の縁人により棄置かるという」
人云う、摂政(基通)の執事家実(兼光の子)年預棟範と。光長松殿(基房)の縁人たるに依り棄て置くと。
(注釈)
素懐(そかい)・・・平素のねがい。かねてからの願い。
棹(さお)さす・・・時流に乗る。また、時流にさからう意に誤用。
左右(そう)・・・かれこれ言うこと。

2月3日 天晴
「行家入洛」
 法印来られる。今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。院の召しに依ってなり。頼朝また勘気を免ずと。
(注釈)
勘気(かんき)・・・主君からのとがめ。

2月4日 雨下る
「平氏安徳天皇を奉じ福原に着すという」
 源納言(雅頼)示し送りて云く、平氏主上(天皇)を具し奉り、福原に着きたり。九国未だ付かず。四国・紀伊の国等の勢数万と。来たる十三日一定入洛すべしと。官軍等手を分かつの間、一方僅かに一二千騎に過ぎずと。天下の大事、大略分明と。

2月5日 雨下る
「弥勒講」

2月6日 天晴 
 或る人云く、平氏一谷に引退し、伊南野に赴くと。但しその勢二万騎と。官軍僅かに二三千騎と。仍って加勢せらるべきの由申し上げると。また聞く、平氏引退の事謬説と。その勢幾千万を知らずと。

2月7日 天晴 

2月8日 天晴 
「一谷合戦の子細」
未明人走り来たりて云う、式部権の少輔範季朝臣の許より申して云く、梶原平三景時の許より、飛脚を進め申して云く、平氏皆悉く伐ち取りたりと。その後午の刻(12時)ばかりに、定能卿来たり、合戦の子細を語る。一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻(8時)より巳の刻(10時)に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされたり。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。大略城中に籠もるの者一人も残らず。但し素より乗船の人々四五十艘ばかり島辺に在りと。而るに廻し得るべからず。火を放ち焼死したり。疑うに内府(宗盛)等かと。伐ち取る所の輩の交名未だ注進せず。仍って進さずと。
「劔璽神鏡の安否未だ聞かず」
劔璽・内侍所の安否、同じく以て未だ聞かずと。
(注釈)
搦手(からめて)・・・城の裏門を攻める軍勢。
大手(おおて)・・・城の正面に攻めかかる軍勢。
劔璽(けんじ)・・・三種の神器のうち、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)。宝剣と神璽。
内侍所 (ないしどころ)・・・八咫鏡(やたのかがみ)。三種の神器の一。巨大な鏡の意。

2月9日 天晴 
「平氏の穢充満」
「重衡實平の許に禁固せらる」
今日、三位中将重衡入京す。褐の直垂小袴を着すと。即ち土肥の二郎實平(頼朝郎従、宗たる者なり)の許に禁固すと。

2月10日 天晴 
「兼実母遠忌」
「義経等義仲と平氏の首に差あるを欝申す」
夜に入り蔵人右衛門権佐定長来たり仰す。院宣に云く、平氏の首等、渡さるべからざるの旨思し食す。而るに九郎義経・加羽の範頼等申して云く、義仲の首を渡され、平氏の首を渡されざるの條、太だその謂われ無し。何故平氏を渡されざるやの由、殊に欝し申すと。この條如何計らひ申すべしといえり。申して云く、その罪科を論ずるに、義仲と斉(ひとし)からず。また帝の外戚(がいせき)等たり、その身或いは卿相に昇り、或いは近臣たり。誅伐を遂げらると雖も、首を渡さるの條、不義と謂うべし。近くは則ち、信頼卿の頸渡されざる所なりと。
「神爾宝剣なお賊手にあり」
之に加え、神璽宝剣猶残りの賊の手にあり。無為に帰来の条、第一の大事なり。もしこの首を渡されば、かの賊等いよいよ怨心を励ましむるか。よって傍々その首を渡さるべからず。将軍等只一旦所存を申すか。子細を仰せらるる上は、何ぞ強ちに執り申さんや。頼朝定めてこの旨を承り申さざるか。この上の左右は勅定にあるべしといえり。定長云う、左大臣(経宗)、内大臣(実定)、忠親卿等に問わる。各渡さるべからざる由を申し、一同すと。
「重衡書札を宗盛に送り剣爾を進上すべしという」
定長叉語りて云う、重衡申していわく、書札に使者を副え(重衡の郎従と)、前内府(宗盛)の許に遣わし、剣璽を乞い取り進上すべしと。この事叶わずと雖も、試みに申請に任せ御覧ずべしと。
(注釈)
外戚(がいせき)・・・母方の親類。
書札(しょさつ)・・・書状。てがみ。かきつけ。

2月11日 雨降り
「平氏誅罰の事により人々参院す」
平氏の首の事、計り申す旨然るべし。また人々渡さるべからざるの由を問い申す。而るに将帥等殊に欝し申す。その上強いてまた悋惜(りんじゃく)に及ぶべからず。仍って渡すべきの由仰せたりと。
「基房院の不興を蒙る」
 伝聞、入道関白(基房)、院の御気色殊に不快と。内々仰せて云く、禅門(基房)摂政を推挙すべき由を頼朝の許に示し遣わす(去年七月乱の後の事と)。頼朝口入に能わざるの由を答うと。叉仰せて云う、去年7月、当時摂政改められるべき儀あり。時に入道12の亜相(師家)を挙る。朕許さず。右府(兼実)当仁の由を存ず。しかるに禅門申して云う、摂録もし右府の家に入らば、永くかの家に留まるべし。わが恥を雪(すす)ぐべからず。よって本人を改めらるべからず。且つこの申し状により動揺無しと。
「摂関家領分かち難し」
しかして禅門叉申して云う、然からば一所庄々、少々分かち賜うべしと。朕答えて云う、摂政氏の長者改易無くば、何ぞ所領の違乱に及ばんや。てえれば、今義仲の乱逆の時に当たり、12の摂政を補し、数百の荘園を領す。これ即ち朕先日摂政の家領輙く分かち難き由を示すにより、事をこの勅言に寄せ、一所も残さず押領すと。次第甚だ欝し思し食す所なりと。
「基房義仲に与し西国御幸を勧め申す」
叉去る冬西国の御幸あるべき由、義仲申し行う時、隆憲を以て使いとなし、禅門頗りに勧め申さる。この事忘れ難しと。(以上院の仰せ)。この事確かなる摂を以て聞く所なり。また聞く。平氏の許に書札を遣わし、音信を通すの人、勝げて計うべからず。王侯卿相・被官・貴賤上下、大都洛人残る輩無し。就中、院の近臣甚だ多しと。余この事聞くと雖も、敢えて相驚かず。一切この恐れ無き故なり。これを以て思うに、貞直の道、こいねがいて猶庶ふべきものか。彼岸の所作今夜結願したり。
(注釈)
悋惜(りんじゃく)・・・ものおしみをすること。
朕(ちん)・・・天子の自称。

2月12日 
「最吉夢あり」
宰相中将貞能来たり語りて云う、明日首を渡さるべしと。

2月13日 雨降り
「平氏の首京師を渡さる」
 この日平氏の首(その数十と)を渡さる。公卿の頭渡さるべからざるの由その議有りと雖も、武士猶欝し申すと。如何。通盛卿の首同じく渡されたり。弾指すべきの世なり。

2月14日 天晴 

2月15日 

2月16日 天晴 
「頼朝上洛せざれば院東国臨幸ありという」
 源中納言雅頼卿来たり語りて云く、頼朝四月上洛すべしと。次官親能院の御使として東国に下向す。仰せに云く、頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸有るべきの由仰せ有りと。この事殆ど物狂い、凡そ左右に能わずと。

2月17日 微雨下 

2月18日 天晴 

2月19日 天晴 
「忠通忌日」
「平氏讃岐国屋島に帰住す」
この日、中御門大納言来らる。
 伝聞、平氏讃岐八島に帰住す。その勢三千騎ばかりと。渡さる首の中、教経に於いては一定現存すと。また維盛卿三十艘ばかりを相卒い南海を指し去りたりと。又聞く、資盛・貞能等、豊後の住人等の為生きながら取られたりと。この説、日来風聞すと雖も、人信受せざるの処、事すでに実説と。また聞く、重衡卿万事尋問せらるの間、下官天下を知るべきの由、平氏議定するの間申せしむと。
「兼実平氏との音信問わる」
よって覆問せられて云う、もし音信を通ずる事あるかと。申して云う、その条一切知らず。只傍若無人たるにより、その仁に当たると。

2月20日 天陰
「頼朝勧賞につき過分事望まずと申す」
 去る月二十一日頼朝の許に遣わす所の飛脚帰参す。頼朝申して云く、勧賞の事ただ上の御計らいに在り。過分の事一切欲する所に非ずと。

2月21日 雨下
「僧事あり」
2月21日 「吾妻鏡」
「木曽殿の御下文」
 尾籐太知宣と云う者有り。この間義仲朝臣に属く。而るに内々御気色を伺い、関東に参向す。武衛今日直に子細を問わしめ給う。信濃の国中野の御牧、紀伊の国田中・池田両庄、知行せしむの旨これを申す。何の由緒を以て伝領せしむやの由尋ね下さる。先祖秀郷朝臣の時より、次第に承け継ぐの処、平治乱逆の刻、左典厩の御方に於いて、牢籠の後得替す。これを愁い申すに就いて、田中庄は、去年八月、木曽殿の御下文を賜うの由これを申す。彼の下文を召し出しこれを覧たまう。仍って知行相違有るべからざるの旨仰せらると。

2月22日 天晴 
「法恩講」
「諸国兵粮米を責め取り他人領を押し取るを事を停止す」
左大弁経房卿来たり。語りて云く、諸国兵粮の責め、並びに武士他人の領を押し取る事、停止すべきの由宣旨を下さる。武士実に申し行うと。

2月23日 
 大夫史隆職、近日下さるべきの宣旨等これを注進す。仍ってこれを続け加ふる施行、更に以て叶うべからざる事か。法有りて行わず。法無きに如かず。

「宗盛追討宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝をして、前の内大臣平朝臣以下の党類を追討せしむべき事
右、左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す。勅(みことのり)を奉る。
前の内大臣以下の党類、近年以降専ら邦国の政を乱す。皆これ氏族の為なり。遂に王城を出て、早く西海に赴く。就中山陰・山陽・南海・西海道の諸国を掠領し、偏に乃貢を奪い取る。この政途を論ずるに、事常篇に絶ゆ。宜しく彼の頼朝をして件の輩を追討せしむべしといえり。
     寿永三年正月二十六日     左大史小槻宿祢

「源義仲党類追討宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝、その身源義仲の余党を召し進せしむべき事
右、左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す。勅を奉る。
謀反の首義仲の余党、遁れて都鄙(ひな)に在るの由、普くその聞こえ有り。宜しく彼の頼朝をして件の輩を召し進せしむべしといえり。
     寿永三年正月二十九日     左大史小槻宿祢
   五幾内七道諸国同じくこれを下知す

「武士押妨停止の宣旨」
 応(まさ)に散位源朝臣頼朝をして、且つは子細を捜し尋ね言上を経て、且つは武勇の輩の神社・仏寺、並びに院宮諸司及び人領等を押妨すること、停止に従わせしむべき事
右近年以降、武勇の輩皇憲(天皇が定めた法令)を憚らず、恣に私威を輝かし、自由を成す。文を下し諸国七道に廻らし、或いは神社の神供を押し黷(けが)し、或いは仏寺の仏物を奪い取る。況や院宮諸司及び人領をや。天の譴(けん、せめ)遂に露れ、民の憂い定まること無し。前事の云存、後輩慎むべし。左中弁藤原朝臣光雅宣を伝え、左大臣宣す、勅を奉る。自今以後、永く停止に従い、敢えて更に然ること莫れ。但し由緒有るに於いては、彼の頼朝子細を相訪らひ、官に言上し、もし制旨に遵(じゅん、したがう)ぜず、猶違犯せしめば、専ら罪科に処し、曽って寛宥(罪科をゆるす)せずといえり。
     寿永三年二月十九日      左大史小槻宿祢
    左弁官下
        五幾内諸国七道諸国に下すこれに同じ

「公田庄園への兵粮米を徴集停止の宣旨」
 応(まさ)に早く国司に仰せ、公田庄園の兵粮米を宛て催すを停止すべき事
右治承以降、平氏の党類暗に兵粮と称し、院宣を掠めなし、恣に五畿七道の庄公に宛て、すでに敬神尊仏の洪範(模範となる大法)を忘る。世の衰微・民の凋弊、職(もとより)としてこれに由れり。況や源義仲その跡を改めず、益々この悪を行う。曽(かつて)って朝威を失い、共に幽冥に背く。爰に散位源朝臣頼朝、幾日を廻さず西賊を討滅す。然れば則ち干戈(かんか、たてとほこ、武器)永く劔まり・宇宙静謐す。権大納言藤原朝臣忠親宣す、勅を奉り。早く諸国司に仰せ、宜しく件の催しを停止すべしといえり。諸国承知せよ。宣に依りこれを行う。
     寿永三年二月二十二日     左大史小槻宿祢
   中弁藤原朝臣

2月23日 「吾妻鏡」
 前の右馬の助季高・散位宗輔等、義仲朝臣に同意するに依って、これを召し禁しめられ、使の廰に下さると。

2月24日 晴れ
「小御堂修二月会」

2月25日 陰
「近辺の小屋等追捕」
 今月、近辺の小屋等追捕入ると。

2月25日 「吾妻鏡」甲申
  朝務の事、武衛御所存の條々を注し、泰経朝臣の許に遣わさると。その詞(ことば)に云く、
   言上
     條々
  一、朝務の事
 右、先規を守り、殊に徳政を施さるべく候。但し諸国の受領(長官)等、尤も計りの御沙汰有るべく候か。東国・北国両道の国々、謀叛を追討するの間、土民無きが如し。今春より、浪人等旧里に帰住し、安堵せしむべく候。然れば来秋の比、国司を任ぜられ、吏務を行われて宜しかるべく候。
  一、平家追討の事
 右、畿内近国、源氏平氏と号し弓箭に携わるの輩並びに住人等、早く義経が下知に任せ、引率すべき由、仰せ下さるべく候。海路輙(ちょう、すなわち)ならざると雖も、殊に総て追討すべき由、義経に仰せ付けらるべきなり。勲功の賞に於いては、その後頼朝遂って計り申し上ぐべく候。
  一、諸社の事
 我が朝は神国なり。往古の神領相違無し。その外、今度始めて又各々新加せらるべきか。就中、去る比鹿島大明神御上洛の由、風聞出来するの後、賊徒追討す。神戮空しからざるのものか。兼ねて又もし諸社破壊顛倒の事有らば、功程に随い召し付けらるべきの処、功作の後、御裁許を被るべく候。恒例の神事、式目を守り、懈怠無く勤行せしむべきの由、殊に尋ね御沙汰有るべく候。
  一、仏寺の間の事
 諸寺諸山の御領、旧の如く恒例の勤め退転すべからず。近年の如きは、僧家皆武勇を好み、仏法を忘れるの間、行徳を聞かず、用枢(とまら、開き戸の回転軸)無く候。尤も禁制せらるべく候。兼ねて又濫行の不信僧に於いては、公請を用いらるべからず候。自今以後に於いては、頼朝が沙汰として、僧家の武具に至りては、法に任せ奪い取り、朝敵を追討する官兵に與え給うべきの由、存じ思い給う所なり。
  以前の條々の事、言上件の如し。
     壽永三年二月日        源頼朝

2月26日 雨下

2月27日 雨下
「頼朝朝務を計い申す」
伝聞、頼朝四月下旬上洛すべしと。また折紙を以て朝務を計り申すと。人以て可と為すべからず。頼朝もし賢哲の性有らば、天下の滅亡いよいよ増すか。

2月28日 雨下
「基通使者を頼朝遣わす」
 摂政(基通)外記大夫信成を以て使いとなし、頼朝の許に通ぜらると。人何事かをしらず。今旦首途したりと。

2月29日 晴
「良通方詩会」
「宗盛神器・安徳天皇を上洛せしめんと申す」
 九郎平氏を追討の為、来月一日西国に向かうべきの由議有り。而るに忽ち延引すと。何故かを知らず。或る人云く、重衡前の内大臣(宗盛)の許に遣わす所の使者、この両三日帰参す。大臣申して云く、畏(かしこ)まり承りたり。三ヶ宝物並びに主上・女院・八條院殿(時子)に於いては、仰せの如く入洛せしむべし。宗盛に於いては参入に能わず。讃岐の国を賜はり安堵すべし。御共等は清宗を上洛せしむべしと。この事、実か、若しくは茲に因って追討の猶予有るか。

2月30日 晴れ
定能卿来たり、世上の事を談る。平氏和親すべきの由を申すと。
「最勝金剛院修二月会」

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2005年11月 9日 (水)

1184年(寿永3年、元歴元年)1月「愚管抄」

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

「愚管抄」
かゝる程に、やがて次の年正月の廿日、頼朝この事(法住寺殿合戦)きゝて、弟に九郎(源九郎義経)と云ひし者に、土肥実平(どひのさねひら)・梶原景時(かぢはらのかげとき)・次官親能(すけのちかよし)など云者(いふもの)さしのぼせたるが、左右(さう)なく京へ打(うち)いりて、その日の内(うち)に打取(うちとり)て頚とりてき。その時すでに坂東武者(ばんどうむしや)せめのぼると聞(きき)て、義仲は郎等(らうどう)どもを、勢多(せた)・宇治(うぢ)・淀(よど)なんどの方へちらして防がせんと、手びろに企ててゝ有(あり)けるほどに、すゝどに宇治の方より、九郎、親能(ちかよし)はせ入りて、川原に打立(うちたち)たりときゝて、義仲はわづかに四五騎にてかけ出でたりける。やがて落(おち)て勢多の手にくはゝらんと大津(おおつ)の方へをちけるに、九郎追いかゝりて大津の田中にをいはめて、伊勢三郎と云(いひ)ける郎等、打てけりと聞こえき。頚もちて参りたりければ、法皇は御車(おくるま)にて御門(ごもん)へいでゝ御覧(ごらん)じけり。

(注釈)

九郎(源九郎義経)・・・義朝の九男。母は常磐御前。
次官親能(すけのちかよし)・・・斉院次官中原親能。明法博士広季の子。頼朝の近習。
左右(さう)なく・・・たやすく。
頚・・・義仲の首。
勢多(せた)・・・近江国粟太郡。滋賀県大津市。
宇治(うぢ)・・・山城国宇治郡。京都府南部
淀(よど)・・・山城国久世郡。京都市伏見区。
手びろに・・・手広く。
すゝどに・・・鋭く。
川原・・・賀茂の河原。
大津・・・近江国滋賀郡。滋賀県大津市。
田中・・・田の中。
をいはめて・・・追い込んで。
伊勢三郎・・・義盛。

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2005年11月 8日 (火)

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

1184年(寿永3年、元歴元年)1月

1月1日 陰、
「院拝礼・小朝拝無し」
払暁、四方拝(しほうはい)常の如し。今日院の拝礼無し(院の御所鋪(ほ)設を改むるに及ばずと)。又小朝拝無し。代始めたれども、日次宣しからざるに依りてなり(凶会)。未の刻(14時)大将(九条良通)(飾剣例の如し)院に参り、即ち参内(さんだい)。晩頭(ばんとう)甘摂政(藤原師家)参入す。その後公卿着陣、節会(せちえ)例の如し。内弁皇后宮大夫(藤原)実房卿、外弁上首権中納言(藤原)長方卿と。大納言(藤原)忠親並びに此の大将等、内弁の作法を見んため外弁に着かずと。不当と雖も又近例と。亥の刻(22時)大将帰り来たり今日の事を語る。具さに大将を召しこれを記す。
「忌月に依り音楽・国栖笛音せざる事重ねて宣下有るべきか」
抑(そもそも)御忌月たるに依り、音楽並びに国栖(くにす、くず)笛声を奏せず。この事先帝(安徳天皇)の御時に宣下せられたり。当今(後鳥羽天皇)又同じかるべし。しかるに重ねて宣下有るべきや否や、大将不審を成し、大外記(中原)師尚の許へ問い遣わす処、事の理重ねて、仰せらるべからざる上、延久元年の例又然らずと。今日又仰せられずと。然れども諸司存じて奏せざるなり。今日手水陪膳(みなもと)季長朝臣、節供((藤原)光長朝臣之を勤め陪膳同前)。この日右少弁(平)基親来たる。夜にいり大風降雨、又雷鳴す。
(注釈)
四方拝(しほうはい)・・・1月1日の宮廷行事。
参内(さんだい)・・・内裏(だいり)に参上すること。
晩頭(ばんとう)・・・ゆうがた。
節会(せちえ)・・・節日などの宴会。
内弁(ないべん)・・・儀式を門内で指揮する首席の公卿。
外弁(がいべん)・・・儀式を門外で指揮する第2位の公卿。
国栖(くにす、くず)・・・大和の国栖人が参列して歌笛を奏したこと。
手水(ちょうず)・・・手・顔などを洗う水。
節供(せちく)・・・節日に供する供御(くご)。元日の膳、15日の粥など。
供御(くご)・・・天皇の飲食物。
陪膳(ばいぜん)・・・膳部の給仕

1月2日 終日降雨、
大外記師尚来たる。手水陪膳(藤原)範季朝臣。

1月3日 陰晴れ不定、
手水陪膳(橘)以政朝臣、今日右大弁(藤原)兼光来たる。弁・少納言小々来たり。凡そ今年出仕の人無しと。この日(清原)頼業、(小槻)隆職等来たる。
「元日節会外弁に外記候らわず」
余人を以て元日の節会外弁外記候らわざる事之を問う。申し云う、外記国栖の時参会し、外弁諸司の役吏に問ふと。かって先例無し。他の事に准じ此の沙汰有りと。内弁職事を以て、事の由を奏すと。余之を案ずるに尤も不審の事なり。

1月4日 陰晴れ不定
定能卿来る。件の卿今年出仕せず、只布衣を着け、院に伺候すと。兼雅、親信等の卿同前と。
「良経院より犬三匹を預かる」
院より犬3匹を中将に預け給う。今日、定能卿相具し来る所なり。事甚だ奇異と。然れども返上する能わず。凡そ法皇のていたらく、始めてとすべからず。
伝聞、頼朝今日出門す、決定入洛すべしと。又虚言か。或る人云く、平氏来る八日入洛すべしと。この事信用せられざる事か。

1月5日 陰晴不定
「弥勒講」
御堂に参る。恒例の弥勒講に依りてなり。この間源中納言(雅頼)来る。よって大将相共に広庇の座に着かしめ、余簾中にあり。講演終わり、布施(公卿等これを取らず)を置く後、余仏前(堂中他所便宜無き故なり)に出で、前源中納言(雅頼)を招き入れ、謁談刻を移す。語りて云く、頼朝の軍兵墨俣に在り。今月中入洛すべきの由聞く所なり。日没に及び退出したり。
「東大寺大仏鋳造の事」
「河内国鋳師を宋朝鋳師に加う」
「行隆子息等に霊託あるか」
(中略)
右中弁行隆また云く、義仲久しかるべからず。頼朝また然るべし。平氏若しくは運有るか。
惣(す)べてその所行に依るべしと。

1月6日 天晴風吹く
「叙位」
或る人云く、坂東の武士すでに墨俣を越え美乃に入りたり。義仲大いに怖畏を懐くと。

1月7日 天晴
「叙位聞書を見る」
摂政正二位に叙す(従二位を越ゆ。本正三位なり)。
「白馬節会」

1月9日 
伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去年の秋の比より連々謳歌す。様々の異説有り。忽ち以て一定したり。
「義仲鋳す鏡の事」
去年月迫る比、義仲一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わす。茲に因って和親すと。

1月10日 
夜に入り人告げて云く、明暁、義仲法皇を具し奉り、北陸に向かうべし決定。公卿多く相具すべしと。これ浮説に非ずと。
1月10日 「吾妻鏡」
「義仲征夷大将軍」
 伊豫の守義仲征夷大将軍を兼ると。ほぼ先規を勘ずるに、鎮守府の宣下に於いては、坂上中興以後、藤原範季(安元二年三月)に至り、七十度に及ぶと雖も、征夷(せいい)使に至りては、僅かに両度たるか。所謂桓武天皇の御宇延暦十六年十一月五日、按察使兼陸奥の守坂上田村麻呂卿を補せらる。朱雀院の御宇天慶三年正月十八日、参議右衛門の督藤原忠文朝臣等を補せらるるなり。爾より以降、皇家二十二代、歳暦二百四十五年、絶えてこの職を補せざるの処、今例を三輩に始む。希代の朝恩と謂うべきか。
(注釈)
鎮守府(ちんじゅふ)・・・蝦夷(えぞ)を鎮撫するため陸奥国に置かれた官庁。
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)・・・鎮守府の長官。
征夷(せいい)・・・えびす(蝦夷、えぞ)を征伐すること。
按察使(あんさつし)・・・あぜち。あんせちし。諸国の行政を監察した官。

1月11日 朝間雨下る、午後天晴
 この日密々女房等を南京(奈良)に遣わす。世間の物惣に依りてなり。基輔の母尼南都に下向す。これを以て名となす。今暁、義仲の下向忽ち停止す。物の告げ有るに依ってなりと。来たる十三日平氏入京すべし。院を彼の平氏に預け、義仲近江の国に下向すべしと。

1月12日 朝間雨下る、晩に及び大風 
この日大将女房叉南都(奈良)に下向す。但し頼輔入道日来中川(山寺なり)にあり。その所に遣わすなり。
伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずるの処、猶法皇を具し奉り、北陸に向かうべきの由これを聞く。すでに謀叛の儀たり。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦の間、第一の郎従(字楯と)を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返したりと。

1月13日 天晴
今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎と。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向延引すと。
「平氏入洛せざる三つの由緒」
平氏一定今日入洛すべき処、然らざる條三つの由緒有りと。一ハ義仲院を具し奉り、北陸に向かうべき由風聞の故、二ハ平氏武士を丹波の国に遣わし、郎従等を催せしむ。仍って義仲また軍兵を遣わし相防がしむ。然る間、平氏和平を一定したり。仍って事一定の後、脚力を遣わし引き退くべき由仰せ遣わす処、猶合戦を企て、平氏方の郎従十三人の首すでに梟したりと。茲に因って心を置き遅怠す。三ハ行家渡野陪(わたのべ)に出で逢いテ、
一箭射るべきの由を称せしむと。この事に因って遅々す。縦横の説信じ取り難しと雖も浮説に非ずに依りこれを記す。

1月14日 天晴 
「伊勢神宮怪異の条々」
伝聞、大神宮より怪異の由、義仲の許に注進す。
「伊勢国永松御厨・栗真庄・安濃津」
「関東飢饉か」
或る人云く、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと。実否知り難きか。申の刻(16時)、人伝えて云く、明後日義仲法皇を具し奉り、近江の国に向かうべしと。事すでに一定なりと。

1月15日 天晴 
早旦人告げていわく、御幸停止したり。御赤痢病に依りてなりと。義仲独り向かうべしと。或はいわく、向かうべからずと。
「義仲を征東大将軍となすという」
隆職来たり語りて云く、去る夜御斉会の内、論議無し。即位以前たるに依り手なりと。叉云う、義仲征東大将軍たるべきの由、宣旨を下されたりと。
今日、家の節供欠如、余沙汰を致さず。かくの如き事執し思うべき身にあらざる故なり。

1月16日 雨下る 
「義経勢数万に及ぶ」
去る夜より京中鼓騒す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併しながら以て帰洛す。敵勢数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざる故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に向かうべき由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警固し祇候すべし。
「義仲行家を追伐す」
また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべしと。凡そ去る夜より今日未の刻(14時)に至るまで、議定変々数十度に及ぶ。掌(たなごころ、てのうら。)を反すが如し。京中の周章喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付くと。

1月17日 朝間天陰、午後頗晴れ

1月19日 
「志田義広大将軍として宇治田原を防ぐ」
昨今天下頗るまた物騒す。武士等多く西方に向かう。行家を討たんが為と。或いはまた宇治に在り。田原地の手を防がんが為と。(志田)義廣(三郎先生)大将軍たりと。

1月20日 天気晴れ、物忌みなり、

卯の国(6時)人告げて云く、東軍すでに勢多に付く。未だ西地に渡らずと。相次いで人云く、田原の手すでに宇治に着くと。詞未だ訖(お)わらざるに、六條川原に武士等馳走すと。仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。
「義広敗績す」
義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られたり。東西南北に散じたり。
「東軍入京」
即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵(きびす、かかと)を廻さず六條の末に到りたり。義仲の勢元幾ばくならず。。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃(おう、わざわい)に遭う。
「義仲院の御幸を促すも成らず」
先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲ひ来たる。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三十四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちたり。
「義仲敗走し近江国粟津にて討たる」
長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多の手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られたりと。
「東軍一番手梶原景時」
東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群れ参ずと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がる。実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲の支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべしと。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟(きょう、ふくろう)首せられたり。天の逆賊を罰す。宜(むべ)なるかな。宜(むべ)なるかな。
「義仲の天下六十日」
義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤(ぜんしょう、前例)に比べ、猶その晩(ばん、おそい)きを思う。今日卿相(けいしょう、公卿)等参院すと雖も、門中に入れられずと。
「師家参院すれど追い帰される」
入道関白(藤原基房)藤原顕家を以て使者と為し、両度上書(じょうしょ)す。共に答え無し、又甘摂政顕家の車に乗り参入す。追い帰されたりと。弾指すべし、弾指すべし。余風病に依り参入せず。大将又病悩。よつて参らず。恐ろしや恐ろしや。
(注釈)
宜(むべ)・・・うべ。もっともであること。
前蹤(ぜんしょう)・・・前例
上書(じょうしょ)・・・意見を書いて書状を差し出すこと。

1月20日 「吾妻鏡」
 蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛(頼朝)の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を追罰せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞(せんとう)を警衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国(滋賀県)粟津の辺に於いて、相模の国(神奈川県)住人石田の次郎をして義仲を誅戮(ちゅうりく)せしむ。その外錦織の判官等は逐電(ちくてん)すと。
 征夷大将軍従四位下行伊豫の守源朝臣義仲(年三十一)、春宮帯刀長義賢男。壽永二年八月十日、左馬の頭兼越後の守に任じ、従五位下に叙す。同十六日、伊豫の守に遷任(げんにん)す。十二月十日、左馬の頭を辞す。同十三日、従五位上に叙す。同正五位下に叙す。元暦元年正月六日、従四位下に叙す。十日、征夷大将軍に任ず。
検非違使右衛門権の少尉源朝臣義廣、伊賀の守義経男。壽永二年十二月二十二日、右衛門権の少尉(元は無官)に任ず。使の宣旨を蒙る。
(注釈)
武衛(ぶえい)・・・兵衛府(ひょうえふ)。頼朝は兵衛府の佐(すけ)、次官だった。
仙洞(せんとう)・・・上皇の御所。
誅戮(ちゅうりく)・・・罪あるものを殺すこと。
逐電(ちくてん)・・・ちくでん。逃亡。
遷任(げんにん)・・・一旦退官したものが、再びもとの官職に任ぜられること。

1月21日 天気晴れ、物忌み昨の如し。
ある人諫めて云う、甘摂政安堵すべからず。下官出馬すべしと。余これを案ずるに、末世の作法進退、天下を恐れ国を棄てざる条あり。政道の治乱を憑(たの)むあるに似たりと雖も、偏に君の最にあるべし。わが君天下を治める間、乱亡止むべからず。不肖の者、委任の任に当たらず。恐らく後悔あるか。これに加え、微臣の社しょくに置いて身命を惜しまざる条、仏天知見あるべし。然れば即ちもし世の運あれば、天士を棄つべからず。運無くば、また一旦の浮栄を欲せざる所なり。如かず(およばない)只伊勢太神官、春日大明神に奉仕せんに。依って一言も上聞せず。諫める人云う、甚だ強しといえり。晩に及び召しあり(定長奉行、定めらるべき事ありと)。風病(ふうびょう)述無し。事矯餝(きょうしょく)にあらず。よってその子細を申したり。今旦、大外記頼業来たり、世上の事を談ず。晩に及び大夫吏隆職来る。洗浴の間これに謁せず。
「基通摂政に還補せらる」
ある人云う、前摂政(基通)還補すべき由と。法皇の愛物なり。いよいよ下官詞を出す能わず。努力(ゆめ)々々。
(注釈)
風病(ふうびょう)・・・かぜ。中風(ちゅうぶう)
矯餝(きょうしょく)・・・いつわりかざること。矯飾。
努力(ゆめ)々々・・・断じて。

1月21日 「吾妻鏡」辛亥
 源九郎義経主、義仲が首を獲るの由奏聞す。今日晩に及び、九郎主木曽が専一の者樋口の次郎兼光を搦め進す。これ木曽が使として、石川判官代を征めんが為、日来河内の国に在り。而るに石川逃亡するの間、空しく以て帰京す。八幡大渡の辺に於いて、主人滅亡の事を聞くと雖も、押し以て入洛するの処、源九郎家人数輩馳せ向かい、相戦うの後これを生虜ると。

1月22日 天気晴れ、
「兼実院より尋ねらるる条々」
風病聊(いささ)か減有り。仍ってなまじいに参院す。定長を以て尋問せらるる事五箇條、
「平氏追討の事」
一、左右無く平氏を討たるべきの処、三神彼の手におわします。この條如何。計り奏すべしといえり。兼ねてまた公家の使者を追討使に相副え下し遣わすは如何と。
 申して云く、もし神鏡・劔璽安全の謀り有るべくば、忽ちの追討然るべからず。別の御使を遣わし、語り誘わるべきか。また頼朝の許へ、同じく御使を遣わし、この子細を仰せ合わさるべきか。御使を追討使に副えらるの條、甚だ拠る所無きか。
「義仲の首の事」
一、義仲が首を渡さるべきや否や如何。
申して云く、左右共に事の妨げを為すべからず。但し理の出る所、尤も渡さるべきか。
「頼朝の賞の事」
一、頼朝の賞如何。
申して云く、請いに依るの由仰せらるべきか。然れば又もし恩賞無き由を存ずるか。暗に行われ、その由を仰せらる。何事か有らんや。その官位等の事に於いては、愚案の及ぶ所に非ずといえり。
「頼朝上洛の事」
一、頼朝上洛すべきや否やの事
申して云く、早く上洛せしむべし。殊に仰せ下さるべし。参否に於いては知ろし食すべからず。早速遣わし召すべきなりといえり。
「院御所の事」
一、御所の事如何。
申して云く、早々他所に渡御有るべし。その所、八條院御所の外、然るべきの家無きか。
「昨日の議定大略兼実申状に同じ」
定長語りて云う、昨日左大臣(経宗)、左大将(実定)、皇后宮大夫(実房)、堀川大納言(忠親)、押小路中納言(長方)、左右大弁等参入し議定あり。各の申し状大概下官の申し状に同じ。但し兵士追討の間の事、左大臣左大将猶剣璽を知らず、追討すべきの趣か。これ即ち叡慮かくの如しと(他事、定能卿密にこれを示す)。各形勢に従わるるなり。然るべからず然るべからず。叉首を渡さるる事、長方いわく、もし遠国の賊首を渡さるる事かと(この事然るべからず然るべからず)。叉賞の事、左大将云う、恵美大臣を討ちし時の例に任せ、三品に叙せらるる、宜しかるべしと(この事叉過分なり)。この外の事一同と。退出したる後、人告げていう、摂政内大臣、各元の如くの由仰せ下されたりと。天国を棄てずと雖も、君これを棄てる。末世受生の恨み、宿業を訪ね報いんと欲するのみ。

1月23日 天気晴れ、
観性法橋来る。叉範季朝臣来る。語りて云う、平氏猶追討せらるべき由仰せ下されたりと。神鏡剣璽の事、猶重ぜられざるか。この条神虜恐れあり。これをなす如何如何。大外記頼業注進して云う、昨日宣下せらるる事等。
「大地震」
この日未の刻(14時)大地震。

1月24日 天気晴れ、
「良通所労」
「除病の符を書かしむ」
「不空羂(けん)索観音像を造る」
(注釈)
不空羂(けん)索観音・・・生死の苦海の衆生を済度する観音。
「泰山府君祭」
「不動供を修す」

1月25日 天気晴れ、
「仏法の験により良通回復す」
「基通・実定還補の事」
「近衛亭にて吉書を覧ず」
「逆賊朝務を執りて後の叙位等無効とすべし」
「平治・治承と異なり今度の乱は義仲一人の最たり」

1月26日 晴
「三神の安全のため平氏追討止むべきか」
 去る夜より閭巷(りょこう、村里)平氏入洛の由を謳歌(おうか)す。信受せざるの処、果たして以て虚言と。或いは云く、猶平氏追討を止めらるの儀、静賢法印を以て御使として、子細を仰せ含めらるべしと。この儀愚心庶幾(こいねがう)する所なり。これ全く平氏を引級するに非ず。神鏡・劔璽の安全を思うに依ってなり。
1月26日 「吾妻鏡」
 今朝検非違使(けびいし)等、七條河原に於いて、伊豫の守義仲並びに忠直・兼平・行親等の首を請け取り、獄門(ごくもん)の前の樹に懸く。また囚人兼光同じくこれを相具し渡されたり。上卿は籐中納言、職事は頭の弁光雅朝臣と。
(注釈)
謳歌(おうか)・・・声をそろえてほめたたえること。
庶幾(しょき)・・・こいねがうこと。
引級
検非違使(けびいし)・・・京中の警察・裁判官。
獄門(ごくもん)・・・獄屋(ごくや、ろうや)の門。
上卿(しょうけい)・・・儀式を指揮する公卿。
職事(しきじ)・・・実務担当。

1月27日 天晴れ
「平氏征伐朝方等の和讒によるか」
定能卿来たり、世間の事等を語る。その次いでに云く、平氏の事、猶御使を遣わす事を止め、偏に征伐せらるべしと。近習の卿相等の和讒(わざん)か。所謂、朝方・親信・親宗なり。小人君に近づき、国家を擾(みだ)す。誠かなこの言。
「余の庵借り上げの指示」
院より武士を居ゑられんため、余の庵(いおり)を借られるべく、家を指す由仰せあり(定長奉行)。承り訖(おわ)る由を申す。事の体言うに足らず。然れども逓れ避く能わず。末代の事勿論勿論。
「任子慈円より観音経等を受く」
(注釈)
和讒(わざん)・・・一方でやわらぎ親しんで、他方でそしり陥れること。仲介。密語。

1月28日 天晴れ
「隆職追捕さる」
早旦、大夫史隆職使者を進して云く、忽ち追捕(ついぶ)せられ、家中恥辱に及ぶ。これをなす如何。九郎の従類の所為と。召人の滅亡を思ふに依って、使いを九郎の許に遣わし、子細を相触る。縦えその身罪科有りと雖も、当時の狼藉を停止すべきの由なり。
「親能頼朝代官として義経を補佐し入洛」
また書札を以て前の源納言(雅頼)の許に示し遣わす。次官親能彼の納言の家に在り。件の男頼朝の代官となり、九郎に付き上洛せしむ所なり。仍って万事奉行を為すの者と。
「義経勢史大夫と大夫史を取り違え小槻隆職を追捕す」
これに因って触れんが為、件の男彼の納言に示す所なり。九郎の返事に云く、この事、平氏書札を京都に上す。件の使者を搦め取らる。各々報礼を持つと。その中にこれ有り。史大夫の者召し進すべきの由、左衛門の尉時成の奉行として、院より仰せ下さる。仍って相尋ねるの間、大夫史の宅に罷り向かう。次第不敵。狼藉に於いては、早く止むべしと。また納言の返札到来す。親能一切知らざるの由を申すと。叉宰相中将(定能)に相尋ぬる処、
返事の上、全く知し食さざる事と。
「隆職の文庫義経従類に打ち破られ文書を奪わる」
 晩に及び使いを隆職の許に遣わし、子細を尋ね問う。帰り来たり云う。文書等少々片山里に遣わすと雖も、要須の文書においては併しながら身に随う。率爾(そつじ)の尋ねに備えるためなり。しかるに文庫の戸を打ち破り、併しながら取られたりと。凡そ官中の文書、古来只一本書なり。然るに肝心失えば、即ち我が朝の滅亡なり。誠に天下の運滅尽の期か。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
追捕(ついぶ)・・・ついふ。ついほ。ついふく。悪者を追いかけて捕らえること。没収。奪い取る。
率爾(そつじ)・・・にわかなさま。軽率なさま。

1月29日 天晴れ
「平氏追討の派遣一定」
この日法印(慈円)来入せられ、中御門大納言(宗家)来らる。
 また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。今日すでに下向(去る二十六日出門)すと。その上猶静賢使節を遂ぐべきの由仰せ有り。静賢辞退すと。その故は、御使を遣わせらるは、彼の畏懼(いく)の心を休ましめ、三神安穏に入洛せんが為なり。而るに勇者を遣わし征討するの上、何ぞ尋常の御使に及ぶや。道理叶わず。また使節を遂げ難きの故なりと。申す所尤も理有るか。凡そ近日の儀掌を反すが如し。不便と。
「全玄僧正の天台座主補任定まる」
(注釈)
畏懼(いく)・・・おそれること。

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2005年11月 7日 (月)

1183年 (壽永二年)12月

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年12月

12月1日 天気晴れ、
今暁女房最吉の夢あり。天下の穢れ気に依り、心経書かず。件の写春日法楽の為なり。よって穢れの限りを過ぎ書き奉るべきなり。
「大江公朝頼朝代官に義仲乱逆の次第を告ぐ」
伝聞、去る21日院の北面候ふ下郎2人(大江公友)伊勢の国に到り、乱逆の次第を頼朝の代官(九郎並びに斎院次官親能等なり)に告げ示す。即ち飛脚を頼朝の許へ差し遣わす。彼の帰来を待ち、命に随い入京すべし。当時九郎の勢、僅かに500騎、その外伊勢(三重県)の国人(在地の武士)等多く相従うと。又和泉(大阪府南部)の守平信兼同じく以て合力すと。信性闍梨帰り来たり、山より法印(慈円)の返事を示す。先日余の使となり登山する所なり。
(注釈)
春日(かすが)・・・春日神社
法楽(ほうらく)・・・神仏の手向けにするわざ。
斎院(さいいん)・・・賀茂神社に奉仕した未婚の皇女の居所。
闍梨(じゃり)・・・阿闍梨(あじゃり)?。僧位の一つ。

12月2日 天気晴れ、
伝聞、義仲使いを差し平氏の許に送り(播磨(兵庫県南西部)国室の泊りにありと)、和親をこふと。
「去る29日室山に於いて平氏と行家軍合戦す」
又聞く、去る29日平氏と行家合戦し、行家の軍忽ち以て敗績し、家子(家臣)多く以て伐ち取られたり、忽ち上洛を企つと。又聞く、多田蔵人大夫源行弘(綱)城内に引き籠もり、義仲の命に従うべからずと。

12月3日 天晴れ、
「義仲摂関家領86ケ所を賜るという」
伝聞、義仲一所を賜り、86ケ所を所領すと。
「藤原師家政所始め」
又新摂政の政所始め去る29日と。右中弁光雅執事家司となると。光長棄て置くか如何。拝賀来る8日と。晩に及び隆職来たり。前に召し雑事を仰す。
(注釈)
家司(けいし)・・・三位以上の家の事務をつかさどった職員。
執事(しつじ)・・・事務を執りしきる者。

12月4日 天晴れ、
定能卿退出し、院より来たり語りて云う、昨日義仲院に奏して曰く、頼朝代官日来伊勢の国に在り。郎従等を遣わし追い落としたり。其の中宗(そう)たる者一人、生きながら搦め取りたりと。又語り云う、院中の警護、近日日来に於いて陪し、女車に至るまで検知を加えると。今日終日経を写す。
(注釈)
宗(そう)・・・最もすぐれた人。

12月5日 天晴れ、
「皇嘉門院忌日」
故女院(皇嘉門院)の御忌日なり、早朝大将を伴い、御墓所に参る。
「写経等を供養す」
舎利及び昨日書き奉る所の諸の真言並びに寿量品(復一巻)等を供養し奉る。僧三口、事了り布施を引く。九条の御堂に参る。未の刻(14時)に及び、僧徒参入す。籠僧六口なり(但し、忠玄律師参らず、よって闕請一口を請じ加ふ。又観明法橋を以て導師となす。上臈たるに依りてなり)。公卿右大将(良通)一人なり。布施取衣冠、但し堂童子無し。略儀なり。講演了り、大将被物を取る。その後弥勒講(三口)、日来の如し。その後所作少なし。日没に及び退出す。
伝聞、平氏猶室に在り。南海・山陽両道大略平氏に同じたりと。又頼朝と平氏同意すべしと。平氏密かに院に奏し可許有りと。又義仲使いを差し同意すべしの由を平氏に示すと。平氏承引せずと。
「新摂政家司」
今日御堂に於いて光長語り云う、新摂政の執事親経、年預光雅、御厩(うまや)上司資泰朝臣と。他事未だ聞かずと。
「累代日記は鴨院に在り」
又累代日記併しながら鴨院に在りと。
(注釈)
寿量品(じゅりょうぼん)・・・法華経の一つ。
年預(ねんよ)・・・(臨時に1年を限り他の役所の職員が事務を担当)、執事の下で実務を行った職員。
厩(うまや)・・・馬小屋。

12月6日 天晴、

12月7日 天晴、
早朝仏厳聖人来たる。相次、範季朝臣来たり、世上の事を語る。平氏一定入洛すべきの由、能圓法眼告げ送ると。義仲と和平するや否や。未だ事切らずと。
「藤原宗家来る」
「朔旦叙位の事につき法皇より諮られる」
「賜下名の儀の有無によるべし」
(中略)
伝聞、平氏と和平の事、義仲内々骨張ると雖も、外相受けざるの由を示すと。
「日義仲法皇を奉じて八幡辺に向かわんとす」
晩に及び宰相中将(定能)告げ送りて云く、来たる十日義仲法皇を具し奉り、八幡の辺に向かうべし。彼より平氏を討たんが為、西国に赴くべしと。又範季同状告げ送る。凡そ左右に能わざる事か。或いは云う、明日御幸有るべしと。然れども謬説か。
(注釈)
法眼(ほうげん)・・・法印に次ぐ僧位。

12月8日 天晴
 使者を静賢の許に送り、御幸の次第を問う。返事に云う、凡そ左右する能わず。一定仰せ下されたり。今に於いては異議無し。天下今一重滅亡したり。京都叉安堵すべからず。女房等少々、遠所に遣わすべきかと。凡そ京中の上下周章極み無しと。叉宰相中将退出す。院より御幸に参るべきにより、出立のため退出する所なり。件の相公の室家、この両三日女院に寄宿せらる。新御所の北対辺なり。
「法皇御幸につき御占い行わる」
「五条殿に怪異あり」
当時の御所五条殿、怪異頗りに示す。よって八条院に還御あらんと欲する処、義仲受けざる間、忽ちに八幡御幸の儀出で来たりと。凡そ怪異を忌みらるる条は、亡ぶごとき事あるか。今に於いては、法皇の御身、何によりて惜しみ思し食さるべきや。弾指すべし弾指すべし。
「法皇御幸に他の人参らず」
余の女房、大将の妻等、密々明暁南都に使わすべき由、内々その沙汰を致す。然れども事猶穏便ならず。依って院辺に訪ね伺う処、10日の御幸頗る不定。叉公卿等参入し、御幸の事を尋問せらる由、へい燭以後これを聞き及ぶ。叉縦い御幸ありと雖も、法皇の外他人参るべからず。行幸あるべからず。入道関白以下、諸卿洛中に留まり、万事沙汰を致すべし。京都を損亡せざるため、御幸を申し行う由、義仲称せしむと。よって明暁の下向停止したり。かつまた占いを加うる処、頗る快からざる故なり。叉左少弁光長同じく忽ちにしかるべからざる由を申すなり。
「日頃山門衆徒蜂起す」
 亥の刻(22時)に及び、或る人告げて云く、明日延暦寺を攻むべしと。驚奇極まり無し。凡そ日来山門衆徒(しゅと)の蜂起、甚だ以て甘心せられず。世の為時に、訴訟も遺恨も有るべき事なり。近日の事、ただ知らざるが如く見えざるが如くにて有るべき処、大衆(だいしゅ)蜂起の條、還りて後鑒の恥を為すべき所たるか。当時またこの蜂起に依り、寄せ攻めらるべしと。誠に台獄の仏法滅尽の期至るか。悲しむべし、悲しむべし。頼輔入道今日南都に下向したり。
(注釈)
へい燭(へいしょく)・・・夕刻。
山門(さんもん)・・・寺院。比叡山延暦寺。
衆徒(しゅと)・・・僧兵。
大衆(だいしゅ)・・・多数の僧侶。
後鑒(こうかん)・・・後鑑。後々の手本。
台獄(たいがく)・・・比叡山。

12月9日 天陰 頗る風雪、
伝聞、昨日左大臣(経宗)並びに忠親卿院に参り、成範卿を以て左大臣に問われて云う、義仲申して云う、西国を討つ為罷り向かうべきなり。而るに法皇御在京、不審無きに非ず。山門(さんもん)騒動の由風聞す。仍って法皇を具し奉り下向を欲すと。この事如何。御占い行われるの処、不快の由を申す。之を為す如何。左大臣申し云う、御占いの事沙汰に及ぶべからず。義仲の申す所然るべし。早く御幸有るべしと。又静賢法印を以て忠親卿に問われる。申し状左大臣に同じ。但し密かに申し云う、平氏と和平の儀、義仲に仰せられるべきなりと。然れども件の事義仲おおいに不快の由、外相に表すと。よって仰せ下さるに及ばずと。
「長方の言により八幡御幸停止せられる」
しかる間、長方卿ひそかに使者を以て義仲に触れ云う、穢れ中に八幡御幸如何。たとい御参社無しと雖も、猶神慮恐れ有り。おおいに以て然るべからずと。ここに因り忽ち延引し、穢れ以後御幸給ふべき由定め仰せたりと。猶長方賢名の士なり。
「慈円下京す」
今日、山の法印(慈円)白地(あからさま)に京に下られ、大衆の蜂起熾(し、さかん)盛と。実に只天台の仏法の滅亡すべき時なり。
「俊尭天台座主に補さる」
伝聞、俊尭座主に補せられたりと。
(注釈)

12月10日 天晴れ、
法印(慈円)山上に登り帰られたり。百日の入堂(無動寺なり)、退転、遺恨たるに依り、隆憲を以て義仲に触れ、許しを蒙(こうむ)り登られたり。是また愚身の慶びなり。昨日京に下りしは、世間の物騒に依り、下官(げかん)の辺の事不審の故に下京と。又山門既に城郭を構う。仍って城中に籠もる條、甚だ穏便ならず。しかのみならず、すでに山上を攻むべきの由風聞す。仍って且つは下京せらるべきの由、余示し送る所なり。而るに山門を追討の儀、また忽ち然るべからずと。仍って義仲に触れらるるの処、案の如く許し有り。たとい又内心許さざる有りと雖も、此の願いすでに退き難き故、万事を顧みず、山に帰り、下官相共に能く議評せしむるものなり。山王大師(山王権現)知見証明あらんか。大願の趣、具さに注録し難きものか。只仏法の興隆・政道反素の趣なり。
「慈円入堂して兼実等の大願を祈願す」
法印(慈円)・下官、観性(法橋)三人の大願、すでに年序(年数)を積みたり。今の入堂すでにこの事を祈請の故なり。よって百千の事顧みるべからず。只冥衆(みょうしゅ)に任せ奉るのみ。
「臨時除目」
この夜臨時の除目を行わる。
参議藤俊経、藤隆房、(即任右武衛)、藤兼光、
左大弁兼光、左中弁光雅、右中弁行隆、
権光長、左少弁源兼忠、右少弁平基親、
右中将忠良、
義仲左馬の頭を辞退す。また天台座主(俊尭僧正)を仰せ下さると。
(注釈)
山王大師(山王権現)・・・日吉(ひえ)神社の祭神。
知見(ちけん)・・・物事を悟り知る智慧。
下官(げかん)・・・官吏が自分のことをへりくだっていう称。下級の官吏。
法橋(ほっきょう)・・・法眼の次に位。
冥衆(みょうしゅ)・・・人の目に見えない諸天。諸神。

12月11日 天気晴れ、
早朝法印(慈円)示し送り云う、無為無事登山したり。夜の内に護摩以下の所作等悉く勤行(ごんぎょう)したり。悦びをなす少なからずと。大衆(だいしゅ)の事、義仲に立ち会ふ儀は停止し、座主を用ふべからざる条は、決定熾(し、さかん)盛なるべしと。
(注釈)
護摩(ごま)・・・護摩木を焚いて祈る。
勤行(ごんぎょう)・・・勤めて仏道修行すること。

12月12日 天気晴れ、晩に及び雨下る、
伝聞、山の大衆蜂起し、和平相半ばすと。五位蔵人親雅、荷前の事を定め申すべき由、右大将を催す。所労の由を申したり。
(注釈)
荷前・・・

12月13日 陰晴れ不定、時々風吹き
伝聞、平氏入洛、来たる二十日と。或いはまた明春と。義仲と和平の事一定すと。

12月15日 天晴れ、
「方違」
「最勝金剛院堂廊に宿す」
夜に入り法性寺に向かう、最勝金剛院の堂廊に宿す。春節に違はんためなり。女房同じく之を相具す。主税助安倍晴光来たり、天変の事を示す。

12月16日 天晴れ、
早朝東北谷、並びに南隍(こう、ほり)等を見回り、辰の刻(8時)許り九条に帰る。

12月19日 陰晴れ不定、晩に及び少雨、
「兼光に定能の車を貸す」
参議右大弁兼光朝臣拝賀の為来たり、車を申請するに依り、定能卿の車を借りこれを給ふ。密々兼光の許より返し遣わすと。是非礼と雖も、近日の天下に候ふ毎時、別段の事か。余又車を持たざる故なり。
「朔旦叙位行なわる」
此の夜、朔旦(ついたちのあさ)叙位行われる。須らく11月中行われるべき処、五節を行わざるに依り、御即位叙位の次合はせ行うべき由、豫ねて議定有り。是即位の次、下名を賜はんためなり。しかるに嘉承の例、亮(りょう、あきらか)闇の時の例を混合するに依り、憚り有るべし。只格別に叙位を行ひ、下名を賜ふ儀有るべからざる由、法皇仰せ有りと。然り間大事出で来たる。よって即位叙位合わせ行う条、異議無き処、即位又延引す。よってもし明春叙位の次、加え行はるべきか。将に又歳の内に之を行う。
「執筆藤原経房」
先日法皇の仰せに依り、下名を賜ふ儀り有るべからざるかの由、豫ねて其の沙汰有り。遂に歳の内に行わるる所なり。執筆左大弁経房卿。
「山大衆和平す」
この日山大衆の和平、神輿を振り下げ奉りたりと。無動寺法印密々に大衆発すべからざる子細を永弁・智海等の許に示し送らる(内々余の示すに依るなり)。各甘心の色有りと。今日早旦春日の料の心経を書き奉る。穢れの限り過ぐるに依りてなり。

12月20日 天晴れ、
「叙位聞書を見る」
早旦聞書を見る、殊なる事無し。光長四位に叙す。大将の袍(ほう、わたいれ)を申請せしに依り賜ひたり。今明物忌みなり。今暁、智詮阿闍梨熊野に進発す。余及び大将沐浴(もくよく)潔斎(けっさい)してこれを礼す。
「実定礼及び一首を兼実に送る」
今日左大将(藤原実定)札を送り、世上及び自身の事等を示さる。粗く述懐の状有り。其の次一首を送る。
あらきかせ ふきやむと まつほとに もとの心の ととこほりぬる
「兼実の返歌」
返歌
われもさそ かせにととろく かけはしを あやふむほとに ととこほりぬる
天下騒乱の後、茲に五箇年、心一実の道慕うと雖も、首猶双華の鬢(びん)梳(そ、くしけずる)り、即ち静謐(せいひつ)の時を期す。念仏の行を修めんためなり。愚心を以て賢慮を察す。猶豫宜しきか。
(注釈)
袍(ほう)・・・うわぎ。わたいれ。
沐浴(もくよく)・・・神を洗い身を洗うこと。湯水で身体を清めること。
潔斎(けっさい)・・・神事などの前に、酒や肉食などをつつしむ。
鬢(びん)・・・頭の左右側面の耳ぎわの毛。
静謐(せいひつ)・・・静かであること。特に世の中がおだやかに治まること。

12月21日 天晴れ、
「京官除目執筆藤原経房」
此の夜京官の除目行われると。執筆左大弁(兼光)、一夜の儀と。
今日心経一巻を(復十三巻)、覚乗法眼の許に送る。社頭(社前)に於いて供養し奉らんためなり、今日心経千巻を読み奉る。

12月22日 天晴れ、
「心経を覚乗法眼に遣わす」
毎月心経十三巻、(復一巻)を書写し、小布施を相副え、覚乗法眼の許に遣わすなり。是毎年の勤めなり。社頭に於いて供養し奉る所なり。今日又心経千巻を読み奉り、春日御社に法楽し奉る。信心殊に発り、利生(利益)炳焉(へいえん、あきらか)たるものか。
「除目聞書を見る」
未の刻(14時)聞書を見る。左京大夫(藤原)清通(侍従を辞し其の子に譲る(高通))、
右京大夫(藤原)季能、中納言(藤原)隆忠、右衛門督(藤原)家通、左兵衛督(藤原)実守、この外覚悟せず。
「下名」
長方卿備中国を賜るなり(元淡路なり)。今日下名と。
「大地震あり」
今夜子の刻(24時)大地震。近代必ず験有り。恐るべし恐るべし。
夜に入り下記闕(けつ、かける)官帳持ち来たり云う、昨日大下記師尚の許より送り遣わすもの、しかるに参陣の間、今日の除目を行ふを知らずたり。退出の時、これを見て、持参する所なりと。先例無きに依り、返し給ひたり。甚だ奇怪の由を仰す。
「八条辺り焼亡す」
今夜焼亡有り。八条院の辺り、故家朝の後家と。

12月23日 天陰、午後雨降り、夜に入り殊に甚だし、
早朝下名聞書を見る(去夜行われると)。今日頭中将(源)通資札を大将の許に送り、臨時祭に参るべき由を催す。其の上謹み上る所と。すべからく進上と書くべし。よって札を使いに返したり。今日宗家卿来られる。

12月24日 天晴れ、
一昨日覚乗の許に遣わす所の心経、使者遅く持ち向かう。昨日は衰日たり。今日供養し奉るべく、示し送る所なり。よって今日旦つ神事を聞く。巳の刻(10時)大下記頼業布袋を着け密々に来たり、自身及び世上の事を談ず。今日晩頭始めて出仕すべしと。頼業云う、西海の主君(安徳天皇)入御せば、当今(後鳥羽天皇)如何。六条院の体の若(ごと)きかと。余いささか思う所を示す。頼業甘心の色有り。
「牙笏紛失の事」
この日頭中将(源)通資朝臣札を送り(基輔朝臣の許に遣わす)、示し云う、牙(きば)の御笏(しゃく)不虞に紛失の事有り。明日臨時祭の料、尋ね進らすべしといえり。申し云う、元より相持たず。又尋ね得べき力無しといえり。
(注釈)
当今(とうぎん)・・・当代の天皇。今上天皇。
笏(しゃく)・・・束帯着用のとき、右手に持つ板片。牙または木製。

12月25日 天晴れ、
「賀茂臨時祭」
この日臨時祭なり。使参議右衛門督隆房朝臣、公卿忠親卿以下56人参入すと。
「兼実子息春日社に参詣す」
この日愚息小児(良円)密々に春日の御社に参詣す。凡そ余の子息は七歳以前に春日に参らしむべき由、所願有りの故なり。

12月26日 天晴れ、
「崇徳院の神祠立つ所につき諮られる」
大将方に行き向かう。夜に入り帰り来る。蔵人少輔親経来たり、問いて云う、崇徳(崇徳天皇)院の神祠(しんし、ほこら)を立たれるべき由其の沙汰有り。其の所如何。計り申すべしといえり(院宣と)。申し云う、この事先日御占い不快に依り、神祠を止め、改葬為すべき由これを承る。今の仰せ相違如何。但し此の条和説(話し説くこと)なり。其の所に於いては、暗に計らひ申し難し。もし一定の地無くば、然るべき所両三所相定め、御占い行われるべきか。

12月27日
法皇正月十三日天王寺に幸すべしと。此の事親信卿及び(平)業忠等、義仲に追従せんため申し行う所と。
(注釈)
天王寺(てんのうじ)・・・四天王寺の略。大阪市天王寺区にある

12月28日
「不堪佃田荒奏」
此の日摂政(師家)初度の上表と。又不堪荒奏有りと。右少弁基親拝賀の為来たる。権中納言隆忠拝賀すと。定能卿来たる。
(注釈)
上表(じょうひょう)・・・君主に文書をたてまつること。
不堪(ふかん)・・・ある事が上手にできない事。

12月29日 天晴れ、
大夫隆職来たり、世上の事を談ず。平氏・義仲の和平、一定の由、忠清法師の説を以て聞きたりと。
「不堪佃田和奏」
今日和奏と。左大臣陣に参り、不堪の定め有りと。

12月30日 天晴れ、
「熊野御燈明追儺」
今日熊野御燈明の日なり。大将の使いとなり智詮阿闍梨参入なり。よって精進潔斎、追儺(だ、おにやらい、疫病を追い払う)
例の如しと。
(注釈)
儺(だ、おにやらい)・・・疫病を追い払う。
追儺(ついな)・・・年末に火を燃やして虫や鬼を退治した。

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2005年11月 6日 (日)

1183年 (壽永二年)11月「愚管抄」

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年11月
「愚管抄」

かやうにてすぐる程に、この義仲は頼朝を敵(かたき)に思ひけり。平氏は西海(さいかい)にて京へ帰り入らんと思ひたり。この平氏と義仲と云ひかはして、一つになりて関東の頼朝を攻めんと云事出きて、つゝやき、さゝやきなどしける程に、是も一定(いちぢやう)も無しなどにてありけるに、院に候北面下臈(ほくめんげらふ)友康(ともやす)・公友(きみとも)など云者、ひた立(たて)に武士を立て、頼朝こそ猶本体とひしと思て、物がらもさこそ聞こえければ、それをおもはへて頼朝が打のぼらん事を待ちて、又義仲何事かはと思けるにて、法住寺殿、院御所を城にしまはして、ひしと、あぶれ源氏、山々寺々(やまやまてらでら)の者を催して、山の座王明雲参りて、山の悪僧(延暦寺の荒法師)具してひしと固めて候けるに、義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口・楯・根の井と云四人の郎従ありけり、我勢(わがせい)落ちなんず。落ぬさきにとや思ひけん。寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎の内五百余騎なんとぞ云ける程の勢にて、はたと寄せてけり。義仲が方に三郎先生(さぶらうせんじやう、志田三郎先生義広)と云源氏ありけるも、かく成りにければ皆御方(みかた)へまいりたりけるが、猶義仲に心をあはせて、最勝光院(さいしようくわうゐん)の方を固めたりける。山の座主が方にありけるが内より、座主の兵士なにばかりかはあらんを、ひし/\と射(い)けるほどに、ほろ/\と落にけり。散(さん)/゛\に追ひちらされて、しかるべき公卿・殿上人・宮なにか皆武士にとられにけり。殿上人己上の人には美乃守信行と云者ぞ当座に殺されにける。そのほかは死去の者は上臈(じやうらふ)ざまにはさすがに無かりけり。さるやうなる武士も皆逃げにけり。院の御幸は清浄光院(しやうじやうくわうゐん)の方へなりたりけり。武士参りて、うるはしく六条(ろくでう)の木曾が六条のかたはらに信成(のぶなり)が家あるにすゑまいらせてけり。当時の六条殿はこれなり。さて山の座主明雲、寺の親王八条宮(はちでうのみや、円恵)と云院の御子(みこ)、これ二人はうたれ給(たまひ)ぬ。明雲が頚(くび)は西洞院河(にしのとうゐんがは)にて求め出(いだし)て、顕真(けんしん)とりてけり。かゝりける程に、それに具して見たる者の申しけるは、「我(わが)固めたる方落ちぬと聞きて、御所(ごしよ)に候けるが、長絹(ちやうけん)の衣に香(かう)の袈裟ぞ着たりける。輿(こし)かきも何も叶なはで馬に乗せて、弟子少々具して、蓮花王院の西の築地(ついぢ)の際(きは)を南ざまへ逃げけるに、その程にて多く射かけゝる矢の、鞍のしづはの上より腰に立ちたりけるを、後ろより引(ひき)抜きける。くゝりめより血流れ出でけり。さて南面の末に田井のありける所にて馬より落ちにけり。武者ども弓を引きつゝ追ひ行きけり。弟子に院の宮、後には梶井(かぢゐ)宮とて、きと座主になられたりしは、十五六にて有りけるは、かしこく「「われは宮なり」と名のられければ、生どりに取りて、武者の小家(こいへ)に唐櫃(からびつ)の上にすゑたりけり」とぞ聞(きこ)へし。八条宮(円恵)は具したりける人あしく、衣(ころも)袈裟なんどを脱がせ申して、紺(こん)の帷子(かたびら)を着せ奉りたりければ、走りかゝりて武者の斬らんとしけるに、うしろに少将房とて近くつかはれける僧は、院の御所に候(さふらふ)源馬助俊光(みなもとのうまのすけとしみつ)と云ふが兄也、その僧の、「兄」と云て手をひろげたりける腕(かいな)を、打落(うちおと)すまでは見きと申す者ありけり。山座主(やまのざす、明雲)が頚(くび)をとりて木曾(義仲)にかう/\と云ければ、「なんでう、さる者」と云ければ、たゞ西洞院川にすてたりけるなめり。「院の御前(ごぜん)に御室(おむろ、守覚)のおはしける、一番に逃給(にげたま)ひにけり。口惜(くちをし)き事也」とぞ人申(まうし)し。明雲は山にて座王あらそいて快修(くわいしう)とたゝかいして、雪の上に五仏院より西塔まで四十八人殺させたりし人なり。すべて積悪(しやくあく)をゝかる人なり。西光(さいくわう)が頚きらるゝ日は、山大衆(のだいしゆう)西坂本に下りて、「これまで候」などいはせて、平人道(へいにふだう、清盛)は、「庭に畳しきて、大衆大(おほ)だけへかへりぼらせ給ふ火の見え候しまでは、拝み申し候ひき」など云けるとぞ聞へし。かやうにて今日は又この武者して候ことこはいかにと、さすがに世の末にも深くかたぶく人多かりけり。寺の宮(みや、円恵)は尊星王法(そんしやうわうほふ)を行なはれけり。院(ゐん)事(こと)をはしますべくは替わり参らせんと祭文(さいもん、誓文)にかゝれたりけりとぞ申しし。又三条宮(高倉宮以仁王)寺(三井寺)にをはせしを、追いだす方(かた)の人なりきなども申しき。いかにも/\この院の木曾(義仲)と御戦いは、天狗(てんぐ)のしわざ疑いなき事也。これをしづむべき仏法も、かく人の心わろく極まりぬれば、利生(りしやう)のうつは物にあらず。術(すべ)なき事なり。

さて義仲は、松殿(まつどの)の子十二歳なる中納言、八歳にて中納言になられて八歳の中納言と云異名(いみやう)ありし人を、やがて内大臣に成(な)して摂政(せつしやう)長者(ちやうじや)になり、又大臣の闕(けつ)もなきに実定(さねさだ)の内大臣を暫(しばし)とて借りてなしたれば、世には「かるの大臣」と云異名又つけてけり。さて松殿世を行はるべきにて有りき。さしも平家にうしなはれ給(たまひ)てしかば、この時だにもなど云心(こころ)にこそ。さて除目(ぢもく)おこなひて善政(ぜんせい)と覚(おぼ)しくて、俊経宰相(としつねさいしやう)になしなどしてありし程に、かゝる次第なれば、一の所の家領文書は松殿皆すべて沙汰せらるべきにて、近衛殿はほろ/\と成りぬるにてありければ、法皇の近衛殿(基通)をいかにも/\いとをしき人に思はせ給て、賀陽院(かやのゐん、藤原泰子)方の領と云は、近衛殿のてゝの中殿(なかどの、基実)賀陽院の御子(みこ)になりて伝え給へる方なれば、そればかりをば近衛殿にゆるさるべしやと、その世にも猶院(ゐん)より仰(おほせ)られたりけるを、しかるべからぬやうに返事を申されたりける、口惜しく思しめしたりける也。松殿なんど程の人も、かくて木曾が世にて、世をながくしらんずと思しけるにやと返返(かへすがへす)口惜しき事也。九条殿(兼実)はうるせく、その時(とき)とりいだされずして、松殿になりけるをば、事がらも十二歳(師家)のをもて方こそあさましけれど、松殿の返(かへ)りなりたるにてこそあれ、いみじ/\とて、我(わ)れのがれたるをば仏神のたすけとよろこばれけり。

(注釈)
西海(さいかい)・・・西海道。九州。
つつやき・・・つぶやき。
一定(いちぢやう)もなし・・・確かでもない。
北面下臈(ほくめんげらふ)・・・北面武士の身分の低い者。
友康(ともやす)・・・鼓判官知康。
公友・・・大江公朝。
ひた立(たて)に・・・ひたすらに。
本体(ほんたい)・・・真の姿。
物(もの)がらもさこそきこへければ・・・ひとがらもさぞかしよいと評判されたので、
をもはへて・・・思えて、予想して。
しまはして・・・作り廻して。
あぶれ源氏・・・住所不定(無頼)の源氏
もよほして・・・集めて。
山の悪僧・・・延暦寺の荒法師。
御方(みかた)・・・後白河院の味方。
最勝光院(さいしようくわうゐん)・・・法住寺寺内の一院。
殿上人(てんじやうびと)・・・殿上に昇ることを許されたひと。
宮(みや)なにか・・・宮様など。
さるやうなる・・・相当のものらしい。
清浄光院(しやうじやうくわうゐん)・・・法住寺殿の近所。
顕真(けんしん)・・・第61代の天台座主。
長絹(ちやうけん)の衣(ころも)・・・長絹という絹織物の一種で作った僧衣。
香(かう)のけさ・・・香染(黄の黒みがかった染め色)の袈裟。
ついぢ(築土)・・・屋根のある土塀。
南ざまへ・・・南方へ。
しづは・・・しずわ、鞍の後方の高くなった所。後輪。
くゝりめ・・・装束の紐でくくった所。
梶井(かぢゐ)宮・・・後白河院の子。承仁法親王。
きと・・・れっきと。
かたびら・・・ひとえもの。
なんでうさる者・・・なんだ、そんなもの。
かたぶく・・・首をかしげる。非難する。
利生(りしやう)のうつは物・・・衆生を利益する道具。人の心。
術(すべ)なき事なり・・・仕方のないことだ。

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2005年11月 5日 (土)

1183年 (壽永二年)11月後半

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年11月

11月19日 天気陰、時々小雨、
「義仲法住寺御所を攻む」
早朝人告げて云う、義仲すでに法皇宮を襲わんとすと。余信受せざるの間、暫く音無し。基輔を以て院に参らしめ、子細を尋ねしむ。午の刻(12時)帰り来たり云う、すでに参上の由、其の聞こえ有りと雖も、未だ其の実無し。凡そ院中の勢甚だ少しと為す。見る者興違の色有りと。光長又来たり、院に奏せん為退出したり。然れども義仲の軍兵、すでに三手に分かれ、必定寄せんの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依り、大将の居所に向かいたり。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。是河原の在家を焼き払うと。又時作る両度、時に未の刻(14時)なり。或いは云う、吉時と為すと。

「官軍敗績す」
申の刻(16時)に及び、官軍悉く敗績し、法皇取り奉りたり。義仲の士卒等、歓喜限り無し。

「義仲法皇を取り奉り五条亭へ渡る」
即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉りたり。武士の外、公卿・侍臣の矢に中(あた)り死傷の者十余人と。夢か夢に非ざるか。魂魄(こんぱく、たましい)退散し、万事覚えず。

「天下乱逆のうち未だ今度の如きは無し」
凡そ漢家本朝天下の乱逆、其の数有りと雖も、未だ今度の如き乱有らず。義仲はこれ天の不徳の君を誡むる使いなり。其の身の滅亡、又以て忽然か。憖(ぎん、ねがう)ひに生きて此の如しの事を見る。只宿業を恥ずべきものか。悲しむべし悲しむべし。

「基通宇治の方に逃げる」
摂政(基通)未だ合戦せざる前、宇治の方へ逃げられたりと。夜に入り、定能卿密かに母堂の許へ来たる。即日余の居所の北隣に来たるなり。

「兼房院に参るも合戦のため迷い出ず」
今日、二位中納言(藤原)兼房院に参り、合戦の間、雑人のため、僕従・乗り物等を隔てられ、歩行して、迷い出で、当時小屋に在り。乗物を送るべき由、雑色を以て示し送らる。依って牛車等を相具し送り遣わす処、尋ね失いたりと。後に聞く、歩行し法性寺の僧都(慈円)の許に来たると。深更に及び家に帰られたりと。日来却って籠居(ろうきょ)の人、何故今日参院せらるるや、尾籠(びろう)の甚だしき、鳴呼(ああ、あはあ)と謂うべきなり。定めて天下の沙汰となるか。
「天皇の御在所知れず」
主上(後鳥羽天皇)、実清卿相具し奉ると。未だ其の御在所を知らずと。今夜大将亭に宿す。
(注釈)
籠居(ろうきょ)・・・謹慎などして、家の中にとじこもっていること。
尾籠(びろう)・・・無作法、無礼、

11月19日 [吉記]天晴れ。
 午の刻南方火有り。怪しみてこれを見る処、院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。馬を馳せんと雖も、参入すること能わず。南方の空を見るに夕陽に及び、縦横の説信じ、信ぜざるの処、日入るに及び、院の御方逃げ落としめ給うの由風聞有り。鳴咽(おえつ)の外更に他事を覚えず。後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕(が)し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬(あんば)、或いは匍匐(ほふく)、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。
(注釈)
鳴咽(おえつ)・・・のどをつまらせて泣く。
駕(が)・・・乗り物に乗っていく。
鞍馬(あんば)・・・くらをおいた馬。
匍匐(ほふく)・・・はうこと。
雲客(うんかく)・・・殿上人(てんじょうびと)。

11月20日 天気晴れ、
「基房五条亭へ参るという」
伝聞、入道関白(藤原基房)去る夜より五条亭に参宿し、義仲迎えに寄すと。花山大納言(藤原兼雅)日野の方へ逃げ向かふと。或る人云う、源雅賢搦め取られたり。又源資時切り取られたりと。但し一定の説を知らず。後に聞く、両人共搦め取り武士の許に在りと。

11月21日 天気晴れ、
今日定能卿参院したり。(藤原)親信卿相替り退出すと。昨日静賢法印又召しに依り院に参り、見参に入ると。
「義仲今後世間の事は基房に申し合わすという」
又義仲内々示して云う、世間の事松殿(藤原基房)に申し合わせ、毎事沙汰を致すべしと。頗る静賢詳しからざるか。
「基通入京す」
今夕申の刻(16時)摂政(基通)奈良より入京、前駆け6人、共78人、済々たる威光と。愚案ずるに甘心せず、忍びて入京せらるべきか。
「義仲の政に預からざる旨を仏神に祈謝す」
余密々に祈請(きせい、願かけ)して云う、今度義仲もし善政を行はば、余其の仁に当たる。此の事極まり無き不詳(不吉、不運)なり。よって今度の事、其の中に入るべからず。義仲に順ふべからざる由、聊(いささ)か仏神に謝したり。言ふ莫れ言ふ莫れ。

11月21日 [吉記]
今日、伯耆の守光長已下の首百余、五條河原に懸く。人以て目すと。義仲検知すと。

11月22日 天気晴れ、
「藤原師家内大臣に任じ摂政とす」
早朝太夫吏隆職告げ送りて云う、権大納言(藤原)師家内大臣に任じ、摂政たるべき由仰せくだされたりと。昨夜丑の刻(2時)と。
「後鳥羽天皇閑院に御す」
晩に及び隆職来て語りて云う、主上閑院(かんいん、藤原冬嗣の邸宅)におはしますと。今朝新摂政に参る人々済々、前摂政の居所近々、事甚だ掲焉(えん、いずくんぞ)と。余今度の事を免る、第一の吉慶なり。
「合戦により天台座主明雲及び円恵法親王殺害さる」
伝聞、座主明雲合戦の日、其の場に於いて切り殺されたり。又八条円恵法親王、華山寺辺りに於いて伐ち取られたり。又権中納言頼実卿、直垂折鳥帽子等を着け逃げ去る間、武士等卿相たる由を知らず、引き張りて斧せんとする処、自ら其の名を称すと雖も、衣裳の体尋常の人に非ず、偽りて貴種を称するなり。猶頸を打つべき由、各沙汰する間、下人の中に身知る者有り、実説の由を称す。よって忽ちに死を免る。
「武士等頼実を経宗の許に送り纒頭を賜る」
武士等相共に父大臣(藤原経宗)の許に送ると。大臣憂喜相半ばし、纒頭(てんとう、ほうび)を武士等に与ふと。抑(そもそも)今度の乱、其の詮只明雲・円恵の誅殺にあり。未だ貴種高僧の此の如しの難に遭うを聞かず。仏法の為希代の瑕瑾(かきん、きず)たり。悲しむべし悲しむべし。又人の運報、誠に測り難き事か。前摂政(基通)去る7月の乱の時、専ら其の職を去るべき処、法皇の艶気に依り、動揺無く、今度何の過怠に依り所職を奪はるるや。
「基房に札を送り師家の吉慶を賀す」
入道関白(基房)の許へ書札を送り、其の子の吉慶の事を賀す。本意の由報札有り。
「義仲の許へ使者を遣わす」
又使者を以て義仲の許へに遣わす。是等当時の害を遁れん為なり。
「清原近業落命すという」
又聞く、大外記頼業の子直講清原近業、流矢に中(あた)りて命を失ふと。但し未だ一定を聞かず。よって父真人の許へ問ひ遣はす。今日訪札を前摂政の許に送る。
「殿歴」
この日天下穢れに依り、大原野祭り無し。よって奉弊せず。但し神斎恒の如し。殿歴の説に依るなり。

11月23日 天気晴れ、
この日北家に帰る。
「藤原実定の内大臣を借用という」
伝聞、内大臣(藤原実定)解官に非ず、借用すと。凡そ欠官は三なり。所謂死闕(けつ、かける)、転任・辞退なり。
「借官これに始まる」
借官之当今に始まる。禅門(藤原基房)の計、然るべし、然るべし。

11月24日
侍(外記大夫大江政職)を以て大外記頼業の許に遣わし、其の子親業の安否を吊ふ。去る19日戦場に於いて夭(よう、わかい)亡の由、風聞あるの故なり。

11月25日 陰晴不定、夜に入り小雨、
定能卿院より退出す。余之に謁す。語りて云う、法皇殊に御嘆息の気無きかと。
「方違」
此の夜方違いに依り堂廊に参宿す。

11月26日 天気晴れ、
今日文書の沙汰有り(師景文書なり)。大将・中将等、同じく会合す。夜に入り家に帰る。
「信円興福寺寺務を辞さんとす」
早朝、奈良僧正書を送り云う、松殿の辺の事、最も勝事(しょうじ)なり。凡そ世上の事夢の如し。寺務及び僧正等を辞し申さんと欲する、如何。計らひ示すべしと。条々委細返事を示したり。
(注釈)
勝事(しょうじ)・・・人の耳目をひくような尋常でない事柄。すばらしいこと。奇怪な事件。

11月27日
伝聞、平氏室の泊に付けたりと。実否を知らず。
「源宗雅来る」
今日(源)宗雅朝臣語る。前摂政(基通)の辺りの事、義仲大略所領等の事、相違有るべからざる由を申すと。然れども、又万事松殿(藤原基房)押して沙汰すと。今日仏厳聖人来る。伝聞、借り(任)大臣の事、天下の鼓騒(こそう)、禅門(藤原基房)頗る恥じ色有りと。
(注釈)
鼓騒(こそう)・・・さわぎたてること。

11月28日 天気晴れ、
範季・光長等来たり世上の事等を語る。
「基通の所領八十余所を義仲に賜わらんとす」
前摂政家領等、違乱有るべからざる由、義仲本所に示すと。然る間新摂政(師家)皆悉く下文を成し、八十余所義仲に賜ふと。犯乱の世なり。伝聞、借り(任)大臣の次第、先ず入道関白(藤原基房)、少将藤原顕家を以て使いと為し、内大臣(師家)に触れられると。希異の又奇異、更に言語の及ぶ所にあらざるものか。

11月28日 [吉記]
 前の兵衛の尉国尚、備前の守行家の随兵として西国に下向す。途中より書状を送りて云く、去る九日、三位中将重衡大将軍として、三百余騎の勢を以て、備前の国東川に寄せしむの間、当国検非違使所別当惟資・国武者相共に合戦す。惟資手を負う。武蔵の国住人□四郎介並びに子息打ち取られたり。仍って惟資国府を引き山に入りたりの後、惟資西川より千騎ばかりの勢を以て、申の刻ばかりに寄せしむの間、平氏の兵勝ちたり。少々物具を脱ぎ棄つと。件の日暮れたり。明暁すでに寄せしむの由、国人申せしむと雖も、検非違使所別当即時に寄せしむの間、酉の時ばかりに押し寄せ合戦す。平氏方五十四人討ち取られ、源氏方国人雑人二十人ばかり打たれたりといえり。また安藝志芳庄より、脚力到来して云く、平氏の前陣室泊の辺に着く。追討使前宿に着き馳すと。

11月29日 天気晴れ、
宰相中将定能卿来たり。只今院に参り帰ると。花山大納言(兼雅)頗る恐れを成す由、大将の女房の許へ示し送ると。よって訪札の報状を送りて云はく、解官の中に入らずと雖も、所領を没官せられ、又出仕を停止せらると。尤も不便の事か。晩頭太夫吏隆職解官等を注し送る。
「解官さるる人々」
解官
中納言藤朝方、    参議右京太夫同基家
大宰大弐同実清    大蔵卿高階泰経
参議右大弁平親宗  右中将播磨守源雅賢
右馬頭源資時     肥前の守同康綱
伊豆の守同光遠    兵庫頭藤章綱
越中守平親家        出雲の守藤朝経
壱岐の守平知親    能登の守高階隆経
若狭守源政家        備中守源資定
左衛門尉平知康(大夫尉)
此の外衛府26人と。
「即位踰年の例」
今日申の刻(16時)、五位蔵人親経院のお使いの為来たる。問い云う、御即位来月22日遂行されるべきなり。しかるに18日に至り穢気たり。よってその後22日、伊勢の幣を立てられる。28日本儲け日、即位、此の定定行されるべき処、万事叶ひ難し。よって踰(ゆ、よう、こえる)年例を外記に問わる。天智・天武・皇極・陽成院等の例なり。或いは両三年を経、或いは7・8年におよぶと。或いはまた明年なり。先例すでに在り。明年行われるべきか。計らひ奏すべしと。申し云う、文武以後数代、陽成院の外、未だを踰(こえる)年の例を聞かず。よって左右無く、歳の中に行われるべしと雖も、用途叶い難く、儀式或いは欠くべくば、此の限りに非ず。就中近日の為体(ていたらく)、常途の例に似るべからず。
「即位延引すべし」
況んや先規有りに於いてをや。延引時議に叶うかといえり。左大臣・忠親・長方両卿、皆延引せらるべき由申すと。入道関白頗る歳内に執せられ、院宣は延引よろしかるべしと。

11月30日 天気晴れ、
重ねて頼業の許へ使者を送り、先日使いを以てその子の近業の事を吊ふ。其の返報に付き、いささか申す事有り。忠言と謂うべし。よって其の事を感ずるため仰せ遣わす所なり。

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2005年11月 4日 (金)

1183年 (壽永二年)11月前半

1183年 (壽永二年 癸卯)
寿永2年11月

11月1日 天気陰。時々小雨。但し衣湿りに及ばず。
「朔旦冬至出御なし」
「昌泰の例」
「左大臣造進次第頗る非なり」
(以下儀式の詳細略)
   ・・・
「賀表作者俊経料紙」
「院御衰日により追討使進発延引す」
この日義仲・行家等平氏討つ為首途(出立)すべしと雖も、忽ち以て延引す。院の御衰日の為に依りなりと。来たる八日進発すべしと。
「朔旦冬至不出御の例」

11月2日 天気晴れ、
「頼朝去月鎌倉城を出るも上洛を停止し、弟義経を遣わしむ」
伝聞、頼朝去る月5日鎌倉の城を出で、すでに京に上り、旅館に宿すこと三ケ夜に及ぶ。しかるに頼盛卿の行向かひ議定あり、粮料(食糧)・蒭(まぐさ)等叶うべからずにより忽ち上洛を停止し、本城に帰り入りたり。其の替り九郎御曹司(誰人か、聞き尋ねるべし)を出立し、すでに上洛せしむと。ある人云う、今日義仲院に参ると。
(注釈)
蒭(まぐさ)・・・刈ったわらや草をぐっと縮めて束ねたまぐさ。牛馬の飼料。

11月3日 天気晴れ、
両息を伴い堂に向かう、師景文書の事を沙汰す。
伝聞、頼朝上洛決定延引したり。其の弟九郎冠者、五千騎の勢を副えて上洛せしむべしと。然れども猶以て不定と。
「北斗堂」

11月4日 天気晴れ、
「頼朝代官不破関に着く」
伝聞、頼朝上洛決定止まりたり。代官入京なり。今朝と。今日布和の関に着くと。先ず事の由を奏し、御定めに随い参洛すべし。義仲・行家等相防ぐにおいては、法に任せ合戦すべし。然らずば過平の事有るべからずの由仰せ合わすと。又聞く、平氏一定讃岐の国に在りと。この日隆職宿禰来る。
11月4日 [吉記]
 或る説に云く、平氏讃岐八嶋に在り。九国の輩菊池已下、追討し進せんが為、すでに文司関を出たりと。また安藝志芳の脚力到来して云く、平氏十月二十日一定鎮西を遂い出されたり。事すでに必然なり。また出家の人その数有りと。東国より上洛の者等その数有り。その説に云く、頼朝鎌倉を立ち、足柄上道に至る。その勢騎歩相並び三百万人に及ぶ。その粮料仮令三万石に余るの間、用途相叶うべからざるの由、猶予するの間、院使康貞下り逢う。仍って鎌倉舘に帰りたり。舎弟字九郎冠者、その名義経と。幾ばくの勢も具せず代官として上道す。今明入京すべし。院の別進を相具すと。国々庄々に下向するの輩或いはこれを施行し、或いは空しく帰洛するなり。叛儀の是非、京上を企つの間、毎事落居せざるの故なり。また秀衡進出す。義仲が子冠者逐電の由風聞す。無実と。

11月5日 天気晴れ、
「春日社奉弊、弥勒講」
伝聞、来たる八日行家鎮西下向に一定す。義仲下向すべからず。頼朝の軍兵と雌雄を決すべしと。

11月6日 天気晴れ、
「春日祭」
「平頼盛鎌倉に赴き頼朝と対面すという」
或人云う、頼盛すでに鎌倉に来着す。唐綾の直垂・立鳥帽子、侍二人、子息皆悉く相具して、各腰刀剣等持たずと。頼朝白糸葛水干・立鳥帽子の対面、郎従50人許り頼朝の後ろに群居すと。
「相模国府」
その後頼盛相模の国府に宿す。頼朝の城を去ること一日の行程と。目代(国守の代官)を以て後見と為すと。能保悪禅師の家に宿すと。頼朝の居を去る一町ばかりと。この事修行者の説たり。雅頼卿の注送する所なり。
「五体不具穢」

11月7日 天気陰、晩に及び雨下る、
「義仲を院中警護の人数に入る」
伝聞、義仲征伐せらるべき由により、殊に用心し欝念の余り、此の如く承り及ぶ由、院に申さしむと。よって院中警護の武士中に入れられ申したりと。行家以下、皆悉く其の宿直を勤仕す。しかるに義仲一人其の人数に漏るる由、殊に奇を成すの上、又中言の者有るか。行家明夕必定下向と。頼朝代官今日江州に着くと。其の勢僅か56百騎と。忽ち合戦の儀を存せず。只物を院に供せんための使いと。次官中原親能(広季の子)並びに頼朝弟(九郎)、等上洛すと。
「梅宮祭の弊河原より立つ」
「院の返札あり」
(注釈)
中言(ちゅうげん)・・・両者の間に立ってする告げ口。

11月8日 天気晴れ、
「平氏追討の為行家進発」
今日、備前の守源行家、平氏追討の為進発す。見物者語り云う、其の勢270余騎と。おおいに少なしと為す如何如何。今日義仲すでに打ち立ち、只今乱に逢うの事の如し。院中以下京都の諸人、毎家鼓騒す。
「兼実密かに神鏡等無事を第一とする旨を行家に示す」
そもそも神鏡剣爾、無事迎え取り奉る条、朝家第一の大事なり。しかるに君臣共に此の沙汰無し。よって余密かに此の趣を以て行家に含めたり(全く親睦の縁なし、然れども偏に社しょくを思うにより、或僧を招き具さに以て聞達したり。中心の誓い、上下鑑みるべきのみ)。

11月10日 天気陰、午後雨下る、
「方違」
「北斗堂供養」
伝聞、頼朝の使い供物に於いて江州に着きたり。九郎猶近江に在りと。澄憲法印を以て御使いと為し、義仲の許に遣わし、頼朝の使いの入京、欝存ずべからず由と。悦ばずの色有りと雖も、憖(ぎん、ねがう)ひに領状(承諾)か。勢無きに於いては、強(あなが)ちに相防ぐべからざる由申さしむと。

11月11日 天気晴れ、晩に及び雨下る、

11月12日 天気晴れ、
「平資盛帰洛を望む旨を知康に伝うという」
伝聞、平資盛朝臣使いを大夫尉平知康の許へ送り、君に別れ奉り悲嘆限り無し。今一度華洛へ帰り、再び竜顔(りゅうがん)を拝せんと欲すと。人々疑う所、もし神鏡剣爾を具し奉るかと。又聞く、平氏其の勢数万に及び、追討忽ち叶うべからずと。
(注釈)
竜顔(りゅうがん)・・・天子の顔。

11月13日 雨下る、
「義仲頼朝追討の院宣を秀衡に示すとの浮説あり」
藤原季経朝臣来たり語り云う、院の庁官康貞、一昨日上洛すと。閭巷(りょこう)の説に云う、秀衡頼朝追討すべき由、院宣有る旨、義仲秀衡の許に示し遣わし、秀衡件の証文を以て康貞に付き進覧したりと。但し此の条定めて浮説かと。追って尋ね聞くべし。今旦行家鳥羽を起ちたりと。
(注釈)
閭巷(りょこう)・・・村里。

11月14日 天気晴れ、
「頼業を以て両息に尚書を教授せしむ」
大外記頼業来たる。大将(良通)・中将(良経)両息共に尚書を頼業に受け始む。是兼日の支度に非ず、期に臨み思い立つ所なり。頼業明経道において上古の名士に恥じざるなり。よってその説を請け習わしめんためなり。
「平氏に使いを遣わし勅命を以て神器を返還せしめんとす」
申の刻(16時)頭弁兼光院の御使いとなり来る。仰せ云う、神鏡剣爾、城を出て外に在り、わが朝の大事これに過ぎたるなし。よって試みに御使いを遣わし、誘うに勅命を以てする如何。此の事天下変有りし時、人々議奏し、あらかじめ其の沙汰有りと雖も、自然に旬月を送る。しかるに去る9月の日、前内大臣(宗盛)法皇に書を上る。其の状に云う、臣に於いて全く君に背き奉るの意無し。事図らざるに出で、周章の間、旧主に於いては、当時の乱を遁れんため、具し奉り外土に蒙塵(もうじん)したり。然るに此の上の事、偏に勅定に任すべしと。此の状の如くば、弥々(いよいよ)和親の儀を表し、彼の三神を迎え奉られるべきか。
しかるに義仲追討の時、官兵敗績し、此の時に臨み、御使を遣わさるるは、辺民の愚、恐らく士卒のおう弱に諂諛(てんゆ、へつらう)に依る由を存ずるか。此の条如何。能く思量し計らひ奏すべしといえり。申し云う、此の事旧主蒙塵の刻、速やかに此の議有るべし。しかるに延びて今に及ぶ。懈(かい、おこたる)緩(かん、ゆるい)の条、悔いて益無し。況や彼の漏達の趣あるにに於いてをや。御使い遣わされるの条、異議及ばぶべからず。そもそもかの報奏の旨、密かにして豫議有るべし。遠境の間、御使い更に帰参の後、重ねて其の儀有らば、擁(よう、いだく)怠(たい、なまける)の処、自ら変易(へんえき)有るか。よって智慮(ちりょ)の及ぶ所、然も議定有り、御使いに含められるべきなりといえり。兼光云う、摂政(基通)申されて云わく、御使いの上、手跡(しゅせき)を以て女院(建礼門院平徳子)に献ぜられるべし。疑いを殆ど避けんためなり。左府(経宗)申されて云わく、御使い二人有るべきなりと。余云う、此の儀共に然るべし。そもそも器量を撰び、其の人を献せられるべしといえり。兼光退き帰りたり。
(注釈)
蒙塵(もうじん)・・・天子が変事に際し難を避けて逃れること。
諂諛(てんゆ)・・・おもねりへつらうこと。
変易(へんえき)・・・かわること。
智慮(ちりょ)・・・先のこと、細かい事まで考えはかる知恵。
手跡(しゅせき)・・・その人が書いた文字。筆跡。

11月15日 天気晴れ、
晩に及び宰相(藤原定能)中将来たり院中の事を語る。武士の守護、逐日怠らずと。院中上下、或るいは受けず。或いは甘心し、両様と。又云う、頼朝代官九郎、入洛すべきや否や、頗る豫議有り。大略進らす所の物並びに使者等、帰国すべき様其の沙汰有り。
「義仲頼朝代官の入京を承伏す」
然るの間又議出で来たり、澄憲を以て重ねて義仲の許へ仰せ遣わさるるの処、其の勢幾ばくならずば、入京を許されるべき由、憖(ぎん、ねがう)ひに承伏すと。又云う、只今主典代景能来たり入る(頼朝の許に遣わされる所の御使いなり)。此の一両日入洛すと。よって頼朝の報奏の趣を問う処、大略御返事を申すに及ばず、専ら悦ばざる色有り。子細に於いては、始めの御使い(庁官康直)に申したり。今の仰せ只前と同じなり。早く帰参すべしと。敢えて饗応の気無く、殆ど攀縁(はんえん)と謂ふべきかと。
(注釈)
攀縁(はんえん)・・・いきどおること。

11月16日 陰晴れ不定、今暁地震、
「地震」
「定能室平産す」
「法皇法住寺南殿に臨幸あり」
今日院南殿に臨幸すべし。御用心の体、日来において万倍す。今日の出仕指しあうか。よって不参。
「所々にこうを堀、釘抜きを構う」
今夕所々に?(こう、からぼり)を堀り、釘抜きを構え、別段の沙汰と。此の事天狗の所為か。偏に禍を招かるるなり。左右能わず、左右する能わずと。蔵人源清実来たり、右大将(良通)を催し云う、寮の御馬不足、権立馬を進すべしと。力及ばずの由を申す。馬無きに依りてなり。

11月17日 雨下る、
「京中騒動」
平旦人告げて云う、院中武士群集す、京中騒動と。何事かを知らず。
「義仲院御所を襲う由院中に風聞あり」
しばらくありて又人云う、義仲院の御所を襲うべき由、院中に風聞す。
「法皇が義仲を討たるか」
又院より義仲討たれるべき由彼の家に伝え聞く。両方偽詐を以て告げ言う者有るか。此の如しの浮説に依って、彼是鼓騒す。敢えて云うべからずと。もし勅命に背くば、罪の軽重に随い、罪科行わるるは例なり。又たとい王化に服せざる者有りと雖も、一州を慮領し、外土に引き籠もる、粗く先蹤(しょう、あと)有り。未だ洛中咫(し)尺の間此の如しの乱有るを聞かず。此の事計りなり。義仲忽ち国家を危うくし奉るべき理なし。
「君が兵を集むるは志愚の政なり」
只君城を構え兵を集め、衆の心を驚かさるるの条、専ら至愚の政なり。是少人の計より出づるか。果たして以て此の乱有り。王事の軽き、是非の論ずるに足らず。悲しむべし、悲しむべし。午後に及び、聊(いささ)か落居すと。
「法皇御愛物たるにより基通宿候す」
摂政(基通)召しに依り参入し、今夜宿し候はるべしと。是御愛物たるに依り、殊に召しに応ずるなり。他の公卿近習、両三輩の外、参入の人無しと。弾指すべし弾指すべし。藤原長方卿一人参入し、悲泣して退出すと。
「義仲の許に法皇使者を遣わす」
主典代(大江)景宗を以て御使いと為し、義仲に遣わされる。其の状に云う、謀反の条、諍(しょう、あらそう)ひ申すと雖も告げ言ふ人其の実を称す。今に於いてのがれ申すに及ばざるか。

「義仲洛中に逗留するを勧めず」
もし事無実たらば、速やかに勅命に任せ、西国に赴き平氏討つべし。たとい又院宣に背き、頼朝の使いを防ぐべしと雖も、宣旨を申さず、一身早く向かうべきなり。洛中に在りながら、動もすれば聖聴を驚し奉り、諸人を騒がしむ、おおいに不当なり。猶西方に向かわず、中夏に逗留せば、風聞の説、実に処せられるべきなり。能(よく)思量し進退すべしと。其の報奏の趣未だ聞き及ばず。

「兼実使者を以て物騒の子細を院中に尋ねる」
余使者(国行)を以て院に進らしめ、定能卿に示し送りて云う、所労に依り早く参らず、物騒の子細、委しく告げ示されるべしという。返事の趣、大途風聞の如し。晩に及び、左少弁光長来たり語る旨、又以て前と同じなり。此の夜八条院(暲子内親王)八条殿に還御すと。疑うらくは明暁義仲を攻められるべきかと。左右能わず、左右能わず

「義仲勢僅かと雖も勇なり」
義仲其の勢幾ばくならずと雖も、其の衆おおいに勇となすと。京中の征伐、古来聞かず、もし不慮の恐れ在らば、後悔如何。

「近習小人により此の如き大事に至る」
小人等近習の間、遂に此の大事に至る。君の士を見ざるの致す所なり。日本国の有無、一時に決すべきか。犯過無き身、只仏神に奉仕するのみ。

11月18日 天気晴れ、
「吉田祭」
此の日吉田祭なり、
「兼実良通共に院に参る」
早朝大将を伴い院に参らんとする間、泰経卿奉行となり、只今参るべき仰せあり。承りたる由を申す。即ち相共に院に参る。時に辰の刻(8時)なり。泰経卿を以て仰せ下されて云はく、世上の物騒、逐日倍増す。然り間浮言多く出で来たり、御所の警護法に過ぐ。義仲叉命に伏する意無きに似たり。事すでに大事に及べり。よって昨日主典代景宗を以て御使いと為し、仰せられて云わく、征伐の為西国に向かうべき由、度々仰せ下さる。しかるに今下向せず。又頼朝の代官を攻むべき由申さしむと。然からば早く行向かうべし。しかるに両方とも首途せず、すでに君に敵せんとす。其の意趣如何。もし謀反の儀無くば、早く西海に赴くべしといえり。義仲報奏して云う、先ず君に立ち会い奉るべき由、一切存知せず。これにより度々起請を書き進らせたり。今尋ね下さるる条、生涯の慶びなり。西国に下向に於いては、頼朝の代官数万の勢を引率して入京すべし。てへれば一矢射るべき由、素より申す所なり。彼入れらるべからずは、早く西国に下向すべしと。
「法皇条々の事を兼実に諮られる」
この上頼朝の代官の事何様に仰せられるべきや。兼ねて又此の騒動に依り、院に行幸有るべきか。将に忽ち然るべからざるか。此等の条々計らひ申さしむべしといえり。
「義仲に敵対するは王者の行いに非ず」
申し云う、先ず院中のご用心の条、頗る法に過ぎたり。是何故ぞや。ひとえに義仲に敵対せらるるなり。おおいに以て身苦し。王者の行いに非ず。もし犯過有らば、只其の軽重に任せ、刑罰を加えられるべし。又仰せくだされる如くば、申し状いまだ穏便か。然らば先ず然るべき御使いを遣わされ、且つ浮言の次第を尋問せられ、且つ所行の不当を勘発せられ、もし告げ言う輩を指し申さば、法に任せ刑罰に行われるべし。先ず当時敵対の儀を罷(やめる)らるる、尤も宜しきか。義仲もし理に伏し和顔有らば、何ぞ征討に赴かざらんや。たとい罪科有るべしと雖も、出境の後其の沙汰有らば、当時の怖畏有るべからざるか。洛中咫(し)尺の間、君に敵対せらるの条、当時後代、朝の恥辱、国の瑕瑾(かきん、きず)何事か之に過ぎんや。もし又猶勅命を受くるを背ぜずば、かの時法に任せ科断有るべきか。今の沙汰の如くば、王化無しが如し。甚だ以て身苦しきか。頼朝の代官の条に於いて、勢少なくば入るべき由、義仲申す旨、先日風聞有り。更に変じ申すべからずか。又巨多の士卒を率いば、停止すべき由、かの代官に仰せられるべきか。行幸の条、忽ち然るべからざるかといえり。泰経卿御前に参りたり。その後人々多く以て参集し、左大臣以下大略残る人無きか。定長卿を以て暫く候ふへき由仰せられる。よって祗候(しこう)す。
「密々に行幸あり」
未の刻(14時)に及び、定能卿密々に来たり告げて云う、只今御車を以て密々に行幸成りたり。院知し食さずと。頃之(しばらく)ありて定長来たり問いて云う、
「何処を皇居とすべきか」
図らざる外行幸有り。此の亭を以て皇居とすべきか。将に又猶閑院を以て皇居と為すべきか、計らひ申すべしといえり。申し云う、此の御所を以て皇居と為さば、行幸の条おおいに奇。よって只殿上巳下の事、閑院に在るべきかといえり。定長云う、左大臣が申さるる旨同前と。申の刻(16時)に及び伺候す。殊に尋問せらるる事無し。よって泰経に触れて退出したり。太夫吏隆職来たり、余之に謁す。隆職の所存余の案の如し。
「法皇の宮々院中に候す」
摂政今夜より院御所に参宿せらるると。仁和寺宮(守覚)・八条宮(円恵)・鳥羽法印等、皆日来より院中に候はると。

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2005年11月 3日 (木)

1183年 (壽永二年)閏10月

1183年 (壽永二年 癸卯)
閏10月

閏10月1日 天気晴れ、
「日蝕」
この日、日蝕なり。
「時刻勘文に相違す」
「春日朔弊」

閏10月2日 天気晴れ、
「藤原光雅院宣を伝う」
「天下乱逆は崇徳院怨霊の所為という」
「成勝寺内に祠を建つべきか」
「御陵改葬の事につき先例の子細等を兼実に問う」
「山陵を置かずただ仏教によりて訪うべし」
「平城上皇の例」
「藤原兼光来る」
申の刻(16時)、頭弁藤原兼光来たる。余これに謁す(その儀光雅に同じ。蔵人頭といえども家司たるの故なり)。語り云う、平氏始め鎮西に入ると雖も、国人等用ひざるに依り、逃げ出で、長門の国に向かう間、又国中に入れず、よって四国に懸かりたり。平貞能は出家し、西国に留まりたりと。此の由周防・伊予両国より飛脚を進め申しむと。
「平宗盛降伏の使者を義仲に遣わすという」
又ひそかに義仲は兼光の許に使いを送る。其の男の説の如し。相違無し。その上申し云う、前内府(平宗盛)の許より義仲の許に使者を送り云う、今に於いてひとえに帰降すべし。ただ命を乞うと欲すと。この上神鏡剣爾、事の障り無く、迎え取り奉られ難き事、第一の大事なり。次第の沙汰又以て説に背くか。
「改元あるべし」
「北野御幸賞」
「北野社内小神の神位増位の事」

閏10月3日 天気晴れ、
「西山に赴く」
「東寺に参詣す」

閏10月5日 天陰、午後雨下。
「皇嘉門院月忌」

閏10月6日 天気晴れ、
「良通今度の五節参入・御覧共に謹仕せず」
伝聞、頼朝上洛成り難しの間、其の実然るべからずと。又義仲今両三日の間に帰洛すべし、又滅亡すべしと。

閏10月8日 
「泰山府君祭」
「頭中将隆房即位以前の節会の事を尋ね仰す」
「今年五節停止すべし」
「叙位下名の事」

閏10月10日
「方違」

閏10月11日 晴れ
「藤原兼光消息」
「改元何月に行わるべきか」
「兼実返状」
「十二月改元に異議無し」

閏10月12日 天気晴れ、
「五節停止せられる」

閏10月13日 天気晴れ、
晩に及び、太夫吏隆職来たり世間の事談ず。平氏讃岐(香川県)の国に在りと。或る説に女房の船に主上並びに剣爾を具し奉り、伊予(愛媛県)の国に在りと。但しこの条未だ実説を聞かずと。又語り云う、院のお使い庁官泰貞、去る日重ねて頼朝の許へ向かいたり。仰せの趣殊なる事無し。義仲と和平すべしの由なり。
「頼朝の申請により東海・東山道の荘園公領を本の如く領知すべき宣旨あり」
そもそも東海・東山・北陸三道の荘園・国領、本の如く領知すべき由、宣下せらるべき旨、頼朝申請す。よって宣旨を下さらるの処、北陸道許り、義仲を恐れるにより、その宣旨を成されず。頼朝是を聞かば定めて欝を結ぶか。おおいに不便の事なり。この事未だ聞かず。驚き思うこと少なからず少なからず。この事、隆職不審に耐えず、泰経に問う処、答え云う、
「義仲を恐るるにより北陸道は入らず」
頼朝は恐れるべしと雖も遠境に在り。義仲は当時京にあり。当罰の恐れ有り。よって不当と雖も、北陸を除かれるとの由答えしむという。天子の政、あに以てこの如しや。小人近臣となり、天下の乱止むべきの期無きや。
「北野小神の事未だ宣下なし」
「藤原資隆に良通の詩を見せしむ」

10月14日 天気晴れ、
申の刻16時人告げて云う、平氏の兵強し、前陣の官軍多く以て敗れられたり。よって播磨(兵庫県南西部)より更に義仲備中(岡山県西部)に赴くの由の風聞す。よって又御使いを以て上洛を制せらる。承りたりの由を申す。しかるに忽ち以て上洛の由。今夕明朝の間入洛すべしの由、昨日の夕飛脚到来す。
「京中騒動す」
その後院中の男女、上下周章極まり無し。恰も戦場に交わるが如し。その事漏れ聞ゆる間、京中の人屋、去る夜今朝の間、雑物を東西に運び、妻子を辺土に遣はし、万人色を失ひ、一天の騒動、敢えて云うべからずと。余遅く之を聞く、使いを以て(藤原)範季(院の臣)の許へ尋ね遣はすの処、事巳に実也と。去る夜子の時(0時)、(藤原)経家朝臣の妻男子を産み、即ち夭(よう、わかい)亡したりと。(藤原)頼輔入道の最愛の娘なり。入道飯室に在り。遣り告げたりと。父母現存す。其の哀慟を推すに、実に以て悲しむべし。凡そ今年の産、多く此の聞こえ有り。恐れべきことか。
「後白河法皇逐電の疑いあるも遂げられず」
今夜終夜寝ず。法皇逐電有るべき由、世人疑ひを成す故なり。然れども遂に以て其の事無く、天曙たり。

閏10月15日 夜より甚雨
「改元の時期につき再度諮らる」
「兼実の返事」
「年内改元すべし」
「中原師尚申状」
「先例は 年改元行わる」
「乱逆鎮静の改元詮なし」
「義仲入京す」
今日義仲入京したり。其の勢甚だ少なしと。

閏10月16日 雨下
「義仲院に参る」
今日義仲参院、条々仰せを承る。又申さしむと。子細之を尋ねるべし。
「詩」

閏10月17日 天気陰、
「義仲院への申状」
静賢法印密々に告げ送り云う、昨日義仲院に参り、申し云う、平氏一旦勝ちに乗ると雖も、始終不審に及ぶべからず。鎮西の輩、与力すべからざる由仰せ遣はしたり。又山陰道の武士等、併しながら備中の国に在り。更に恐れ及ぶべからずと。
「頼朝弟上洛という」
又頼朝の弟九郎(源の義経、実名知らず)、大将軍となり、数万の軍兵を卒し、上洛を企てる由、承り及ぶ所なり。其の事を防がんため、急ぎ上洛する所なり。もし事一定たらば行向かうべし。実ならずは此の限りに非ず。今両三日内、其の左右承るべしといえり。以上義仲の申し状なり。只今外聞に及ぶべからず。密かに告げ申す所なりと。平氏不審有るべからざる由申さしむるの条、甚だ以て荒涼の事か。
「秀衡東西より頼朝を攻むべき旨を義仲に示すという」
ある人云う、頼朝の郎従等多く以て秀衡の許へ向かう。依って秀衡頼朝の士卒異心有りの由を知り、内々飛脚を以て義仲に触れ示す。この時東西より頼朝を攻めるべしの由なりと。此の告げを得て、義仲兵士を知らず、迷いて帰洛すと。此の如き事実や否や知り事難きか。

閏10月18日 雨晴れ
「任子等の歯を取る」
「四方皆塞がり」
晩に及び、範季来たり世上の事を談ず。此の次、くだんの男云う、四方皆塞がり、中国の上下、併せ餓死すべし。此の事一切疑うべからず。西海に於いて、謀反の地に非ずと雖も、平氏四国に在りて、通せしめざるの間、又同じ事なり。加えて義仲の所存、君偏に頼朝を庶幾(こひねが)ひ、殆ど彼を以て、義仲を殺さんとせらるるかの由、僻推(へきすい)を成すか、将に告げ示す人有るかといえり。此の如しの間、法皇を怨み奉り、兼ねて又、御逐電の事を疑う。之に依り忽ち敗績の官軍を棄てて、迷い上洛する所なり。しかるに忽ち平家を討つ事叶うべからず。
「法皇自ら西国に赴かんとす」
平氏猶在せば、西国の運上又叶うべからず。よって且つ平氏を討たしめん為、且つ義仲の意趣を協(かな)はんため、法皇叡慮より起り、早く西国に赴かしめおはしますべきなり。只先ず、播磨の国に臨幸有るべし。しからば南・西国等の住人等、皆風に向かひ子のごとく来べきなり。その時鎮西の勢を発し、平氏を誅伐したるべし。以後還御有るべきなり。此の他凡そ他の計無しと。即ち此の旨を以て泰経に示す。泰経甘心し、又静賢法印に示す。静賢又以て服膺(ふくよう)す、しかるに未だ此の旨天聴(てんちょう)に達せずと。
「西国臨幸は頼朝にそむく恐れあり」
余之を案ずるに、立つ所の次第、其の理然るべきか。但しもし西海に臨幸有れば、偏に義仲等に釣り具せられ、頼朝に違乖(いかい)の由決定存しむるか。此の天下猶一日と雖も、頼朝執権すべき運有るかの由、素より愚案する所なり。然れば偏えにかの頼朝を変ぜらるる条、尤も思慮有るべきか。愚意の所存、只道理を以て仰せ聞かれ、かれこれ仏神に祈請し、強ちに此の勇士等を恐れず、正道を以て天下に行われば、衆災消ゆべきなり。只先ず、猶平家を討つべき由、義仲に仰せられ、別の使者を以て、又頼朝の許に子細を仰せ遣はさるべきなり。左右無く御下向の条、猶王者のふるまひに非ざるか。然れども口外せざるものなり。範季の議、少人の謀というべし。悲しむべき世なり。
(注釈)
僻推(へきすい)・・・かたよった推量?。
服膺(ふくよう)・・・膺は胸。心にとどめて忘れないこと。
天聴(てんちょう)・・・天皇がお聴きになること。
違乖(いかい)・・・ちがいそむくこと。

閏10月19日 天晴れ
「義仲法皇以下を奉じて北陸に向かうとの風聞あり」
有る人云う、来26日御遠行有るべしと。是昨日範季語る所の儀状か。将に又義仲院以宗たる公卿等を下具し奉り、北陸に向かうべしの由の風聞す。此の両事の間か。凡そ左右する能わずと。
「法皇新日吉社より忽ち還御す」
法皇今日より三ケ日、今比叡に参籠したもふべしと雖も、天下物騒に依り、忽ち以て還御すと。凡そ院中の近臣の周章極み無しと。何事かを知らず。

閏10月20日 天気晴れ、
「静賢法皇の使として義仲亭に向かう」
早朝、大外記頼業来たる。昨日の召しに依りてなり。粗く示し仰する事有り。申す所然るべし。今日静賢法印院のお使いとなり、義仲の家に向かひ、仰せて云わく、其の心説(よろこ)ばざる由聞き食す。子細如何。身の暇を申さず、俄に関東に下向すべしと。此の事等驚き思し食す所なりといえり。
「義仲十月宣旨のことにつき遺恨を申す」
申していわく、君を怨み奉る事二ケ条、
其の一は、頼朝を召し上げらるる事、然るべからざる由申すと雖も、御承引無く、猶以て召し遣はされたり。
其の二は、東海・東山・北陸等の国々に下されし所の宣旨に云う、もし此の宣旨に随わざる輩においては、頼朝の命に随い追討すべしと。此の条義仲生涯の遺恨たるなりと。
「頼朝軍を防がんとして義仲東国に赴くという」
又東国に下向の条においては、頼朝上洛せば、相迎え一矢射るべしの由、素より申す所なり。しかるにすでに以て数万の精兵を差し、(其の身は上らず)上洛を企てしむと。よって相防がんため下向せんとす。更に驚き思し食すべからず。そもそも君を具し奉り、戦場に臨むべし由、議し申すの旨聞し食す、返すがえす恐れ申す。極まり無き無実なりと(以上義仲の申し状)。静賢法印帰り参り、此の由申さんとする処、御行法の間に依り、申し入るる能わず。然る間義仲重ねて使者を以て静賢の許に示し送り云う、猶々関東御幸の条、殊に恐れ申す。早く執奏の人を承るべしと。
「源氏一族義仲宅に於いて会合すという」
件の事、昨日行家以下一族源氏等義仲宅に会合し、議定の間、法皇を具し奉るべき由、其の議出て来たる。しかるに行家・光長等、一切然るべからず。もし此の儀をなさば、違背すべき由、執論の間、其の事遂げず、
「源行家密かに委細を天聴に達せしむ」
件の子細を以て、行家天聴に密達しむと。義仲無実を申す。定め以て詐偽か。恐れ恐れ為す、兼ねて又義仲殊に申請の事ありと。頼朝討つべしの由、一行の証文を賜り、東国の郎従等に見せんと欲すと。此の事すでに大事なり、左右する能わずと。
「平氏優勢」
又伝聞、平氏の党類、九国を出て四国に向かうの間、甚だおう弱、しかるに今度官軍敗績の間、平氏其の衆を得て、勢甚だ強盛、今においては、すなわち(輙)追伐を得るべからずと。しかるに義仲等甚だ安平の由を称す。是又偽言と。天下の滅亡只今来月に在るか。

閏10月21日 雨降り、
「頼朝追討の院宣を義仲請うも許されず」
義仲の所望の両条、頼朝を討つべき由、御教書を申し賜ふ事、並び宣旨の趣、御定めに非ず。てえれば、奉行の人、聊(いささか)勘発有るべき条、共に以て許さずと。この上今一重奉乖(かい、そむく)しむかと。凡そこの両条の望み、太いに以て不当、許容無き条、尤も其の謂われ有りか。或るいは云う、平氏すでに備前の国に来たる。凡そ美作以西、併せ平氏に靡(び、なびく)なびきたり。殆ど播磨に及ぶと。疑うらくは、もし義仲と平氏は同意かと。
「基家逐電は義仲を恐れるか」
又云う、(藤原)基家卿逐電すと。頼盛の聟たるに依り、義仲意趣有りと。其の事を恐れ隠居せしむるか。

閏10月22日 天気晴れ、
伝聞、今日義仲院に参る。
「頼朝の使者伊勢の国に来る」
又聞く、頼朝の使い伊勢の国に来たると雖も、謀反の儀に非ず、
「先日の宣旨を施行せんが為なり」
先日の宣旨を云う、東海・東山道等の庄公に、服せざる輩あらば、頼朝に触れ、沙汰致すべしと。よって其の宣旨の施行のため、且つ国中に仰せ知らしめん為、使者を遣わす所なりと。しかし国民等義仲郎従等の暴虐を悪み、事を頼朝の使いに寄せ、鈴鹿山を切り塞ぎ、義仲・行家等の郎従を射りたりと。
「義仲郎従等を伊勢に派遣す」
之に因り、義仲郎従等を伊勢の国に遣わしたり。
「家の重書を慈円の房に送る」
今日、家の重書等を山上に遣わしたり。法印無動寺の房なり。

閏10月23日 天気晴れ、
早朝人告げる、今夕明朝の間、法皇南都に幸すべしと。疑うらくは、吉野に引き籠もり給ふべきか。但し未だ一定ならずと。
「頼朝の縁者たるにより公衡恐れを成す」
巳の刻(10時)観性法橋来たり語り云う、少将藤原公衡は大宮権亮藤原能保(頼朝の妹の夫)の縁に依り(公衡は能保の妹の夫也)頗る恐れを成すと。
「義仲三ケ条の事を院に奏す」
午の刻(12時)静賢法印来たり語り云う、去る夜、義仲参院、静賢・泰経等を以て伝奏すと。其の申し状に云う、先ず院を取り奉り、北陸に引き籠もるべき由風聞す。以ての外無実、極まり無き恐れなり。この事相伴う所の源氏等(行家以下を指す)執奏する所か。返すがえす恐れ申す。早く証人を承るべきなりと。
「志田義広を以て平家を討たしめんと欲す」
次いで、平氏当時追討使無し。尤も不便。三郎先生義広を以て討たしむと欲す。又平氏の入洛を恐れるに依り、院中の緇素、洛下の貴賤、資材を運び妻子を隠す、おおいに穏便に非ず。早く御制止有るべし。此の三ケ条なりと。仰せ云う、先ず院を取り奉るべき条、全く源氏等の執奏に非ず。只世間普く申す為に依り聞し食す所なり。然れども全く御信用無きを以て、沙汰に及ばずと。次いで義広追討使の事、仰せ切られると雖も、頼朝殊に意趣存ずる者かといえり。静賢又云う、実に院を具し奉るべき事は、必ずしも然るべからずのことか。事の理無く、又其の要無き事なり。
「義仲に意趣を存する輩あり」
只毎事忿怨許さざる間、もし北陸に逃げ籠るか、その時意趣を存ずる輩、武士と云い、院の近臣云い、自ら怨みを報ずるか。然らば定めて物騒しきかと(武士の中には、葦敷重隆、殊に意趣を結ぶと。又院の近臣泰経の如く、同じく内々相を怨むと)。然りと雖も、其の恐れ、他人に及ばざるかと。又云う、かの宣旨の趣の事、定長宣を伝え、兼光宣下と。兼光に問わるる処、即ち改め直したり。しかるに直さざる以前の宣旨を以て聞き及ぶか。全く用いられるべからざる事なり。其の由を以て義仲に仰せられるべき由、兼光申すと。良久しくありて帰り出でたり。伝聞、摂政(基通)の愛物・母堂等昨日の暁鞍馬の方へ遣わしたりと。又入道(藤原基房)関白の家中太く以て騒動すと。又聞く、義仲の郎従等、多く伊勢国・美濃国等つかわしたり、京中勢無しと。尹(いん)明語り云う、平氏再び繁盛すべき由、衆人の夢想等有りと。範季申し云う、昨日義仲に謁す。申し状の如くば、謀反の儀無しと。夜に入り、定能卿来たり世上・院中の事等語る。南都臨幸の事、未だ聞き及ばずと。

閏10月24日 天気晴れ、
「義広に備後国を賜い追討使とすべき事を義仲主張す」
伝聞、義仲院に重ねて申して曰く、義広を以て平氏追討すべきの由、申請許さざるの条、未だ其の意を得ず、猶まげて義広を使わさんと欲す。兼ねて又備後の国をかの義広に賜り、其の勢を以て平氏を討つべしと。仰せ云う、全く許さざる儀に非ず、件の男おう弱の由聞し食す。よって叶うべからずの由思し食し、故に左右仰せられざるなり。しかれども猶宣しかるべき由、計らひ申さば、異儀におよぶべからずと。国事又聞し食したり。但し忽ち宰吏に任ぜらるべからずと。奈良僧正札を送り云う、院より密々に召し有り。よって明日白地(あからさまに)上洛すべしと。

閏10月25日 天気晴れ、
「諸社に楽器を奉納す」
「笙(しょう)二管賀茂社琵琶春日社龍笛熊野社」
「方違」
「信円上洛す」
「頼朝相模鎌倉城を起つも秀衡の襲来を恐れ参洛せずという」
伝聞、頼朝相模の鎌倉の城を起ち、暫く遠江の国に住むべし。是を以て精兵五万騎(北陸一万、東山一万、東海二万、南海一万)義仲等討つべし。其の事沙汰せしむ為と。須らく其の身参洛すべき処、奥州秀衡また数万の勢を率い、すでに白河の関を出ると。よって彼の襲来を疑い、中途に逗留し、形勢を伺うべしと。去る五日城に赴くと。

閏10月26日 天気晴れ、
今日終日師景文書等沙汰見しむ、
「義仲興福寺に頼朝討伐を語らうも衆徒承引せず」
伝聞、義仲猶平氏討つべき由院宣有り。憖(ぎん、ねがう)ひに領状すと。又聞く、義仲興福寺の衆徒に触れ云う、頼朝討つ為関東に赴くべし。相伴うべしと。衆徒承引すべからずと。夜に入り帰宅す。この日五位蔵人親雅大将(良通)を催して云う、朔(さく、ついたち)旦日、必ず出仕すべしといえり、承りたり由を申すと。此の夜大将・中将密かに詩有り、無事他聞すべからずと。

閏10月27日 天気晴れ、
「源義兼来る」
夜に入り武者来たり云う(源氏の武者なり、源義兼、石河判官代と号す、故兵衛尉義時孫、判官代義基の子なり)平氏討たんため、行家来月一日進発すべし。彼に伴う為、明日先ず河内の所領に向かうべしと。
「義仲と行家不和という」
其の次語り云う、義仲と行家すでに以て不和、果たして以て不快出で来たるか。返すがえす不便と。其の不和の由緒は、義仲関東に向かうの間、相伴うの由行家に触れる。之を辞遁の間、日来頗る不快の上、此の両三日殊に以て嗷(ごう、うそぶく)々。然り間行家来月朔日必定下向。
「義仲其の功奪わるるを恐れて行家に具して下向せんと欲す」
義仲又其の功を行家に奪われざる為、相具して下向すべき由風聞すと。只今の如くは、外相悪しからずと雖も、其の実必ず相互に隙を指すかと。又云う、行家に於いて頼朝立ち会いすべからずの由、内々議しむと。

閏10月28日

伝聞、行家・義仲等征伐下向したり、来月一日院の御衰日の為に依り、延引、或る説に二日、或るいは八日と。

閏10月29日
「賀表加署の事」
賀表加署の事、先日左大臣次第を造進す。当日仗座に於いて加えるべしの由、造り載せらる。猶不審に依り頼業の許へ問い遣わす。申し云う、事に於いて煩い有るべし。よって兼日公家判賜るべしの由、昨日申し一上げたりと。
「信円法皇に召さる」
この日奈良僧正来られる。去る25日夕上洛される所なり。院の召しに依ると。よって27.8日両日参上す。
「大和国兵士を平家追討に遣わすためか」
然るに全く殊なるの仰せ無しと。大略大和の国の兵士等を催し(集め)、平氏の強者に用意せられるべく、指し遣わすべき故と。始めて衆徒催しすべき由仰せ有り。しかれどももし大衆を発すべくば、悪僧等が力を得るは決定、濫行非法を致すか。当時は、随分奔走し、殊に大衆狼藉の聞こえ無し。今此の院宣の趣漏れ承れば、衆徒の濫吹、全く制法に叶うべからず。此の条重ねて仰せに依り、沙汰致すべし。後日の恐れの為子細申す所なりと。重ねて仰せ云う、申す所尤も然るべし。大衆の条重ねて御定めに随るべし。
「寺家より末寺荘園の兵士を催すべし、其の用意致すべし」
先ず只寺家の力を以て、末寺荘園の兵士を催し、其の用意致すべしと。
「法皇と行家が双六の間信円空しく退出す」
先ず27日参上の処、行家と御双六の間他事無し。見参に入ると雖も、空しく退出し、昨日参上し仰せを奉ると。御堂御八講の次、又上洛すべき由示される所なり。即ち下向せられたり。今度入道関白(基房)の許へ参らず。其の隙無きに依りてなりと。

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2005年11月 2日 (水)

1183年 (壽永二年)10月

1183年 (壽永二年 癸卯)

10月1日 陰雨下る、昼間晴れ、晩に及び風吹き。
伝聞、先日頼朝の許へ遣わす所の院の庁官、此の両三日以前に帰り参る。巨多の引き出物を与ふと。頼朝折紙に戴せ三ケ条の事を申すと。

10月2日 朝間天気陰、午後曇り晴れ、
「頼朝三ケ条の事を院庁官に付す」
ある人云う、頼朝申す所の三ケ条の事、
1は平家押領する所の神社仏寺の領、たしか(慥)に本の如く本社本寺に付すべき由、宣旨を下さるべし。平氏滅亡は、仏神の加護たるの故なりと。
1は院宮諸家の領、同じく平氏多く以て膚掠(りょりゃく)すと。是又本の如く本の主に返し給ひ、人の憂いを休められるべしと。
1は帰降参来の武士等、各其の罪を宥(ゆるす)、斬罪おこなわれざるべからず。其の故何とならば、頼朝昔、勅勘(ちょっかん)の身なりと雖も、身命を全うするに依り、今君の御敵を討伐の任に当たる。今又落ち参る輩の中、自ら此の如しの類ひ無からんや。よって身を以てこれを思うに、敵軍なりと雖も、帰降の輩においては罪科を寛宥(かんゆう)し、身命を存しむべしと。この3条折り紙を戴せて言上すと。
一一の申し条義仲等に斉しからざるか。
「即位に紫宸殿を用うべき院宣有り」
ご即位の間、人々の申し状、去る夜、藤原親経の許へ返し遣わす。返事今日到来し、紫宸殿を用いるべしの由、院宣有り。しかるに方角の事に依り、その沙汰未だ切らずと。伝聞、今年は五節有るべしと。即位以前に五節は久寿の例(二条院)と。
(注釈)
膚掠(りょりゃく)・・・人を虜にし、物を略奪すること。
勅勘(ちょっかん)・・・天子のとがめ。
寛宥(かんゆう)・・・寛大な心で罪過をゆるすこと。
五節(ごせつ)・・・五節供(ごせっく)。毎年五度の節句。
久寿(きゅうじゅ)・・・近衛・後白河天皇朝の年号。

10月3日 雨下る、
「蒜を服す」
今日に至り、蒜(ひる、草の名)を服する。すべて25合なり。ただ今の如くば、その験(しるし)未だ見えず。
(注釈)
蒜(ひる、草の名)・・・ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称。

10月4日 陰晴れ不定、
晩に及び太夫吏隆職来たる。密密に頼朝の進らす所の合戦の注文、並びに折り紙等を持ち来たる。院のお使い庁官の持参する所と。件の折り紙先日の聞く所に違わず。しかれども後代の為之を注し置く。
「頼朝3ケ条申し状」
「社寺に勧賞行われるべき事」
「謀臣の輩出洛するは仏神の罰によるか」
1.勧賞を神社仏寺に行われるべき事、
右日本国は神国なり。しかるに頃年(しきりのとし)の間、謀臣の輩、神社の領を立てず、仏寺の領を顧みず押領の間、遂にその咎(とが)に依り、7月25日忽ちに洛城を出で、処所に散亡す。王法を守護する仏神、冥顕(みょうけん)の罰を加え給ふ所なり。全く頼朝の微力の及ぶ所に非ず。然かれば殊賞を神社仏寺に行われるべく候。近年仏聖灯油の用途これを欠き、先跡(せんせき)無しが如し。寺領もとの如く本所に付すべき由、早く宣下せらるべく候。
「平家押領の王候卿相領を返付すべき事」
1.諸院宮・博陸(関白)以下の領、元の如く本所に返付せらるべき事、右王候(おうこう)卿相(けいしょう)の御領、平家一門数所を押領す。しかる間領家其の沙汰を忘る。堪忍する能わず。早く聖日の明詔を降し、秋雲(しゅううん)の余気を払うべし。災を攘(はら)い福を招く計、何事か之にしかんや。頼朝なお彼の領等を領せば、人の嘆き平家に相同じく候か。宜しく道理に任せご沙汰有るべしといえり。
「落参の平家郎従の斬罪を宥すべき事」
「頼朝勅勘を蒙ると雖も今朝敵を討つ」
1.奸謀者と雖も斬罪を寛宥せられるべし、
右平家の郎従落ち参る輩、たとい科怠(かたい)有りと雖も身命を助けられるべし。その所以は、何となれば、頼朝勅勘を蒙り事に座すと雖も、更に露命を全うし、今朝敵を討つ。後代又この事無からんや。忽ち、斬罪行われるべからず。但し、罪の軽重に随い、ご沙汰有るべきか。以て前3ケ条の事、一心の所存この如し。早くこの趣を以て奏達を計らしめ給ふべし。よって大概を注し、上啓(じょうけい)件の如し。合戦記具さに注すに遑(こう、いとま)あらず。
(注釈)
王候(おうこう)・・・王と諸侯。
卿相(けいしょう)・・・公卿(くぎょう)。公(大臣)と卿(大・中納言および三位以上の朝官)。
詔(しょう)・・・みことのり。
秋雲(しゅううん)・・・うれいをかんじさせる雲。うれいに満ちた気分のたとえ。
科怠(かたい)・・・咎(とが)めるべき怠慢。
上啓(じょうけい)・・・申しあげること。

10月5日 天気陰、
この日蒜(ひる、草の名)忌の内たるに依り、御堂に参らず。大将(九条良通)参る所なり。夜に入り、按察入道(源資賢)来たる。蒜慎みの間に依り簾を隔てて之に謁す。世間の事等を談ず。余に種々の讒言(ざんげん)有りの由聞き及ぶ、且つ、その事に謝し遣わすなり。
(注釈)
讒言(ざんげん)・・・人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、その人を悪く言うこと。

10月7日 天気晴れ、晩に及び小雨、
「最勝金剛院領、伊賀国四ケ庄国司山本義経のため停廃さる」
最勝金剛院の領、伊賀国四ケ庄皆悉く停廃す。国司山本兵衛尉義経、院奏を歴て停廃する所と。よって(高階)泰経卿に付き院奏を経て、今日(源)兼親を以て示し送る所なり。返事の如きは大略勿論の事か。

10月8日 天気晴れ、
伝聞、一昨日頼朝飛脚進らせ、義仲等、頼朝伐つべき由結構(用意)の事を欝し申すと。(高階)泰経卿の許に礼を送ると。
また聞く、平氏等鎮西に入らんと欲すの間、猶国人(こくじん)等を恐れ、なお周防(すおう)の国に帰到すと。
「法皇石清水御幸」
この日法皇石清水(いわしみず)宮へ幸す。諸卿以下束帯(そくたい)を着け供奉すと。
(注釈)
国人(こくじん)・・・在地の武士。
周防(すおう)・・・山口県東部。防州。
束帯(そくたい)・・・天皇以下文武百官の正服。

10月9日 天気晴れ、
「頼朝忽ちに上洛すべからざる故を申す」
静賢法印来たり、世間の事談ず。頼朝使者を進らせ、忽ち上洛べからずと。
「藤原秀衡頼朝上洛の跡入る事を恐る」
1は(藤原)秀衡・(佐竹)隆義等上洛の跡に入れ替わるべし。
2は数万の勢を率い、入洛せば京中堪えるべからず。
この2の故に依り、上洛延引すと。凡そ、頼朝の為体(ていたらく)、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決と。
「志田義広の上洛を欝申す」
今度、使者を献り、欝し申す所は、三郎先生志田義広の上洛なり(本名義範)。叉義仲等、平氏を遂はず朝家を乱す、尤も奇怪、しかるに忽ち賞を行わるるの条太だ謂われ無しと。申し状等その理有るか。この他多く雑事を談ず。具さに録す能わず。
伝聞、義仲播州(ばんしゅう)を経廻し、もし頼朝上洛せば、北陸方へ超え逃げるべし。もし頼朝忽ち上洛せざれば平氏討つべし由の支度すと。
「小除目」
今日小除目ありと。陰陽頭賀茂宣憲名誉無しと雖も、重代衰老により、抽任せらるるか。尤も然るべし。
「頼朝本位に復す」
叉頼朝本位(ほんい)に復する由仰せ下さると。
(注釈)
為体(ていたらく)・・・すがた。ありさま。
播州(ばんしゅう)・・・播磨、兵庫県南西部
本位(ほんい)・・・もとの位。

10月10日 朝晴れ、午後陰風吹き
「日吉諸社に一階加う」 (略)
「紀伊国丹生・高野社」 (略)

10月11日 雨下る
仏厳聖人来たり、後世菩提の事を談ず。

10月13日 天気晴れ、夜に入り雨下る、深く更に大雨
「方違」
方違いの為堂に向かう、
「院庁官再度頼朝の許に遣わさる」
この日隆職来たり、世上の事等談ず。院庁官官吏生(中原)泰貞、(先日御使いとなり頼朝に向かい、去る比帰来す)重ねて御使いとなり坂東に赴くべしと。件の男隆職の許に来たり。頼朝の子細を語ると、記すに遑(こう、いとま)あらず。
又云う、御即位は南殿に於いて行われるべし。しかるに方角の沙汰に依り、陣に参るべき由、親経相催すと。
又云う、平氏決定西海に入りたりと。

10月14日 天気晴れ、
「大地震」
巳の刻(10時)大地震、同刻帰宅す。
「菊池・臼木・緒方等平氏に服さず」
(藤原)伊明云う、平氏去る8月26日鎮西に入りたり。放火以ての外と。
「菊池・臼杵・緒方等平氏に服さず」
肥後の国住人、菊池・豊後の国住人・臼木・御方等未だ帰伏せずと。

10月15日 天気晴れ、
頭中将(藤原隆房)、大将(良通)の五節の事、重ねて催しを加ふ。猶術無しの由を申したり。

10月16日 天気晴れ、
終日、(中原)師景の文書の事を沙汰せしむ。
「鎮星大微に入る」
天文博士(安倍)広基、主税助(安倍)晴光来たり、天変の事を示す。13日雷電、14日大地震、並びに鎮星(ちんせい、土星)大微に入るの変等なり。鎮星の変殊に重しと。

10月17日 天気晴れ、
「虹が二筋出現す観性西山に入る」
卯の刻(6時)虹が二筋(其の色常の如し、殊に分明)、坤(ひつじさる、南西)より艮(うしとら、東北)に至る。又東天に赤い光と。観性(法橋)西山に入りたり。基輔相具し行き向ふ。地形を見せしめん為なり。夜に入り雨下る、
伝聞、義仲の随兵の中、少々が備前の国を超え、しかるにかの国と備中の国の国人等、勢を起し、皆悉く伐り取りたり。即ち、備前の国を焼き払い帰り去りたりと。又聞く、義仲勢無しと。

10月18日 午後雨下る、
「慈円無動寺に登る」
この日、(慈円)法印登山せらたり。日来(去る6月下旬の日よりなり)近隣(女院の新御所)に座せらる。
「北斗念誦」(略)
「詩」(略)

10月20日 天気晴れ、
「良通方に穢出現す」(略)
「平頼盛逐電す」
伝聞、去る18日平頼盛卿逐電す。、京中又鼓騒すと。
申の刻16時頭中将藤原隆房朝臣来たる。穢れ(けがれ)有りの疑いに依って縁変を呼ぶ(略)

10月21日 天気晴れ、
「五体具足の穢れにつき法家の勘文到来す」(略)
「七日穢れとす」(略)
「兼実亭は穢れに非ず」(略)

10月22日 天気晴れ、
 巳の刻(10時)、大外記頼業きたり、世上の事を談ず。ひそかに示す所の旨愚案に同じ。賢士というべしと。才学の卿大夫等、多く僻韻(へきいん)に入ると。政理(せいり)と才学と、素より格別の道なり。
(注釈)
政理(せいり)・・・政治を行うこと。
才学(さいがく)・・・才能と学識。学問。

10月23日 晴れ
「信円書を送り上洛の日次を兼実に問う」(略)
「院御占いあり」(略)
「賀茂在宣に条々の事を尋ねる」(略)
「朔旦の事」(略)
「朔旦は十九年を一章とす」(略)
「保元中朔旦と算勘さるるも止めらる」(略)
「御即位所並びに方角の事」(略)
「衰日等の忌の軽重の事」 (略)
「俊尭僧正の諌言により法皇二国を義仲に賜うという」
ある人云う、義仲に上野・信濃賜るべし、北陸慮掠すべからざる由、仰せ遣わされたり。又頼朝の許へも、件の両国義仲に賜るべし。和平すべしの由、仰せられたりと。この事、或下臈(げろう)の申し状に依る、俊尭僧正一昨日参院(御持仏堂の時と)、此の由法皇に申す。善と称し、即ち僧正の諌(かん、いさめる)言に従い、忽ちこの綸旨(りんじ)を降さられたりと。この条愚案、一切叶うべからず。およそ国家滅亡の結願、ただこの事に在り。弾指すべし、弾指すべし。
朝廷に在る王候卿相、緇素(しそ)貴賤、併しながら私を顧み、公に在らず。実に是愚にして猶愚かなり。国に非ざれば、家を建つること無し。君に非ざれば、親を建つること無し。
「人々敢えて讜言せず」
もし身の安全を思うならば、先ず、国家の静謐(せいひつ、しずか)のちゅう策を巡らすべしの処、各左右を恐れ、敢えて讜言(とうげん)せず、又皆重事を謀る量無きか。悲しむべし、悲しむべし。
(注釈)
下臈(げろう)・・・地位の低い。
綸旨(りんじ)・・・蔵人が勅命を受けて書いた文書。
讜言(とうげん)・・・正しい言
量・・・他を思い計ること。

10月24日 天気陰、
伝聞、頼朝先日院の使い(泰貞)に付き申さしむる事等、各許容無し。天下は君の乱さしめ給ふにてこそ、縁をよじる即ちその路を塞ぎ、美濃以東の慮掠せんと欲すと。但しこの条実説を知らず。

10月25日 雨下
10月26日 
「蔵人親経御即位の事を兼実に問う」(略)
「紫宸殿王相方に当たる」(略)
「一条院の例憚るべきか」(略)
「伐日の忌は新造家にかかる」(略)
「当日臨幸に難なし」(略)
「藤原親経を家司に補す」(略)

10月27日 天気晴れ、
伝聞、来月法皇春日社に行幸すべし。宇治に於いて、摂政(藤原基通)御膳巳下雑事儲けらるべしと。
「又聞く、此の一両日、今一重天下物騒、何事か知らずと、」

10月28日 天気晴れ、
「頼朝11月頃入京か」
伝聞、頼朝去る19日出国、来たる11月朔日(一日)入京すべし、是一定の説と。
「義仲頼朝と雌雄を決すという」
又義仲去る26日(あるいは28日即ち今日なり)、出国、来月45日の間入洛すべし。頼朝と雌雄を決する為と。茲に因り院中以下天下の人皆以てあわただしと。人皆云う所有りか。恐るべし、恐るべし。今日親経来たり、五節の事を辞す。

10月29日 天気晴れ、
「源雅頼卿来たり」
源雅頼卿来たり、世上の事談ず。大略、獲麟(かくりん)畢(おわんぬ、終わりぬ、ひつ)の世なり。すでに存命の計略すでに失う。有り様に随がい勢州(せいしゅう、伊勢)の知る所に下向すべしと。
「良通任大臣を望むにつき院より仰せあり」
この次語り云う、去る日摂政(基道)密かに云う、院より右大将(良通)を大臣に任ずべし間の事を仰せ合はさる。其の趣に云う、この事忽ち速くすべからず。しかるに下官頗りに望む申す如何。松殿(藤原基房)定めて怨まれるか。公の意に於いて如何。左右只叡慮在るべき由を申したりと。
「五節参入御覧の事」(略)
(注釈)
獲麟(かくりん)・・・物事の終末。

10月30日 天気晴れ、
「念誦を始む」(略)

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2005年11月 1日 (火)

1183年 (壽永二年)9月

1183年 (壽永二年 癸卯)

9月1日 雨下、
「滝口名簿を送る」(略)
「名簿書様」(略)
「良通に除目を教える」(略)

9月2日 天晴れ、
「女官除目」(略)
「政始」(略)
「公卿勅使進発」(略)

9月3日 天陰、時々雨降り、
「大夫吏隆職昨日の公事の事を注送す」(略)
「女官除目」(略)
「義仲頼朝の上洛を迎え撃つべく支度すという」
ある人云う、頼朝去る月27日国を出ですでに上洛すと。但し信受せず。義仲偏に立ち会うべく支度すと。天下今一重の暴乱出で来たるか。
「四方の通路皆塞がる」
 凡そ近日の天下、武士のほか、一日の存命の計略無し。よって上下多く片山田舎等へ逃げ去ると。四方皆塞がり(四国及び山陽道安芸以西・鎮西等、平氏征討以前通達すること能わず。北陸・山陽両道義仲押領す。院分巳下の宰吏(さいり)、一切吏務(りむ)能はず。東山・東海両道頼朝上洛以前、又進退すること能わずと)、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られたり。段歩残らず。又京中片山及び神社・仏寺・人屋・在家、悉く以て追捕す。其の他適々不慮の前途を遂げる所の庄公の運上物、多少を論せず、貴賤を嫌わず、皆以て奪い取りたり。此の難、市辺に及び、昨日売買の便を失うと。天は何ぞ無罪の衆生を棄てるや。悲しむべし、悲しむべし。
「人々の災難法皇の乱政と源氏の悪行より生ず」
此の如しの災難は、法皇の嗜欲(しよく)の乱政と源氏奢逸の悪行とより出づ。しかる間、社稷(しゃしょく)を思う忠臣、俗塵を逃れる聖人、各非分の横難に遭う、殆ど成仏の直道を怠る、哀しむべしはただ前世の宿業のみ。
(注釈)
宰吏(さいり)・・・国司。
吏務(りむ)・・・役人としての職務。
畿内(きない)・・・大和・山城・河内・和泉・摂津。五畿内。
運上(うんじょう)・・・公物を京都へはこんで上納すること。
嗜欲(しよく)・・・たしなみ好むこと。
奢(しゃ)・・・分に過ぎておごること。
逸(いつ)・・・気楽に楽しむこと。
社稷(しゃしょく)・・・国家。朝廷。
非分(ひぶん)・・・道理にあわないこと。
横難(おうなん)・・・思いがけないわざわい。不慮の災難。
(ミニ解説)
さて、これを兼実に報告している「ある人」が誰かが問題である。官吏ではないようである。「昨日売買の便を失う」と言わせているから、出入りの商人かもしれない。商売人は本当の事は言わないものである。儲かつてしょうがないときは「ぼちぼちです。」、「赤字ですよ」と言うときは収支とんとん。大赤字で首が回らないときは夜逃げと。
残らず刈り取ったり、残らず奪い取ったりしたら、京都市内は餓死者があふれそうだが、そのような風聞も無い。
病で寝込んでいて、人の話を確認も出来ずに書いているだけである。

9月4日 陰晴れ不定、
前源中納言雅頼卿来たり。余疾に依り簾を隔して之に謁す。世上の事等多く以て談説す。其の中余の為無用の事等有り。
「義仲の許に落書あり」
去る日義仲の許に落書有り。即ち義仲の所行の不当悲法等、悉く以て注載す。
「兼実を登用せざる事を難ず」
其の次、余登用せられざる、尤も不便、朝の重器たる由、具さに以て之を載せると。この事、余の辺の事を不快に存ずる輩の所為かと。誠にこの事甚だ由無き事なり。
「中原親能雅頼に飛脚を送り頼朝の上洛を告げる」
又語り云う、頼朝必定上洛すべし。次官、中原親能(広季の男)、頼朝と甚深(じんしん)の知音(ちいん)、当時同宿す。くだんの者、又源(雅頼)中納言の家人、即ち左少弁兼忠の乳母の夫なり。くだんの男一昨日飛脚を以て示し送り云う、十日余りの日、必ず上洛すべし。先ず頼朝の使いとなり、院に申す事あり。親能上洛すべきなり。万事其の次に申し承るべしと。此の如し等の事、多く以て談語し、刻を推(うつ)して後帰りたり。明日は公卿勅使参着の日なり。供花始められる。世の傾く所なり。夜に入り、観性法橋来たり。出ながら之に謁す。くだんの人内大臣(実定)母堂(藤原豪子)の忌に籠もる故なり。語り云う、頼朝今月3日出国、来月1日に入京すべし。是必定の説なりと。但し猶信受せられずの事なり。
(注釈)
甚深(じんしん)・・・なはなだ深いこと。
知音(ちいん)・・・知り合い。

9月5日 雨下る、
「平氏の余勢減ぜず」
早朝ある人云う、平氏の党類、余勢全く減ぜず。四国並びに淡路・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)並びに鎮西の諸国、一同与力(加勢)したり。旧主崩御(ほうぎょ)の由風聞す。誤りの説と。当時周防の国に在り。但し国中皇居に用ふべき家無し。よって船に乗り浪の上に泛(はん、うかぶ)と。貞能以下、鎮西武士菊池・原田等、皆以て同心し、
「鎮西に内裏を立てんとすという」
鎮西すでに内裏を立て、出で来るに随い関中に入るべしと。明年八月上京すべし由結構(けっこう)すと。是等皆浮説に非ざるなり。未の刻(14時)弥勒講に依り御堂に参り、晩に及び帰り来たる。
「京中の万人存命不能」
近日京中の物取り、今一重倍増し、一塵の物途中に持ち出し能わず。京中の万人、今に於いては、一切存命する能わず。義仲院の領以下併しながら押領す。日々倍増し、凡そ緇素(しそ)貴賤、涙を拭はざる無し。
「頼朝の上洛を頼みとす」
たのむ所ただ頼朝の上洛と。かれの愚賢また暗に以て知り難し。ただ我が朝の滅亡、其の時すでに至るか。法皇敢えて国家の乱亡を知らず。近日大造作(建築)を始められると。院中の上下、嘆息のほか他事無きか。誠に仏法王法滅尽の秋なり。
(注釈)
安芸(あき)・・・広島県の西部。
周防(すおう)・・・山口県東部。
長門(ながと)・・・山口県西部・北部。
鎮西(ちんぜい)・・・九州。
崩御(ほうぎょ)・・・天皇の死去。
関中
結構(けっこう)・・・したく。用意。
緇素(しそ)・・・僧と俗人。

9月6日 天気晴れ、
「院供花」
今日より院の供花と。昨日より始められんとす。しかるに勅使参着の日たるに依り、忽ち延引すと。女医博士(丹波)経基を召し、歯下針を加ふ。
 伝聞、入道関白(基房)、少将顕家を以て使いとなし、行家の許へ示し送られ云う(院御逐電の刻の事なり)、先ず摂録(摂政)の職に於いては、家嫡(かちゃく)に非ざれば二男に及ぶと雖も、未だ三男に及ぶの例有らず。しかるに下官仁に当る由、世間謳哥、太だ不当なりと。又院に奏せらるる旨同前と。この事日来聞き及ぶと雖も、信用せざる処、今日定説を聞き、驚奇少なからず。凡そ天子の位、摂政の運、全く人力の及ぶ所に非ず。結構の体、事軽々に似たり。之に加え三男に及ばざる由如何。貞信公(藤原忠平)・大入道殿(藤原兼家)・御堂(藤原道長)、此の三代の例棄て置くか。法皇白黒を弁せず、源氏是非を知らず。只一言の狂惑を以て、万機の巨務を惣べんとす。謀計の至り、冥罰(みょうばつ)定めて速きか。弾指(つまはじき)すべし、弾指すべし。但し余に於いて、乱世の執柄好む所に非ず。
(注釈)
家嫡(かちゃく)・・・家の嫡男、嫡子。正妻の子。
冥罰(みょうばつ)・・・神仏が人知れずくだす罰。
執柄(しっぺい)・・・政治の権柄をにぎること。摂政・関白の異称。

9月7日 今日頭を洗う、明日より念誦すべし、潔斎の為なり、

9月8日 天晴れ、
「恒例念仏を始める」
早朝法印(慈円)来たり。巳の刻(10時)仏厳聖人来たり。即ち余御堂に渡る。今日より恒例念仏始めの為なり。先ず受戒(聖人を戒師と為す)。午の終り許り念仏を始む。今日二万遍。

9月9日 天晴れ、
今日念仏十四万遍。この日蔵人宮内権少輔親経来たり、院宣伝う、(余念仏に依り之に謁せず。人をして之を伝え申さしむ)、
「大神宮恠異の事の沙汰につき法皇より諮問せらる」
去る7月17日、大神宮奇代の恠(かい)異有り。しかるにすでに先朝の御時の事たり。当今に沙汰有る如何。計らひ奏すへしといえり。余申し云う、且つ準拠の例を尋ねられ、計らひ沙汰有るべきか。もし怪異の体、奇異の事たらば、黙止の条如何といえり。念誦の間たるに依り、文書を見ず、又子細申さざるなり。

9月10日 この日念仏十七万遍。

9月11日 
この日念仏二十一万遍。今日、頭弁兼光余の南家に来たりと。然れども念仏の由聞き、此の堂に来たらず。伺候の男に示し置き退出したり。事急事に非ず。よって御念仏以後参上し、承るべき由示すと。夜に入り聞く所なり。御即位の間の条々の事尋問される。すでに念仏以後、委しく披(ひら)き子細を申すべき文書等を見、之を書写す。
「兼実女房夢想」
此の暁に女房の夢に云う、夜相共に新造の宅に渡る。頗る以て半作と。見回りの後、相共に就寝せんとする間、人女房に告げて云う、其の殿(は余を指す)は大職冠(藤原鎌足)の後身なりと。女房夢中に思う様、極めて恐れ有る事なり。年来種々の大願を立て、社稷(しゃしょく、国家)の安全・仏法の興隆等を祈れり。事の体近代の風に似ず。奇しく思ふ処、今彼の後身たる由を聞き、尤も其の謂われありけりと思いて覚めたりと。法成寺入道殿(藤原道長)は聖徳太子(厩戸皇子)並びに弘法大師の後身なり。先代も有る事なり。信仰すべし、信仰すべし。

9月12日 今日念仏十八万反。

9月13日  日念仏十二万反。

9月14日 陰晴不定、
「師景文書を召寄す」
今日、師景文書等を召し寄す。惣べて二百七十余合なり。内府(実定)示す旨有りと雖も、理に伏し避けたり。今日百万遍おわりぬ、今日十二万反。

9月15日 天気晴れ、
「念仏結願」
今日酉の刻(18時)念仏結願。それ以前念仏一万遍(其の中一千遍、高声の念仏なり)。阿弥陀大呪一千遍、礼拝百遍、未だ曾て数反の礼拝を修せず。今度始め此の礼拝を致す。然り間脚気倍増し、殆ど其の功遂げ難し。然れどもひとえに仏法の為身命を捨てる、数遍満ちたりの後、ひとえに以て平臥し、存するが如く亡きが如し。此の夜例の如く法印御堂に於いて二十五三昧を修せらる。女房来たり聴聞す。

9月16日 天晴れ、
「師景文書の部分け目録を取らす」
文書等、檀に分け目録したり。即ち今日より男共に仰せ付け、部を分かち目録を取るべきなり。今日夜に入り家に帰りの次、大将方に向かう。所労に依りてなり。

9月17日 

9月18日 天晴れ、
「良通所労危急に及ぶ」
今日大将更に発す、殆ど危急に及ぶ。依って余・女房及び法印等、たがひに以て行き向かい、種々の願いを立てる(信助阿闍梨諸願書を書き、之を読み上げ)。又仏厳聖人を請じ、受戒せしむ。
「慈円薬師供を修す」
又法印をして薬師供を修せしめ、夜に入り帰りたり。

9月19日 陰晴不定、
「五位蔵人親経御即位間条々事を兼実に尋ねる」
今日宮内権少輔親経(五位蔵人)、来たり、余簾を隔てて之に謁す。親経云う、御即位、蔵人方の事、奉行する所なり。然れども、条々の事、人々に問われるの間の事、兼光朝臣の奉行たり。しかるに病有るに依り近日出仕せず。よって文書を渡したり。先日摂政の直廬(ちょくろ、内裏の宿直のへや)に於いて、人々議定す。然り未だ事切らず。もし十月即位遂げられるば、明日即位の定め有るべし。よって今日申さしむる御状を承り、院に奏すべし。
先日の議定も未だ奏聞せず。且つ兼光朝臣参上し承るべしの由、申さしむるにより、参上する所なりと。この事先日兼光来たり問う。しかるに十五日以後急ぎ申すべき処、自他所労、他事無き間、自然今日に及ぶ。然りの間、親経来たり問う。よって此の問い状に就き子細を申さしむる所なり。
「御即位延引の可否」
1.御即位十月二十七日遂げられるべし。しかるに聊(いささ)か日次の難の有りの上、期日近々、万事出来難し。延引如何。もし延引せば、十一月十日、十二月二十二日、両日の間如何。そもそも延引せば、朔旦出御すべからず。此の条如何。余申し云う、光仁天皇の例に任せ、九月受禅、十月即位、理然るべしと雖も、官庁修理の恒例用途、国費え 民疲れ、万事叶い難くば、
「即位十二月に延引するも憚りなし」
十二月二十二日用いられる、何事かこれ有らんや。吉例の月たり、又最上の日の故なり。朔旦(さくたん、ついたちのあさ)出御無しの条、頗る不穏の事を為すと雖も、粗我が朝の規模を案ずるに、昌泰(醍醐天皇朝の年号)の佳例(吉例)を弁じ、何時の旧跡を求むべきや。之に加え、記文由緒を載せず。疑う所只諸社の祭許りか。今度又即位の延引に依り、
賀表(がひょう、祝意を表して奉る文)無き出御、其の故無きに非ざるか。昌泰の例用いらるの条、異議に及ぶべからざるか。
「践祚は?に行わるも即位は猶沙汰あるべし」
そもそも剣爾を受けず、天子の位を踏むの例、人代以来曾(かって)蹤跡(しょうせき、あと)無し。一日も宝位空しくすべからざるに依り、践祚に於いては急ぎ行なわるる、理然るべしと雖も、即位の時に至り、猶試みに此の沙汰有るべきか。啻(ただ)に例無しの恨み遺(のこ)すのみにあらず、殆ど乱を招く源たるべきか。茲に因り此の大礼を暫し延引し、試みにかの三神を待たるる如何。此の条定めて、神明宗廟(そうびょう、祖先のみたまや)の霊意に叶ひ、みずから鏡・剣・爾符の帰来有るものか。もし然らば、須べからく彼の期を指し殊に祈請有るべきなり。
「朝廷の大事剣爾紛失に過ぎるはなし」
凡そ朝廷の大事、剣爾紛失に過ぎるは莫(な)し、しかるに君臣共に此の事を嘆かず。去る七月二十六日以後、天下の巨務、事に触れ多しと雖も、此の条に至りては、一切沙汰無しが如し。賊徒盗み取り逐電したり。実に計略及び難しと雖も、志し之ゆく所、或いは祈請を致し、或いは籌(ちゅう、はかりごと)策を廻らし、殆ど他事忘れらるべき処、すでに此の大事を重んぜられず。冥鑒(かん、かんがみる)の恐れ有るか。早く即位の期を定め、かの以前、無為無事、かの帰来有るべき由、内外に付け、祈願有るべしの由、中心庶幾(しょき、こいねがう)する所なり。然れども上疏(そ、うとんじる)する能わず。今此の聖問に就いて、
愚意を達する許りなり。
「初度行幸の事」(略)
「晴礼の儀を用いずとも失たらず」(略)
「民部省南門を会昌門に擬すべきかの事」 (略)
「民部省南門は高座の正南に当たらず」(略)
「民部省北垣を移し立てるが宜しきか」(略)
「紫宸殿高座を官庁に移す事の可否」(略)
「治歴の寸法で新造すべし」(略)
「列身定考何処で行われるべきかの事」(略)
「官西庁宜しかるべし」(略)
「紫宸殿における即位を忌む事兼実欝陶す」(略)
「豊楽院なきにより大極殿を用いる」(略)
「大極殿焼失の後は紫宸殿を即位の場と定むべし」(略)
「天子の居を置きながら諸司にて即位行われるは不当なり」(略)
「北陸の宮(加賀)明日入洛あるべし」
北陸の宮(加賀)、明日入洛あるべし。今日寺(三井寺)に就くと。
9月20日 天晴れ
「良通の病を訪う」(略)
「義仲逐電す」
夜に入り、人伝え云う、義仲今日俄に逐電し、行方知れず、郎従等大騒ぎ、院中また物?(そう)と。

9月21日
「義仲の逐電は平氏追討のためという」
伝聞、義仲一昨日院に参り、御前に召さる。勅に云う、天下静かならず、また平氏放逸、毎事不便なりと。義仲申し云う、向かい罷(まか)り向かうべくば、明日早天向かうべしと。即ち院は手づから剣を取りこれを給ふ。義仲これを取り退出し、昨日俄に下向すと。

9月22日
「良通平癒す」(略)
「八条院御不例」(略)

9月23日 陰晴れ不定、
「義仲行家を避ける」
定能卿来たり、雑事を談ず。人伝え云う、行家を追討使に遣わすべき由、院より再三義仲に仰せられる。義仲左右を申さず。俄に以て逃げ下る。行家を籠(かごめる)めん為と。

9月24日
長者、職事季佐を以て、吉田の怪異を告げられる。今朝物忌みなり。

9月25日 雨下る、
「頼朝文覚を以て義仲を勘発す」
伝聞、頼朝文覚聖人を以て義仲等を勘発せしむと。是は追討を懈怠(なまけ)し、併せて京中を損ずる由と。即ち聖人に付き陳(のべる)じ遣(つかわす)はすと。
(注釈)
勘発・・・勘(罪を問いただすこと)。

9月26日 雨下る、
或る人云う、法皇天下の政、沙汰乱れ、惘然(ぼうぜん、呆然)たらしめ給ふと。

9月27日 雨下る、
八条院より仰せられ云う、かの譲りの間の事、重ねて申さしむる処、所労危急ならずは、強ちに急ぐべからざる事か。無下に世に人もなきようなりと。重ねて子細申したり。

9月28日 天気陰、雨小下る、
ある人云う、頼朝上洛は明年45月と。例の如く浮説か。
「大風」
夜半大風。
今暁或る女房の夢見、余の為す最吉の事なりと。

9月29日 朝間天気晴れ、
夜に入り或る人来たり、数刻言談す。社稷(国家、朝廷)を思う故なり。仏天知見せん。今日蔵人宮内権少輔親経の許より、先日(19日)の申し状を注送して云う、詞を以て即ち奏聞したり。然れども後代の為、猶申しおはしまさしむる趣を注し置くべし。よって大概この定め覚悟す。もし相違あれば、直し付けらるべしと。見られるの処尤も神妙なり。但し、一両所直し付けたり、神妙の由を答えたり。そもそも(抑)、即位猶紫宸殿(ししんでん)を用いられるべき由事定まり、天下の嘲り有るか。然れども全く議奏の旨を執するにあらず、帰(まま)政教の道理を存ぜんため、申さしむる由申したり。又申し云う、今般正殿(紫宸殿)用いられるの条、啻(ただ)に聖意無私の美を貽(のこす)すのみにあらず。そもそも又民力煩い有るの愁いを省く者なり。重ねて奏達せんと欲すれば、傍難(ぼうなん)招くべし。退いて黙止せんと欲すれば、不忠を遁(のがれ)難し。進退の間、ひとえに賢慮に任せこれを相計られるべしの状件の如しといえり。
(注釈)
紫宸殿(ししんでん)・・・平安京内裏(だいり)の正殿。
傍難(ぼうなん)・・・悪口を言う、あいての不整ゃ誤りを論じて非難すること。

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2005年10月31日 (月)

1183年 (壽永二年)8月「愚管抄」

1183年 (壽永二年 癸卯)

8月「愚管抄」

かくてひしめきてありける程に、「いかさまにも国王(安徳天皇)は神璽(しんじ)・宝剣(は
うけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらん」と云(いふ)沙汰にてありけり。父法皇(後白河)をはしませば、西国王(にしのこくわう、安徳天皇)安否之後(のち)歟(か)」などやう/\に沙汰ありけり。この間(あひだ)の事は左右(さいう)大臣(経宗と兼実)、松殿入道(まつどのにふだう、基房)など云人に仰合(おほせあはせ)けれど、右大臣(九条兼実)の申さるゝむねことにつまびらか(詳しい)也とて、それをぞ用ひられける。さていかにも/\践祚(せんそ)はあるべしとて、高倉院(高倉上皇)の王子三人をはします。一人(高倉院)は六はらの二位(にゐ)養いて船に具しまいらせてありけり(安徳天皇)。いま二人は京にをはします。その御中(おんなか)に三宮(さんのみや)・四宮(しのみや、後鳥羽院)なるを法皇よびまいらせて見まいらせられけるに、四宮御をもぎらいもなくよびをはしましけり。又御うらにもよくをはしましければ、四宮を寿永二年八月廿日御受禅(ごじゆぜん)をこなはれにけり。よろづ新儀どもなれど、仰合(おほせあはせ)つゝ、右大臣(兼実)ことに申(まうし)をこなひて、国王こゝに出きさせをはしまして、世(よ)はさればいかに落居(おちゐ)なんずるぞと、日本国(にほんこく)のなれる様(やう)今はかうにこそとて、摂禄臣(せつろくのしん、近衛殿基通)こそ如此は沙汰することを、山(比叡山)よりくだらせ給ふまゝに、近衛殿(このゑどの)摂禄もとのごとしと被仰にけり。一定(いちぢやう)平氏にぐして落(おつ)べき人のとまりたればにや。又いかなるやうかありけん。されど近衛殿はかやうの事申(まうし)沙汰すべき人にもあらず。すこしもをぼつかなき事は右大臣に問(とひ)つゝこそをはしければ、たゞ名(な)ばかりの事にて、庄園文書、まゝ母の我よりも弟なりしが手よりゑたる由にて、清盛(きよもり)にかくしなされたる人にてあるが、猶かくてあら(は)るゝ。いかにも/\人は心ゑぬことにてありしをば皆心ゑられたり。かう程にみだれん世は何事もいはれたる事はあるまじき時節(じせつ)なるべし。大方(おほかた)摂禄臣はじまりて後(のち)これ程に不中用(ふちゆうよう)なる器量(きりやう)の人はいまだなし。かくてこの世はうせぬる也。贈(ぞう)左大臣範季(のりすゑ)の申しけるは、「すでに源氏は近江国にみちて六はらさはぎ候之時、院(ゐん)は今熊野(いまくまの)にこもらせ給て候(さふらひ)しに、近習(きんじふ)にめしつけられて候しかば、ひまの候しに、「いかにも/\今は叶(かなひ)候まじ。東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさはりて候へば、此平家(へいけ)かなひ候はじ。ちがはせをはします御沙汰や候べからん」と申て候しかば、笑(え)ませをはしまして、「いまその期(ご)にこそは」と仰の候し」と語りけり。もとより(の)御案なりけり。この範季は後鳥羽院(ごとばゐん)を養いたてまいらせて、践祚の時もひとへに沙汰しまいらせし人也。さて加階(かかい)は二位までしたりしかども、当今(たうぎん、順徳天皇)の母后(ぼごう)の父なり。さて贈位(ぞうゐ)もたまはれり。範季がめい刑部卿(ぎやうぶきやう)の三位(さんみ)と云しは能円(のうゑん)法師が妻也。能円は土御門院(つちみかどゐん)の母后承明門院(しようめいもんゐん)の父なり。この僧の妻にて刑部卿三位はありし、その腹(はら)也。その上御めのとにて候(さふらひ)しかども、能円は六はらの二位が子にしたる者にて、御めのとにもなしたりき。落(おち)し時あいぐして平氏の方(かた)にありしかば、其後(そののち)は刑部卿の三位もひとへに範季をぢにかゝりてありしなり。それを通親
(みちちか)内大臣又思(おもひ)て、子をいくらともなくむませて有(あり)き。故卿(きやう)の二位は刑部卿三位が弟にて、ひしと君(後鳥羽院)につきまいらせて、かゝる果報(くわはう)の人になりたるなり。
(注釈)
ひしめきてありける程に・・・押しあってごたごたしている内に。
国王・・・安徳天皇。
神璽・宝剣・内侍所・・・勾玉と剣と神鏡。いわゆる三種の神器。
六はらの二位・・・清盛の妻。二位の尼時子。
三宮・・・惟明親王。
四宮・・・尊成親王。後の後鳥羽天皇。
をもぎらいもなく・・・顔みしりもなく。
受禅(じゆぜん)・・・前帝の譲位を受けて即位すること。
すこしもをぼつかなき事・・・少しもはっきりしないこと。
沙汰(さた)・・・処置する。
よろづ新儀どもなれど
不中用(ふちゆうよう)・・・役に立たないこと。
器量(きりやう)・・・才能。
夫(〈ふ〉)までも・・・人夫までも。
ちがはせをはします・・・ゆきちがいなさる。
加階(かかい)・・・位階を加えること。
範季をぢにかゝりて・・・叔父の範季をたよって。
故卿(きやう)の二位・・・兼子。
果報(くわはう)の人・・・幸運の人。

ミニ解説
ここの複雑そうな人間関係は「愚管抄全註解」が詳しい。
義仲軍の乱暴狼藉の記述が無い。ひしめきてありける程にのみである。

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2005年10月30日 (日)

1183年 (壽永二年)8月後半

1183年 (壽永二年 癸卯)

8月16日
「受領除目・解官行わる」
(左少弁藤原)長光入道来たり、古事等を談ず。今夕受領の除目有り。院の殿上に於いてこれを行う。上卿民部卿(藤原成範)、参議右大弁(平)親宗これを書く(清書の儀無しと)。外記を召しこれを下す。又解官等有りと。任人の体、殆ど物狂い(乱心)と謂うべし。悲しむべし悲しむべし。
(注釈)
受領(じゅりょう)・・・ずりょう、諸国の長官。守(かみ)、権守(ごんのかみ)、介(すけ)など。
除目(じもく)・・・(任官の人名を記した目録の意)任官の儀式。
解官(げかん)・・・官職を免ずること。免官。

8月17日
申の刻(16時)、頭弁(藤原)兼光札(ふだ)を送り云う、明日院に参るべし。神鏡・剣爾等、諸道の勘文の間の事、並びに雑事等、豫議せらるべきなりといえり。疾と称し参らず。今日法印(慈円)来られる。ある人云う、入道関白(基房)が院に申せられて云う、東宮傳(とうぐうふ)を経し人、摂録(せつろく、摂政)に任ぜずと。この事信受せられざる処、両人の説を以てこれを聞く。奇(あや)しむべし、奇しむべし。
(注釈)
東宮傳(とうぐうふ)・・・東宮(皇太子の宮殿)の輔導をつかさどった官。

8月18日 終日雨降り、
「院にて議定あり」
今日議定の趣、追ってこれを尋ね記すべし。定めて異議無きか。近代の作法のみ。
「立王の事」
静賢法印が人を以て伝え云う、立王の事、義仲猶欝(うつ)し申すと。この事、先ず始め高倉院の両宮を以て占われるの処、官・寮共に兄宮を以て吉と為すの由これを占い申す。
「法皇女房丹波の夢想により高倉院の四宮を立てられんとす」
その後、女房丹波(御愛物遊君、今は六条殿と号す)の夢想に云う、弟宮(尊成親王、四宮、信隆卿の外孫なり)、行幸有り。松の枝を持ち給わるの由見る。法皇に奏す。依って卜(ぼく、うらない)筮(ぜい)に乖(そむ)き、四宮を立て奉るべき様思し食す(思し召す)と。然る間、義仲は北陸宮を推挙す。依って入道関白(藤原基房)、摂政(藤原基通)、左大臣(藤原経宗)、余と四人、召しに応じ、三人参入し、余疾に依り参らず。かの三人各申されて云はく、北陸宮一切然るべからず、但し、武士の申す所、恐れざるべからず。よって御占い行われ、かの趣に従われるべし。
「再度占いを行われる」
松殿(藤原基房)は一向に占いに及ばず。御子細を義仲に仰せられるべしと。余はただ勅定を奉る由申したり。依って折中し御占い行わるるところ、今度は第一は四宮(夢想の事に依る也)、第二は三宮(後高倉)、第三は北陸宮。官・寮とも第一が最吉の由を申す。第二は半吉、第三は終始快からず。占形を以て義仲に遣わすの処、申し云う、先ず北陸宮以て第一に立てられるべきのところ、第三に立てられる。謂われ無し。凡そ今度の大功、かの北陸宮の御力なり。争でか黙止せんや。猶郎従等に申し合せ、左右を申すべきの由申すと。凡そ勿論の事か。左右する能わず。凡そ初度の占い、この度の占いと、一二の条を替え立てられる。甚だ秘事有るか。占いは再三せず。しかるにこの立王の沙汰の間、数度お占い有り。神定めて、霊告無きか。小人のまつりごと、万事一決せず。悲しむべしの世なり。
「摂政基通法皇に鐘愛せられる事の子細」
又聞く、摂政(藤原基通)は法皇に鐘愛(しょうあい)せられる事、昨今の事ならず。御逃去以前、先づ56日密に参り、女房冷泉局を以て媒と為すと。去る7月御八講の比より、御艶気(つやけ)有り。7月20日比、御本意を遂げられ、去る14日参入の次、又艶言御戯れ等有りと。事の態、御志浅からずと。君臣合体の儀、これを以て至極と為すべきか。古来、かくの如き蹤跡(しょうせき、あと)無し。末代の事、皆以て珍事なり。勝事(しょうじ)なり。密告の思いを報ぜらる。其の実ただ、愛念より起こると。
「良通夢想」
今且、大将札(ふだ)を送りて云う、去る夜の夢想、春日大明神告げ仰せ云う、不審に申す事(余の運の事、日来の間、中心これを疑ひ、その告げを乞うと)、更に疑い有るべからず。即ち夢中にこれを思い、信状極まり無しと。幼少の心底この事を思う。尤も憐れむべし、憐れむべし。此の夢又信ずべし、信ずべし。
(注釈)
札(ふだ)・・・必要事項を書き記す紙片、木片など。
欝(うつ)・・・気のふさぐこと。
鐘愛(しょうあい)・・・非常にかわいがること。
艶気(つやけ)・・・色気のあるさま。
勝事(しょうじ)・・・奇怪な事件。

8月19日 陰晴れ不定、
「昨日議定の子細を兼光朝臣に問う」
朝早く、昨日定めの子細を兼光朝臣の許に問う。注送の旨かくの如し。
参入の公卿8人、
左大臣(経宗)、実房、忠親、成範、雅頼、長方、通親、親宗、
「神鏡の事」
神鏡の事
 左大臣、皇后宮大夫(実房)、前源(雅頼)中納言、
    (略)
 堀河大納言(忠親)、八条中納言(長方)、源宰相中将(通親)、
    (略)
 民部卿(成範)、親宗朝臣、
    (略)
「剣爾の事」
 源(雅頼)中納言、
 源宰相中将
「固関の事」
「宣命の事」
「時簡の事」
「御譲位日時の定めの事」
「先主尊号の事」
「践祚の夜内侍の事」
「御即位の事」
「二代同輿の事」
「新帝内裏に渡御の御装束の事」
「大刀契行列の事」
「頭弁兼光院宣を以て新主御名字の可否を問う」
「兼実請文」

8月20日 天気晴れ、
「後鳥羽天皇践祚せらる」
此の日立皇の事有り(高倉院第四の宮、御年4歳、母故正三位修理太夫信隆卿女)。兼日、頗りに其の沙汰有り。先ず高倉院の両宮(三四宮)以て、占いにより(三宮第一に立つ)の処、官・寮共に一吉の由を申す。その後、女房夢想の事有り(子細は先日の日記を見る。四宮立ち給ふべきの由なり)。又義仲加賀国にまします宮を引級す(子細は先日記を見る)。此の如き間、更に又御占い有り(今度四宮を一と立て、加賀の宮を第三に立つと)。又一吉の由を占い申す。第二半吉、第三快からずと。占いの形を以て義仲に遣わすの処、おおいにふん怨申し云う、先ず次第の立て様、甚だ以て不当なり。御年の次第に依れば、加賀宮を以て第一に立つべきなり。しからずば、又始めの如く、兄宮を先とせられるべし。事の態、矯飾(きょうしょく、いつわり)に似たり。故三条の宮の至孝を思し食さざるの条、大いに以て遺恨と。しかれども一昨日重ねて御使いを遣わし(僧正俊尭、木曽の定使なり)、数遍往還し、ついに御定めに有るべき由を申す。依ってその後一決すと。
(以下略)
「良通参院」
「伝国宣命を相聞す」
「人々閑院に参る」
「若宮御着袴の後閑院に都御せらる」
「主上出御」
「左大臣経宗作進の践祚次第」
「践祚の間の不審条々を兼光に問う。」
「兼光返事」
「蔵人頭」
「五位蔵人」
「六位蔵人」
「殿上人」

8月21日 
「兼実寸白発す」
今夜より重病を受く。万死一生、寸白(すばく、すんぱく、サナダムシ)の所為なり。今日大原の本成房来たり。数刻法文を談ず。
(注釈)

8月22日 時々雨下る
「藤原季行忌日」
所悩同前。女房忌日に依り密々東山の小堂に向かう。母の尼公相具し、布施取少々これを催し送る。

8月23日
所悩同前。晩に及び汗少し出て、辛苦少し減ず。

8月24日

8月25日 
「除目」
この日、除目と。
「兼実の知行国安芸に替えられる」
伯耆(鳥取県の西部)の守基輔、推して安芸(広島県西部、芸州)の守に任ぜらる。勿論々々。兼光院宣を以て先ず触れ仰せられ、左右(決定)御定めにあるべしと申す。但し芸州に於いては、望みにあらざる由申したり。然れども猶推して以てこれに替えられる。過怠(過失)尤も不審々々。叉ある人告げて云う、入道関白の息八歳、中納言師家(生年十二歳)直に左大将に加ふべしと。依って内々訴訟の由を院に申したり。今度この事無し。もし訴状を容れらるるか。将に叉本よりその沙汰の事無きか。追って聞く、此の事沙汰ありと雖も、忽然として止めたりと。

8月26日
「除目聞書を見る」
聞書を見る。権大納言師家、権中納言兼房、此の外の事記さず。
「良経従四位上に加階せらる」
また良経(兼実の次男、従四位)従上に叙す。太だ冷然々々。定能卿来たり、世間の事を談ず。

8月27日
「大臣を良通に譲るべく仮名書状を八条院に献ず」
今日、仮名書きを八条院に献(たてまつ)る。大臣を以て大将(良通)に譲るべき由院に申さしめ給うべき趣なり。今日、仏厳聖人来たり、法文の事を談ず。

8月28日 天晴れ
「公卿勅使発遣の事につき法皇より諮問せらる」
申の刻(16時)、院の別当式部権少輔範季御使いとなり来る。院より公卿の勅使を発遣せらるる間、条々御不審の事、計らい奏すべしと。
(中略)
「法体の上皇伊勢公卿勅使を立てられる例なし」
「公家より立てられるべきか」
「滝口名簿を催さる」
「頭中将隆房痴者なり」
「武士十余人の頸を切る」
伝聞、今日七条河原に於いて、武士十余人の頸(首)を切ると。

8月29日 天晴れ。午後雨下る。
大外記頼業来たり。世上の事を談ず。嘆息の外他事無し。実に悲しむべき世なり。

8月30日 天晴れ
晩に及び大夫吏隆職来たり、世間の事を談ず。今夜家の所苑なり。常の如し。
「法皇公卿勅使御精進屋に入らる」
今夜より法皇公卿勅使を御精進屋(しょうじんや)に入らしめ給う。明後日発遣、明日前斎たるの故なり。
(注釈)
精進屋(しょうじんや)・・・宮座の祭祀で、頭屋(とうや)が精進潔斎(けっさい)のためこもる所。

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2005年10月29日 (土)

1183年 (壽永二年)8月前半

1183年 (壽永二年 癸卯)

8月1日 天気晴れ。
今日は八条院(法皇の妹、鳥羽天皇皇女)を以てに内々申し入るる事有り。御報(返事)分明(あきらかになったこと)。

8月2日 天気晴れ。
伝聞、摂政(基通)2ケ条の由緒有り、動揺すべからずと。一は、去る月20日比、前内府(宗盛)及び重衡等密議に云う、法皇を具し奉り、西海に赴くべし。もし又、法皇宮に参住すべしと。此の如し評定を聞き、女房を以て(故藤原邦綱卿愛物、白川殿の女房(平盛子)冷泉院局)、法皇に密告し、此の功に報いらるべしと。
「法皇摂政基通を艶す」
一は、法皇摂政を艶し、其の愛念により抽賞すべしと。秘事、希異の珍事たりといえども、子孫に知らしめんため記し置く所なり。
「藤原基房師家の摂政就任を泣いて所望す」
また聞く、入道関白(藤原基房)、病ひを帯ながら(瘧病、マラリア)、院の御所の北対に参宿し、前中納言(藤原)師家(生年12歳)を以て、摂録(せつろく、摂政の異称)たるべき由所望を注す。天気(天皇の機嫌)これを許さずと。
「源雅頼と世上の事を談ず」
今日前源(雅頼)中納言来たり、世上の事を談ず。この次語り云う、去る6月1日、主上(安徳)南殿南階より溜下(たまりした)に落ちしめ給ふ。以っての外の怪異なり。蔵人平親資抱き奉り、陣(衛士)辺に上げる。上官一両(1と2)之を見る。深く以て、秘蔵すと。
(注釈)
抽賞・・・多くの者から引き抜いて賞する。

8月3日 天気陰。
伝聞、(蔵人藤原長正の説)、去る比内裏(御所)の板敷きの上に牛が昇り横たわる。数刻に及ぶ。長正之を見て追い下したりと。又昼の御座の上に狐が糞をまり置くと。
「解官の事如何様に行われるべきか」
今日午の刻(12時)頭弁兼光、お使いとなり来たり云う、解官の事、法皇の勅(天子の命令)か、又は内々仰せらるべきか、大外記両人に問うの処、
「両大外記申状」
頼業申し云う、只宣(せん)奉勅(ほうちょく)に載すべし。法皇の字有るべからず。師尚申し云う、ただ内々外記に仰せられ、追って宣旨成さるべしと。申し云う、師尚の申し状穏便か。猶、宣旨有るべくば、法皇の勅に載せるべきなり。只、勅を奉るの条甘心(満足)せず。この次に、京中畿外の狼藉止められるべき子細を申し、条々の理を立て申さしめたり。是和説なり。更に用いらるべき由存ぜず、ただ忠を存ずる為なり。
(注釈)
解官(げかん)・・・官職を免ずること。免官。
宣(せん)・・・みことのり。
奉勅(ほうちょく)・・・天皇のことば(みことのり)を承ること。
畿内(きない)・・・大和・山城・河内・和泉・摂津の五畿。
畿外(きがい)・・・五畿以外。

8月4日
今日大原野社(大原野南春日町)に内々、幣はくを奉る。又今日より7ケ日を限り仁王講(仁王経の会)を修す。今日神斎祓(ふつ、はらう)を修す。
(注釈)
仁王経(にんのうぎょう)・・・護国安穏を祈る。
修祓(しゅうふつ)・・・みそぎを行うこと。

8月5日 天気晴れ、
弥勒講(みろくこう)に依り御堂に参る。
「玄上出来す」
経家朝臣云う、玄上(びわの名器の名)出で来たり。検非違使の平知康の許の女これを持ち来ると。
(注釈)
弥勒講(みろくこう)・・・弥勒菩薩に祈る。

8月6日
「京中の物取り追捕逐日倍増」、
 京中の物取り追捕、逐日に倍増し、天下すでに滅亡したり。山掘(さんくつ)厳穴(がんけつ)、閑(静かな)かなるべきの所無し。三界(さんがい)無安の金言(きんげん)、誠なるかなこの言。
「立王の事につき法皇より諮らる」
この日院に参り、定能卿を以て申し入る。頭弁兼光を以て、仰せ下せられて云う、立王の事、思しめす煩ふ所なり。先ず、主上の還御を待ち奉るべきや。まさに又且つ剣爾(宝剣と神爾)無しと雖も、新主を立て奉るべきやの由、御占い行われしの処、官・寮共に主上(天皇)を待ち奉らるべき由を申す。しかも猶、この事思しめすの所に依り、重ねて官・寮に問はる。各数人(官2人、寮8人)の申し状、彼是同じからず。但し吉凶半分なり。此の上の事、何様沙汰有るべきや、計ひ申すべしといえり。申し云う、先ず次第の沙汰、頗る以て違に依りか。先ず議定有り。人の意一決せず。ひとえに占ぼくに訪ねるべき由、議奏の時、御占い有るべし。しかるに遮って以て御占い行わる。今又、かの趣に背かれるの条、太だ以てその謂われ無し。占いは再三せずと。しかるに度々に及ぶの条、また以てしかるべからず。しかして今に於いては、ひとえに占い用いられるべし。先ず重ねて良将吉神等の趣に随ひ、斟酌(しんしゃく)有るべきか。但し、愚案の及ぶ所、立王今に懈怠(けたい、なまけ)、愚心傾き思ふ所なり。その故は、先ず、京華の狼藉、今に止まず。是、人主(君主)御座せざるがしからしむなり(是一つ)、次に須べからく急ぎ征討せられるべき処、平氏等主上(天皇)及び三神(三種の神器)を具し奉り、すでに西海に赴く。主を立てず、征伐有り。議に於いて妨げ有り(是二つ)。
「継躰天皇剣爾なく践祚の例あり」
次に我が朝(朝廷)の習い、剣爾を得ざる践祚、かって例無し。しかるに継躰(けいたい)天皇臣下たり。迎えられし時、国史の文の如き、これを践祚(即位)と書く。甲申(こうしん)、天皇が樟葉宮に移る。辛卯(しんう)、爾符(じふ)鏡剣を得て即位すと。往古、譲位・即位の分別無しと雖も、今の文の如くば、即位以前すでに天皇と称し、又践祚と謂う。即ち、皇居を移され、その後剣爾を得て即位すと。しかれば即ち、準拠尤も合うべき由存する所なり(是三つ)。
「天子の位一日も空しくすべからず」
凡そ天子の位、一日も空しくすべからず。政務悉く乱れると。今に遅々の条、万事違乱の源なり。早速沙汰有るべし。異議有るべからずといえり。左大臣同じく参候すと。一所に非ず。兼光参上し、小時(しばらく)ありて帰り来たりて云う、申す所しかるべし。就中、征伐の為、人主立て奉るべき条、事の肝心なり。よって早く立王の事有るべしといえり。愚案の、次第の沙汰、悉く以て違乱散々。凡そ左右する能わず、左右する能わず。未曾有の事なり。天下の滅亡、ただ此の時なり。悲しむべし、悲しむべし。
(注釈)
山掘(さんくつ)・・・山中のいわや。
厳穴(がんけつ)・・・岩のほらあな。
三界(さんがい)・・・衆生が活動する全世界。
金言(きんげん、こんげん)・・・古人の残した模範となる言葉。
斟酌(しんしゃく)・・・あれこれ照らし合わせて取捨すること。
爾符(じふ)・・・天子の御璽(印)。

8月7日
「春日社の奉幣細剣を献ず」
今日春日社の奉幣(ほうへい)、又同社に細い剣を一腰を献ず(紫檀(したん)地銀、二筋樋剣なり)。祓(はらう)ひを修し遙拝す。又自から心経千巻を読み、御社に法楽(ほうらく)す。又今日鏡箱二つを大神宮(内外社の料)に進らす。来たる11日参着すべきなり。
(注釈)
奉幣(ほうへい)・・・神に幣帛(へいはく)をささげること。
幣帛(へいはく)・・・神に奉納する物の総称。
法楽(ほうらく)・・・神仏の手向けにするわざ。

8月8日
今日より祈り始む。

8月9日
今日、百度の祓ひ(ひゃくどのはらい)を修す、
「先日二百余人解官せらる」
伝聞、去る6日解官(げかん)、200余人有りと。
「平時忠その中に入らず」
時忠郷その中に入らず。是還御有るべき由申さるるの故なりと。朝務のおう弱、是を以て察すべし。憐れむべし憐れむべし。
(注釈)
百度の祓ひ(ひゃくどのはらい)・・・神前で中臣(なかとみ)の祓詞(はらえことば)を百度読むこと。
のおう弱(おうじゃく)・・・かよわいこと。

8月10日 天気晴れ、
「院評定に参る」
昨日の召しに依り、申の刻(16時)直衣(のうし)を着け院に参る。是より先、左大臣(藤原経宗)・内大臣(実定)は西対代南庇(ひ、ひさし)の座に在り。余同じく其の座に加わる。昨日催しの時、所労に依り参入不定の由申す。よって余の参入以前に、大略議定したりと。両府(左内)其の趣の粗く語る。各云う、兼光評定の趣を奏聞のため御所に参りたり。未だ帰り来たらずの間なりと。この間三人、語を交わす。兼光猶来たらず。よって左大臣(経宗)蔵人を召して、余参入の由兼光に触れる。暫しありて、兼光来たり、左府に仰せて曰く、条々聞し食したり。
「親王宣旨のあるべきかの事」
但し、親王宣旨の事、重ねて計らひ申すべしといえり。左大臣余に目くはせらる。余曰く、親王宣旨下さるべき間の儀か。将にかの宣旨有るべきや否やの議か。兼光曰く、両条共に定め申しむべしといえり。余云う、光仁天皇の例に任せ、親王宣旨無しと雖も、何事かこれ有らんや。且つ宣下の間、便宣無き上、宝亀の例最吉たりといえり。左内両府(左大臣・内大臣)之に同ず。この事、余参入以前に両府、親王の宣旨有るべき由を申されると。しかるに今ここに其の儀変じ、余の議に同じくされる也。此の後兼光条々の事を余に問う。両府以前に申したる事等なり。
「皇居の事」
1.皇居の事
申し云う、大内(おおうち、皇居)いかん。閑院(かんいん、藤原冬嗣の邸宅)又宜しきか。両府云う、閑院宜しかるべき由申す。且つ吉所たる故也と。余云う、善し。但し内心思う所、強く吉を謂うべからざるか。
1.大刀契(たいとけい)・鈴印等大内に在り。閑院に渡し奉るの間、縁事の諸司供奉(ぐぶ)すべきかの事、申し云う、供奉すべし。
「漏刻の事」
1.漏刻(ろうこく、水時計)、陰陽寮(おんようりょう)供奉すべきかの事、申し状前に同じ。
「御倚子の事」
1.御倚子、多く蘭林坊にあり、是大嘗会(だいじょうえ、大嘗祭)の時の御物なり。大略螺鈿(らでん)なり。彼を用いられるべきか。将に新造せらるべきかの事、申し云う、累代(るいだい、代々)の物、出で来たるの間、旧物を借用されるべし。専ら新造に及ぶべからず。
「時簡の事」
1.時の簡の事
申し云う、新造に異議無し。抑(そもそも)日時を勘へらるる間、議有るべきか。寛和2年の例、(一条院受禅)、新主の宮に於いて御椅子の時の簡を渡さるべき日時を勘へらる。かの例に准ずれば、新造の日時又同じかるべきか(この事、兼ねて人々申されざるか。余申さしむる時、人々しかるべき気色有り。兼光又甘心す)。
「伝国爾宣命宣下せらる場所の事」
1.伝国爾(こくじ)の宣命、何所に於いて宣下せらるべきやの事、
申し云う、院の殿上か。仗座か。時議に在るべし。左大臣曰く、院の殿上異議無し。内府曰く、当日の事たり。猶仗座に於いて宣下せられるべきか。余この事思ひ得ず。よって左右を示さず。退いてこれを案ずるに、内府の議しかるべし。
1.蔵人・滝口所の衆等、例に任せ渡されるべきかの事。申し云う、しかるべし。
「御装束を渡さるべきかの事」
1.御装束を渡さるべきかの事、申し云う、多く是渡さるる所なり。但し、今度しかるべからず。内府曰く、御笏(こつ、しゃく)許り渡さるべし。余云う、しかるべし。
「剣爾の事」
1.剣爾の事、諸道の勘文を召さるべきや否やの事、
申し云う、しかるべし。但し、当時の議の如くは、立王、剣爾・賢所等を待たるべき議なり。然れば、逐に紛失の時、かくの如きの沙汰に及ぶべきか。両条勅定に在るべし。両府云う、猶諸道の勘文を召さるべし。余言わず。
1.勘文の事、内々御教書を以て下知すべきか。将に上卿に仰せすべきか(この事始め所の仰せなり)。左大臣云う、御教書宜しかるべし。他人言わず。余追ってこれを案ずるに、猶上卿に仰すべきか。
「若宮の渡御の議の事」
1.若宮の渡御りの議の事(この事始めて問う所なり)、内府云う、法皇高松殿に渡御の例、外に求めるべからず。余及び左府云う、善し。
「除目の事」
この後左大臣退出す、兼光云う、除目の事、猶院の殿上に於いて、仗座を移し、行はるべき由、左大臣が次第を作り、内々兼光に給ふ。奏聞を経る処、其の定め行はるべき由御定め有り。余云う、異議無し。内府云う、猶殿上に於いて、朝覲(まみえる)の行幸の賞の如く行はるべきなり。余云う、行幸の賞は、此の議に似るべからず、只殿上の定めの如
く行はるべき也。内府之に同ず(頗る意趣無きに似たり)。内府又云う、猶左府の議を申し破るべき也。両人一同の由、早く奏すべし。仗座を移すの儀、専ら見苦しかるべき故なり。余云う、この事しかるべからず。愚意の及ぶ所、奏聞を経て、用捨に於いては勅定にあるべし。余に於いては全く執し申すべからず。もし未だ天聴に達せずば、尤も奏聞すべし。兼光云う、具さに奏聞したり。余云う、いよいよ以って沙汰に及ぶべからずと。内府又諾す。その後、暫し以て言談す。余先づ退出したり。
「源氏等の悪行止まらず」
今日、参院前、大外記頼業来たり、世上の事を談す。上のご沙汰違乱の上、源氏等の悪行止まらず。天下忽ち滅亡を欲す。悲しむべし悲しむべし。紅涙(こうるい)を拭い、丹心(たんしん)を摧(くだ)く。賢なるかな賢なるかな。
「除目延引され勧賞行わる」
小時(しばらく)ありて退出したり。今日除目俄に延引す。只勧賞許り行われると。経房が之を書く。実房が外記に下す(但し、除目の儀に非ずと)。
(注釈)
大嘗会(だいじょうえ、大嘗祭)・・・天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。
勘文(かもん)・・・ 朝廷の要請で、陰陽道の学者などが、諸事の先例を調べ、日時・方位などの吉凶を占って上申する文書。
陰陽寮(おんようりょう)・・・天文、気象、暦、時刻、占いなどを司る役所。
螺鈿(らでん)・・・貝の真珠光を放つ部分をはめ込み装飾するもの。
滝口所(たきぐちどころ)・・・滝口の陣、清涼殿の北、警衛の武士の勤番する所。
紅涙(こうるい)・・・血の涙。
丹心(たんしん)・・・まごころ。

8月11日 雨下る、
先日進らす所の大神宮の剣箱等、今日参着の日也、よって神斎、祓を修し遙拝す(衣冠)。
「昨日の勧賞の聞書を見る」
去る夜の聞書を見る。義仲、(従五位下、左馬頭、越後守)、行家、(従五位下、備後守と)。

8月12日 雨降る、
「行家勧賞の懸隔に忿怨す」
伝聞、行家厚賞に非ずと称し忿怨(ふんおん)、且つ是義仲へ与える賞と懸隔の故なり。門を閉じ辞退すと。
「平時忠の返礼が到来す」
一昨日夜、時忠卿の許に遣わさるる御教書、返礼が到来す。其の条に云う、京中落居の後、剣爾以下の宝物等還幸有るべき事、前内府(宗盛)に仰せ下さるべきかと。事の態頗る嘲哢(あざけりさえずる)の気あるに似たり。又貞能の請文に云う、能(よき)様に計ひ沙汰すべしと。
「平家備前の国小島にあり」
当時備前国小島に在り。船百余艘と。或る説に云う、鎮西の諸国に宰吏(国司)を補すと。
「天下の体三国史の如し」
大略、天下の体、三国史の如きか。西に平氏、東に頼朝、中国すでに剣爾無し。政道偏に暴虐とおう弱と也。甚だ、其の憑(たの)み無きに似たるか。征伐遅引、院中の諸人、心を欠国及び荘園等に懸け、君又此の欲に貧着す。上下逢(まま)境、歓喜他無し。天下の亡弊を知らず、国家の傾危(けいき)を顧みず、嬰児の如く、禽獣(きんじゅう、鳥とけだもの)の如し。悲しむべし、悲しむべし。今夜、方違えの為大将(良通)の宅に向かう。
(注釈)
禽獣(きんじゅう)・・・鳥とけだもの。

8月13日

8月14日
夜に入り、大蔵卿(高階)泰経お使いとなり来る(是より先、召し有り、疾に依りその由を申す、依って来る所なり)。余簾(すだれ)を隔ててこれに謁す。
「践祚の事につき法皇より諮問せらる」
泰経云う、践祚の事、高倉院の宮2人、(一人は平義範の女の腹5歳、(惟明親王)、一人は藤原信隆卿の女腹4歳(守貞親王))之間、思し食し煩ふ処、以っての外の大事が出で来たり。
「義仲以仁王の王子を推す」
義仲今日申し云う、故三条の宮ご子息の宮北陸に在り。義兵の勲功かの宮のお力に在り。依って立王の事に於いて、異議有るべからざる由所存なりと。依って重ねて俊尭(ぎょう)僧正を以て(義仲と親昵(しんじつ)のたる故)、子細を仰せられて云はく、我が朝の習い、継躰守文(しゅぶん)を以て先と為す。高倉院の宮両人おはしまし、其の王胤(王者の子孫)を置きながら、強ちに孫王を求めらるる条、神慮測り難し。この条猶しかるべからざるかと。義仲重ねて申し云う、此の如き大事においては、源氏等執し申すに及ばずと雖も、粗事の理を案ずるに、法皇御隠居の刻、高倉院権臣(けんしん)を恐れて、成敗(せいばい)無きが如し。三条宮至孝に依り其身を亡す。争でか其の孝を思し食し忘れざらんや。猶この事其の欝を散じ難し。但し此の上の事は勅定に在りといえり。此の事いかん計らひ奏すべしといえり。申し云う、他の朝議に於いては、事の許否を顧みず、諮詢(しじゅん、相談)ある毎に愚款(かん、まこと)を述べたり。
「王者の沙汰に至りては人臣の最にあらず」
王者の沙汰に至りては、人臣(けらい)の最に非ず。昔法皇の御字の始め、近衛上皇御事の後、誰を以て主と為すべきやの由、鳥羽院此の法性寺入道相国(藤原忠通、兼実の父)に問い仰せられる。即ち奏するに我が君の御事を以てす。彼の言に従い践祚すでにおわりたり。かの時猶冥鑒(かん)を恐るるに依り、両三度是非を言わず、只勅断を請い、叡問再三に及びし時、道理を以て奏達す。朝の重臣、国の元老、猶重事の軽からざるを恐れ、るる自から専らにする能わず。況や区々の末生、不肖の愚臣、得て言上すべからず。偏に叡慮に任せ、須くお占いを行ふべき由、計り奏せしむべしと雖も、其の条猶恐れ有り。只叡念の欲する所を以て、天運の然らしむ由を存ぜしめおはしますべきかといえり。奏経退出したり。
(注釈)
守文(しゅぶん)・・・文を以て国を治めること。
王胤(おういん)・・・王者の子孫。
権臣(けんしん)・・・権力を持った家来。
成敗(せいばい)・・・政治を行うこと。
諮詢(しじゅん)・・・相談。

8月15日 天気晴れ、
晩頭(左少弁藤原)光長来る、院宣伝え云う、
「法皇成勝寺に神祠を建立し崇徳天皇の霊を蕩しめんとす」
成勝寺の内、神祠(しんし)を立てられるべき由思し食す所也。その故は、今曾(ちかごろ)以来乱逆連綿し、天下静かならず。かの寃霊(崇徳)により此の災難有る由、世の思う所なり。依ってその霊魂を蕩(とう)せしめん為、神祠を立て、影降を待つべき由、叡慮一決する所なり。その間の儀計らひ奏すべしといえり。申し云う、この事暗に計らひ申し難し。例を外記に問われ、勘(かんが)へ申すに随い、其の沙汰有るべきかといえり。光長云う、左内両府問うべしと。この事社(しゃ、やしろ)か廟(びょう)か。八幡宮及び北野宮の例等に准ずれば、廟となすべきかと。
「門司関を閉じる」
 この次語り云う、平家の余勢幾らも非ず、船百余艘、当時、備前国小島に在りと。鎮西もじの関を閉じる。よって鎮西に通ずる能わず。南海・山陽両道を領すべき由、結構すと雖も、定めて叶わざるかと。
「慈円二十五三昧念仏を修す」
夜に入り、御堂に向かう。法印(慈円)は弟子等を率い、二十五三昧念仏を修めせしむ(源信僧都この行を始むと。最上の功徳なり。この法印、年来住房に於いてこれを修す。今月この辺に座せらる。よって御堂に参らしめ修せらる。余結縁(けちえん)のため女房を率い聴聞する所なり)。聴聞の為参る所なり。天曙(夜明け)くる後帰宅す。大将(良通)同じ
く参入す。余扇を少々僧達に施さんと欲す(法印相加へ八口)。しかるに別の願いに依り、この如き事無き由、法印示される。よって翌日かれの房に送るなり。
(注釈)
寃霊(おんりょう)・・・怨みを抱いてたたりをする死霊。
神祠(しんし)・・・神のやしろ。
廟(びょう)・・・祖先の霊を祭るところ。
蕩(とう)・・・はらいのぞくこと。
結縁(けちえん)・・・仏道に入る縁を結ぶこと。

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2005年10月28日 (金)

1183年 (壽永二年)「愚管抄」7月

1183年 (壽永二年 癸卯)

7月

「愚管抄」7月

北国(ほつこく)の方(かた)には、帯刀先生(たちはきせんじやう)義方(よしかた)が子にて、木曾冠者(きそのくわざ)義仲(よしなか)と云者などおこりあひけり。

宮(みや、高倉王)の御子(みこ)など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁(もちひと)の宮うちとりて、弥(いよいよ)心おごりつゝ、かやうにしてありけれど、東国に源氏(げんじ)おこりて国の大事になりにければ、小松内府(重盛)の嫡子三位中将維盛(これもり)を大将軍にして、追討の宣旨下(くだ)して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人(ひと)見物して有し程に、駿河の浮島原(うきしまばら)にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落ちて敵の方へゆきにければ、帰りのぼりにけるは逃(にげ)まどひたる姿にて京へ入りにけり。其後(そののち)平相国入道(へいしやうごくにふだふ、清盛)は同五年閏二月五日、温病(をんびやう)大事(だいじ)にて程(ほど)なく薨逝(こうせい)しぬ。その後に(後白河)法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣(つぎ)て沙汰しける。高倉院は先立(さきだち)て正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて(塞がって)、このいくさに勝たん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成(なり)にけり。次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、

寿永二年七月までは三年が程(ほど)すぎけるに、先づ北陸道の源氏すゝみて近江国に満ちみちけり。これよりさき越前の方へ家(いへ)の子(こ)どもやりたりけれど、散(さん)々に追(おひ)かへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事火急になりて、六はらへ(安徳天皇が)行幸なして、一家の者どもあつまりて、山科(やましな)がために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あしざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはすて候(さふらひ)ぬる由(よし)、故入道殿(こにふだどの、清盛)に申(まうし)てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候ひき。今は如此事には不可供奉」と云(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。かやうにして今日明日(けふあす)義仲・東国の武田(たけだ)など云う者もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるとて、をのゝきあいける程に、廿四日の夜半(よは)に法王(ほふわう)ひそかに法住寺殿(ほふじゆうじどの)をいでさせ給ひて、鞍馬(くらま)の方(かた)よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、近江(あふみ)の源氏がりこの由仰(おほせ)つかはしけり。たゞ
北面下臈(ほくめんげらふ)にともやす、鼓(つづみ)の兵衛と云(いふ)男(をとこ)御輿(みこし)かきなんどしてぞ候ひける。暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰・巳・午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。

六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京師(けいし)中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。

その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐(ひょうえのすけ)為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽に追いつきて、「いかに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせ帰りてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落けれど、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ院の覚えして盛りに候ひければ、御気色(みけしき)をうかゞはんと思ひけり。この二人鳥羽より打(うち)かへり法住寺殿に入り居ければ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事の由(よし)を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院(はちでうゐんの)辺(へん)に候へ」と御返事承(うけたまは)りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻は姑(しうとめ)なれば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申しいるゝ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落て相具(あいぐ)してけり。さて廿五日東塔(とうたふ)円融房(ゑんゆうばう)へ御幸なりてありければ、座主(ざす)明雲(めいうん)はひとへに平氏の護持僧(ごぢそう)にて、とまりたるをこそ悪(わろ)しと云ければ、山(やま)へはのぼりながらゑまいらざりけり。さて京の人さながら摂禄(せつろく、摂政)の近衛殿(このゑどの、基通)は一定(いちぢやう)具して落ちぬらんと人は思ひたりけるも、たがいてとゞまりて山へ参りにけり。松殿入道(まつどのにふだう、基房)も九条右大臣(兼実)も皆のぼりあつまりけり。

その刹那(せつな)京中はたがいに追捕(ついぶく)をして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残りなく平氏は落ちぬ。をそれ候まじ」とて、

廿六日のつとめて(早朝)御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条(ろくでう)堀川なる八条院のはゝき尼が家(いへ)を給(たまは)りて居(ゐ)にけり。

(以下8月)

かくてひしめきてありける程に、「いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣(はうけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらん」と云(いふ)さたにてありけり。父法皇をはしませば、西国王(にしのこくわう)・・・

(注釈)
北国(ほつこく)・・・北陸道の国々。
帯刀先生(たちはきせんじやう)・・・東宮武官の長。
義方(よしかた)・・・義賢。
宮(みや、高倉王)・・・以仁(もちひと)の宮。以仁王。
宮の御子・・・高倉王(以仁王)の子。北陸宮。木曽宮。還俗宮。
心おごりつつ・・・得意になって。
維盛(これもり)・・・平重盛の長男。
合戦にだに及ばで・・・合戦にも及ばないで。
温病大事・・・熱病が重態で。
ふたがりて・・・ふさがって
聞こえ・・・評判。
家の子・・・分家の一族。
となみ山・・・越中国砺波郡
六はらへ行幸・・・安徳天皇が六波羅へ
山科がため・・・山科口を警固に。
治承3年冬・・・治承3年11月の政変の際に頼盛も関白基房に同調した嫌疑を受けたこと。
弓箭の道・・・武道。
遷都(せんと)のころ・・・福原に都遷りのころ。
奏聞・・・天皇に申すこと。
不可供奉・・・お供できません。
せめふせられければ・・・責め伏せられたので、説伏されたので。
なまじいに・・・なまなかに。強いて。
いりなんずるにて・・・(京都に)入りなむとするにて。
鞍馬(くらま)・・・京都の鞍馬山。
横川(よかは)・・・比叡山三塔の一。
源氏がり・・・源氏の許へ。
北面下臈(ほくめんげらふ)・・・北面武士(上皇御所の北面に候して守護する武士)の身分の低いもの。
ともやす鼓(つづみ)の兵衛・・・壱岐判官知康。
あやめ出して・・・怪しみいぶかりはじめて。
辰(たつ)・・・午前8時。
巳(み)・・・午前10時。
午(うま)・・・午前12時。
やうもなく・・・理由もなく。
内をぐしまいらせて・・・天皇(安徳帝)を伴い申して。
さながら・・・そのまま。全部。そっくり。
京師(けいし)中・・・都中。
物とり・・・物を盗みとる者。
ゑせず・・・為し得ず。
心もうせて・・・思慮を失って。失心して。
追様(おひざま)に・・・後を追うて。
心の内はとまらんと思ひけり・・・心中では京に止まろうと思った。
院の覚えして・・・後白河院の寵愛があって。
気色・・・顔色。意向。
山・・・比叡山。当時、後白河法皇が御幸していた。
八条院・・・鳥羽院の女で、後白河院の妹。
をち・・・御乳(乳母)
寛雅(くわんが)・・・村上源氏。雅俊の子。俊寛の父。
さて・・・そのままに。
相具(あいぐ)してけり・・・相伴ったそうだ。
東塔(とうたふ)・・・比叡山三塔の一。
円融房(ゑんゆうばう)・・・円徳院の本房で円仁の弟子承雲が初祖。
座主(ざす)・・・天台座主(比叡山延暦寺のトップ)。
護持僧・・・その人のために常に祈祷する僧。明雲(めいうん)は安徳帝の護持僧だった。
とまりたるを・・・留まったのを
ゑまいらざりけり・・・(後白河院の御前には)参られなかった。
追捕(ついぶく)・・・物を取り上げること。略奪。
下京・・・山から京に下ること。

かくてひしめきてありける程に・・・押しあってごたごたしているうちに。

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2005年10月27日 (木)

1183年 (壽永二年)7月入京後

1183年 (壽永二年 癸卯)

7月28日 天気晴れ、
「義仲・行家入京す」
今日義仲・行家等、南北より(義仲は北、行家は南)入京すと。晩頭(夕方)左少弁光長来たりて語る、義仲、行家等を蓮華王院(三十三間堂の寺号)御所に召し、追討の事仰せ下さる。大理(藤原実家)殿上の縁にてこれを仰す。かの両人地に跪(ひざまず)き承る。御所たるに依りてなり。
「かの両人権を争うの意趣あり」
参入の間、かの両人相並び、敢えて前後せず。争権の意趣これを以て知るべし。両人退出の間、頭弁兼光、京中の狼藉の停止すべき由仰すと。今朝、定能卿来たる。法印(慈円)昨日京に下る。

7月28日 [吉記]
「義仲行家御前に召し、前内大臣追討すべし由仰せ下さる」
 武将二人、木曽の冠者義仲(年三十余、故義方男、錦の直垂(ひたたれ)を着し、黒革威(おどし)の甲(こう)、石打(いしうち)箭(せん)を負い、折烏帽子(おりえぼし)。小舎人童取染(とりぞめ)の直垂(ひたたれ)劔(つるぎ)を帯し、また替箭を負い、油単を履く)・十郎蔵人行家(年四十余、故為義末子、紺の直垂を着し、宇須部箭を負い、黒糸威の甲を着し、立烏帽子(たてえぼし)。小舎人童上髪、替箭を負う。両人郎従相並び七八輩分別せず)参上す。行家先ず門外より参入して云く、御前に召さるるの両人相並び同時に参るべきか。然るべきの由仰せらると。次いで南門に入り相並び(行家左に立つ、義仲右に立つ)参上す。大夫の尉知康これを扶持す。各々御所東庭に参進し、階隠間に当たり蹲踞(そんきょ)す。別当公卿の座北簀子(すのこ)に下居し、砌下(せいか)に進むべきの由これを仰せらる。然れども両将進まず、西面に蹲踞す。大理仰せて云く、前の内大臣党類を追討し進すべきなり。両人唯(はい)と称し退き入る。忽ちこの両人の容餝(ようしょく)を見るに、夢か夢に非ざるか、万人の属目(しょくもく)、筆端(ひったん)の及ぶ所に非ず。頭の弁下地し相逢い、仰せ含めの旨有り。
(注釈)
直垂(ひたたれ)・・・正面のえりの左と右がわとを垂らし引き違えて合わせる。
威(おどし)・・・よろいのさね(小板)を糸などでつづること。
甲(こう)・・・鎧。
石打(いしうち)・・・鷲の尾の両端の羽を矢羽として使用する。
箭(せん)・・・矢。
折烏帽子(おりえぼし)・・・頂を折り伏せた烏帽子(黒い袋形のかぶりもの)。
童(わらわ)・・・髪を束ねない。
取染(とりぞめ)・・・所々に細い横筋が出るように染めたもの。
油単(ゆたん)・・・ひとえの布・髪などに油をひいたもの。
宇須部箭
立烏帽子(たてえぼし)・・・中央部の立った烏帽子。
蹲踞(そんきょ)・・・両膝を折り、うずくまり頭を垂れる敬礼。
砌下(せいか)・・・切石のある階下の前。
属目(しょくもく)・・・注目。
筆端(ひったん)・・・筆のはこび。

7月29日 天気晴れ、
申の刻1600時、大将(九条良通、兼実長男)を相伴い、院に参る。(右衛門権佐、藤原)定長を以て申し入る。帰り来たり暫し候すべき由を示す。数刻の後、(参議大納言、藤原)定能卿来たりて言う、御念誦始められたり。早く退出すべしと。よって退出。
「九条亭に帰る」
直ちに九条亭に帰る。これより先に女房等帰りたり。
7月29日 [吉記]
降将等すでに播磨(兵庫県南西部)に至るの由風聞す。上総の介忠清・検非違使貞頼等出家す。忠清は能盛の許に在り。貞頼は兼毫法印の許に在りと。然るべき輩等多く付かざるの由、その聞こえ有り。今夜祇園中路五條坊門以南焼亡す。六波羅密寺同じく以て焼亡す。また一日焼け残る所故正盛朝臣(常光院)焼亡すと。

7月30日 天気晴れ、
朝早く、(大蔵卿、高階)奏経卿書を、(和泉の守、源)季長朝臣の許に送りて曰く、
「院にて大事議定す」
今日院に於いて、大事を議定せらるべし。巳の刻(10時)豫参すべしといえり。午一点(11時30分)に冠直衣を着け、、蓮華王院に参る。これより先に左大臣(藤原経宗)、大納言
(藤)実房、(藤)忠親、中納言(藤)長方等、御堂の南廊東面座(風吹くによりき簾を垂る)に在り。余同じくかの座頭に加わる。弁兼光朝臣仰せを奉り来たり、左大臣(藤原経宗)仰せ言う、条々の事、計らひ申すしべしといえり(その事三箇条、左に載せる)。
「頼朝・義仲・行家への勧賞(けんじょう)如何に行わるべきか」
1.仰せ言う、今度の義兵、造意頼朝に在りと雖も、当時の成功の事、義仲・行家なり。かつ賞を行はんとすれば、頼朝の欝(うつ)測り難し。彼の上洛を待たんとすれば、また両人賞の遅きを愁うか。両箇の間、叡慮(えいりょ、天子のお考え)決し難し。兼ねてまた三人の勧賞等差有るべきか。その間子細、計らひ申すべしといえり。
「頼朝参洛待たず三人同時に行わるべし」
人々申して言う、頼朝参洛の期を待たるべからず。彼の賞を加へ、三人同時に行はるべし。頼朝の賞、もし雅意(ふだんの心)に背かば、申請に随い改易する、何の難有らんや。その等級においては、かつは勲功の優劣により、かつは本官(正式の官職)の高下に随い、計らひ行なはるべきか。
総じてこれを論ずれば、第一は頼朝、第二は義仲、第三は行家なり。
頼朝 (京官、任国、加級、左大臣言う、京官は参洛の時、任ずべし。余言う、しかるべからず。    同時に任ずべし、長方同ず)、
義仲    (任国、叙爵)
行家    (任国、叙爵、但し国の優劣を以てこれを任ず。尊卑差別すべしと。実房卿言う、義仲従上、行家従下が宜しきか)
「京中の狼藉及び兵糧用途如何すべきか」
1.仰せ云う、京中の狼藉、士卒の巨万の致す処なり。
各その勢を減ずべき由、仰せ下さるる処、不慮の難怖れる処無きに非ず。これを為すいかん。兼ねてまたたとえ人数減ぜらると雖も、兵糧なくば、狼藉絶ゆべからず。その用途又いかん。同じく計らひ奏せしむべしといえり。人々申し云う、今においては与党の怖れ、定めて群を成すに及ばざるか。士卒の人数減ぜらるる、上計(最もよいはかりごと)というべし。兵糧の事、頗る異議有り。(大納言、藤)忠親・(中納言、藤)長方等云う、各1ケ国賜り、その用途に宛てるべし。余難じて曰く、勧賞は任国の外、更に、国を賜ふの条いかん。両人云う、その用終わると他人に任ぜらるる、何の難有らん。余曰く、理しかるべし、ただ、彼ら定めて収公(しゅうこう)の恨み含むか。ただ没官(もっかん)地の中より、然るべき所を撰び、宛て給ふべきか。しからずば、また1ケ国を以て両人に分ち賜ふべきか。但しこの条、頗る喧嘩の基たるか。猶、没官の所賜ふ宜しかるべし。左大臣云う、両方の議各しかるべし。勅定に在るべし、(頗る余の議に同ぜらるるか)
「関東・北陸の神社領等に使いを遣わし沙汰致すきか」
1.仰せ曰く、神社仏寺及び甲乙(たれかれ)の所領、関東・北陸に多く在り。今に於いては、各その使いを遣わし、沙汰を致すべき由、本所(本家)に仰せらるべきか。一同申して云う、異議あるべからず。早く仰せられるべしといえり。兼光人々の申し条を聞き、御所へ参りたり。その後数刻を経たり。
「勧賞行なわれるならば除目の議如何すべきか」
この間、余左府(左大臣、藤原経宗)に問うて曰く、もし勧賞者に行なわれるなら、除目の議いかん。左府曰く、この事難題なり。一昨日議定の時、問われると雖も除目有るべきや否や、その間の議に於いては、未だその沙汰に及ばず。ただし所存は、院の殿上に於いて、下名を行われるべしといえり。春秋の除目の如くば、官の外記の庁に於いて下さるべし。余曰く、庁において下名下さるべくば、ただ陣において除目を行われるべきか。およそ宣旨(天皇の命を伝える公文書)・官符(太政官符)を以て施行せられる事等、皆庁の御下文(くだしぶみ)に改められたり。それ即ち院の御沙汰たり。宣旨を成し、官府を請印する条、しかるべからざる故なり。何ぞ下名に至り其儀破るべきや。惣べて院の殿上の除目、甚だ甘心(満足)せず。左府云う、この事もとより希代(きたい)の権儀なり。然れども他の計無きに依りこの儀を存ず。余云う、勧賞に於いては、ただ内々にその人に仰せ、新主(新天皇)践祚(せんそ)の時、除目に戴せらるべきか。左府云う、諸国多く以って欠有り。併しながら口宣の条穏便ならず。余云う、他の任人に於いては暫く相待たるべきか。長方卿云う、そもそも主上(天皇)の還御(天皇が帰ること)を相待たるる条、もっとも以て不定、立王の事、何時を以て期すべきや。余云う、事の肝心ただ是に在り。左府云う、勅問(天皇の質問)に就き評定すべきなり。この条尋問せられず。進み申す条、便無かるべきか。この如くの議定の間、兼光帰り来たりて云う、勧賞除目その儀いかん。宣しく計らひ申さしむべしといえり。忠親卿云う、準拠の例、外記に問われるべきか。左府善しと称す。即ち兼光を以って之を問う。帰り来たりて申し云う、
「行幸賞の如く其人に仰せて後日除目に載せるが宜しかるべし」
頼業・師尚等申し云う、諸社の行幸・御幸等の賞の如く、先ずその人に仰せられ、後日、除目に戴せられる宣しきか。又嘉承に摂政の詔、先帝崩御(堀河天皇)、新主(鳥羽天皇)末だ御はしまさず、法皇の詔を以て、仗下に於いて下されたり。然れば、新儀を以て殿上に於いて行わるる、また御定めに在るべし。但し、初の議穏便か。且つ、是(源)時中参議を任ずるの例なり。(円融院、太井川逍遙、舞いの賞に依り、参議に任ずる由を仰せられる。後日除目に載せられる。此の事小野宮記に見ゆ。かの記の意、上皇の宣を以て参議を任ぜらるる条、甚だこれを難ず)人々皆此の議を以て是(ぜ)と為す。左府又執を破り之に同ず、兼光帰り参りたり。即ち帰り来たり云う、各議奏の趣、皆以てしかるべし。早くこの定めに行われるべしといえり。今に於いては、各御退出在るべしといえり。余即ち退出したり。
「摂政下京」
摂政(基通)今日京に下ると。数日山上に在り。人以て奇と為すか。
「慈円来る」
今日法印(慈円)来られる。日来の如く西家に居住す。今日より僧一人吉田社に籠もる、七日の間、仁王講を修せしむ。又幣帛を奉る。
(注釈)
勧賞(けんじょう)・・・功労を賞して官位を授け、または物を賜ること。
京官(きょうかん)・・・京都に勤務する官吏。
任国(にんごく)・・・国司として任命された国。
叙爵(じょしゃく)・・・初めて従五位下に叙せられること。
収公(しゅうこう)・・・没収。
没官(もっかん)・・・ぼっかん、重罪を犯した者の土地などを取り上げること。
請印 (しょういん)・・・ 文書発給に際して内印(天皇印)もしくは外印(太政官印)を押捺すること。
践祚(せんそ)・・・天皇の位を受け継ぐこと。

7月30日 [吉記]
 京中の追捕・物取等すでに公卿の家に及ぶ。また松尾社司(神職)等相防ぐの間、社司等の家に放火す。梅宮社神殿追捕に及ぶ。広隆寺金堂追捕に及び、度々合戦す。行願寺また追捕すと。成範卿院宣を奉り、時忠卿の許に仰せ遣わす。また内々貞能の許に仰せ遣わすの旨等有りと。
京中守護義仲院宣を奉りこれを支配す。
   源三位入道子息      大内裏(替川に至る)
   高田四郎重家・泉次郎重忠  一條北より、西朱雀西より、梅宮に至る。
   出羽判官光長       一條北より、東洞院西より、梅宮に至る。
   保田三郎義定       一條北より、東洞院東より、会坂に至る。
   村上太郎信国       五條北より、河原東より、近江境に至る。
   葦数太郎重隆       七條北より、五條南より、河原東より、近江境に至る。
   十郎蔵人行家       七條南より、河原東より、大和境に至る。
   山本兵衛尉義経      四條南より、九條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   甲斐入道成覺       二條南より、四條北より、朱雀西より、丹波境に至る。
   仁科次郎盛家       鳥羽四至内。
   義仲           九重(皇居)内、並びにこの外所々。
    已上義仲支配すと。

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2005年10月26日 (水)

1183年 (壽永二年)7月入京前

1183年 (壽永二年 癸卯)

7月1日 晴れ、
「賊徒今日入洛すべしの由兼日風聞」
賊徒今日入洛すべしの由兼日風聞す、しかるにその事無し、伝聞、(前筑前国司、平)貞能議し申し云う、追討使遣わすべからず、只勢多辺りにおいて相待つべしと。今日所労殊にすべ無し。法皇は今日賀茂社に御参り、お通夜有るべしと。

7月2日 晴れ、
巳の刻(10時)右大弁(平)親宗、院のお使いとなり来たる。物忌みと雖も勅使たるに依り之を呼び入れ、疾ひ厚きに依り簾で隔てて之に謁す。
「賊徒入洛の時院御所に行幸有るべきかにつき法皇より諮問せらる」
仰せ云う、賊徒入洛すべき由風聞す。その事もし実ならば、院の御所に行幸有るべきか。しかるに内侍所(やたの鏡)京外におはします条いかん。兼ねて又仙洞(上皇の御所)定めて物騒しきか。其の故は、平家の武士等守護の為定めて御所辺りに候うか。しかして賊徒打ち入らば、たとひ君に於いて害心無きとも、守護の武士と雌雄を決せんため、狼藉を致さんと云う。すでに戦場と為るべし。此の条いかん。両条計ひ奏すべしといえり。
「兼実申し状」
申し云う、賊徒が花洛(京都)に乱入の程の事、別段の事なり。院・内同居の事、有り様に随わるべきなり。もし行幸有らば、賢所格別の儀、京外に候べからざる条、一切憚り有るべからず。是尋常の時の儀なり。仙洞狼藉の事、期に臨み左右するなり、兼日の案叶うべからず。此の条巳だ大事なり、短慮及び難きかといえり。親宗云う、左大臣(藤原経宗)同じく此の問い有り。他人に及ばず。かの丞相(左右大臣)申し云う、内侍所(やたの鏡)は所司に差し副え、温明殿(うんめいでん)に御座しむべしか。賊は内侍所を取り奉るべからずの故なりと。
「左大臣の申し状に兼実甘心せず」
此の申し状聊(いささか)所存有りか。然るに余甘心せず。行幸有らば、剣爾(草薙の剣と八坂の曲玉)具し奉られるべし。賢所許り君を離れ奉ると雖も詮無かるべき故なり。
今日午後天気陰る。申の刻(16時)中御門大納言(藤原宗家)・前源中納言(雅頼)・左大弁(源経房)等疾ひを訪わん為来たる。各之に謁せず、人を以て謝し遣わす。病ひ重き上、物忌みの為故なり。
「鳥羽天皇国忌」
今日鳥羽院の御国忌に依り、法皇(今旦賀茂より直に鳥羽へ幸するなり)、及び八条院(法皇の妹)鳥羽におはします。
「義仲・行家四方より寄せんとす」
伝聞、源頼朝忽ち出るべからず、只木曽冠者・十郎等、手を四方に分け、寄せるべし由議定すと。
「僧事」
去る夜僧の事有り。法印澄憲、(前権大僧都)、権大僧都覚憲、(山階寺権別当)、法勝寺の御八講の証誠共に為すなりと。

7月3日 晴れ、
昨今物忌なり。
「八条院仁和寺に渡御」
今旦、八条院(鳥羽天皇皇女)は仁和寺の御所に渡御す。
「賊徒入京の時期につき諸説あり」
或は云う、秋節以前に賊徒入京すべし。或は云う、関東の勢を待ち、九十月の日入洛すべしと。閭巷(りょこう)縦横の説、かれこれ知り難し、今日、浮説に依り武士騒動す。

7月4日 天晴れ、
「小除目」
去る夜小除目(人事異動)有りと。内蔵頭平信基、左京権大夫藤光綱、従三位平資盛(重盛の次男、元蔵人頭)、蔵人頭藤兼光(左中弁)。
「僧事」
又僧の事有りと、権律師公胤(巳講)。

7月5日 晴れ、
「皇嘉門院月忌み」
疾に依り女院(皇嘉門院、兼実の姉)御月忌みに参らず。(参議大納言、藤原)定能卿来たり語り云う、推問使を遣わし和親すべしの儀有りと。然るに未だ一定せずと。

7月6日 晴れ、
右衛門権佐(藤原)定長を招き、(中原)師景文書の間の事を示す。定長云う、推問使の事定能の談の如し。

7月7日 晴れ
「節供」
節供、(陪膳季長朝臣、分配範季辞退す、よって年預光長之を勤仕す)
「乞う功奠(てん、さだめる)」
乞う功奠等例の如し、仏厳上人来たり、
「外記大夫師景の文書目録を取る」
今日(外記大夫)師景の堂に使者等を遣わし、文書目録を取る(示す)。
「法勝寺御八講結願」
法勝寺の御(法華)八講の結願なり。

7月8日 晴れ、夜に入り雷鳴、
「最勝光院御(法華)八講に御幸有り」
最勝光院の御(法華)八講、初日、院御幸有りと。
(最勝光院は院御所法住寺殿にあり)

7月9日 晴れ、
「師景の文書目録を取り終える」
今日又使いを(外記大夫)師景の許へ遣わし、重ねて目録を取らしむ、今日功を終へたり。今日大夫吏(小槻)隆職来たり、簾前に召し世間の事を談ず。
7月9日 [吉記]
 金峰山・多武峰等の衆すでに蜂起す。頼政入道の党その中に在りと。殿下より院に申さる。また丹波すでに興盛と。

7月11日 晴れ、
大外記(清原)頼業来たり、簾前に呼ぶ。
「方違い」
此の夜秋節に違はん為、御堂の宿所に参り宿す。

(方違へ:かたたがへ、陰陽道で、外出の際、天一神(なかがみ)、太白神などのいる方角を避け、行く方角がこれにあたると災いを受けると信じ、前夜別の方角の家(=方違へ所)に泊まり、そこから方角を変えて目的地へ行く)

7月12日 晴れ、巳の刻(10時)帰宅。

7月14日 時々雨下、
「盆具を送る」
三所に盆具を浄光明院(故殿)、光明院(先妣(ひ、はは))(藤原仲光女)西御堂(故女院、皇嘉門院)送る。各礼拝例の如し。

7月16日 晴れ、
「江州への院使いにつき左府・内府に諮られる」
静賢法印来たり、世上の事を談ず。院の御使いを江州へ遣わされるべきの間の事、左府(左大臣、藤原経宗)・内府(内大臣、実定)に問われる。各庁の御下文を遣わされるべき由を申さると。

7月16日 天陰雨降らず [吉記]
 源氏十郎蔵人行家と称する者、すでに伊賀の国に入(去る十四日と)り、家継法師(平田入道と号す、貞能兄)と合戦す。また三河の冠者と号する源氏、大和の国に越え入ると。薩摩の守忠度朝臣丹波の国に発向す。百騎ばかりを引率すと。

7月17日 陰晴れ不定、
「師景文書紛失」
右衛門権佐(藤原)定長来たり、召しに依りなり、師景文書紛失の間の事を申す、節境中間と雖も後の恐れのためなり。定長云う、院御使い江州へ遣わされるの間の事、
「兼実不例により諮問に漏れるという」
下官同じく問われるべき由仰せ有り。しかるに御不例に依り、無骨の由と称し、(大蔵卿、高階)泰経参らずと。この事謂われ無し。亭に来たりて之を問う。所労に依るべからず、但し此の如しの事、偏に顧問す。悦ぶべきなり。

7月18日 雨下、
「泰山府君祭」
恒例の泰山府君の祭なり。
泰山府君・・・中国山東省にある泰山の神。人の寿命・福禄をつかさどる。陰陽家や仏家で祭る。

7月19日 晴れ、
「師景文書の内天文書進上すべしとの勅報あり」
右衛門権佐(藤原)定長来たり、師景文書の間の事を仰す。先日奏聞の勅報、師景の契状に任せ、早く沙汰致すべし。それ文書正を撰び進らすべきなり、自予の書籍、汝の進止なり。そもそも文書紛失の事、早く尋ね沙汰すべし、院より御沙汰然るべからずといえり。

7月20日 晴れ、
(丹波)知康法師を召し、病の間の事を問う。仏厳上人を請い、文書の間の事を示す。

7月21日 晴れ、
「追討使兼実家の傍を経て発向す」
午の刻(12時)追討使発向す。三位中将(平)資盛(重盛の子)が大将軍と為し、肥後守(平)貞能相具し、多原方へ向かう。余の家東小路(富小路)を経たり。家僕等密々に見物す。
「其の勢僅か千騎」
その勢1080騎と、(確かに之を計ると)、日来、世の推しはかる所7、8千騎、万騎に及ぶと。しかるにその勢在るを見るに、わずか千騎、有名無実の風聞、これをもつて察すべしか。
「法皇法住寺殿に臨幸」
今夜、法皇法住寺殿に臨幸す、事火急の時、行幸有るべしの故と。
[吉記]7月21日 
 今日新三位中将資盛卿・舎弟備中の守師盛(重盛の子)、並びに筑前の守定俊等、家子を相従えたり。資盛卿雑色宣旨を頸に懸く。肥後の守(平)貞能を相伴い、午の刻ばかりに発向す。都廬三千余騎。法皇密々御見物有り。宇治路を経て江州に赴く。資盛は水干小袴を着け、弓箭を帯びると。

7月22日 朝間天陰、辰の刻(8時)以後晴れ、
卯の刻(6時)人告げて曰く、江州の武士等すでに入京、六波羅あたり物騒極まりなしと。また聞く、入京は実説に非ず。
「比叡山の僧綱下京す」
しかるに地の武士等台嶽(比叡山)に登り、講堂前に集会すと。日来登山の僧綱等併せ下京す、但し座主(明雲)一人下京せずと。無動寺法印(慈円)同じく京に下る。
「行家大和国に入り宇多郡に住むという」
また聞く、十郎蔵人行家大和国に入り、宇多郡に住し、吉野の大衆等与力すと。よって資盛、貞能等江州に赴かず、行家の入洛を相待つと。(平)貞能は昨夜宇治に泊まり、今朝多原の地に向かうと欲すの間、この事有り。よって彼の前途を止め、この入洛を相待つと。
「源行綱、平家に謀反、摂津・河内に横行」
また聞く、多田蔵人大夫(源)行綱、日来平家に属す。近日、源氏に同意するの風聞あり。しこうして今朝より忽ちに謀反し、摂津河内両国に横行し、種々悪行を張り行なう、河尻の船等を点じ取ると。両国の衆民皆悉く与力すと。
「丹波追討使大江山まで引き退く」
また聞く、丹波の追討使、(平)忠度、その勢敵対するに非ずの間、大江山まで引き帰したりと。およそ一々のこと直事に非ざるか。今日、上皇の宮に、卿相参集し、議定の事有りと。予同じくその召しに有りといえども、病により参らず。今日、、同宮に行幸有るべしの由、その議有りと雖も、復日の為に依り延引、明後日臨幸すべしと。

7月22日 [吉記]
 源氏等東坂並びに東塔惣持院に上り、城郭を構え居住すと。午の刻ばかり、平中納言(知盛)・三位中将(重衡)等勢多に向かう。共に甲冑を着け、両人の勢二千騎に及ぶと。また夜に入り按察大納言(頼盛)下向す。今夜各々山科の辺に宿すと。

7月23日
六波羅のあたり、嘆息の外他事無しと。
「法皇法住寺御所に渡御」
今旦、法皇は法住寺御所に御渡りと。世間物(?)相により。

7月23日[吉記]
 早朝、山座主明雲下洛、即院に参る、風聞いわく、衆徒等申し云う、凶徒等すでに山上に居住したり。合戦に及ぶといえり、天台仏法破滅しむに異議無しか。和平されるべしの由、仰せ下されるべしの旨、座主を以て院に奏せしむと。

7月24日 晴れ、
「法皇法住寺御所に行幸」
この一両日江州の武士台嶽に登る、今夜夜打ち有るべき風聞す。よって忽ち法住寺の御所に行幸し給う、殆ど暁天に及ぶと。
「兼実等法性寺に避難」
此の辺り恐れ有るにより、余女房相具し法性寺家に渡る。
7月24日 [吉記]
 十郎蔵人行家伊賀を超え、すでに大和の国宮河原に着くの由、別当僧正殿下に申さる。資盛卿貞能を相具し帰参すべきの由、泰経の奉行として仰せ出さると。追討を奉る者、未だこの例を聞かず。而る間猶帰洛せず。本これ宇治一坂辺に宿す。件の所より八幡南を廻り、河尻方に向かう。これ多田の下知と称し、太田の太郎頼助、或いは鎮西の粮米を押し取り、或いは乗船等を打ち破り、或いは河尻の人家を焼き払うと。この事を鎮めんが為、先ず行き向かうと。

7月25日 晴れ、
「法皇御逐電」
寅の刻(4時)人告げて曰く、法皇御逐電と。この事、日来万人の庶幾(しょき、こいねがうこと)する所なり。しかるに今の次第においては、頗る支度無しと言うべきか。子細追って尋ね聞くべし。卯の刻(6時)、重ねて一定の由を聞く。よって女房等少々山奥の小堂の辺りへ遣わし、余・法印(慈円)相共に(他の僧達と同)堂(最勝金剛院)に向かひ、仏前に候ふ。この間(参議大納言、藤原)定能卿来る、法皇の幽閉の所を尋ね出し、密々隠し置きたり。
「宗盛以下安徳天皇を奉じ淀に向かう」
巳の刻(10時)に及び、武士等主上(安徳天皇)を具し奉り、淀地の方に向かいたりといえり。鎮西に籠るに在りと。前内大臣(平宗盛)以下一人残らず。六波羅・西八条等舎屋、一所残らず、併せ灰燼に化したり。一時の間、煙炎天に満ち、昨は、官軍と称し、ほしいままに源氏等の追討せんとす。今、省等に違い、君辺土を指して逃げ去りぬ。盛衰の理、眼に満ち、耳に満つ。悲しきかな、生死有漏の果報、誰人かこの難を免れん。恐れて恐れるべし。慎みて慎みべき者なり。摂政(基通)は自然にそのわざわいをのがれ、雲林院(信範入道堂辺)方へ逃げ去りたりと。
「法皇御登山」
ある人告げて曰く、法皇御登山したり。人々未だ参らず。暫し、秘蔵有りと。
「貞能比叡山に参ず」
平氏等皆落ちたる後、貞能卿、山へ参りたり、くだんの卿に付け参入如何の由申したり。申の刻(16時)落ち武者等また帰京。あえて信用せざるの処、この事一定なり。貞能一矢射つべし由を称すと。
「平家鎮西に赴くにあたり公卿を取り具さんとす」
或るいは又、主上及び剣爾・賢所等具し奉り、鎮西に赴かんと欲するしかるに臣下無かるべからず。よって然るべき公卿を取り具さんためなりと。畏怖限り無しといえども、忽ち計略に及ばず、天を仰ぎ、運に任せ、三宝を念じ奉るの処、
「帰京の武士等、この最勝金剛院をもって城郭を構えんとすの報に接し兼実等日野に向かう」
帰京の武士等、この最勝金剛院をもって城郭を構えるべしの由、下人来て告げる。よって人を遣り見しむ処、既に少々来たり赴くると。同居すべきに非ず、追却すべきに非ず。よってあわてふためき女房少々相伴う(その残りを山奥の小堂に隠す)、日野辺り向かう処、
「木幡山」
源氏すでに木幡山に在りと。よって忽ち稲荷下社辺りに宿す。狼藉勝げて計ふべからず。しかれども社頭に参り法施を奉りたり。自然の参詣、機縁と言うべきか。この辺りなお怖れありと。よって明暁日野に向かわんと欲す。今朝この事の前、法印(慈円)白河房に帰られたり。今の間、使者を送り云う、我が房に来るべし。今夜相具し、登山を欲すといえり、路次の怖れ有りてより、行き向かわず。寄宿の家のていたらく、凡卑の至り、未曾有。身に一過無く、今この如しの難に遇ふ。宿業悲しむべし。

7月26日 晴れ、
「日野への路塞がるにより首途能わず」
払暁(あけがた)、日野に向かうを欲すの間、その道切り塞ぐにより、首途(出立)する能わず。この間昨日帰京武士等、成すこと無く、また逃げ去りたり。帰京の本意、未だその詮(ほうほう)を知らず、武勇のおう弱、所行の尾籠(無礼)、奇異の至り、例え取る物無し。
「法性寺に帰る」
辰の刻(8時)法性寺に帰る、
「貞能より書札ありて比叡山に向かう」
巳の刻(10時)(肥後守、平)貞能卿より書状を送り云う、御参りの事奉聞したり。早く御参り有るべし。入道関白(藤原基房)同じく参入される所なりと。早速出立し、未の刻(14時)登山、(鳥帽直衣(えぼしのうし))、前駆(さきがけ)・共人相並びに8人、各騎馬車の前に在り、(藤原季経、藤原経家と坂下で参会)、侍45人、申の刻終わり(17時)に西坂下に就く(九条より牛3頭なり)。手輿遅引の間、しばし経るほどに、酉の刻(18時)に輿と輿舁(よ、かき)等到来す(無動寺法印慈円の沙汰なり)。即ち輿に乗り、西坂を登る。共人皆悉く歩行す(坂口56町なお騎馬)。前駆等輿の前を歩む。
「源雅頼に出逢う」
路頭において、源(雅頼)の納言に逢う(その子息源の兼忠を相具す)。輿を据えおき、共人退け、謁談す。納言言う、神爾・宝剣・内侍所、賊臣悉く盗み奉り取りたり。左右無く平氏追討すべしの由、仰せ下さるの条、甚だ不便、先ず、剣爾安全の沙汰有るべし。よってこのむねを奏聞し、勅許有り。(右大弁、平)親宗を以て、御教書を多田蔵人大夫行綱の許へを遣わしたり。この事猶、荒沙汰なり。よって内内に女院(建礼門院)もしくは時忠卿(件卿は賊と伴なうと)の許に仰せ遣わさるべきの由、重ねて以て奏聞す。しかるべし由仰せ有りと。即ち過ぎたり。
「慈円の青蓮院の房に着す」
戌の刻(20時)に東塔の南谷青蓮院に到る。是より先、院主法印(慈円)座せられる。無動寺よりただ今渡せらると。件の房、伝嶺の後未だ渡らず。今日吉曜(吉日)の為により、即ち移徒を用いるの由談ずる所なり。
「法皇の御所に参る」
余暫し、休息の後、法皇の御所に参る(円融房、是座主の房なり)。路の間前駆等松明を取り前を行く。その程45町ばかりなり。余鳥帽子、直衣、手輿に乗る、(参議大納言、藤原)定能卿を以て見参に入る。召しに依りて御前に参り、暫し伺候(慎みてそうろう)し粗く思う所を申したり。剣爾と源氏入京の間の事なり。ただ和をそしりの怖れ有りと雖も、なんぞこれ忠在りによる、納否に於いては叡慮に在り。勅定に曰く、西海に引率さるべしを聞くにより、密行する所なりと。
「神爾紛失の事及び以仁王の事を法皇に問う」
余両条の不審を問い奉る。一は神爾紛失の事、(去る治承4年の日、盗み取られの由その聞こえ有り)、一は三条の宮(以仁王)存否の事、仰せに曰く、両事共に真偽を知らず、但し、風聞の旨、共に以て実に非ずか(爾失せず、宮存ぜざる由なり)、小時(しばらく)ありて退出したり。

7月26日[吉記]
 山僧等京に下る。路次の狼藉勝げて計ふべからず。或いは降将縁辺と称し放火し、或いは追捕物取と号す。人家一宇全うする所無し。眼前に天下の滅亡を見る。ああ悲しきかな。余の亭は此のわざわいを免れる。ひとえに仏神の冥助なり。

7月27日 天気晴れ、
風病発動により、今朝御所に参らず、
「平宗盛以下追討の事につき法皇より諮られる」
(参議大納言、藤原)定能卿来たり、また(右衛門権佐、藤原)定長お使いとなり来たりて曰く、前内大臣(平宗盛)以下追討の事、内々仰せ下されられるといえども、なお証文、給わるべし。しこうして宣旨か庁の御下文か如何、余云う、人主すでに賊に伴う、宣旨の条すでに謀書か、庁の御下文よろしかるべし、定長また云う、もし法皇の詔書となすべしか、余云う、この事大事たりといえども、摂政の詔を下さるるに似ざるかただ庁の御下文よろしかるべし、余問いて云う、剣爾の沙汰、如何に、定長曰く、主上・剣爾共に還御有るべしの由、定長御教書に書きて、主典代大江景宗に相具し、、平大納言のもとに遣わすべし、余曰く、この事甚だおう弱の沙汰か、たとえ御教書遣わすといえども、御使に於いては止められるべし、召し使い両三人の如き、差し遣わすべしか、凡そ此の剣爾のこと、別の奇謀を以てかの縁辺の人を尋ね、誘語せらるべきか、事ひそかに有るといえども、安穏に出来ること、甚だ有り難き故なり、余また言う、今においては、義仲(木曽)、行家(十郎)等、士卒の狼藉を停止、早く入京すべしか、その後早く速やかに還御あるべし、しからずば、京都の濫吹あえて止めるべからず、これらの趣早く奏聞すべし、定長帰りたり。
「法皇京都に還御」
未の刻(14時)定能告げて曰く、連々、日次無しに依りて、今日俄に還御あり、(明日は復日、明後日は御衰日、晦日に至るの条、甚だ懈怠の故なり)、
「兼実下山法性寺に宿す」
即ち以て、出御す、余御幸の後同じく山を出で、戌の刻(20時)法性寺に到る、帰忌日に依りて僧房に泊まる、法皇同じく、帰忌日に依り、蓮華王院に還御すと、今度、中堂に参るべしの由、相存ずるの処、日次宣しからざるの上、事率爾(にわか)の間、空しく、以て、下洛す、所願成就の時、この恨み散すべき由、中心より祈願したり。

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2005年10月25日 (火)

1183年 (壽永二年)6月

1183年 (壽永二年 癸卯)

6月4日
「北陸の官軍潰滅す」
伝聞、北陸の官軍悉く以て敗績す、今暁飛脚到来す、官兵の妻子等、泣き悲しむ極まり無しと。この事去る1日と、早速の風聞(うわさ)疑い有りと雖も、六波羅の気色(気持ち、気分)損ずる事と。
(注釈)
六波羅(ろくはら)・・・京都鴨川の東、五条と七条の間の土地、平家一門の居宅六波羅殿があった。
(砺波山、倶利伽藍峠の合戦のようである。)

6月5日
故女院(皇嘉門院)御月忌に依り御堂に参る、
「中原有安北陸の官軍敗亡の子細を語る」
前飛騨(岐阜県北部)の守中原有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びる武士僅か45騎許り、その外過半死傷、其の残り皆悉く物具を棄て、山林に交わり、大略その鋒(ほう)を争う甲兵(こうへい)等、併せ以て切り取られたりと。平盛俊、平景家、藤原忠経等、(以上三人はかの家第一の勇士なり)、各小帷(とばり、たれぎぬ)に前を結びて、本鳥(もとどり)を引きくだして逃げ去る、希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の体直事に非ず也。誠に天の攻めを蒙(こうむ)るか。敵軍は纔(わずか)五千騎に及ばずと、かの三人の郎等・大将軍等、権盛を相争うの間、この敗有りと。
「官軍敗績の事につき院評定あり」
今日院より召し有り、北陸官軍敗績の事定められる為なり、しかるに病と称し参らず。重からずと雖も、稠人(多くの人、衆人)の出仕の故及ばざる故なり。
(注釈)
鋒(ほう)・・・ほひさき、きっさき。
甲兵(こうへい)・・・よろいをつけた兵士。
稠人(ちゅうじん)・・・多くの人、衆人。

6月6日
「官軍敗績後の事計申すべき旨院より仰せられる」
大蔵卿(大蔵省長官)泰経卿、院のお使いとなり来る、疾を扶ち之に謁す、仰せ云う、北陸官軍等空しく以て帰洛す、此の上何様行われるべきやといえり、申し云う、百千万の事叶うべからず、只天下落居の時、徳化を施すべしの由、法皇叡慮より起り、御願い立たれるべし、この外の他の計、一切叶うべからずといえり。

6月6日 己亥 朝雨下る [吉記]
「敗軍等今日多く入洛」
 未の刻(14時)ばかりに建礼門院に参る。北陸の事驚き存ずるの由、前の内府方に示し入る。朝(庭)の大事に依ってなり。延暦寺に於いて、千僧御読経を行わるべし。奉行すべきの由、左大弁これを談る。追討使の間の事、人々に仰せ合わさるべし。左府(左大臣、藤原経宗)去夕参られ、今日書き進すべきの由これを申さる。右府(右大臣)所労を申さる。仍って大蔵卿彼の亭に参向す。内府(内大臣実定)今日参らるべし。堀河大納言所労を申さる。梅小路中納言今日参上すべきなり。広く及ぶべきの由先ず議有りと雖も、止めらると。敗軍等今日多く入洛すと。

6月7日
祇園御輿迎え例の如しと。
(注釈)
祇園会(ぎおんえ、八坂神社祭礼、6月7日から14日)

6月8日
「物気を渡す」
今日より物気を渡す。病厚きに依りてなり。
(注釈)
物気・・・

6月9日
「関東・北陸の乱逆につき兼実の申し状」
大蔵卿奏経卿先日示す申し状、注送すべしの由を示す。よって注し遣わしたり、其の状此の如し。
「関東・北陸乱逆の間事鎮められるべき間の事。
重ねて追討の事。
征討の謀、将帥(将軍)の最(一番すぐれていること)なり、かの議奏の趣について、重ねて評定に及ぶべしか、但し仰せ下さるる如くば、士卒其の力追討に疲れ、忽ちに叶ひ難しと。
「伊勢・近江に辺将を置き中夏を守るべし」
もし然らば、伊勢(三重県)・近江(滋賀県)両国に各辺将を置き、中夏(諸国の中央)を守るべきか。
「仁恵を施さるべし」
神社仏寺及び諸人の領、或いは事を武威に寄せ、無道を以てこれを押領す。或いは力を権勢に仮り、非拠を以てこれを奪取す。ただに仏意神意の恐れのみにあらず。そもそも叉衆庶万民の愁いなり。(略)
「二十二社に奉弊せらるべし」
神事の御祈りの事、(略)
「最勝王経勤行すべきか」
仏事の御祈りの事。(略)
「海内和平の時徳化を施さるべく御願を立てらるべし」
御願いを立てられるべき事。(略)

6月12日 天霽(はれ) [吉記]
「近江の国庄々の兵士を催さる」
 風聞に云く、近江の国(滋賀県)の野・海・山を守護せんが為、当国庄々の兵士を催さる(集める)。蔵人の佐定長これを奉行す。また北面(院の御所の北面で、警備の武士)に祇候(しこう)するの輩、堪否を論ぜず、東海道に下し遣わすべし。一人も漏るるべからざるの由沙汰有りと。 叉前内府(宗盛)家人五位上官嫌わず催さる。また肥後(熊本県)の守貞能数万の兵を率い、すでに都賀辺に着くと。
(注釈)
北面(ほくめん)・・・北面の武士、院の御所の北面で、警備の武士。
祇候(しこう)・・・つつしんでおそばに奉仕すること。

6月13日 陰晴不定 [吉記]
「源氏等すでに江州に打ち入る」
 源氏等すでに江州(近江、滋賀県)に打ち入る。筑後の前司重貞単騎逃げ上ると。

6月18日 天陰雨降らず [吉記]
「肥後の守貞能今日入洛す」
 肥後の守貞能今日入洛す。軍兵纔(わずか)に千余騎と。日来数万に及ぶの由風聞す。洛中の人頗る色を失うと。

6月21日 去夜より雨降り [吉記]
「賊徒の事に依って、山稜使を立てらる」
 関東・北陸賊徒の事に依って、山稜使を立てらる。上卿平大納言(時)、行事右少弁
兼忠。柏原(桓武)、新中納言(頼實)。圓宗寺(後三條院)、源宰相中将(通親)。成菩提院(白川院)・安楽寿院(鳥羽院)、藤三位(雅長)。清閑寺(高倉院)、右中弁(親宗)等なり。先ず日時使等を定められる。
(注釈)
山陵使(さんりょうし)・・・山陵(みささぎ)に告げる使い。

6月29日 日中降雨 [吉記]
「洛中上下騒動」
 世口嗷々(ごうごう)驚かず。洛中上下東走西馳す。馬に負い車に積み雑物を運ぶ。静巖已講(いこう)只今下洛示し送りて云く、日来江州に入る源氏ハ末々の者なり。木曽の冠者すでに入りたり。但し叡山衆徒相議(悪僧に於いては皆源氏に同ず。これ中堂(ちゅうどう)衆等なり。去る頃北陸道より帰山す)し、源平両氏和平有るべきの由、僧綱已講を以て奏聞せんと欲す。この事もし裁許無くんば、一山源氏に同ずべしと。その時もし猶入洛のよし有るかとこの条尤も可なりと。
(注釈)
嗷々(ごうごう)・・・口やかましいさま。
已講(いこう)・・・天台宗などの学階の一。
衆徒(しゅと)・・・僧兵。
悪僧(あくそう)・・・武芸にすぐれた僧。
中堂(ちゅうどう)・・・比叡山の根本中堂、
堂衆(どうしゅう)・・・寺院の諸堂に付属する僧。

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2005年10月24日 (月)

1183年 (壽永二年)5月

1183年 (壽永二年 癸卯)

5月1日
「官軍越前に攻め入る」
伝聞、去る月26日官軍越前国(福井県東部)に攻め入ると。

5月3日
「軒廊御卜」
軒廊の御占いありと。鴨御祖社羽蟻出来たる事と。
(注釈)
軒廊(のきろう)・・・正殿に付属する小部屋。
鴨御祖社(かものみおやしゃ)・・・今の下賀茂神社。
羽蟻・・・はあり。シロアリ。

5月4日
「公卿勅使帰参」
公卿勅使帰り参ると。

5月5日
「皇嘉門院月忌」
月忌に依り御堂に参る。
「円宗寺御八講始まる」
この日円宗(天台宗)寺御八講始めなり。上卿参らず。右少将兼忠参りてこれを行うと。
(注釈)
皇嘉門院・・・崇徳天皇の皇后、藤原忠通の長女。

5月12日
「官軍加賀に攻め入る」
伝聞、去る3日官軍加賀国(石川県南部)攻め入りて合戦し、両方死傷の者多しと。

5月15日
「佐保山陵使を立てらる」
今日佐保(さお)山陵(みささぎ)使を立てられる。東大寺大仏焼け損じ、並びに近日修補の事を謝し申さると。上卿大納言宗家卿、参議親宗卿、使座に参着し、先ず時日を定めらる(今日すでに2点)大内記光輔宣命使を進らす。参議親宗朝臣、前和泉(大阪府南部)守季長朝臣(四位)等参向すと。蔵人(くらんど)二人叙爵(じょしゃく)すと。
「院供花」
院の供花例の如しと。
(注釈)
山陵(みささぎ)・・・天皇・皇后の墓所。山陵、御陵。
蔵人(くらんど)・・・くろうど、蔵人所(宮中の雑事)の職員。
叙爵(じょしゃく)・・・始めて従五位下に叙せられること。

5月16日
「官軍越中にて源義仲等と戦い大敗す」
去る11日官軍前鋒、勝ちに乗り越中国(富山県)に入る。木曽冠者義仲・十郎蔵人行家及び他の源氏等迎え戦かう、官軍敗績し、過半死にたりと。
「月食」
今夜月蝕(皆既)。内裏(だいり)に於いて御読経を行はる。上卿は実家卿と。
(注釈)
内裏(だいり)・・・天皇の住居、御所、皇居。

5月17日
「八幡奉弊使を立てらる」
この日八幡の奉弊使を立てられ、東大寺の大仏焼け損じ、並びに近日修補の事を告げ申さるるなり。上卿権大納言実房卿、先ず日次の定めあり。大内記光輔宣命の草を進らす。行事の弁は右少弁兼忠、使は権中納言実宗卿と。
(注釈)
奉弊使・・・勅命によって奉幣を神社などに奉献する使者。

5月19日
「最勝講初日」
最勝講始日なり。摂政(基通)及び内大臣(実定)巳下参入すと。右大将(良通)参入す。
「賑給定」
この日実房卿仗座(じょうざ)に着き、賑給(しんきゅう)使の事を定め申すと。
「東大寺大仏仏面を鋳造す」
叉今日東大寺の大仏の面を鋳奉ると。
(注釈)
最勝講・・・最勝王経を講説させて国家の安泰を祈る。
賑給(しんきゅう)・・・貧民にほどこして、にぎわすこと。

5月21日
今日、院の御所に於いて、五壇の法、征討の御祈りを始め修せらると。
(注釈)
五壇の法(ごだんのほう)・・・密教の兵乱鎮定などを祈願する修法。

5月22日
早朝、艮(うしとら、北東)方赤雲あり。その体紅旗に似たりと。
「減服御常膳詔」
この日、忠親卿仗座(じょうざ)に着き、減服御常膳の詔(みことのり)の事を行はる。頭中将隆房これを仰す。大内記光輔詔書を進らせ、摂政(基通)御書を加ふと。中務少輔兼親に下し行いたり。
「位記請印」
その後家通卿陣に着き、位記(いき)請印(しょういん)を行う。
(注釈)
減服
御常膳
詔(みことのり)・・・天皇のことば。
頭中将(とうのちゅうじょう)・・・近衛の中将と蔵人所の蔵人頭を兼任。
中務(なかつかさ)・・・中務省(なかつかさしょう)、天皇の側近に侍従する。
輔(すけ)・・・省の次官。
位記(いき)・・・叙位(官位を授ける)の旨を記して天皇が授与する文書。
請印(しょういん)・・・規定の文書に内印(天皇の印)または外印(げいん、太政官の印)を押すこと。

5月23日
「最勝講終わる」
最勝講終わりなり。右大将(良通)参入す。事終わり後参入す。不敵(適?)なり。但し申の刻(16時)以前夕座終わりたり。摂政(基通)今夜方違えあるべきに依り急ぎ行はると。頗る過法か。
(注釈)
夕座・・・夕方設けられる読経などの座。
方違え(かたたがえ)・・・陰陽道の俗信、出かけるとき、良い方角の家に一泊して方角をかえて行くこと。

5月29日
「内侍所三ケ夜臨時御神楽」
今夕より三ケ夜内侍所に於いて神楽行われ、征討の事、並びに治承四年摂州に渡し奉る事を祈請せらると。
(注釈)
内侍所(ないしどころ)・・・紳鏡をまつってある所。
神楽(かぐら)・・・神社で神をまつるために奏する歌舞。
摂州・・・摂津、今の大阪府、兵庫県の一部。
祈請(きせい)・・・神仏に祈り請う事。

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2005年10月23日 (日)

1183年 (壽永二年)4月

1183年 (壽永二年 癸卯)

4月1日
「平座」
平座(ひらざ)、上卿(しょうけい)は権中納言(藤原)家通と。恒例により春日朔弊(さくへい)、午上神斎例の如し。
(注釈)
平座(ひらざ)・・・天皇が出御しないときの略儀。床に着座。
上卿(しょうけい)・・・政務・儀式を指揮する公卿
春日(かすが)・・・春日神社(奈良市春日野町)
朔弊(さくへい)・・・国司が朔日(一日)に奉弊(ほうへい)
奉弊(ほうへい)・・・神に幣帛(へいはく)をささげること。
幣帛(へいはく)・・・神にさしあげる物の総称。
午上(うま、うえ)・・・午(昼12時頃)、2時間の始めの40分
神斎(神祭?)・・・神道の法式によって行う祭り。

4月2日
大将(九条良通、兼実長男)亭に行き向かう。その間(大夫史、小槻)隆職宿祢来ると、来る5日任大臣(の儀式)一定と、響禄を儲けるべからずに依り、兼ねて宣旨有るべからずと、
「平野祭」
この日平野祭り(平野神社、北区にある)、(権中納言藤原)家通宣命を奏す、木工頭(平)棟範を使わしむと、
(注釈)
任大臣(にんだいじん)・・・大臣に任ぜられること。

4月3日 天気晴れ、
中御門大納言(藤原宗家)・宰相(参議)中将(藤原定能)等来る、
「良通催馬楽を習う」
大将(九条良通、兼実の長男)催馬楽(さいばら)(庭生)を、亜相(大納言実定)に習う、(藤原、女房の兄弟)定能卿密に語り云う、今度の中納言、三位中将藤原頼実任ずべしと、二位中将(兼房、兼実の兄)の為実に哀れな事也、左右能わずと、去年の春すでに、任せられるを欲す、時に臨み改易(かいえき)す、今他人を補せられる、運報の至り左右する能わざるか、先日(藤原)定長に付け示す。然れども未だ申し達せざるか。
「二位中将兼房兼実に遺恨あり」
凡そこの人、余に殊に遺恨有り。敢えて会釈無し、然れども、家を憶ふに依り、再三推挙を取る。許容無しの条、又愚兄の過失に非ざるのみ、
「兼実大臣を良通に譲る由世間謳歌す」
定能又語り云う、余(右)大臣を大将(良通)へ譲るべしの由、世間謳歌し、一定の由遍く申さしむと、この事許容有るべくば、尤も大望なり。去年奏聞すと雖も、丞相(左右大臣)辞退の事すでに以て許さず。殆ど逆鱗(げきりん)に触れる、況や譲与の条、更に叶うべからず。よって申し出ずの処、世の推す所、大将の丞相(大臣)すでに仁に当たるか、退いて猶思慮を加え左右すべし。猶年齢幼少なり、今一両年相待つべしか、今年厄が重なるなり、旁(かたはら)謙譲すべしか
「梅宮祭」
今日梅宮祭、上卿中納言(平)頼盛卿。
(注釈)
宰相(さいしょう)・・・参議
亜相(あしょう)・・・大納言
催馬楽(さいばら)・・・平安の歌謡
改易(かいえき)・・・官職をやめさせて他の人に代わらせること。罷免。
逆鱗(げきりん)・・・天子の怒り。
丞相(じょうしょう)・・・大臣の異称
梅宮(うめのみや)・・・京都市右京区楳津

4月4日 雨下る、
弥勒講に依り御堂に参る、今日(今旦陽広)仏厳聖人来る、法文の間の事を示す。
「任大臣大饗なし」
今日任大臣なり、大響(たいきょう)無し、希代の例なり、
「藤原実定を内大臣に任ず」
内大臣藤実定。
大納言実房、(正に転ずるなり)、権大納言平頼盛、
中納言藤成範、朝方、平教盛、(巳上正に転ずるなり)、
権中納言藤頼実、参議藤脩(しゅう、おさ)範、
今日の儀、大外記(太政官の6等級)(清原)頼業注進の状此の如し。
(注釈)
大響(たいきょう)・・・盛大な饗宴

4月5日 朝より雨降る、申の刻(16時)止む、
「大外記頼業注進状」
今日任大臣(にんだいじん)の事有り、先ず左相府(左大臣、経宗)大外記頼業を召し、任大臣の事有るべし。所司を召し仰すべきの由を仰す、未の刻(14時)権大納言実房卿・新権中納言家通卿、参議親宗朝臣、仗座(陣座、じんのざ)に着く、蔵人頭左近中将(藤原)隆房朝臣陣に出て、内弁(首席)の事を仰す。上卿(しょうけい、政務・儀式を指揮する公卿)外座へ移るの後、更に進み宣命の趣を仰す。(内大臣藤原実定、大納言同実房、権大納言平頼盛、中納言藤成範、同朝方、平教盛、権中納言藤頼実、参議同脩範、)即ち大内記業実を召しこれを持ち仰す、上卿(経宗)弓場代に進み、隆房朝臣宣命を奉したり。権大納言忠親卿・権中納言実家卿・家通卿・参議経房卿・親宗朝臣外弁(げべん)の座に着く、(降雨に依り中門外南腋(わき)に座を設く)少納言有家・外記・史以下これに着く、(弁遂に着座せず)仗に近く階下に陣す、(左中将平清経朝臣中門内の南腋に立つ、右少将顕家朝臣西腋廊内に立つ)。
「内弁実房」
内侍(ないし)東檻(かん、おり)に臨み、内弁実房卿殿に昇り舎人(とねり)を召し、少納言有家進みて版(へん)に就く(中門内北腋)。内弁の宣を承りこれを召す。権大納言忠親卿以下は中門内の北腋に列立す(弓場代北第二間)。内弁経房卿を召して宣命を給わる。内弁列に復する後宣制すと云う、内府(実定)大宮白河御所を申請しおはせらる。饗禄無し。又勅使無しと。
(注釈)
仗座(じょうざ)・・・陣座、じんのざ、朝廷の公事の座席。
内弁(ないべん)・・・首席の公卿。
外弁(げべん)・・・第2位の公卿。
内侍(ないし)・・・内侍司(ないしのつかさ)の女官。
舎人(とねり)・・・下級官人。
版(へん)・・・目印の板。
饗禄(きょうろく?)・・・酒食のもてなし、任官するものに下付される給与。
勅使(ちょくし)・・・天皇の意思を伝達するため派遣される特使。

4月6日 天陰
「内府家(藤原実定)に慶賀を遣わす。」
(藤原)基輔朝臣を以て内府(藤原実定)家に遣わす。慶賀の事を示す。出行の間、示し置き云う。直ちに帰りたりと。

4月8日 
「灌仏」
灌仏会(かんぶつえ、釈尊の降誕を祝う)は常の如し。

4月9日 
「祭除目」
この日祭りの除目行われると。上卿家通卿、参議(藤原)泰通朝臣と。
「大将還宣旨」
叉内大臣(実定)が大将の還り宣旨を仰せらる。大外記頼業仰せを奉ると。
「北陸征討の事を祈り申す」
今日北陸征討の事に依り、太神宮以下祈り申されると。伊勢以下十六社。神祇官(じんぎかん)人等各籠もり参る、五日祈り申すと。
(注釈)
神祇官(じんぎかん)・・・神祇をつかさどる。

4月10日 
「除目聞書を披見す」
除目聞書を披見す。耳目を驚かす事、先々に超過す。中務少輔(源)兼親、(この事下官推挙すべしの由再三申しむ、不当に依り執り申さず、しかるに寵臣の女房(成房の妻)につき奏達すと)、少将(藤原)宗長、(刑部卿頼輔の孫、豊後前守頼経の子、近日の寵臣と)三品両人(源顕信・藤原季能)等、未曾有の事なり。凡そ末代の人、官位の望み、敢えて其の詮無しの事か。弾指すべし、弾指すべし。

4月13日
「賀茂祭警護」
武者の郎従等、近畠を刈り取るの間狼藉と。警護の上卿(しょうけい)(中納言藤原)実宗卿と。
(注釈)
狼藉(ろうぜき)・・・乱雑なさま、理不尽に他を犯すこと、乱暴、暴行。
上卿(しょうけい)・・・政務・儀式を指揮する公卿

4月14日 雨下る、
「武士等狼藉」
武士等狼藉昨の如しと、凡そ近日の天下この事に依りて上下騒動す、人馬雑物、眼路に懸かるにより横に奪ひ取る、
「平宗盛に訴えるも止まず」
前内大臣(平宗盛)に訴えると雖も、成敗する能わず、制止有りと雖も、更に以て制法に拘わらずと。他所の事に於いては知るべからず、近辺の濫吹太だ畏怖有り、仍って前内大臣の許に示し遣わす。制止すべしの報有りと雖も、更に其の終始無し、実に悲しむべき世なり。
(注釈)
濫吹(らんすい)・・・秩序を乱すこと。乱暴、狼藉。

4月15日
「賀茂祭」
賀茂祭(かもまつり)なり。内蔵助清科重栄、右近少将藤成定、右馬権助朝房、皇后宮大進(だいしん)親雅等供奉すと。
(注釈)
賀茂祭(かもまつり)・・・京都の賀茂神社の祭り。
内蔵助(くらのすけ)・・・内蔵寮(くらりょう)の次官
内蔵寮(くらりょう)・・・天皇の宝物や日常用品の調達などの役所。
右近(うこん)・・・右近衛府(うこんえふ)の略、近衛府(このえふ)の一つ。
近衛府(このえふ)・・・皇居警備などの武官の府。長官は大将、次官は中将・少将。
右馬助(うまのすけ)・・・右馬寮の次官
権(ごん)・・・定員外の権(かり)の地位
右馬寮(うまりょう、めりょう)・・・官馬の役所
大進(だいしん)・・・中宮などの判官のうち上位のもの)
供奉(ぐぶ)・・・ともをすること

4月16日
「解陣」
解陣なり。忠親卿これを行う。頭中将隆房巳下直列すと。
(注釈)
解陣・・・臨時の警護の陣を解くこと。

4月17日
時忠卿着陣、左大弁経房、右少弁兼忠等、申文(もうしぶみ)ありと。
(注釈)
申文(もうしぶみ)・・・下位の者から上位の者へ申し上げる文書。

4月18日
「吉田祭」吉田祭なり。上卿権中納言家通卿。
(注釈)
吉田・・・吉田神社、京都市左京区吉田神楽岡町

4月19日

4月20日
「公卿勅使定」
公卿勅使の定め。上卿宗家卿、五位蔵人親経奉行、右中弁光雅行事の弁たりと。今日大内記光輔を召し宣命の趣を仰す。勅使参議通親卿、殿上に参り仰せを承る。宸筆(しんぴつ)宣命の草、文章博士(もんじょうはかせ)光範これを承ると。
(注釈)
奉行(ぶぎょう)・・・命により行事を執行すること。
弁・・・弁官、太政官の職、左右、大・中・少がある。
内記(ないき)・・・宣命の起草などの記録。大・中・少あり。
宸筆(しんぴつ)・・・天子の直筆の手紙
文章博士(もんじょうはかせ)・・・大学の詩文と歴史の教授

4月21日 晴れ
「石清水臨時祭」
石清水臨時祭なり。左近権中将平清経使いとなる。権大納言宗家宣命を奏す。去る月穢れ気に依り延引の由の辞、別に載せられると。右大将(良通)参入す。
(注釈)
石清水(いわしみず)・・・石清水八幡宮
穢(わい、けがれ)

4月22日
「平頼盛拝賀」
今日、余院に参る。この日権大納言頼盛卿拝賀と。

4月23日
「征討将軍発向」
征討将軍等、或は以前に、或いは以後に、次第に発向、今日皆おわりたりと。

4月24日 
この日堂に向かう。賀茂幸平来る。切り立ちの事あり。大将(良通)の命に依るなり。女房等行向かう。

4月25日 
「神宮穢疑につき御卜行わる」
神宮穢れ疑いあり。公卿の勅使延ぶべきや否や御占いあり。蔵人宮内少輔親経、官寮を中門辺りに召し、これを占い申さしむと。官吉の由を申し、寮快からざる由を申すと。
「平宗盛に頼朝・信義追討を仰す」
又左大臣(経宗)左中弁兼光朝臣に仰せて云う、源頼朝・同(武田)信義等、東国・北陸を慮椋し、前大臣(平宗盛)に仰せ、追討せしむべしといえり。
(注釈)
摂政(せっしょう)・・・君主に代わって政務を行う。

4月26日 晴れ
「伊勢公卿勅使進発す」
今日公卿の勅使進発す。上卿宗家卿、使宰相中将通親卿、摂政(基通)宸筆の宣命を清書す。但し摂政神祇官に参らず。上卿巳下参向発遣す。御願いの意趣、今年御厄(やく)、並びに近日の異変、及び追討等なりと。

4月27日 雨下る。
「摂政内舎人隋身を辞す」
今日、摂政内舎人(うどねり)の隋身を辞する表を上らる(兼光これを作り、親雅これを書く)忠親卿勅使の事を行う。大内記光輔これを作る。表の使い右少将成定、勅答使左中将通資朝臣と。その後吉書あり例の如し。
「内大臣実定拝賀」
内大臣(実定)の拝賀、扈(こ、したがう)従公卿大納言実房、中納言実家、実宗、参議経房等と。
(注釈)
内舎人(うどねり)・・・天皇の雑役や警衛。
表(ひょう)・・・臣下から天子に奉る文書。
勅答(ちょくとう)・・・天皇が臣下に答える。
勅答使・・・勅答を伝達するために遣わされる使者。

4月29日 
「蹴鞠(けまり)」
この日堂に向かう。少将親能(定能卿息、生年15歳)来たり蹴鞠。容貌美麗、また堪能たり。尤も歎美するに足る。

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2005年10月22日 (土)

1182年 (壽永元年)10月11月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

10月9日 「吾妻鏡」
「城の四郎永用と木曽の冠者義仲と合戦」
 越後の住人城の四郎永用、兄資元(当国守)が跡を相継ぎ、源家を射奉らんと欲す。仍って今日、木曽の冠者義仲北陸道の軍士等を引卒し、信濃の国築磨河の辺に於いて合戦を遂ぐ。晩来に及び、永用敗走すと。
(横田河原の合戦のようであるが、玉葉、吉記と比較しても、ミスのようである。)

11月17日 天晴 
「太神宮の禰宜等東国に同意する風聞」
 権右中弁行隆、院の御使として来たり云く、太神宮(伊勢)の禰宜(ねぎ、神主の下の神職)等東国に同意するの由風聞有るの條、尋ね問わる文書此の如し。罪科有るべきや否や。計らい申すべしといえりと。
(余申して云く、縦え祭主と雖も、謀叛に同意するの者、爭でか沙汰無きや。但し此の如き浮説、これ文書の如きは、慥に証拠見えざるか。猶嫌疑の者に尋ねられ、所犯の実に随い、沙汰有るべきか。)

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2005年10月21日 (金)

1182年(壽永元年)7月8月9月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

7月28日 丙申 時々雨降る [吉記]
「宗盛の家来が東国へ逃げる」
 伝聞、前の馬の允(じょう、四等官)行光(三條宮侍専一の者なり)・前の瀧口(実名を知らず。馬大夫式成男、重衡卿侍)・上野の国住人奈越の太郎家澄等(当時前の大将の許に祇候す)、都廬五十人ばかりの者、二十三日出京し坂東に赴く。近江の国高島に於いて成すこと無く搦め留めらる。或いはまた逃げ下ると。

瀧口・・・滝口の陣の宮中の警衛の武士

7月29日 丁酉 天晴 
「宗盛の家来が東国へ逃げる」
 早旦、全玄僧正来たり。大将を訪うなり。語りて云く、前の幕下(宗盛)年来召し仕う所の侍両三人、引率し東国に逃げ去る。三條宮の子宮を具し奉ると。而るに路頭に於いて、皆悉く搦め留められたりと。また或る人云く、讃岐(さぬき、香川県)の前司重季北陸道に向かいたり。事もし実ならば、左右に能わざる事なり。

8月19日 丁巳 天霽 [吉記]
「追討使近江の国叶い難き」
 左中弁藤原光長語る、何ぞ況や追討使下向の者、近江の国の勤めいよいよ叶い難きか。

8月20日 [吉記]
「伯耆の国成盛基保と合戦す」
 風聞に云く、伯耆(鳥取県の西部、伯州)の国住人成盛(海六と称す。先年基保の為滅亡せらる者なり)と基保(小鴨の介と称す)と合戦す。基保追い落とされ、死者幾千を知らず。出雲(いずも、島根県東部、雲州)・石見(いわみ、島根県西部、石州)・備後(広島県の東部)等の国々与力すと。

8月25日 雨下る 
「北陸道の追討使また猶予」
 伝聞、北陸道の追討使また猶予出来す。毎事ただ支度の沙汰無きか。不便々々。

9月15日 「吾妻鏡」
「木曽義仲追討軍京都に帰る」
 木曽の冠者義仲主を追討せんが為北陸道に発向する所の平氏の軍兵等、悉く以て京都に帰る。すでに寒気に属き、在国難治の由披露を成すと雖も、真実の躰、義仲が武略を怖るが故なりと。

9月20日 [吉記]
「北陸の賊徒すでに江州を掠領せんとす」
盛職江州より脚力を上げて云く、北陸の賊徒すでに江州を掠領せんと欲す。若州(わかさ、福井県西部)閑かならずと。

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2005年10月20日 (木)

1182年 (養和2年)4月、5月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

4月15日 朝間、大雨大風 
「法皇御登山の間洛中の武士騒動」
 早旦、天下騒動の事出来す。以ての外謬事の故、この事出で来たる有るか。昨日、法皇御登山の間、山僧等法皇を盗み取り奉るべき由、今旦その告げを得て、洛中の武士騒動す。忽ち数多の騎を率い、坂下に向かう。僻事に依って空しく帰りたり。

4月19日 
「十五日の浮言は全玄僧正か」
 伝聞、十五日の浮言、全玄僧正前の大将(宗盛)に告げるの由風聞す。山僧等大に欝し、件の僧正を払わんと欲すと。大いに由無き事か。

5月11日 雨下る 
「菊池貞能の許に帰降」
 伝聞、菊池が貞能の許に帰降し来たると。西海の安穏。天下の悦びか。

5月27日 丙申
「壽永と改元さる」
 改元、養和二年を改め、壽永元年と為す。この日改元なり。左大将上卿(実定)、公卿七八人ばかり参入す。壽永(俊経卿撰び申すと)を用いらる。改元全く物の用に叶うべからざる事か。

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2005年10月19日 (水)

1182年 (養和2年)2月、 3月

1182年 (養和2年、5月27日改元 壽永元年 壬寅)

2月

2月22日 天晴 [吉記]
「人人を食う事実無し」
 伝聞、五條河原の辺、三十歳ばかりの童死人を食うと。人人を食う、飢饉の至極か。定説を知らずと雖も、珍事たるに依って、なまじいにこれを注す。後聞、或る説に、その実事無しと。

2月25日 雨降る [吉記]
「北陸道追討使下向すべし」
 平中納言(頼盛)示す、菊池高直亡び落ちたり。城中大火焼死の由風聞す。後聞、すでにこれ無実なり。蔵人少輔示し送りて云く、新平中納言(知盛)北陸道を下向すべし。追討使たりと。

3月

3月12日 天晴 
「頭の弁親宗院の御使として宗盛第に向かう」
夜に入り人伝えに云く、今日午の刻(12時)ばかりに、頭の弁親宗朝臣、院の御使として前の幕下(平宗盛)の第(やしき)に向かう。(何事か知らず)
「宗盛親宗を責める」
大将人を以て親宗に示して云く、天下の乱、君の御政の不当等、偏に汝の所為なり。故禅門(平清盛)は、遺恨有るの時、直にこれを報答す。宗盛に於いては、尋常を存じ、万事存ぜざるが如く、知らざるが如し。仍って事に於いて面目を損ず。頗る怨み申す所なりと。
「親宗門を閉じる」
親宗迷惑す。逐電し退出の後門戸を閉めたりと。

3月17日 天晴 [吉記]
「兵粮米徴収を検非違使庁の遣いに託す」
近日諸国の庄々「兵粮米」重ねて苛責有り。使庁の使を付けらるべき由、院宣を下さる。行隆朝臣沙汰なり。上下色を失う事か。

3月19日 天晴 [吉記]
「道路に死骸充満」
道路に死骸充満するの外他事無し。悲しむべきの世なり。

3月21日 天晴 [吉記]
「北陸鎮西戦況の風聞あり」
風聞に云く、筑後の前吏(源)重貞脚力を上ぐ。謀反の源氏等すでに越前の国赴きたりと。肥後の脚力到来す。菊池未だ落とされず。(平)貞能の管国公私物を点定するの外、他の営み無しが如しと。訴えるに所無きを謂うか。

3月25日 陰晴不定 [吉記]
「強盗・火事連日連夜」
今夜火有り。押小路高倉なり。近日強盗・火事連日連夜の事なり。天下の運すでに尽きるか。死骸道路に充満す。悲しむべし悲しむべし。

3月30日 天晴 [吉記]
「追討使貞能肥後の国国務を押領す」
肥後の国目代久兼が脚力来たり。追討使貞能すでに国務を押し取り、目代を逐い出したりと。当世の法驚くべからざるか。

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2005年10月18日 (火)

1181年 (養和元年) 11月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

養和元年 11月

11月12日 天晴 
「関東の賊、入洛すべからず」
 伝聞、大将軍方を憚るに依って、年内関東の賊、入洛すべからず。節分以降、左右無く入洛すべしと。

11月20日 天霽 [吉記]
「北陸道追討使通盛帰京すと」
 北陸道追討使中宮の亮通盛朝臣以て帰京すと。

11月25日 雨下る 
「中宮職院号定めなり建礼門院」
 この日、中宮職院号定めなり。左大臣・左大将已下公卿十許輩参陣すと。女院の儀、進表に依って、全く別事無し。建礼門院と号し奉ると。

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2005年10月17日 (月)

1181年 (養和元年)10月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

10月4日 天晴 
「平氏諸国追討に赴く」
 伝聞、来十一日、知盛・清経等越前の国に向かうべし。重衡東国(東海道・東山道)に赴くべし。維盛昨日近江の国に下向す。これ猶北陸道を襲うべきの手と。頼盛卿、紀伊の国に下向すべしと。

10月6日 
「東海道・東山道武士等出来す」
 伝聞、海道・山道、共に奥より、武士等出来するの由風聞すと。

10月10日 天晴 
「越前等の武士路を開くは謀によるか」
 或る人云く、越前・加賀等の武士、切り塞ぐ所の路を開く。国内無人と。若くは官兵を引き入るべきの謀か。還って怖れ有るの由、人々云いせしむか。明日官軍の下向延引す。来十三日と。先日定めらる所の手々相違し、知盛卿以下下向せずと。北陸道、知度・清房(以上故禅門子息等なり)。この外、重衡卿・資盛朝臣等、野宇美越に同じく北陸に向かうべしと。維盛・清経等の朝臣、海道・山道を兼ねるべし。頼盛卿息二人、熊野方を襲うべし。前の幕下(宗盛)・教盛・頼盛・経盛等、洛中を護るべし。已上の勢、相並び五六千騎に過ぎず。而るに手々に相分ち、各々行き向かわば、京中の武士僅かに四五百人か。頗る恐る所無きに非ずと。

10月11日 陰晴不定 
「熊野行命法眼伐落とさる」
 伝聞、熊野の行命法眼(南法眼と称す。熊野の輩の中、ただ一人官軍に志有る者なり)、上洛せんと欲するの間、散々伐ち落されたり。僅かに身命を存すと雖も、子息郎従一人残らず伐ち取られたり。その身山中に交わると雖も、安否猶不定と。これ志賀在庁の者の所為と。今に於いては、熊野方一切異途無く一統したりと。また聞く、追討使等、今日の下向延引す。来十三日猶未だ一定せずと。越前の国無人の由聞こえ有り。謬説と。殆どその勢数万に及ぶの由、今日逃げ上る所の下人、談説せしむと。

10月13日 陰晴不定 
「追討使等下向延引」
 今日、追討使等下向すべしと。而るに延引す。来十六日と。伝聞、吉野の法師原、高野(庄論の由を称す)に向かうべきの旨、風聞を成す。その実、南都に打ち入り、平家の郎従等を誅伐し、その後入洛すべきの由謳歌す。この條、実否を知らずと雖も、衆徒蜂起に於いては一定と。

10月16日 天晴 
「藤原秀衡官軍方に候ずるという」
 或る人云く、貞能鎮西を平らぐの輩を召し具し、上洛すべしと。また秀平の許に遣わす所の大宮亮、使者を献じ、秀平官軍方に候すべきの由、領状(承諾する旨を記した書状)を進すと。

10月27日 陰晴不定 
「頼朝上洛すという」
 或る人云く、頼朝必定すでに上洛を企て、去る二十一日尾張保野宿に付くべきの由と。然れども、両三日延引か。いかさまにも入洛は決定、竹園(皇族の雅称)に於いては、相模の国に留め奉る。上総の国住人廣常(介の八郎と称す)を以て守護し奉ると。行家すでに尾張国内に入ると。また聞く、北陸道去る二十四日襲い攻めんと欲す。然れども、無勢に依ってまた延引す。年内合戦に及ぶべからずと。

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2005年10月16日 (日)

1181年 ( 養和元年)9月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)
養和元年9月

9月1日 陰晴不定 [吉記]
「北陸道合戦の風聞あり」
或る者云く、(平)通盛朝臣越前(福井県東部)の国府に在り。而るに去る月二十三日、賊徒国中に乱入し、大野・坂北両郷を焼き払う。加賀(石川県南部)の国住人等が所為と。勝負今明在り。猶官軍を加えらるべきの由、脚力を差し申し上げると。近日連々の風聞此の如き事なり。

9月2日 天晴 
「平通盛北陸道賊徒征伐能わず」
伝聞、北陸道の賊徒、熾盛(しじょう)なり。通盛朝臣、征伐すること能わず。加賀以北、越前の国中、猶命に従わざるの族有りと。

9月3日 「吾妻鏡」
「越後の守資永頓滅」
 越後の守資永(城の四郎と号す)勅命に任せ、当国の軍士等を駈り催し(集め)、木曽の冠者義仲を攻めんと擬すの処、今朝頓滅す。これ天譴(てんけん、天罰)を蒙るか。
   従五位下行越後の守平朝臣資永
     城の九郎資国男、母将軍三郎清原の武衡女
     養和元年八月十三日任叙

9月4日 「吾妻鏡」
「木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛」
 木曽の冠者平家追討の為北陸道を廻り上洛す。而るに先陣根井の太郎越前の国水津に至り、通盛朝臣の従軍とすでに合戦を始むと。

9月6日 天晴
「熊野湛増関東赴くという」
伝聞、熊野権別当湛増坂東に赴きたりと、
「菊池と原田同心し平貞能を妨たげんとす」
鎮西の謀反殊に甚だし。菊池と原田と元は怨敵と雖も、すでに和平し、同心し貞能を訪はんと欲す。貞能備中(岡山県西部)の国に逗留し、兵粮米を望み申すと。

9月9日 天晴
伝聞、通盛朝臣、越前・加賀の国人等の為頗る敗られたり。すでに上洛を企つと。但し実説これを尋ねるべし。
「湛増法皇に書札を進すという」
また聞く(この事一昨日聞く所、忘却し今日これを記す)、熊野の別当湛増、使人に付け書札を院に進す。これ関東に向かうと雖も、全く謀叛の儀に非ず。公の為、僻事有るべからずと。此の申し状尤も多く不審かな、

9月9日 [吉記]
「越前合戦に於いて官軍敗れる」
越前の合戦すでにおわり。官軍破られ、中宮の亮(すけ、次官)(平通盛)敦賀に引退するの由、今日脚力到来すと。左右(そう、かれこれと言うこと)及ばずの事か。

9月10日 天晴
「平通盛軍敗退津留賀城」
通盛朝臣の軍兵、加賀の国人等の為追い降さる事一定と。仍って津留賀城に引き籠もり、軍兵を副うべきの由を申す。仍って武士等を遣わさんと欲すと。
9月10日  [吉記]
「越前合戦の実説を聞く」
越前合戦の事は実説と。去る6日兵衛の尉平清家を以て大将軍と為し、官軍を指し遣わし加賀境に於いて、合戦しむの間、当国住人新介実澄、従前従儀師最明(検非違使、藤原友実弟)等、初め官軍と為し発向の処、忽ち逆徒に同意し、後ろより攻め入りの由、通盛朝臣郎従宗者(一族の集団)を為し八十余人打ち出されたり。戦すでに敗れ、時通盛朝臣猶国府に在り、無勢に依り、重ねて攻め寄せる能わず、敦賀(福井県南部)へ引き退きたりと。委細以て実説猶注記すべし。官軍破れの条、天変の符合か。朝の大事何事この如しや。但し以て世間轟々か。

9月11日 天晴
伝聞、(平)教経(敦盛卿の子)・(平)行盛等、副将軍として北陸道に下向すべし。また(平)重衡卿等、東国に赴くべしと。

9月12日 天晴
「経正若狭に在るも国境を越えず」
伝聞、通盛津留賀城を逃れ、山林に交りたりと。但し実説知り難し。経正朝臣猶若狭(福井県西部)に在り。全く国境を越えず。通盛件の朝臣を待ち、寄せんと欲するの間、遅々す。遮って追い落されたり。経正不覚の致す所の由、世以て謳歌すと。

9月13日 雨降り
「北陸道追討使の下向未定」
伝聞、北陸道の追討使、下向未だ定まらずといえり。由緒を知らず。片時と雖も、急ぎ下さるべき事か。

9月16日 天晴れ
大外記頼業来たり語り云う、
「賊勢強大にして官軍力なし天皇・院以下を奉じ西行するか」
此の次ぎ密かに語り云う、四方の賊勢甚だ強大、官軍敵対すべからず、もし然らば至尊(天皇)を具し奉り・射山(法皇)(時忠)きか宗(本家)たる臣下等、定めて西行せしむるか、万人只彼の期を以て限りと為すべきか。悲しむべし悲しむべし

9月19日 晴 
「君臣を引卒し、海西に赴くべきの」
伝聞、君臣を引卒し、海西に赴くべきの由、すでに一定せられたり。然れども、故(ことさら)に他聞に及ばず。卒爾(にわかに)にその儀有るべしと。天下ただこの時に在るか。悲しむべし、悲しむべし

9月20日 晴
「東国・北陸共に以て強大」
伝聞、東国・北陸共に以て強大す。官軍オウ弱と。

9月21日 霽 [吉記]
「宗盛故頼政郎等を捕えんとし郎等自殺す」
後聞、故頼政法師郎等彌太郎(埴生)盛兼嫌疑の事有り(故三條宮、以仁王の間の事と)。前の按察侍家(源資賢)に於いて、前の幕下(平宗盛)武士を遣わし、搦めんと欲するの間、件の盛兼自殺死す(喉笛を掻き切る)。また前の少納言(藤原)宗綱入道前の按察(あんさつ、しらべること)の許より搦め出さると。未曾有の事なり。

9月24日 雨降る
「大和国大福庄源氏の為焼かれたり」
伝聞、大和の国前の大将(宗盛)の庄(大福庄なり)、源氏(二川三郎と称すと)の為焼かれたり。奈良の悪僧少々相交じると。

9月27日 天晴れ
「平行盛進発す」
今夜光り物ありと。行盛朝臣、今日門出す。北陸に赴くべしと。

9月28日 雨降り
「熊野法師謀反鹿背山を切り塞ぐ」
伝聞、熊野の法師原、一同反きたり。鹿背山を切り塞ぐ。これに因って、(平)頼盛卿追討使として下向すべきの由、仰せ下されたり(紀伊の国、彼の卿知行たり)。
「高野山騒動す」
又高野の御山、聊(いささ)か騒動有り、源氏武士少々くだんの山に籠もると。
「東国の輩、上洛近く」
また聞く、東国の輩、上洛近くに在り。すでに参河・尾張等に及ぶ。仍って前の幕下郎従等、且つは伊勢・美濃等方へ遣わすと。

9月29日 陰晴不定 
「平宗盛関東攻め来る時西行すべしという」
源(雅頼)中納言来たり世間の事等談ず。伝聞、前幕下(平宗盛)西行の事忽ち然るべからず、関東攻め来るの時其の儀在るべしと。又前大将(平宗盛)天下の事知るべからずの由、起請せしめたりと。

9月30日 陰晴不定 
「宗盛善政の方策を頼業に尋ねる」
大外記頼業云く、一昨日前の幕下(平宗盛)の許より、使者を送られ謁せしむの処、示されて云く、天下の事、今に於いては、武力叶うべからず。何の計略を廻すべしや。

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2005年10月15日 (土)

1181年 ( 養和元年)8月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年)
養和元年8月

8月1日 天気陰、
伝聞、前幕下(宗盛)其の勢逐日減少し、諸国武士等敢えて参洛(上洛)せず。近日貴賤の領を奪い武勇の輩に賜ひ、先々に於いて万倍す。然れども其の郎従等忿怨に随い、或いは違方の者有り。凡そ其の心を得ず、恐らく運報傾くかと。
「源頼朝密かに法皇に奏すことあり」
又聞く、去る日(源)頼朝密々に院に奏し云う、全く謀反の心無し。ひとえに君の御敵を伐つ為なり、
「頼朝源平両氏共に用うべき旨を申す」
もし猶平家滅亡されるべからずば、古昔の如く、源氏・平氏相並び召し仕うべし、関東源氏之の進止(進退)となし、海西平氏の任意になし、共に国宰(大臣、国司)においては、上より補されるべし。只東西の乱を鎮める為、両氏に仰せ付けられて、暫く御試み有るべきなり。且つ両氏孰(いず)れか王化を守り、誰か君命を恐るるや、尤も両氏の翔(ふるま)ひをご覧すべきなりと。此の状を以て、内々前幕下に仰せられる。
「平宗盛頼朝の密奏を退けるという」
幕下申し云う、此の儀尤も然るべし。但し故禅門(清盛)閉眼の刻、遺言して云う、我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸(がい、しかばね)を頼朝の前に曝すべしと、然れば亡父の誡め、用いざるべからず、よって此の条に於いては、勅命を為すと雖も、請け申し難きものなりと。此の事最も秘事なり、人以て知らずと、すでに以上の事等、兵部(兵部省、軍政・武官を担当)少輔、藤原尹(いん)明、密に語る所なり。件の男、前幕下(宗盛)の辺に伺候する人なり。平定能、鎮西(九州)下向必定、人以て奇を為すと。大略逃げ儲け(用意)の料(おしはかる)といえり。、

8月2日  天晴 
 伝聞、駿河の国より上洛の下人(大膳大夫平信兼の郎従、即ち件の人、知行の庄沙汰者と)の説に云く、頼朝朝臣の儲け(設け)と称し、仮屋数宇を造作す。凡そ路次の国、粮米経営の外、他事無しと。

8月6日 早旦甚雨、終日陰 午後微雨
未の刻(14時)頭弁(経房)来たり、院の仰せを伝えて云わく、
「関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず」
関東の賊徒、猶未だ追討に及ばず。余勢強大の故なり。京都の官兵を以て、輙(ちょう、すなわち)く攻め落とし難きか。
「秀衡の処遇」
仍って陸奥の住人秀平を以て、彼の国の史判に任ぜらるべきの由、前の大将申し行う所なり。件の国、素より大略虜掠す。然れば、拝任何事か有らんや。如何、
「平助職の処遇」
また越後の国の住人平助職、宣旨に依って信濃の国に向かう。勢少なきに依って軍敗れしは、全く過怠に非ず、志の及ぶ所、すでに身命を惜しまず、忠節の至り、頗る恩賞有るべきか、且つは傍輩を励ましめんためなり、しかし其の法如何、忽ち越州を賜はば、其の節を遂ぐる時如何、又只今の如くば、大略敵軍の為追い帰されたり、其の賞熟(いず)れの国を預くる、頗る其の謂われ無し、もし然るべく京官に任せらるべしか、進退の間、叡慮決し難し、宜しく計らひ奏せしむべしと、
 余申し云う、追討の間の事、ひとえに大将軍の最なり、しかるに前大将申し計らるる趣、異議に及ぶべからず、然れば秀衡奥州に任ずる、何事かこれ有らんや、助職の事或るいは位を授け、(先例有り)或いは京官に任ず、各定めて其の望み無きか、越州を賜ふ条、秀衡に准ぜば同じ事たりと雖も、両国空しく失せたりの条、実に思慮有るべし、これらの外恩賞の趣、愚案及び難し、凡そこれらの事、すべて以て道理の推す所に非ず、事すでに治し難し、よって後害を顧みず、謗(ぼう、そしり)難を知らず、当時の事を成さん為、行われるべき儀なり、然れば百千の事を行われると雖も、彼の雅意に叶わざれば、其の詮無かるべし、よって重ねて前幕下に仰せ合わせ、計らひ申さしむる趣に任せ、何事と雖も定め行われるべきなり、議定及ぶべからず、もし猶京官任ずべくば、靱負尉如何、(略)
余云う、秀衡宰吏に任じ、助職は郡司に補す、
(注釈)
靱負尉(ゆぎへのじょう)・・・・御所を警護する衛門府の役人、三等官相当。
京官(きょうかん)・・・京都に在住・勤務する官吏。
宰吏(さいり)=国司

8月8日 天晴 
「能登国反く」
伝聞、能登の国、法に反くの如したり。国司の郎従、頸を斧られたり。

8月12日 天晴 
「足利の俊綱頼朝に背く」
伝聞、足利の俊綱頼朝に背くの聞こえ有り。また秀平官軍に与力の心有りと。茲(ここ)に因って、京中の武士、昨今の間、聊(いささ)か雄を称すの気有ると。頼朝、秀平の聟たるの條謬説と。また聞く。頼朝甲斐の保田三郎義貞を伐ちたり。異心の聞こえ有るが故と。

8月13日 「吾妻鏡」
 藤原秀衡、武衛を追討せしむべきなり。平資永、木曽義仲を追討すべきの由宣下す。これ平氏の申し行うに依ってなり。

8月15日 朝雨、午後晴れ、
「除目有り、陸奥の守藤原秀衡、越後の守平助職」
去る夜、除目有り。隆職これを注進す。
    陸奥の守藤原秀衡
    越前の守平親房
    越後の守平助職
この事、先日議定有る事なり。天下の恥、何事かこれに如かずや。悲しむべし悲しむべし。大略、大将等、計略を尽きるか。この中、親房の事心得ず。通盛国司として下向す。忽ち他人を任ぜらる。如何々々。尋ねるべし、
8月15日 [吉記]
 朝間、前の大将より示し送らるる事有り。秀衡・助職等の事なり。相次いで院宣到来す。子細同前。
   太政官謹奏、
    陸奥国   守従五位下藤原朝臣秀衡
    越前国      守従五位下平朝臣親房
    越後国   守従五位下平朝臣助職
       養和元年八月十五日
親房は、基親息、前の近江の守なり。秀衡・助職の事人以て嗟歎(さたん、なげく)す。今朝、北陸道追討使但馬の守(平)経正朝臣進発す。郎従五百騎ばかりを率すと。
8月15日 「吾妻鏡」
 鶴岡若宮遷宮。武衛参り給うと。今日平氏但馬の守経正朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、北陸道に進発すと。

8月16日 [吉記]
「通盛北陸道追討使」
今朝中宮の亮(すけ、次官)(平)通盛朝臣北陸道の追討使として進発す。駒牽(けん、ひく)無し。信乃の国逆徒の為掠領せらるが故なり。
8月16日 「吾妻鏡」
 中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、また北陸道に赴く。伊勢の守清綱・上総の介忠清・館の太郎貞保、東国に発向す。武衛を襲わんが為なり。

8月20日天気はれ、
「法皇双六」
参院、御前に召されるを欲すと雖も、御双六始めの間、暫し伺候の由仰せ有りに依り、数刻伺候、猶御双六終わらず、よつて定能卿の相計りに依り退出したり。

8月23日 天晴 [吉記]
「伊豫の国通清誅伐」
伝聞、伊豫(愛媛県)の国の在廰川名大夫(越智・河野)通清誅伐せらると。

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2005年10月14日 (金)

1181年(養和元年)7月

1181年(養和元年)(治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

7月

7月1日
「城助職信濃の国を攻める」
右中弁兼光朝臣(氏院別当)相語り云う、越後の国勇士(城太郎助永弟助職、国人白川御館と号す)、信濃の国の追討を欲し、(故禅門(平清盛)前幕下(平宗盛)等の命なり)、6月13.4両日、国中に入ると雖も敢えて相防ぐの者無し、殆ど降を請うの輩多し、僅に城等に引き籠もる者に於いて、攻め落とすに煩い無かるべし、
「信濃源氏反撃す」
よって各勝ちに乗るの思いを成し、猶散在の城等を襲ひ攻め欲すの間、信濃源氏等三手に分かれ、(キソ党一手、サコ党一手、甲斐国武田党一手)、俄に時を作り攻め襲うの間、嶮岨(けんそ)に疲れたる旅軍等、一矢を射るに及ばす、散々に敗れ乱したり、大将軍助職、両三所疵をおい、甲冑を脱ぎ、弓箭を棄て、僅か三百人を相率いて(元の勢万余騎と)、本国に逃げ脱したり、残り九千余人、或いは切り取られ、或いは嶮岨(けんそ)より落ち命を終へ、或いは山林に交わり跡を暗くし、凡そ再び戦うべしの力無しと、然り間本国在庁官人以下、宿意を遂げる為、助元を凌礫(りょうれき)すを欲すの間、
「会津城」
会津の城に引き籠もるを欲すの処、(藤原)秀衡郎従を遣わし、押領せんとす。よって佐渡の国に逃げ去りたり、その時相伴う所、纔(わずか)45十人と、是事、前の治部卿(藤原)「光隆」卿(越後国を知行の人なり)、今日慥(たしか)な説と称す、院に於いて相語る所なりと、 後に聞く、佐渡の国に逃げ脱する、謬説なり、本城に引き籠もると。
(注釈)
国人(こくじん、こくにん、在地の武士)
嶮岨(けんそ、通がけわしい、けわしい所)
凌礫(りょうれき、あなどりさげすむ)
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。
兼実の日記は漢文であるが、時々カタカナ、ひらがな(和歌)が使われる。
「平家物語」「猫間中納言」の項に出てくる猫間中納言光隆卿は何の用件で義仲を訪ねたのだろうか。

7月17日 天気晴れ、
「越中・加賀等国人東国に同意すという」
或る人云う、越中(富山県)・加賀(石川県南部)等の国人等、東国に同意し、暫し越前(福井県東部)に及ぶと。

7月18日 天気晴れ、
「平通盛北陸道に下向すという」
伝聞、(平)通盛朝臣北陸道に下向すべし、他の追討使、只今其の沙汰無しと。

7月21日 雨下る、
「播磨の国司に背く者有り」
伝聞、播磨の国(兵庫県南西部)又国司に背くの者有り、凡そ畿外諸国皆以て此の如しと。

7月22日 雨下る、
「城助職の勢衰えず」
人伝え云う、越後助職未だ死なず、勢又強く減せず、信濃源氏等掠領に似たりと雖も、未だ入部せずと。

7月24日
「能登・加賀東国に与力」
人伝えて云う、能登(石川県北部)・加賀等皆東国に与力したり、能登の目代(国守の代理)逃げ上がると。

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2005年10月13日 (木)

1181年 (治承5年)5月6月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

5月1日 晴 
「頼朝上洛せんとす」
 伝聞、頼朝すでに上洛せんと欲すと。これ武蔵の有勢の輩等、異心有り。凡そ各々一統せざるの間、その勢殊に滅らざるの前、素懐(かねてからの願い)を遂げんが為と。

5月6日 晴 
「吉野の大衆等蜂起」
 伝聞、吉野の大衆等蜂起し、(高倉の)宮の子と称する人ありと。よって院より奈良大衆に件の小宮を訪ね出すべき由を仰せらると。

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

6月14日  
「東国より牒状を山上に送る」
 前源中納言(雅頼)来る。伝聞、東国より牒状(うったえぶみ)を山上(比叡山延暦寺)に送る。その趣、我が方の祈りを勤修すべくば、東国の末庄、所領等の用途併せて山上に沙汰し送るべしと。而るに座主(明雲)件の状を以て前の幕下(宗盛)に見せしむ。また奏聞を経る。大衆これを聞き、大いに怒り云く、先ず衆徒に触るべきなり。しかるに引き籠め相触るる、尤も奇怪とする所なり。仍って座主と不和と。

6月27日 [吉記]
「越後城資職信乃の国に寄せ攻む」
風聞に云く、越後の国住人資職(城の太郎資永弟、資永去る春逝去)、信乃の国に寄せ攻め、すでに落ちたりと。
(解説)
「横田河原の合戦」のようである。

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2005年10月12日 (水)

1181年 (治承5年)4月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

4月9日 天晴
「坂東武者尾張国に来たる」
或る人云く、坂東の武者、すでに尾張の国に来たると。

4月11日 天陰、時々小雨 
「坂東武者三河国に来たる」
坂東の武者等、すでに三河の国に越え来たると。

4月13日 [吉記]
「肥後国高直追討」
 殿下に参る。信清に付け條々の事を申す。肥後の国の住人高直追討の由、宣下せらるべき事(院よりこれを仰せらる)。

4月14日 陰晴不定 [吉記]
「肥後国菊池高直追討宣旨」
申の刻(16時)左府に詣ず。肥後の国の住人(菊池)高直追討の事宣下これを申す。早く下知すべきの由これを示し給う。
  治承五年四月十四日 宣旨
肥後の国(熊本県)の住人藤原高直、頃年(しきりのとし)以来恣(ほしいまま)に武威を振るい、忽ち皇化に背き、啻(し、ただ)に本住の州縣のみならず、既に傍(かたわら)国の郷土に及ぶ、偏に狼唳(れい)の心に任せ、旁(ぼう、そば、かたわら)々烏合の群を成す。しかのみならず海路に白波(盗賊)の賊徒を設け、陸地に緑林(盗賊)の党類を結ぶ。庄(荘園)公を論ぜず乃貢を奪い取り、蚕害を庶民に致す。蚕食を九国(九州)に企て、都府(みやこ)に及ばんと欲するに依り、府官並びに国々の軍兵等防御せしむの処、度々戦闘するの由、太宰府頻りに以て言上す。仍って追討使を遣わし征伐せらるべし。その間管内の戮力禁遏せらるべきの旨、院庁より使を差し下知せられ先にしたり。而るに奸濫いよいよ増し、寇盗未だ休まずと。叛逆の至り、責めて余り有り。宜しく前の右近衛大将平朝臣に仰せ、管内諸国の軍兵を催し(集め)、彼の高直並びに同意与力の輩を追討せしむべし。
                    蔵人頭左中弁藤原経房(奉る)

狼唳(ろうれい、狼の鳴き声?)
蚕食(蚕が葉を食うように片端から次第に他国の領域を侵略すること)
太宰府(筑前国筑紫軍に置かれた役所)
戮(りく、ころす)
禁遏(きんあつ、おしとどめてやめさせること)
奸(かん、よこしまな)濫(度が過ぎること)
寇盗(首位を盗む?)

4月21日 天晴 
「頼朝秀衡の娘を娶る約諾を成すという」
或る人云く、昨日常陸の国より上洛の下人有り。四十余日、前途を遂げ北陸道を廻り入洛すと。件の者相語りて云く、秀衡すでに没するの由無実なり。頼朝秀衡の娘を娶(めと)るべきの由、相互に約諾を成すと雖も、未だその事を遂げず。
「佐竹の一党の他は頼朝に乖く者無しという」
凡そ関東諸国、一人として頼朝の旨に乖く者無し。佐竹の一党三千余騎、常陸の国に引き籠もる。その名を思うに依って、一矢を射るべきの由存ぜしむと。その外、一切異途無しと。禅門逝く事、第八日風聞したり。また同心の助永、共に以て夭亡す。爰に頼朝且つ雄称(おたけび)して云く、我君に於いて反逆の心無し。君の御敵を伐ち奉るを以て望みと為す。而るに天罰を蒙るを遮りたり。仏神の加被、偏に我が身に在り。士卒の心、いよいよ相励むべきのものなりと。
「清盛死後坂東諸国いよいよ一統すという」
茲に因って禅門薨去の後、坂東諸国、いよいよ以て一統したり。上洛の條に於いては、追討使襲来の時、則ち追い帰し、その次ぎに伐ち入るべきの由、支度を成すといえり。様々の浮説の中、この説頗る指南に備うべきか。よって粗これを記す。

4月22日 
「武蔵の国有力の武士ら多く頼朝に乖くとの風聞あり」
伝聞、坂東の武士等、その意各々別と。武蔵の国の有勢の輩、多く頼朝に乖きたりと。凡そ近日の風聞、朝暮に変有り。遂に其の動静如何。

4月26日 天霽 [吉記]
 今日前の大将参院せらる。禅門の事以後初参なり。また頭重衡朝臣始めて参内す。諒闇(服喪)の間、重服(軍服)の人の参内不審の由、先日女房これを示す。

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2005年10月11日 (火)

1181年 (治承5年)3月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

3月1日 陰、風吹く
「藤原秀衡頼朝を討たんとす」
伝聞、秀平頼朝を追討すべき由、脚力を進らせ、前の大将に申さしむ。院奏を経ず、直に報状を示したり。早々攻め落すべき由なり。但し秀平全く動揺せず。ただ詞を以て、此の如く申せしむ計りなりと。官兵等、未だ尾張河を渡らず、水溢るるに依ってなり。来たる五日合戦すべしと。

3月2日 陰晴不定
「十郎蔵人尾張の国に在り」
伝聞、尾張の武士等、遠江(静岡県西部)に引退するの由、日来風聞す。極めて実無しと。義俊(十郎蔵人)以下数万、皆尾張(愛知県西部)の国に在り。敢えて動揺無し。官兵明日(三日)寄せ攻むべしと。これ実説なり。坂東の賊首、これを以て先と為すと。

3月4日 天晴 
伝聞、三日の合戦延引す。来七日と。

3月6日 天晴れ
「官兵の兵粮尽きたり」
伝聞、東国の勢甚だ以て強大、容易に敗れ散すべからずと。凶党等相議して云く、官兵等、併せて尾張の国に入り立つの後、員を尽くし討伐すべき由と。凡そ官兵の兵粮併しながら尽きたり。更に以て計略無し。事の成敗、近日見るべしと。宮と称する人、決定伊豆の国に在り、真偽の間、知り難きと雖も、号する所此の如しと。これ等の説、皆信じられ難きか。

3月11日 雨降る
「関東の神領等、併せて賊徒の為虜領せられたり」
経房云く、鴨社の遷宮今年に当たる。而るに神領等、所々の領となり、押し取らるる事等、度々訴え申すと雖も、裁許無きの上、関東の神領等、併せて賊徒の為虜領せられたり。社家の力、造宮に堪ゆるべからず。
(中略)

3月12日 天晴れ
「秀衡の籌策」
大外記頼業来たり、また語りて云く、秀衡宣旨の請文を進す。その状に云く、籌策(ちゅうさく、はかりごと)を魚麗の陣に廻らし、賊徒を鳥塞の辺に払うと。然れども、専ら信用し難きものかと。
(注釈)
請文(うけぶみ、上位者の命令に対し、答申した文書)
魚麗の陣(陣形の一、全形群魚の進むように)
鳥塞

3月12日 [吉記]
「官軍勝利」
平(頼盛)中納言送書、また所々より告げて云く、去る十日尾張の賊徒等、彼より洲俣を渡り、官軍に向き逢い合戦す。渡る者三千余騎、及び千余人打ち取ると。事実ならば、一天四海の慶び何事かこれに如かずや。

3月13日 天晴れ
「去る十日墨俣にて合戦あり源行家敗れる」
伝聞、去る十日、官兵等墨俣を渡らんと欲するの間、尾張を遮る賊徒等越え来たる。五千余騎なり。而るに重衡が舎人男(金石丸。高名の者なりと)これを告ぐ。茲に因って相防ぎ、巳の刻(10時)より申の刻(16時)に至り合戦す。賊党等千余人梟首せらる。その後三百余人河水に溺れ亡滅したり。大将軍等、多く以て伐ち取りたり。猶官兵等墨俣河を渡り、残賊等を襲うと。これ去る夜、飛脚到来し、称し申すと。十郎蔵人行家(本名義俊と)疵を被り河に入りたり。定めて夭亡したりか。然れども、梟首の中に入らずと。

3月13日 [吉記]
「美濃合戦の風聞」
美濃合戦の事注文風聞す。実説を知らずと雖もこれを注す。三月十日、墨俣河の合戦に於いて、討ち取りし謀反の輩の首目六。
頭の亮方(平惟盛)二百十三人(内生取八人)、越前の守(平通盛)方六十七人、権の亮方七十四人、薩摩の守(平時忠)方二十一人、参河の守(平知度)方八人(内自分有り)、讃岐の守(平惟時)方七人(同)、
已上三百九十人、内大将軍四人、
和泉の太郎重満(頭の亮方盛久自分)、同弟高田の太郎(同方盛久郎等分)、十郎蔵人息字二郎(薩摩の守分)、同蔵人弟悪禅師(頭の亮方盛綱手)
この外負手河ニ逃げ入る者三百余人。

3月17日 朝陰 
「秀衡頼朝を攻める為白河の関を出る」
伝聞、秀平頼朝を責めんが為、軍兵二万余騎、白河の関の外に出る。茲に因って、武蔵・相模の武勇の輩、頼朝に背きたり。仍って頼朝安房の国の城に帰住したりと。また越後城の太郎助永病死したりと。但しこれ等の事、信を取り難し。
「此の如くの浮説、先々皆以て虚誕(でたらめ)なり、然れども後日真偽存知せんため、聞き及ぶに随いこれを注す。」

3月26日 天晴 
「去夜重衡入京」
去る夜半、重衡朝臣入京すと。

3月28日 天晴
「官軍兵粮無し」
また聞く、坂東の勇士等、すでに参河の国に超え来たり。実説と。官兵等併しながら帰洛す。また兵粮無し。その隙を得て襲来すべきか。尤も用心有るべき事か。

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2005年10月10日 (月)

1181年 (治承5年)閏2月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

閏2月1日 天晴 
「官軍の兵粮米尽きる」
夜に入り、有安来たりて云く、禅門(清盛)の所労、十の九は、その憑(たの)み無しと。又云く、筑前の国司(平)貞能申し上げて云く、兵粮米すでに尽きたり。今に於いては計略無しと。仍って急ぎ攻めんため、前の幕下(宗盛)俄に下向せんと欲するの間、禅門の病により後れたりと。

閏2月3日 天陰 
「美濃の追討使粮料無く餓死に及ぶべし」
美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、其の勢日を追って万倍すと。大略万事至極の時なり。

閏2月4日 天陰雨降り
「清盛没すと伝聞す」
夜に入り伝聞、禅門薨去(こうきょ、薨逝)すと。但し実否知り難し。尋ね聞くべし、

閏2月5日 天晴 
「清盛死去一定」
禅門(清盛)薨逝(こうせい、皇族または三位以上の人の死去)、一定なりと。
「後白河法皇変異の心あるか」
「清盛後事を宗盛に託す事を後白河法皇に奏す」
昨日朝、禅門(清盛)圓實法眼(国家を乱す濫觴、天下の賊なり)を以て、法皇に奏して云く、愚僧(清盛)早世の後、万事宗盛に仰せ付けたり。毎事仰せ合わせ、計り行わるべしと。勅答詳らかならず。爰(えん、ここに)に禅門怨みを含むの色有り。行隆を召して云く、天下の事、偏に前幕下の最なり。異論有るべからずと。
(注釈)
濫觴(らんしょう、物事の起原)
「ただ東国の寇(こう、あだ)に非ず中夏(京都)の乱なり」
「清盛一族の事」
「過分の栄幸」
「衆庶の怨気に天答え四方の匈奴(きょうど)変を成す」
「天台法相の仏法を魔滅す」
「弓矢の難を免れ病席に死するは宿運の貴なり」

閏2月6日 天晴 
「関東乱逆の事を詮議せらる」
「清盛没後は宗盛万事院宣に従うべき旨を奏す」
「関東の事」
先ず関東の事、兵粮すでに尽き、征伐に力無し、
「反逆を宥行せられるべきか、なお追討せられるべきか」
故入道沙汰の如くば、西海・北陸道等の運上物を併せて点定(点検し、定める、徴収)し、かの兵粮米に宛てるべしと。此の条又何様に候すべきか。もし宥(ゆるす、なだめる)行されるべしの儀有れば、計らひ仰せ下さるべきか、又猶追討せらるべくば、其の旨を存ずべし。
「宥行の儀は朝家の恥なり」
「宗盛権を君に返し暫く隠遁の由を表さざれば宥行の条首尾相応せず」

閏2月7日 天陰、雨降り
「昨日群議大略一同す」
「天下飢饉により関東逆乱の祈り合期せず大略征伐を休み宥(ゆう)行の儀あるか」
綸旨に云く、関東逆乱の間、天下飢饉に依って、御祈り合期せず。また兵粮すでに尽きたり。賊首尾張の国に群集す。猶追討せらるべきか。もしまた宥(なだ)め行わるの儀如何。一同申して云く、先ず院宣を下され、その状の跡に随い、沙汰有るべし。御祈りと云い、兵粮米と云い、堪えるに随い沙汰あるべきの趣候ふ。重ねて仰せていわく、庁の御下し文をなさるる。

(中略)
西海謀反の聞こえ有り。また如何。人々申して云く、西海の事、同じく廰の下文を下さるべし。使者の事、両様、或いは主典代、若しくは廰官、或いは四位院司と。
  (略)
「諸国に院宣を下しその状跡に随い沙汰あるべし」

「重衛下向に際し東国勇士等随うべき旨院宣に載すべしと宗盛奏請す」
伝聞、幕下返奏して云く、重衡に於いては、来十日一定下り遣わすべきなり。然れば、当国の勇士等、頼朝に乖き、重衡に随うべきの由、院宣に載すべきなり。

閏2月10日 天晴れ
伝聞、重衡朝臣来る十三日下向すべし、今朝先ず検非違使(藤原)景高、院宣を相具し(召継を以て御使いとなす)、発向すと。

閏2月12日 陰晴不定
「関東勢伐入らんとすとの飛脚頻りに到来」
伝聞、関東すでに伐ち入りを欲し、官軍の陣中物騒す。飛脚頻りに到来す。この状を申し。重衡明旦馳せ向かうべしと。

閏2月15日 天陰
「追討使重衡院廰下文を相具し発向す」
今日、追討使蔵人の頭正四位下平重衡朝臣、院の廰の御下文を相具し、発向する所なり。今日宇治に宿す。来十九日、美乃・尾張の境に着くべしと。兵万三千余騎を随うと。
「重喪中陰の内たりと雖も、宗盛の命により発向す」
重喪中陰の内たりと雖も、前の幕下の命に依って、先父の追慕を顧みずか。重衡武勇の器量に堪ふるの故、殊にこの撰に応ずと。
「重衛南都を滅亡す」

閏2月17日 天晴れ
伝聞、越後城の太郎助永、宣旨に依ってすでに甲斐・信乃の国に襲来するの由風聞す。無実たりと。
「貞能郎従上洛し尾張の情勢を告ぐ」
晩に及び、隆職来たり語りて云く、筑前の前司貞能が郎従、一昨日上洛す。ひそかに相触れる事有り来向す。語りて云く、官兵その勢万余騎、尾張の賊徒僅かに三千騎ばかり。刹那の間、攻め落とすべし。日来船遅々するの間今に戦わず。五百余艘すでに付きたり。今に於いては、賊徒の敗績、程を経るべからずと。

閏2月20日 陰晴不定
「南都の僧等、謀反に与力」
行隆また云く、近日、猶南都の僧等、謀反に与力するの由、ほぼその聞こえ有り。この状如何。余云く、猶この儀有るに於いては、また忽ち何ぞ寛宥の沙汰に及ばんや。勿論の事か。但し真偽を尋ね捜し、事実ならば、法に任せ沙汰有るべきかといえり。

閏2月22日 陰晴定まらず
「熊野の法師尾張に越えたり」
伝聞、熊野の法師原二千余人、尾張に越えたり。与力せんが為なりと。

閏2月24日 朝間雨下、午後天晴れ
「平氏一族集会し内議あり」
伝聞、六波羅辺り一族の輩、昨日より集会、内議せしむる事等有り、郎従等遙かに去り、其の趣人聞かしめずと、世の人怖畏を懐くか。

閏2月29日 天晴 
「熊野に強盗乱入す」
伝聞、熊野那智御山に強盗乱入す。常住の客僧一人のみ跡留めず、既に荒廃の地と成りたりと。近日、滝下の霊像の石(飛滝権現と称す是なり)砕失したりと。是本山魔滅の徴なり。悲しむべし悲しむべし。
「宗盛の病秘蔵さる」
前の右大将宗盛、病気有り。然れども、頗る秘蔵すと。

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2005年10月 9日 (日)

1181年 (治承5年)2月

1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑)

2月1日 陰晴不定、時々雪降り
「源行家の勢尾張の国に超え来る」
伝聞、謀叛の賊源義俊(行家、為義子、十郎蔵人と号すと)、数万の軍兵を率い尾張の国に超え来たる。
「官兵疲弊し寄せる事能わず」
官兵両度の合戦に疲れ、暫く近江・美濃の辺に休息す。忽ち寄せ戦うべからずと。

2月2日 天晴 
「常陸国勇士等頼朝に乖くという」
伝聞、常陸の国(茨城県)の勇士等、頼朝に乖きたり。仍って伐たんと欲するの処、還って散々に射散らされたり。この由、飛脚到来す。今朝官兵を遣わさらば、彼より攻むべきの由申し上げると。但し実否知り難きか。

2月3日 天晴 
「源頼朝常陸を平定すという」
伝聞、頼朝常陸の国に寄せ攻むの間、始め一両度、追い帰さると雖も、遂に伐ち平げたりと。これまた実否知り難し。一昨日彼の国より上洛するの者の説と。縦横の説聞くに随い之注及ぶ。(但し事の外の浮説に於いては注す能わず)遂に虚実を見るべきか。

2月8日 天晴 
「京中在家を計注せしむ」
夜に入り大夫吏隆職参来、(略)又云う、昨日京中の在家を計らひ注せらるべき由仰せ下さる。左右京職の官人・官使・検非違使等これを注す。但し国使入らずと。
「官使等を遣わし渡船等を点検す」
又美濃の国へ官使・検非違使を遣わし渡船等を点検す。官軍に渡すべしの由。同じく以て宣下(以上上卿別当卿)す。又宣旨くだされる。注出し持参するなり。其の状此の如し。
「宣旨」
治承五年二月七日